ストレス・ヒーロー
その年、その会社に入って来た新人の中で、神堂君はずば抜けて優秀だった。
彼は情報処理技術の技術者、つまりプログラマとして入社したのだけど、新人でありながら、その書かれたソースはとても綺麗で、しかも効率的でもあった。初めのうちは、知識経験不足から甘い点も見られたが、教えてやるとそれをどんどんと吸収して、自分のものにしてしまう。
技術者の中には資料作りを苦手とする者も多くいたが、彼はそれも得意だった。技術を知らない一般の人間にも分かるように噛み砕いて図や絵などを交えて説明するのが上手く、おまけに口も上手かったから、会議の場でも重宝がられた。
人間関係を築く能力、コミュニケーション能力に関しても良好で、優秀だからといって偉ぶるでもなく、他の人間のサポートも献身的にやるので、同僚からの妬みもほとんどなかった。非常に素直で、上司を立てる事も忘れない。
更に言うなら、彼は容姿も悪くなかった。多少、痩せてはいたが長身で、アイドル歌手とは言わないが、顔も可愛い。
『信頼できる良い奴』
『あいつにだけは敵わない』
『可愛い部下』
そんな言葉が、彼に関しては飛び交っていた。ほとんど完璧だった。当然、彼の社内での評価は上がり、直ぐに新人でありながら、重要なポストに付くまでになっていた。
その神堂君はある社内受注の仕事に関わっていた。それは、とある会社の新規アプリケーション開発の仕事で、もし受注できれば、かなりの売り上げになる。資料作りから、サンプルとして作ったアプリケーションの設計実装まで、彼は深く関わっていた。つまり、抜ける訳にはいかない重要な立ち位置になっていたのだ。
が、そこで事件が起きた。
それは珍しく神堂君が上司から、叱られている時に起こった。彼の先輩で、実質的には直接の上司に当たるOLの篠原さんは、その現象に目を白黒させた。
神堂君の周囲を突然、光が覆い、そして神堂君は変身をしてしまったのだ。全身を赤いタイツに包み、顔には謎のヘルメット。それは、まるでテレビに登場するような、変身ヒーローのようだった。
社内は騒然となり、神堂君はその姿になるなりトイレに駆け込んでしまった。
「なんだ、ありゃ?」
彼を叱っていた上司は、怒る事も忘れてポカーンと口を開けていた。
神堂君から話を聞く役割になったのは、篠原さんだった。実質的な直属の上司なのだから、仕方がない。
彼を誰もない会議室に呼び出す。明らかに憔悴した様子で彼は項垂れていた。
「あれは、一体、何なの?」
だが、同情をしてはいられない。厳しく篠原さんは問い詰めた。すると彼は一言、
「病気です」
と、そう返した。
病気?
篠原さんは不思議に思う。それは、心の病という意味だろうか? ヒーローの姿を真似るという。ところが篠原さんの表情から、彼女が何を思っているのかを察したのか、彼は次にこう言ったのだった。
「これは、心理的な病じゃないんです。生理的な病で…… なんというか、緊急事態だと身体が判断すると、勝手に変身してしまう。医者は、ストレス反応の一種だと言っていましたが。もう治ったと思っていたのに、再発してしまうなんて……」
「ストレス反応の一種? つまり、あの姿はあなたが意図的になったものじゃないっていうの? 信じられないわ、そんな話!」
篠原さんは、彼が悪ふざけであんな姿になったと思っていたのだ。
「信じてくれないんですか?」
「信じられる訳ないでしょう?!」
ところが、そう彼女が怒鳴った瞬間だった。光が覆い、彼はまた変身してしまったのだった。
篠原さんは愕然となる。
彼女は確りと見ていた。彼には着替える暇もなかったし、そんな準備もしていない。光を出す小細工をしたようにも思えなかった。そもそも、そんな瞬間的に着替えられるはずはない。
「ああ、また…」
そう言って、赤のタイツとヘルメット、ヒーローの姿で神堂君は頭を抱える。
「まさか、本物なの?」
篠原さんはそう呟く。
「本物です。こんな姿、なりたいはずがないじゃありませんか……
緊張状態から抜ければ、つまり、落ち着けば、元の姿に戻ります。さっきも言いましたが、これはストレス反応の一種なんです」
「分かったわ。それじゃ、コーヒーでも飲んで落ち着いて」
そう言って、彼女は無料のコーヒーを淹れて持って来たが、ヘルメットを被っている彼は、それを飲む事ができなかった。ただただコップを持っている。
「……取れないの? それ」
「はい」
結局、彼の変身が解けるまでには、十分程の時間が必要だった。
神堂君がリラックスすると、赤のタイツは自然と消えていき、スーツ姿の彼の姿が浮かび上がって来た。
「で、これは、何なの?」
姿が完全に見えると、篠原さんはゆっくりとそう問いかけた。きつく言って、また変身されたら堪らない。
「はい。嫌な事をすると、ストレスが溜まる。世間では、よくそんな事が言われていますよね? でも、それ、実は正確じゃないんです」
「その話が、何か関係あるの?」
「はい。関係あります。
ストレス反応って実は“緊急事態反応”なんですよ。何かしら負荷がかかって、身体がピンチになる。すると、身体は“闘争か逃走”をするのに都合の良い状態になります。分かり易く言えば、戦闘モードになるって感じですかね」
「はぁ」
「ところが、この戦闘モードには副作用があります。ずっとこの状態が続くと、身体に色々な障害が出るのですよ。それが、ストレスが原因の病気です……」
そこで篠原さんは神堂君の言葉を止めた。
「ちょっと待って待って、神堂君。つまり、そのストレスを感じて戦闘モードになった状態が、さっきの君の姿ってこと?」
神堂君はそれを聞くと、がっくり項垂れるようにして頷いた。
「力とかは?」
「大変に強くなります。動きも速く。戦闘モードですから」
それから、頭を抱えると彼はこう訴える。
「僕はこの病気を克服する為に、さんざん努力をしてきたんです。ストレス反応を起こさないようにする為にはどうすれば良いのか?
それは、単に嫌な事を避けるという事ではありませんでした。もちろん、身体に負荷がかかるというのは“嫌な事”の場合が多いので、“嫌な事でストレスが溜まる”というのは二アリーイコールではあるのですが、同一ではありません。
要は身体に負荷がかかることがストレスなんです。だから、酒や煙草もやらず、健康に気を遣ってきました。
更に、人間関係が苦手なので、コミュニケーションをしなくてもできる仕事を、と思ってプログラム言語を身に付けたのですが、やはり避けられなかったので、演技力を磨いてなんとか乗り越えて来ました。それで、皆が僕を褒めてくれるのは嬉しかったし入社してからは変身する事もなくて、だから、もう、克服できたと思っていたのに……
……まさか、あんな事で再発してしまうなんて!」
苦悩しながらそれだけの事を語る神堂君の姿を見て、篠原さんは彼が真剣である事を察した。
どうにも、彼の語る事は真実でしかも相当に深刻らしい。彼にもどうにもならないのなら、責めても仕方がない。
「それにしても、どうしてあんな……。子供の頃に、改造手術でも受けたとか? それとも、特殊な家系だとか」
神堂君は首を横に振る。
「ごくごく平凡な子共でした。実家は酒屋で、父親の名前は五郎です」
篠原さんは思う。
“五郎は、どうでもいい”
「とにかく、変身する以外は、普通に仕事はこなせるのよね? なら、いいわ。なんとかサポートするから、ちゃんと仕事をして」
神堂君はその言葉に感動をしたようだった。
「篠原さん!」
そう言って、篠原さんの手を掴む。
「いいから、ちゃんと仕事をしてね」
篠原さんは、ちょっと引きながらそう言った。
それからしばらくは、神堂君は何の問題もなく仕事をこなした。平穏に日々は流れ、あの変身事件の事を、皆は忘れかけていた。ところが、そんなある日の事だった。再び、事件が起こってしまったのだった。
「まずいです」
そう神堂君は言う。
客先の会社ビル。
それは例の新規アプリケーション開発の社内受注のプレゼンの席での事だった。彼は既に抜けられない立場にいる。当然、そこに出席していた。
「緊張して来ました」
次はいよいよ神堂君が席を立って、説明する番だったのだ。その声を聞いた篠原さんは敏感に察した。小声で言う。
「まさか、それって…」
「はい。変身しそうです」
「ちょっと、耐えなさいよ!」
しかし、そのタイミングで神堂君は名前を呼ばれる。彼が説明する番だ。そして、席を立ったその瞬間だった。
光り。
眩い光が会場のお偉いさん方の目を潰した。そして、その目が癒え視界を取り戻した時、彼らの目に入って来たのは、赤いタイツ姿にヘルメット、闘争する事も逃走する事もできずにいる、ただただ凝固するだけの悲しいヒーローになった神堂君の姿だった。
彼は、ストレスに耐えらなかったのだ。
帰り道。
「絶対に、失敗でしたよね、プレゼン」
とぼとぼと彼らは歩いていた。篠原さんは何も言わない。神堂君は続ける。
「みなさん。ポカーンとした表情で、僕を見ていましたもんね。説明の内容なんか、まるで聞いていなかった」
あれから神堂君は、強引に説明を始めたのだ。戦闘モード。変身ヒーローの姿のまま。何が起こったのか分からないでいるお偉いさん方は、目を白黒させていた。
“まぁ、確かに駄目かもしれない”
篠原さんは思う。ただ、ここで彼を責めてもどうにもならない気もした。それで、
「まぁ、そんなに気にしない事よ。一応、プレゼンはやったのだし。後は、運を天に任せましょう」
と、そう言う。
“もっとも、何か、奇跡でも起こらない限りは無理でしょうけど”
しかし、心の中ではそう呟いていた。ところが、その時だった。
「誰かぁ、助けてぇ!」
そんな声が聞こえて来たのだ。
見ると人だかりが出来ていて、その先には工事現場があった。その工事現場の中には、小さな子供が。
恐らくは、遊びで潜り込んだのだろうその子共は、今にも崩れそうな鉄柱の束に登り、そしてそこから動けなくなってしまっているようだった。
「皆さん、入らないでくださーい」
工事現場の前では、警備員が道を塞いでいる。中ではなんとかその子共を助けようと工事現場の人間達ががんばっていたが、なかなか上手くいかないようだった。
「うわ。大変だぁ」
神堂君がそう言った。完全に他人事の口調。しかし、そこで篠原さんはひらめいたのだった。
“もしかしたら、これならいけるかもしれない!”
「神堂君」
そう一言。説教を始める。
「やっぱり、今日のプレゼンは、あなたの大失態よ。この契約が駄目になったら、全てあなたの所為。一体、どう責任を取るつもりでいるのかしら? 大体、いつもあなたは日頃の行いが……」
突如、始まったその怒涛の説教に、神堂君は驚いていた。「篠原さん?」戸惑いながら、彼が呟いても説教はまだ続く。やがて篠原さんの説教は、ただの罵詈雑言になっていた。そして、神堂君は遂には臨界点に達してしまったのだった。
「そこまで、言わなくたってぇ!」
叫び声と共に、光り。
突如、発散されたその光に、周りの人間達は注目をする。その光が治まった後には、当然、変身しヒーローになった神堂君の姿があった。
篠原さんが言う。
「おっしゃぁ! 狙い通りに変身した! 行け! 神堂君! あの子を、助けてこーい!」
その言葉で全てを理解すると、神堂君は反応をした。全速力で工事現場に向かって走る。彼が走る力で風が起きた。警備員が制止する間もなく、彼は工事現場に入ると、子共を目がけて突っ込んで行った。
ちょうどその時、束ねられていた鉄柱がまさに崩れ始めていた。しかし、崩れる前に神堂君はジャンプし子供を助ける。着地後、鉄柱が彼を目がけて倒れて来たが、彼は自分の身で庇って子供を護った。
鉄柱が崩れた後、しばらくして鉄柱の一つが持ち上げられる。子共が出て来た。無傷だ。そして、続けてヒーロー姿の神堂君が。やはり、無傷のようだった。
人々は、その姿を見て歓声を上げた。
篠原さんは思う。
“これなら、いけるかも”
篠原さんはスマートフォンで、この一部始終を撮っていた。
次の日、プレゼンを行った会社から、契約の連絡があった。篠原さんが、早速、自分の撮った動画をネット上にアップし、宣伝を行ったからだ。
彼女は神堂君の背中を叩く。
「ストレス・ヒーロー。役に立つこともあるじゃない」
ところが、神堂君はこう答える。
「それが、あれからまた変身しないようになっちゃったみたいで……」
「あら? それは残念。たくさん叱って、また変身させてあげようかしら?」
「それは、勘弁してください」
神堂君は笑いながら、そう答えた。




