39.蒼き祈り
「あけましておめでとうございます。」
新年の挨拶を告げた来訪者の声が、客間に静かに響いた。
そこには火夜と銀夜、そして来訪者二名の姿があった。
新年が明けた学院初日。
午前中の式を終えたその日の午後、定刻どおりに彼らは姿を現した。
「久方ぶりでございます。
本日は私、水流蓮 流香が青龍の里の代表として、新年のご挨拶を奏上しに参りました。」
「……水流蓮 波流と申します。
流香の弟で、姉と同じく青龍の里書術学院・準師範を務めております。」
流香の一歩後ろで、仏頂面のまま頭を下げる波流。
耳を隠すほどの長さで顎まで垂れた髪は白に近い水色。
毛先に向かうにつれ、より濃い色を帯びていた。
「おめでとう。……龍麗殿はご息災か。」
火夜も聞くのが辛そうに、目を細めて問いかける。
「……もう歩けるような状態ではございません。とてもじゃありませんが春を待つことなどできません。
どうか、このまま我々と青龍の里へお越しいただけませんか……!」
悲痛な叫びをぶつける流香。
その言葉に、銀夜の脳裏に先日の龍麗の姿が蘇る。
大小さまざまな水の玉が彼女の周囲に集まり、ふわふわと漂っていた。
瞳孔は開き、耳はわずかに尖る。
口元からは八重歯が覗き、唸るような低音が漏れる――
人ならぬ何かに変わりかけていた。
(恐らくあれは――)
「祝福を使い過ぎたな。」
銀夜の結論と火夜の言葉は、重なるように響いた。
※※※※※
【祝福】
四神から巫女へ贈られた特別な力。
四つの里それぞれの巫女に代々受け継がれる。
祝福の存在自体は広く知られており、それこそが巫女の強さの根源であり、書術学院長の地位を担う所以である。
※※※※※
だが、その内容や代償は準師範以上にしか知らされない。
ましてや、他里の祝福の真相など知る由もない。
「青龍の里の巫女・龍麗様の祝福は“龍化”です。
四神・青龍の力をお借りできますが、そのたびに、そして年を重ねるごとに龍へと近づいてしまうのです。
今の龍麗様の下半身は、すでに……」
そこで言葉を詰まらせる流香。
代わって波流が、苦渋をにじませながら口を開いた。
「近頃は龍化の衝動を抑えきれず、人としての時間が日に日に短くなっております。
完全に龍と化せば自我を失い、倒すしかなくなります。
しかし、龍化した巫女を葬るのは現実的ではない。
ゆえに、人の姿を保てるうちに葬るのが青龍の里の掟……。
……掟ではありますが、やはり我らにとっても受け入れ難い。
そこで、誠に身勝手とは承知のうえで……その役を火夜様にお願いできないでしょうか。」
まとめると――龍化が進む前に、人の姿のまま龍麗を葬らねばならない。
その役目を火夜に果たしてほしいというのである。
その言葉に、真っ先に怒りを露わにしたのは銀夜だった。
「掟とはいえ、他里の巫女を葬るなど火様に求めるのは無謀だ!
争いの火種となる!友好関係の話も白紙に戻すことになるぞ!」
「大変失礼なことは重々承知しております!
しかし今の龍麗様に対峙できるのは、師範以上の力を持つ者だけ……!」
「だからこそ、それを火様に頼むのは筋違いだと申している!
青龍の里にも師範はいるだろう!」
「……巫女と師範は、婚姻関係にあるのです!」
波流の顔が悲痛に歪む。
流麗と師範――愛し合う二人を見続けてきた姉弟には、結末が見えていながらも受け入れられない苦しさがあった。
準師範である彼らにとって、掟を前に感情を優先するなど本来はあってはならぬこと。
それでも止められず、春を待てず、こうして新年の挨拶を口実に駆け込んで来るしかなかったのだ。
「……あいわかった。」
重い沈黙を破ったのは、火夜の承諾の言葉だった。
「実は神無月に訪れた折、龍麗自身からその旨を聞かされ、すでに了承していた。
本来は春に訪れる際、執り行う段取りであったが……その様子では間に合わぬな。
こうして新年の挨拶を口実に、周囲に怪しまれぬよう知らせに来た。
……龍麗は優秀な部下を持ったものだ。」
火夜の口から告げられた、すでに交わされていた約束。
さらに苦労を労う言葉までかけられ、流香の瞳からは堰を切ったように涙があふれた。
日に日に大切な人が龍へと変わっていくのを見続けるのは、どれほど辛かったことだろう。
流香の涙は、その限界を物語っていた。