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今ならわかる

掲載日:2009/09/19

 今ならわかる。

 けれど、あの時はわからなかった。

 あとになって考えてみれば、どうしてあの時に、ああしなかったんのだろうと、後悔の思いが胸にしこりを作る。

 

 部屋の中で、まだ幼稚園の僕と彼女は向かい合って座っては、他愛も無い会話をくりかえしていた。

 その中で、ふと彼女が僕に向かって、少し真面目な顔でたずねた。

「大きくなったら、何になりたい?」

 小さな少女は、正座をした太ももに両腕を置いて、少し前のめりになって僕の顔を観ていた。

「うーんと、うーんと、そうだなぁ……。凄い人になりたい」

 あまりにも漠然とした答えだけれど、そのころの僕にはそれが精一杯だった。

 世界というのは、そのころの僕には果てしなく広がる宇宙のように思えて、何だって無限にあるんだと思っていた。

「凄いって、どんな事をする人なの?」

 少女は、小首をかしげながら、僕の顔を覗きこむ。

「凄いってのは、えーっと、とにかく凄いんだよ! みんながわーって驚いたりするんだよ!」

 勿論、今言った言葉の意味を、自分自身何ひとつとして理解などしていなかった。

 とりあえず、身振り手振りのオーバーな動きを添えて、それらしく見せては、その少女を無理無理納得させた。

「そっかぁ、凄い人になるのって、大変なんだね」

「そうだよ! とっても大変なんだ。でも、僕はきっとなってみせるよ」

「がんばれー。私も応援してるね」

 尊敬のまなざしというものを、このとき受けたような気がする。

 キラキラと輝く少女の瞳には、何ら偽りが存在せず、まるで澄んだ水面のように、僕の顔を映し出していた。

 

 ただ、澄んだ水面は、小さな小石を一つ投げ込んだだけで揺らいでしまうほど、脆弱なものでしかないのだと、僕は知る事になるのだ。


 歳を取るたびに身長が伸びる。

 身長が伸びると、今まで手が届かなかった所にも、届くようになる。

 お菓子を隠されていた、戸棚の上にも届いてしまう。

 つま先立ちになり、両足、両腕の筋が切れそうになるほど思いっきりに伸ばして、母親に隠されたお菓子をゲットしようとしたのは、もはや良い思い出となって久しかった。

 けれど、それほど身長が伸びたころには、僕はもうお菓子一つにそこまで必死になるという行動はしなかった。

 僕はもう中学生になっていたからだ。

 中学生になって、色々な事が変わっていった。

 いいや、変わったんじゃない。

 色々な事を知ってしまったのだ。

 

 世界は広くても、自分のすすめる世界はとてもとても矮小な範囲でしかないという事を。


 まず、それを知らせてくれたのは、成績表という一枚の紙切れだった。

 ペラペラのただの紙切れに、数字がいくつも書かれていた。

 そして、その数字が、このままでは志望の高校には行けない事を告げていた。

 

 学歴というものが、とても大事だと教わった。

 両親に、先生に。

 だから、それが一大事であるという事は、わかっていた。

 勉強をしなくてはいけない、勉強をしなくてはいけない。

 僕の進む事のできる世界をこれ以上狭めてしまってはいけない。

 広げる為にはどうする? そう、勉強だ、学歴だ。

 僕は必死に机に向かって勉強をした。

 

 頭の中に、数式を詰め込んだ、意味なんて無くわからなくてもいいから、ともかく詰め込んだ。

 歴史の年表を覚えた。その年表がその時代で何を意味しているかなんて、考えもしないでただ詰め込んだ。

 僕の頭の中は。芸術性のカケラも無い、ただの数字と文字の倉庫とかしていった。

 時に、数字と文字は脳の中でケンカをする。

 しかも殴り合いのケンカだ。負けたほうのどちらかは頭の中から消えてしまう。

 頭の中で起こるケンカは、何時しか現実世界にまであふれ出してきてしまっていた。

 何時からだろうか、僕の部屋の壁にボコボコと穴が開いているのは……。

 何時かだだろうか、母親が僕の時折上げる奇声に、おびえた様な顔をしだしたのは……。

 

 ケンカはエスカレートの一途をたどり、何時しかそれはもはやケンカとは呼べず『戦争』へと変化していった。

 

 戦線は日々拡大を続けていた。

 僕の手首には、大型爆弾の攻撃により、無数の傷跡が残されていた。

 身体のあちらこちらにも、無数のあざが刻み込まれている。

 これは、戦いにおける勲章なのだ。

 歴戦の勇士へと、僕は変貌を遂げているのだ。

 

 戦いに休まる時は無い。

 夜眠っている時であろうと、それは訪れる。

 頭の中で、パチパチと火花が散っては、網膜の裏に残像を焼き付ける。

 この世に渦巻く負の感情。それが渦を巻いては僕の身体をさらに深みへと沈めてしまう。

 ドロドロとしたコールタールのような液体は、生き物が腐ったような腐臭に満ちていて、それに全身を覆われた僕の身体は身動き一つ取れなくなる。

 それはきっと、僕の瞳だ。

 

 ふと思い出す。

 澄んだ水面を。

 

 僕の今の瞳には、何も映りはしない。

 ただ、どす黒い闇がそこにあるだけだ。

 そして、その闇の中には、僕自身が沈んでいる。


 

 朝目が覚めると、僕の身体は睡眠をとったはずだというのに、何ひとつとして回復してはいなかった。

 疲労感が、背中からズシンと襲い掛かっては、僕の身体を押しつぶす。

 どうすれば、この戦争は終わるのだろう。

 どうすれば、この戦争に勝利する事ができるのだろう。

 

 いいや、違う、そうじゃない!


 どうして、僕はこんな戦争をしているんだ。

 どうして、僕はこんな戦争をしなければいけなくなったんだ。


『凄い人になるんだ』


 僕は言った。

 誰に言った?

 あの時の少女に。

 きっと、幼いながらにも恋心を抱いていたあの子に……。


 あの子は言ってくれた、『応援してるね』と。

 おかしいじゃないか。

 応援? そんなものがどこにある?

 どうして、あの子は僕を応援してくれていないんだ!?

 そうだ、あの子の応援が、あの子の応援があれば、僕はこの不毛な戦いに勝利を収める事ができるに違いない。

 

 あの子はどこにいる?

 小さいころは、向かいの家に住んでいたはずだ。

 ある時から、ほとんど会うことがなくなったけれど、住んでいたはずだ。

 会いに行こう、会いに行けばいい。

 

「けけけけけけけっけけけけけ」

 僕は笑った。勝利の笑いだ。

 勝利の行進よろしく、僕は足を高らかにあげ歩き出した。

 そんな僕の出陣の姿を、両親は目を合わさないように顔を伏せては、僕の前からスゴスゴト姿を消した。

 家の玄関の扉を開くと、そこはまるで別世界だった。

 そう言えば、いつから自分の部屋からか出ていなかったんだろう。

 そんな事すら思い出す事が出来なくなっていた。

 

 目指す目的地は、すぐそこだ。

 目の前にある、彼女の家のドアを蹴り破ると、僕は向かった。

 記憶の中にある、彼女の部屋に……。

 途中、何か僕を呼び止める声が聞こえたが、それはきっと敵勢力の妨害工作に違いない。

 故に、それを排除しつつ、僕は向かった。

 そこにそのドアはあった。

 記憶が蘇る。

 このドアの先に、大きくなったら何になるの? と問いかけられた部屋が存在するのだ。

 そして、そこには彼女がいてくれる。

 彼女は僕を見て、応援してくれるに違いない。

 そして、僕はこの手に勝利を手にするんだ。

 そう、彼女はまさに勝利の女神そのものなのだ。

 

 僕ははやる心を押しとどめる事が出来ないまま、ドアを勢い良く開けた。


 そこには、彼女の姿があった。

 彼女はまるで昔と同じように、澄んだ水面のような瞳で僕を見ていた。

 彼女は、まるで昔とまったく変わらないように、僕を見ていた。

 彼女は、昔とまるで変わらなかった。

 何ひとつ変わらないまま、笑っていた。

 

 彼女は……。

 笑っていた。

 遺影の中で笑っていた。

 僕はその場に座り込んでしまう。

 部屋の隅々に向けゆっくりと視線を動かしては、見つめた。

 1秒ごとに、記憶が戻ってくる。

 

 彼女は、小学生になるまえに、死んでいた。

 たしか、交通事故だった。

 僕はその時、泣いたと思う。

 

 けれど、中学に入るころには、すっかり忘れてしまっていた。

 子供の記憶などというのは、残酷なものだ。

 その時に好意を抱いていた人の死すらも、簡単に忘れてしまう。

 僕は、凄い人になろうと、頑張ろうとしていた事の理由すらも、わすれていたんだ。

 忘れていたままに、頑張っていたんだ。

 

 遺影の傍にある、鏡台に僕の姿が映し出された。

 そこには、頭の毛も薄くなったおじさんの姿が映っていた。

 ぼさぼさに生えた髭、目じりに溢れるしわ、疲れ切った顔。

 それが、僕の今の姿だと気がつくまでに、数分の時間を要した。

 

 忘れていた。

 あの部屋で戦争を続けている間に流れ去っていた時間すらも。

 

 何を間違えてしまったんだろうか。

 あの時、彼女が交通事故で死んでさえいなければ、僕は凄い人になれていたんだろうか。

 いいや、違う。

 あの時、彼女を交通事故で『殺していなければ』

 

 

 あの日、彼女は澄んだ目で、僕を見ていた。

 澄んだ目のまま、彼女は僕を見て笑っていた。

 それは、楽しい笑いじゃなかった。

 その時、お漏らしをしてしまった僕に向けられた侮蔑の笑みだった。

 それが、無性に気に入らなかった。

 彼女は僕を応援してくれるはずなのに、それなのにどうして……。

 気がつくと、僕は車道に彼女を突き飛ばしていた。

 数秒後、僕の顔が真っ赤に染まっていた。

 目の前の走っていたトラックが彼女をひいたのだ。

 


 子供の記憶というものは、残酷でもあり、便利にも出来ている。

 そんなことすらも忘れていたのだ。

 

 

 僕は馬鹿だ。

 今ならわかる、僕はあの時彼女と一緒に死んでいれば良かったんだ。

 そうすれば、全てが上手く行っていたんだ。

 惨めにこんな世界を生きる事も無く、彼女の澄んだ瞳をいついつまでも記憶の中に残していられたのに……。


 そうだ、今からでも間に合う。

 死のう、今すぐに死のう。

 

 2階の窓から飛び降りようとした所を、誰かが僕の身体を押さえつけた。

 僕はそれを必死で振り払おうとした、その時、僕ではない誰かが2階から落ちた。

 地面が真っ赤に染まっていた。

 きれいだなぁとおもった

 しばらくきれいなあかいもようにみとれていると

 ぼくはいしきをうしなった

 

 からだがうごかない

 なにかでしばられている

 ぼくはしぬこともできなくなってしまった

 

 まぶたをとじた。

 そこにはもうせんそうなんてなくなっていた。

 そこには、ぼくにむけてほほえみかけるかのじょがいた。

 

 ぼくはえいえんにめをひらくことはしなかった。




 END


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