科学の弓/透明の矢 一
科学の弓/透明の矢
5月に入って、最初の日曜日。
とある喫茶店のテラス席、そこで花村誠一と上野理央は冷たいコーヒーを飲んでいた。
「今日は暑いね」
「ええ、イヤになるほど」
「まだ春なのに……今年の夏はどうなっちゃうんだろ」
理央が、ストローでコーヒーを飲む。
今日の理央は、気合いを入れて化粧をしていた。この喫茶店に誘ったのも、理央である。
「そういえば、誠一くん。この前、諸川さんの狙いがどうとか話していたけど……」
「くだらない推理モドキですよ。仮に、あれが合っていたとして――諸川さんが武装人を集める理由は分からない。あの人が言ったように、話が出来すぎていますしね」
誠一は、諸川の企みを暴くつもりなど、毛頭なかった。ただ、諸川の反応を見たかっただけである。
「すみません。お手洗いに」
くいっ、と銀縁のメガネを直した誠一が席を立った。
携帯電話が鳴ったのである。正確には、マナーモードの携帯電話がバイブレーションをし始めたのだ。
「はい、花村です」
『花村君。頼まれていた2つ、用意できたぞ』
喫茶店内の手洗い場に入り、誠一が電話に出ると、相手は諸川だった。
「もうですか?」
『君の分だけ、一足先に手配させたんだ』
「わざわざ、ありがとうございます」
『……この際だから念を押すが、私は君の敵ではない』
「分かっていますよ。先日の事は忘れて下さい。では、失礼します」
電話を切り、手洗い場から出た誠一が見たのは、理央に絡む女だった。
その女は、もともと誠一が座っていた席に座り、身を乗り出して理央に話しかけていた。
黒色の長髪で短めのスカートをはいた、高校生か大学生くらいの若い女である。
「俺のツレがどうかしましたか?」
携帯電話をしまった誠一が、その女に声を掛ける。
「花村……?」
長髪の女が、誠一の名字を口にした。
「……ッ」
誠一とその女の間に、不穏な空気が流れ始める。
「誠一くん、この人と知り合い?」
「知りません」
首を横に振る誠一を見ながら、
「……アイツじゃないのか?」
と、女が誰にも聞かれない声量で言った。
「ところで、あなたは?」
「私? 私は……冴木クレハ。てっきり、アンタなら知ってると思ったけど」
「さあ? 知らないね」
「でも、冴木さんは誠一くんのこと、知ってるみたいだけど?」
理央が言う通り、冴木クレハと名乗った女は、花村という誠一の名字を知っていた。
「……分かったぞ。君は、景介を知っているね?」
「そう言うアンタは、アイツの縁者だな?」
誠一は逡巡の末、
「景介は弟だ」
と言った。
「なるほど。どうりで似ているワケだ」
「話はそれだけか? なら、そこをどいてくれ」
「ちぇっ。まあ、男がいるならダメか」
クレハが席を立つ。
「じゃあ、お姉さん。いつかまた」
理央へウィンクを投げると共に、横長のトランク持ち上げて、店を出ていった。
「何だったんだろ?」
「変わった娘でしたね」
冴木クレハと誠一たちが再会するのは、1週間と少し経った日の事だった。
「さて、集まったな」
夜営業前の準備時間。客のいないカフェバー『Kanzashi』の店内に、夕日が差し込んでいた。
その光を遮光カーテンで断ち切った諸川が、店内に集まった誠一たちを見回した。
「明日から、君たちには護衛の任務についてもらいたい」
諸川が、1枚の写真をテーブルに置く。
「護衛対象は、このお嬢さんだ」
写真に写っているのは、髪を明るい茶色に染めた若い女だった。
「この娘の命を、百足の会が狙っているんですか?」
「その通りだ、上野君。といっても、確度は低いがね」
由美が淹れたコーヒーを飲んでいた誠一が、
「百足の会が出てくるかは分からないが、命を狙われているから護ってみろ。というワケですか」
顎に手を当てながら言った。
「概ね正解だ。上は百足の会の関与が疑われる事件を、片っ端から我々に担当させるつもりらしい」
迷惑そうに、誠一と理央が溜息をついた。
「とにかく、今日の夜8時に護衛対象と顔合わせをする。準備してくれ」
ここまでの話を、朝田栄治は仁王立ちのまま聞いていた。
その栄治がやっと口を開き、
「人員の補充はどうなりましたか?」
と、訊いた。
「まだ目処が立っていない」
「俺は彼女も任されていますし、長時間の活動は難しい。少なく見積もっても、あと1人ほど人員が必要では?」
栄治の言う彼女とは、高尾山の山小屋で見つかった記憶喪失の少女の事である。
諸川によって美奈と名付けられた彼女は、栄治によく懐いていた。そのため、栄治が美奈の護衛と監視を命じられたのだ。
美奈はまだ身元が不明で、敵か味方かも分からない。ゆえに護衛と監視の両方が必要なのである。
そんな美奈も、今は警察病院から退院し、栄治と二人暮らしをしている。
「美奈ちゃんなら、私が匿うよ」
「山本君、頼めるかね?」
「任せなさいよ」
諸川が栄治を見る。納得したか、と尋ねているのだ。
栄治が、静かに首を縦に振った。
「それから、花村君」
諸川が、鞄から何かを取り出した。
それは、警察手帳とS&W・M360――日本の警察官に支給されているM360JSAKURAというモデル――というリボルバー拳銃だった。
誠一が諸川に手配を頼んでいたのは、この2つだったのである。
「忘れないうちに、渡しておく」
今度は、誠一が頷いたのだった。
東京都内、とあるコンビニエンスストアの近く。誠一たちは、そこの駐車場に停めた車の中にいた。
車種は、黒のトヨタ・アルファード。高尾山に向かうために使用した車と同じである。
「あれが、護衛対象だ」
「顔合わせって、帰宅中の女の子をコソコソ見る事でしたっけ?」
諸川に対して、理央がツッコミを入れた。
「花村君。彼女の後を尾けてくれ」
「分かりました」
「問題があったら、電話を2コールして切る。そちらも同様にするんだ」
静かに頷いた誠一が車から降り、コンビニの前を横切る女を尾行し始めた。
「諸川さん、あれを」
誠一の姿が闇夜に紛れて見えなくなった時、栄治が駐車場の一角を指差した。そこには、金髪の男が乗る原動機付き自転車があった。
「少し、様子がおかしい」
男はヘルメットを脱ぎ、先ほど誠一が行った道の先を気にしていた。
「挙動不審……警察としての勘で言わせてもらうと、何かある」
「さすがに、百足の会とは関係なさそうですが……」
「念のためだ。行こう、朝田君」
理央を車内に残して、2人が車を降りる。
「そこのお兄さん。ちょーっと、お時間よろしいですかね?」
「なんだよ?」
「私たち、こういう者なのですが……」
諸川が警察手帳を見せると、金髪の男が息を呑んだ。
「おっと、危ない」
男が原付のスロットルに手を伸ばしたので、諸川がハンドルを引いて車体のバランスを崩す。
原付から落ちて踏鞴を踏んだ男は、そのまま走り出した。
「追います」
「任せた」
栄治が白鞘の日本刀を片手に、金髪の男を追いかける。
(素人……)
逃走する男は、直線的に走っているだけ。罠はおろか、何らかの攻撃を仕掛ける素ぶりもない。栄治の感想は真っ当だった。
「止まれ!」
追いついた栄治が肩を掴むと、男はその手を振り払おうとした。
しかし、その程度で振り払われる栄治ではない。
「おとなしくしろ」
「クソッ」
男が栄治に殴りかかる。
栄治は刀の柄頭を喉笛に当てて、その動きを制した。
「二度言わせるな」
「は、はいぃ……」
金髪の男は、情けない声で返事をし、その場にへたり込んだ。