42.炎馬に揺られて
うつむいていた彼女が、一瞬何かを感じ取ったように眉をひそめた。
薄暗い花の檻の中で、彼女はそっと両の手を合わせている。
それが何を意味するのか。
祈りか、感謝か。
あるいは――。
※※※※※
『『炎馬』』
火夜、銀夜、橘が声を重ねると、それぞれの書から烈々たる炎が立ち昇り、瞬く間に馬の姿を形づくった。
銀夜の馬は深き蒼炎、火夜の馬は燃え盛る朱炎、橘の馬は揺らめく橙炎――三頭それぞれが異なる色を宿している。
やがて銀夜は流香を、火夜は真白を、橘は波流をその背に乗せ、炎に象られた馬たちは静かに蹄を踏みしめながら進み始めた。
「先ほども思ったのですが……熱くないのですね。」
銀夜の腕の中にすっぽりと収まりながら、流香が疑問をもらす。
炎の道、そして今の炎馬――どちらにも熱がない。
「自然界の炎には確かに熱がある。
だが書術の炎は似て非なるものだ。
我らの力が朱雀様の加護によって“炎”の形をとり、目に見えているだけのこと。
固定観念に囚われぬ発想こそ、書術を飛躍させる鍵ではないか。」
「なるほど……。柔軟な発想は青龍の里でも特に重んじられますわ。賛同いたします。」
柔らかく答える流香に安堵を覚えた銀夜は、胸の奥に抱えていた言葉をようやく口にする。
「あの……大変遅くなってしまったが、以前こちらに来られた折、貴殿に失礼を働いた。
あの時は確かに私が悪かった。本当に申し訳ない。」
炎馬の蹄が刻む音と、木々を渡る風だけが二人を包む。
銀夜の視線からは流香の表情が見えず、その沈黙がかえって恐ろしく思えた。
やがて流香が、低く囁くように言った。
「……面と向かって謝る、ということをご存じないのですか?」
はっと息を呑む。
落ち着いた機会に、と考えていた言い訳は胸の奥でほどけ、言葉を失った。
「こんな状態では頭を下げようにも下げられないでしょう。
本来なら、騎乗する前に詫びるべきことではなくて?」
氷の刃のように鋭い正論。
銀夜の胸に深く突き刺さり、言葉が喉に詰まる。
「……おっしゃる通りだ。下りたら、改めて謝罪させてほしい。」
「必要ありませんわ。」
その瞬間、銀夜の胸を掴むような痛みが走る。
まるで言葉ごと突き放されたかのように、心の奥が冷たく凍りついていく。
だが流香がふいに振り返り、その大きな瞳をまっすぐに向けてきた。
「こうすれば、お顔は拝見できます。
それに――わたくし、もう許しておりますの。
あなたのようなお方、嫌いではありませんわ。」
突き放した冷たさは、試すような仮面だったのかもしれない。
微笑とともに注がれた言葉は、氷を溶かす春の陽のように胸へ沁みてゆく。
「あ、ありがとう……。」
突然の許しに銀夜は戸惑いながらも、胸をなでおろす。
流香の声色は柔らかく、まるで長く抱えていた氷が音を立てて解けるようだった。
その響きに、銀夜は胸の重荷がすっと軽くなるのを覚える。
朱炎の揺らめきが木々を照らし、その光の中で彼女の微笑が確かに見えた気がした。
それだけで、前へ進む力が湧いてくるようだった。