12.準師範
水の底に沈むような深い悲しみのあと、別れの挨拶もそこそこに、お客様は静かに帰路についた。
銀夜は――
結局、流香へ謝罪の言葉すら伝えられなかった。
火夜は「このことは他言無用」とだけ告げ、銀夜に背を向けた。
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「ねぇ、青龍のお客様ってどんな方だったの? 殿方?」
仕事に向かっていた銀夜の部屋に、不意に飛び込んできた声。
声かけも、入室の許可もなく、当然のように図々しく現れたのは――紫織だった。
桜花院 紫織
ふわふわとした紫色の髪をサイドに垂らし、残りは低い位置でお団子にまとめている。
艶やかな髪には、控えめな簪を一本差している。
まん丸な瞳に、長いまつ毛。
スッと通った小さな鼻と、ぽってりとした色香を帯びた唇が、少女らしい愛らしさにほんのりと大人の影を落とす。
紫織、銀夜、そして茶々。
この三人は、朱雀の里・書術学院における「準師範」、すなわち No.2 の立場にある。
書術学院では多くは十歳で入学し、二十歳前後で卒業する者が多いが、在籍期限は設けられていない。
年齢での優劣はなく、完全な実力主義が敷かれている。
評価は「級位」と「段位」によってなされ、それとは別に“役職”が存在する。
※※※※
■ 役職
・師範(男女各1名):女性の師範は学院長を兼任。
・準師範(男女各3名):九段取得者の中から師範により任命される。
■ 段位(一段~九段)
・主に実技を中心に学ぶ。戦術・戦闘書術など、里外での実戦も想定した内容。
・有段者は里外での任務も許されるが、情報漏洩防止のため機密保持が厳格に求められる。
■ 級位(十級~一級)
・主に座学を中心に学ぶ。
・昇級試験を経て最高位一級を取得後段位への取得に進む。
※※※※
「ねぇ、ねぇ〜どうだったの?」
甘ったるい声が部屋に響く。
紫織の話し方はいつもこんな調子だが、今日はなぜか妙に耳障りだった。
普段なら気にならない――
でも、今日は違った。落ち込んでいたから。つい、口が滑った。
「……うるさい!」
と思わず、声を荒げてしまった。
しまった――と思って顔を上げると、
きょとんとした紫織の表情が目に飛び込んできた。目が合う。
「……忙しくても、しっかりと休息をとることをお勧めするわ?」
先ほどとは打って変わった、落ち着いた声。
微笑みながら、静かに部屋を後にした。
紫織に甘えて、苛立ちをぶつけてしまった。
けれど彼女は、それを責めることなく、優しい言葉だけを残してくれた。
精神的に、まだまだ童子。
何度、自分に嫌気が差せば気が済むのだろう。
紫織とは幼なじみで、同じく十八歳。
書術学院に入る前から存在は知っていたが、交流はなく、それ以上の関係ではなかった。
だが入学後、昇級・昇段の早さが互角であったことから、自然と意識するようになった。
とはいえ、いつも話しかけてくるのは紫織の方だった。
図々しい――そう感じることもあった。
人懐っこく社交的なその性格に、嫉妬すら覚えた。
けれど、あるとき気づいたのだ。
紫織が、あのように接するのは、自分に対してだけだということに。
もしかすると、彼女も自分を特別視しているのかもしれない。
そう思ったときに芽生えた、淡い優越感。
……それもまた、否定できない本音だった。
※※※※
二年前。十六歳の頃。
銀夜は異例の若さで九段を取得し、準師範に任命された。
九段の取得こそ紫織より数ヶ月早かったが、準師範としての任命は同時だった。
喜びとともに、「自分だけではなかった」という落胆もあった。
それでも、準師範として真摯に邁進した。
“次”を見据え、ひたむきに歩いてきた――つもりだった。
卯月の任命式を過ぎ、文月の七夕祭りも終わった頃。
それは、突然告げられた。
「準師範の一名が、入替えになる」という話。
正確には“降格”ではなく、別の者への“交代”。
本来であれば、そうした人事は任期満了にあたる翌年の卯月に発表される。
任期は一年。その期間を全うするのが慣例だった。
それが“待てない”というのは――
つまり、それほどに“飛び抜けた存在”が現れた、ということ。
それが――茶々だった。
当時、わずか十歳。
入学と同時に九段を取得し、そのまま準師範に任命された。
書術学院創立以来、初めてのことだった。
すでに任命された者を押しのけ、突如として現れた童子。
どこの誰かも分からない、小さな存在。
自分以上に“特別”な存在など、この世に火夜様しかいないと思っていた。
火夜様は、私の理想そのものだ。
美しさも、力も、誰にも怯まぬ気高さも、すべてを兼ね備えている。
しかも、特別な存在でありながら、親しみを持って学院生と接し、私を他の者と同じように扱ってくださる。
そんなお方の側にいたい、お役に立ちたいと思って段位取得を励んできた。
自負があった。
人並み以上の努力をしてきた。
今の地位は、その当然の報いだと信じていた。
だから、茶々に向けた怒り、疑問、不快感、嫌悪感――
それらの感情は、当然で正当なものだと思っていた。
あの頃の私は(今でも童子のままだが)、
今よりもずっと、精神的に未熟だった。
九段を取得し、準師範の座に就いていながら、茶々の“本当の凄さ”に気づくのは、もう少し先のことだった。