28.人の皮をかぶった化物
「はーっ、慣れない役は疲れる……」
「お疲れ様でございました。お上手でしたよ。」
解散後、そのまま蒼真の自室に残った陽斗に、蒼真は労いの言葉をかける。
緊張の糸が解けた陽斗は、畳に投げ出すように横になった。
便乗して橘も図々しく隣に寝転がる。
「甘いものでも食いてえな。もう少しいてもいいだろ?」
下女を呼び、食後の菓子を当然のように所望する橘。
陽斗への気遣いのようで、実際は自分が食べたいのだとわかっている蒼真は、苦笑して声をかける。
「……ほどほどにしなさい。」
やがて、いちご大福と熱い緑茶が運ばれる。
蒼真が台本を仕組み、陽斗が演じた場の一幕を思い返しながら、三人はようやく肩の力を抜いた。
「烈火をたきつけたのは蒼真だな。」
「僕は鍛錬と称して“手合わせするかもしれない”と言っただけですよ。
あれくらい仕掛けないと烈火は動かないと思いましたが……まさかあそこまで暴走するとは。」
烈火はかねてより茶々との手合わせを望んでいた。
純粋に強さを求め、その結果として準師範を襲名した稀有な存在。
だが火様に接見を禁じられていたため、ようやく訪れた好機だったのだ。
「蒼真。橘。茶々殿の書術はどう見えた。」
「面白かったですよ。正体は見当もつきません。烈火の攻撃が一つも当たらない。」
「反撃してこないのも妙だよな! 防御に特化してて、攻撃ができないのかと思ったけど……
あれ、まるで生き物みたいだったぜ。」
「もしそれが本当なら――恐ろしいですね。陽斗様は正体をご存じなのでしょう?」
「俺もわかったわけではない。火様から答えをいただいたにすぎん。」
「えーっ、ずるい! なら俺らにも一つくらいヒントをくださいよ!」
橘が三度目のお代わりに手を伸ばしたところで、蒼真が呆れ声を漏らす。
「食べすぎだ。ほどほどにしなさい。」
笑い交じりの空気の中で、陽斗がふっと目を細める。
「……烈火は、もう少し寝かせておいてやれ。」
軽く投げられた言葉。だが、その響きには優しさが込められていた。
蒼真はその真意を理解し、静かに「はい」とだけ答える。
一瞬の沈黙を、橘が破る。
「やっぱ台本は蒼真で、主演は陽斗様だな。」
蒼真は茶碗を置き、苦笑で返す。
張り詰めた空気は再びほどけ、三人の間に穏やかな調和が戻っていった。
「さ、我々はそろそろ仕事に戻るぞ。」
「うげっ」と顔をしかめる橘を無視し、蒼真は巻物を広げる。
無駄がなく、飴と鞭の使い方がうまい――とわかっていながら、つい乗せられてしまう。
この方には、人を惹きつける不思議な魅力があった。
※※※※※
(コイツは本当に人間か――!?)
火様は神に等しい存在。
だからこそ人智を超えていても不思議はなかった。
だが陽斗は、我々と同じ人間のはず。
そう思えばこそ、昨日までは親近感すら覚えていたというのに――。
……前言撤回だ。
銀夜は心の中で呻いた。
その朝、真白と準師範六名、そして新たに師範となった陽斗が加わり、朝餉前の鍛錬が始まった。
まずは陽斗が手本を示す。
空を裂くように走る筆跡。
導火線に火が走るがごとく、目にも止まらぬ速さで文字が次々と紡がれていく。
だがその文字を目で追うことはできない。
陽斗の詠唱を耳で受けて、はじめて何の文字だったかを理解できるのだ。
――それほどまでに速い。
準師範一と謳われる蒼真ですら、足元にも及ばない。
(師範とは……ここまで次元が違うものなのか)
銀夜は、横で指導を続ける陽斗を化け物を見るような眼差しで見つめていた。
横顔は穏やかに指導を続けているのに――その姿は人の皮をかぶった化物のようだった。
紫織も表情こそ変えぬが、内心は驚愕しているに違いない。
これではまるで、真白を口実にした、我々準師範のための鍛錬ではないか――。
真白に教える過程で自らの基礎の甘さを突きつけられ、他の準師範の動きを見ることで互いを磨き合う。
この交流を通じて、切磋琢磨させる意図があるのだろう。
当の真白は、師範の書術の凄さこそわかっても、どれほどすごいのかまでは測れずに困惑している。
その姿を見て、銀夜は確信した。
――やはり、陽斗の登場は真白のためでなく、我ら準師範のためだ。
女性師範たちもそれを理解したのか、陽斗の書術を食い入るように目に焼きつけている。
書術において何より大切なのは、想像する力だ。
だが、見たことのないものや、自らの術を至高と信じてしまえば、想像はそこで止まってしまう。
準師範ともなれば自信を持つがゆえに、その先を描けなくなるのだ。
だからこそ陽斗は、遥か高みから見せつけている。
――まだその程度か、と。
まだ見ぬ戦いに備え、我らも強くならねばならない。