25.ー虚静恬淡(キョセイテンタン),虚無恬淡(キョムテンタン)ー
「烈火様!おやめください!!」
衝撃音とともに、茶々の悲痛な叫びが響き渡った。
駆けつけた準師範たちが目にしたのは、烈火が茶々へ攻撃を浴びせる姿であった。
「俺は一度、てめェと手合わせしてみたかったんだ!」
高く宙に舞う烈火は『斬』と『撃』を、息つく間もなく繰り出す。
凄まじい攻撃であるが、茶々の足元の黒き影によってことごとく遮られ、一つとして当たりはしない。
あの時と同じく、影は素早く盾になり、烈火の刃をことごとく防いでいる。
舞う砂ぼこりが邪魔ではっきりと戦いの様子は確認できないが。
「真白、怪我はない?」
傍らに控え、呆然と立ち尽くす真白に紫織が声をかける。
「は、はい……何も……」
「鍛錬そっちのけで、何をしておるのだ、あやつらは。
何があった。」
銀夜が眉間の皺を深くし、いらだちを含んだ声で真白を問い詰める。
「わ、わかりません。突然、烈火様が茶々さんを攻撃なさって……ご覧のとおりで……」
紫織と銀夜は呆れた様子を見せた。
心配せずとも傍観していられるのは、烈火の攻撃が一つとして当たっていないからである。
しかも烈火は本気。
いずれ諦めるだろうと――あるいはひょっとすると当たるかもしれぬという淡い期待を抱き、傍観を決めかけた、その時。
「まずいですね。今すぐ止めねば。
手合わせは本来、準師範以上の承認が必要。
我らが行う場合は師範の承認を要します。
事前に許しを得ているはずもなく、この場には準師範全員が居合わせている。
放置すれば、我らも共犯として罰を受けましょう。」
蒼真の言葉に、四名の準師範の心はひとつとなった。
――この手合わせ、露見する前に揉み消さねば!
「しかし、あの黒き物体は何だ?
茶々の影のように見えるが……あれも書術か?」
橘が興味津々に問いかけるが、答えられる者は一人もいない。
怪訝そうにする橘を無視し、蒼真が前に出る。
「まったく、面倒ですね……」
嘆息ののち、素早く筆を走らせた。
「『捕』らえよ!」
空に描かれた「捕」の字が火を纏い、墨は幾つもの手となって烈火へと伸びる。
(やっぱり……すごい!)
流れるような筆運び。
稽古をつけてもらった真白ならわかる。
発動までの速さは、準師範随一である。
「チッ! 蒼真、邪魔すんな!
『焔』!」
叫ぶや否や、捕縛の手は烈火の炎に包まれて焼き尽くされる。
「うわーっ! 馬鹿アイツ、無段者の前で“アレ”を使いやがった! 最悪だ!
お、お前は何も見ていない、何も!」
青ざめた橘が、慌てて真白の目を覆う。
「『静』まれ!」
「ぐっ……!」
「『虚静恬淡』!」
「『虚無恬淡』!」
「クソがッ!」
蒼真の畳みかける術に抗い続ける烈火。
だがやがて力尽き、その場に座り込む。
蒼真は一歩進み出て、烈火の額にすっと指を走らせた。
「『眠』れ」
「クソがああああああああああああ!!」
怒りと悔しさを絞り出すような絶叫。
それも次第に掠れ、やがて途切れる。
荒々しい気配は消え、残ったのは安らかな寝息だけだった。
鍛錬場に訪れた静寂が、先ほどまでの惨烈さをより際立たせていた。
●虚静恬淡:私心や私欲が全くなく、心が落ち着いていていること。
「虚静」は心の中に不信や疑念などがなく、落ち着いていること。
「恬淡」は私欲がなく、あっさりとしていること。
「虚静恬澹」とも、「虚静恬憺」とも書く。
●虚無恬淡:心に不信や不満、欲望などなく、穏やかで落ち着いていること。
「虚無」は何もなく、空っぽなこと。
「恬淡」は私欲がなく、あっさりとしていること。