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書術道  作者:
ー朱雀編ー
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44.炎と水のあいだで




川のほとりに着いたところで、一行は小休憩をとることになった。

炎馬の術を解き、ほとりで腰をおろす。

水分や携帯食で軽く腹を満たし、ようやく緊張が少し解かれた頃――波流と橘の目が合った。

たまらず橘が口を開こうとした、その時。


不意に、森の奥から低く唸る声が響いた。

木々の葉がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。

昼の光が差す森だというのに、影は濃く、足元の小径まで不穏な気配に覆われていく。


「……魔獣だ。」


橘の目が魔獣を捕らえた。

同時に赤煙が放たれ、遭遇の合図が空へと昇る。

全員の意識が瞬時に張り詰めた。


茂みの奥で――銀の瞳が十を超えて、ぎらりと光る。

狼型の魔獣の群れが、牙を剥き出しにして現れた。

魔獣の怖ろしさの一つに、気配を探知できないという特性がある。

正確に言えば術で探ることも不可能ではない。だが、それは別の危険を伴う。

ゆえに、こうして目視できる距離まで迫られてしまうのだ。

牙をむき出しにした獣たちは、昼の森に似つかわしくないほどの威を放つ。

風すら止み、木々のざわめきさえ魔獣を前に息を潜めたかのようだった。


銀夜が一歩前に出て刀を抜く。

「敵、およそ二十。作戦”六”!」


その声を遮るように、流香が鋭く告げた。

「いえ、作戦”十”ですわ。――波流!」


呼ばれた波流は短く頷く。

水竜(スイリュウ)


宙に書かれた一文字が蒼に光り、水へと変じた。

やがてそれは川へと溶け込み――一瞬の後、轟音が森に響きわたる。

川から姿を現したのは、水で形づくられた巨大な竜だった。

竜は波流の指先に呼応するように身をうねらせ、群れを目がけて突進する。

大地を揺るがす奔流。

狼たちの咆哮も木々のざわめきも、濁流に飲み込まれて掻き消えた。

気づけばそこに残るのは、濡れた土だけ。


「す、すごい……!」


青龍の里の術を初めて目にした真白は、感嘆の声を漏らした。

銀夜も橘も目を見張っている。

他里で術を扱うことは禁止されている。

ゆえに彼らもまた、初めてその力を目撃したのだ。


「すげえな! なるほど、川の水を利用するのか!」

橘が興奮のまま声をかける。


「……たいしたことじゃない。」


だが波流はそっけなく返すと、逃げるように流香の元へ駆け寄った。

その背を見送りながら、橘は胸の奥で小さく痛みを覚える。――嫌われているのだろうか、と。


やがて皆が火夜の元へと集う。

「大事ないか。」


銀夜の問いかけに、全員が首を横に振った――その直後。


「くっしゅん!」


緊張を破ったのは、真白の小さなくしゃみだった。

一斉に注がれる視線に、彼は耳まで赤くなる。

無理もない。水竜の奔流により、一行は全身ずぶ濡れだった。


「火を起こし、身体を温めてから出発しよう。」


火夜の提案に銀夜と橘もうなずく。

二人とも寒さに身を震わせていた。


「真白、こっちだ。」


橘に呼ばれ、真白と波流は彼についていく。

火夜たちと距離を取り、少し開けた場所に辿り着いた橘は宙に文字を書く。

『炎』


詠唱と共に、温かな炎がぱっと花開くように現れた。

橘は手際よく木と木の間に縄をかけ、火を囲む準備を進めていく。


「お前も早くしろよ」


呆然と見ていた真白に橘が声をかける。

橘はためらいもなく濡れた服を脱ぎ、ぐっと絞って縄に掛けた。

その様子を見て、波流も無言で衣を脱ぎ、さらりとした動作で同じように縄へとかける。

炎に照らされた素肌が、赤く、淡く揺れていた。


「何してんの? 早く脱げって。」


だが真白は俯いたまま、身じろぎもしない。

「……」と小さく呟いた声は、炎の音に紛れてほとんど聞き取れない。

橘は仕方なく耳を寄せ、ようやく言葉を拾うと、深くため息をつき炎の前へ戻った。


「……恥ずかしいから、先に着替えてくるってさ。」


背を向けて林の奥に消える真白の気配を、橘は一応気にしていた。

だが炎の前に残されたのは、自分と波流だけ。

炎の揺らめきと川音だけが満ちる空間が、やけに広く感じられる。

気まずさに思わず口を閉ざし、ただ真白の帰還を待つ橘。


――その時、不意に波流が口を開いた。


「……この炎は、あたたかいんですね。」


不意に落ちた波流の声は、驚くほど穏やかで。

橘は思わず彼を見た。

炎をまっすぐに見つめる横顔。

その瞳は、いつもの冷たさを宿すものではなく、いまは炎に照らされ、赤を帯びて揺れていた。

そして影の中、口の端がほんのわずかに上がっているように見える。


炎と水。

決して交わらぬはずの二つの力のあいだで――確かに、何かが芽吹き始めていた。




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