47.黒緋に閉ざされて
黒緋:読み/くろあけ 茜に紫紺を加えて黒紫みをもたせた濃い緋色のこと。
「昨晩は眠れなかったのか?」
火夜に「眠れたか?」ではなく、「眠れなかった」と見抜くような聞き方をされ、真白は素直に「はい」と答える。
火夜には、ごまかしも嘘も通用しない。
「慣れぬ環境だ。仕方あるまい。」
続けざまにそう肯定する火夜の言葉に、真白は安心すると同時に、そのいつもの優しさを少し鬱陶しくも感じてしまう。
本当は、茶々の友達のことを聞きたい。けれど言葉にならず、会話は途切れ、沈黙が流れた。
やがて火夜が流香へ声をかける。
「流香殿、どこか寄せていただけないだろうか。少し気分が悪く、休みたい。」
火夜がうつむき手を口に当てると、流香は慌てて竜を岸へ寄せる。
降りた一行は火夜の回復まで小休憩をとることになった。
「火様、大丈夫ですか!」
降りるや否や、銀夜が駆け寄り水を差し出す。
「大事ない。少し酔っただけだ。」
そう答えながら火夜はちらりと真白を見た。その目配せを察した銀夜は、真白へ注意深い視線を送り、静かに頷く。
「配慮が足りず、申し訳ありません。速さを落としましょうか。」
竜を操る流香が気遣う。
そのやり取りの中で、真白は自分だけが居場所を見つけられない気がした。
「少しだけなら大丈夫だろう」と、自分を納得させながら、一人で下流へと歩いていく。
火夜の気分が悪いというのはおそらく嘘だ――自分を気遣ってのことだと理解しながらも、今はその優しささえ鬱陶しく感じる。
そんな自分自身にいら立ち、責める思いが胸を締めつけた。
気づけば一行の姿は豆粒ほどに遠ざかっていた。
慌てて立ち止まるが、足は重く、引き返せない。
しばらく川面の光とせせらぎに心を委ねていたそのとき――背後の森から低いうなり声が響いた。
全身を氷水で打たれたように冷たさが駆け巡り、恐怖で身体が動かない。
なぜ一人になんてなろうとしたのか。
甘い選択を、遅すぎる後悔が呑み込んでいく。
再びうなり声。そして吐息。先ほどよりもはるかに近い。
「お前……!」
女の声が響いた。
思いがけない声に振り返ろうとした瞬間――
「伏せろ!」
パタタッ――。
反射的に伏せた真白の背に何かが飛び、次いで強く腕を引かれ、銀夜の背に押しやられる。
辺りには、魔獣を確認した際銀夜に焚かれた赤炎の匂いが満ちていた。
刀を抜く銀夜の背越しに見えたのは、光の粒子に変わり消滅していく獣型の魔獣と――その傍ら、三本の炎の矢を体に受け、なお苦悶の色ひとつ浮かべず立ち続ける女の姿。
奇妙だったのは、矢を受けても平然としていることだけではない。
彼女の纏う着物が白一色であること。
そして、その耳が人ならざる形に尖っていることだった。
やがて白い衣は、赤く赤く染まっていく。
「鬱陶しいな……『消』えろ。」
女が燃え続ける炎を手で払うと火は掻き消え、矢を引き抜き地へと捨てた。
その仕草は、まるで羽虫を追い払うように、あまりに無造作で。
銀夜の炎をいとも簡単に消してしまえる実力を目の当たりにし、真白の背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。
「おお……まだ生きておったか。」
駆けつけた火夜に、女は驚き混じりの言葉を投げた。
「お主もな。」
冷たく返し、一歩前へ出る火夜。
その殺気に、真白は息を呑む。心臓をわしづかみにされるような気配だった。
「火様、お下がりください!」
銀夜が制止するが、火夜は片手で制して続けた。
「まだくだらぬことを続けているのか。」
「くだらぬこと? 好奇心は止められるものでもなかろう。」
「それが犠牲の上に成り立っていてもか。」
「無論。」
その即答に、火夜の殺気はさらに濃くなる。
遅れて駆けつけた流香たちが銀夜の背後で戦闘態勢を取った。
女と火夜のすさまじい殺気が、炎と水の揺らぎを押し潰すように場を支配していた。
真白は、立っているだけで胸を押し潰されるような圧に息を詰める。
(……怖い。けれど、目を逸らせない……)
橘は真白の肩を押し下げるようにして守りに徹し、前に出たのは銀夜、流香、そして波流だった。
「作戦“三”!『焔』!」
銀夜がそう詠唱し刀に炎を纏わせ、一気に間合いを詰める。
紅蓮の奔流が女を呑み込もうと牙をむいた。
だが、女はひらりとかわし刀をなでた。
「『消』えろ。」
低く冷ややかな声とともに、炎は掻き消えるように霧散し、銀夜はバランスを崩す。
「なっ……!」
銀夜が目を見開いた刹那、流香の詠唱が終わり、彼女の周囲から水の矢が数十本も放たれ、女を囲む。
しかし――
女の足元から、赤黒い液体がぶくぶくと沸き立ち、壁のようにせり上がった。
血とも墨ともつかぬ重い色が視界を覆い、湿った音と鉄錆の臭気が空気を満たす。
矢はその壁に触れた途端、無音で弾かれ、雫のように散った。
まるで世界そのものを塗りつぶすかのように、光も音も吸い込んでゆく。
「水を刃にするなど、稚拙だな。」
女の声は淡々としていた。
波流はすでに動き、水の小竜を編み上げて背後から女に喰らいつかせる。
竜の牙が女の衣を裂く。
「お前となら遊んでも良いかと思ったが、邪魔が多い……『幕』引きだな」
準師範三人がかりでも、終始女の瞳は火夜しかとらえていなかった。
再び赤黒い壁が出現する。
今度は空気そのものがねっとりと絡みつき、真白の耳には心臓の鼓動しか届かなくなる。
一瞬にして世界が閉ざされた。
――視界が崩れた時には、女の姿は跡形もなく消えていた。
残されたのは、力を出し尽くし荒い息をつく三人――銀夜、流香、波流と、守られることしかできなかった真白の悔しげな瞳だけだった。
そして、ただ一人。
赤黒い壁の向こうを見据えていた火夜の瞳には、深い憎悪と迷いが混じっていた。
「……まさか、まだ生きていたとはな。」
誰に聞かせるでもなく洩れたその呟きは、仲間たちの耳には届かず、川のせせらぎに溶けて消えていった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
キリが悪いですがストックがなくなったため、今後の更新は未定です。
10月中の再開を予定しています。
2025.09.17