30.ー煙炎漲天(エンエンチョウテン)ー
空中にはっきりと浮かんだ炎の筆跡。
それは真白の詠唱によって、瞬く間に巨大な炎へと変貌した。
茶々は目を輝かせ、紫織と銀夜は息を呑む。
蒼真と橘は静かに目を細め――その瞬間、真白はようやく。
自らの炎を手にしたのだった。
ドン――ッ!!
轟音とともに、空文字の炎が膨張する。
鍛錬場の大気は爆ぜ、紅蓮の奔流が四方へと押し寄せていった。
「な、何だこの勢いは……!」
「真白!? 制御して!」
準師範たちの声が重なる。
燃え盛る炎は、ただの「炎」ではなかった。
景色を溶かし、空気を焦がし、すべてを呑み尽くす凄まじい力。
そんな炎を制御できる自分の姿を真白は想像できない。
「真白! 空文字習得おめでとう!!すごいよ!」
茶々が歓声をあげるも――。
真白の表情は、喜びではなく苦悶に歪んでいた。
炎に包まれる光景。
それは彼にとって、かつての惨劇を呼び覚ますものだった。
「やだ……いやだ……燃える……全部……!」
熱が体の奥まで染み渡る。
その瞬間、過去の記憶――炎に包まれたあの忌まわしい日々――が甦り、全身を凍りつかせる。
恐怖が心を蝕み、視界は揺らぎ、膝から力が抜ける。
その細い体が、炎の揺らめきの中に倒れ落ちようとしたその時。
「――軟弱者め。」
鋭い声とともに、真白の襟首を片手で掴み上げた影があった。
烈火。
まるで小枝でも拾うかのように真白を肩に担ぎ、燃え盛る炎を一瞥する。
「そんでもって……テメェらは大馬鹿者だ。早く鎮火しろ。」
※※※※※
炎を鎮火させるなら水。
だが朱雀の里には水はない。少量を生み出すのが精いっぱい。
ならば、どうするか。
炎をさらなる炎で制す。
それが朱雀の力を扱うものの理であった。
炎(八画)は「燃える」。
焔(十一画)は「火が燃え上がるさま」。
より多い画は、より強い力を持つ。
そして熟語はさらに強く、四字熟語は絶対の威を放つ。
意味も大事である。
字自体に燃えるに勢いの意味を足された焔の方が強い。
※※※※※
烈火が左手の刀を振り下ろす。
『焔!』
焔の字が宙に刻まれ、轟々と燃え盛る炎へと突き立つ。
だが辺り一面を焼く炎を押さえ込むには、一人の力では到底足りない。
(……炎の字でこれほどとは)
準師範たちはあまりの威力に思考を止め、ただ呆然と炎を見つめていた。
そんな彼らに烈火の一喝が飛ぶ。
「見てる場合か! 動け!!」
その怒声に我に返り、橘が筆を走らせる。
『煙炎漲天!』
黒煙が炎を覆い、天へと吸い上げる。
紫織も銀夜も続き、重なる詠唱が炎を押し戻す。
やがて――轟々と鳴り響いていた音が収まり、赤に染まった鍛錬場は静けさを取り戻した。
「ありがとな、烈火。……ちょっとぼーっとしてた。」
鎮火は果たせた。だが鍛錬場は焼野原。
橘が周囲を見渡し、苦笑いを漏らす。
「……これ、監督責任で怒られるやつだよな?」
一同の顔が青ざめる。
「みんなで、仲良く怒られような? ははっ」
橘の軽口は、張りつめた空気が少しも和らぐことなく静かに落ちていった。
※※※※※
「さすが真白。想像以上だったな。」
蒼真の報告を聞き、陽斗を通じて伝わった火夜は腹を抱えて笑っていた。
「火様なら怒らないと思っていましたが、準師範たちが青ざめていたので、つい”心して待て”と脅してしまいました。」
陽斗の茶目っ気ある言葉に、火夜はさらに大笑する。
「しかし……あの子の成長を、こうして見届けられるとはな。」
火夜の目には、ただの笑い以上の感慨が宿る。
陽斗もまた、静かに頷く。
「お前も人で遊ぶのだな。私とは違い、仲間想いの優しいやつだと思っていたが。」
「御冗談を。」
「兎にも角にも、真白の空文字習得は果たせた。
こちらも急がねばならんな。引き続き鍛錬を頼む。」
「御意。」
「――さて、甘いものでも食べていかぬか?」
その一言で下女が立ち、いちご大福と熱い緑茶が運ばれる。
「せっかく久しぶりに陽斗が来てくれたのだ。いちご大福でも一緒に食べようではないか。」
運ばれてきた火夜の皿には山盛りのいちご大福。
下女が陽斗に「いくつ召し上がりますか?」と尋ねると、陽斗は迷わず一つを選ぶ。
「次は橘も連れてきます。彼はいちご大福が好物なんですよ。」
火夜は一口かじりながら、にこりと笑う。
「そうか。わたしは大好物だ。毎日食べておる。」
「存じております。」
「だが今日は陽斗がいるから、一段と美味い。」
直球な物言いに、思わず視線を火夜にやると、満面の笑みでこちらを見返す火夜。
「お遊びが過ぎますよ。」
照れた陽斗に火夜はさらに重ねる。
「他意はない。本心だ。」
真顔で真剣に答える火夜。
「…ありがとう存じます。」
「素直でよろしい。かわいいかわいい。」
まるで童子のように扱われ、陽斗は思わず赤面する。
いや、まるでではない――同じ師範でも、火夜にとって自分は確かに童子に等しいのだ。
それは年齢だけではなく、実力の面でも。
●煙炎漲天:火の勢いが激しい様子。
空を覆うように煙と炎が広がっていることから。
「煙炎、天に漲る」とも読む。