試練の男
耳朶が震えるー
轟音が鳴り響く。
空を衝く如き衝撃、大地を割らんとする波動、何処から出ているのか― 恐ろしいものであった。そう形容すべきか、しかし言い表そうにもそうとしか言い様のない、正に 恐怖 と言うべきモノ。兎角そんなモノが一介の男に襲い掛かった。恐怖という概念をそのまま引っ張って来て尚、其れは到底、底の見えるモノではなかった。
男は恐怖した。髪は逆立ち、皮膚はぬめりつき、血肉は萎縮し、骨が震える。己の五体が全力を以って拒否せんと、半ば盲目的に反応を起こし続ける。
しかし、奮闘虚しく、其れは男の、頭蓋を越え自己を形成する一部、そして最も重要な1つの機関である脳に侵蝕する。
かくなる上はもうどうしようもない。一瞬の、それも一撃によって最高司令部は陥落したのである。
神聖かつ不可侵であり、何物にも侵されてはならぬ筈の神域は、もう無かった。
こんなおぞましい、圧倒的な恐怖があると知っていたのなら、神域なんて大層な名前は付けず、こんな崇高な概念に昇華させるなんて事も絶対にしなかっただろう。
其れは踏み潰すように包み込んできたのだ。其れは今も続いている。
本能的に男は悟った。 逃げなければ!
いや何処に?
何処でもいい!
何故逃げる?
逃げなければ!
逃げても何も変わらん―
何故?
これは何処までも在るから。
は?
お前はー何だ? 男は尋ねる。
其れ。
其れ が答える。
受け入れろ、其れを。恐れる者では無い。
其れが、男をそう諭す。
は、いや、ぁ、おかしい。おかしいぞ。何もかも。
なんだこれは。何か変だぞ。 いや、変でわない。いや変だ!
落ち着け、俺の勘違いだ。 何言ってる! おい!おい!
おい!
おい!
呼びかけが反復する。
おい!
おい!
呼びかけが木霊?する。
おい!
………
呼びかけが虚しく響く。
おい!?
………
呼びかけが、
疑問の色彩を帯びる。
おい!!
うるさい…
呼びかけが雑音の様だ…
黙れ。
男は黙る。否応なしに。
あ… 男は呻き声を出すのが精一杯の様だ。
………もういい。
男は戻る。現実世界に戻ってきた。ずっと突っ立っていた筈だが、どうにもそのように感じるのだ。精神だけの時間? 大した教養も知識もない男はその貧弱な語彙と想像力でそう表すのが精一杯だった。
帰宅。 男は眠る。起きていてもやる事が無かったから。特に疲れているとか、眠りたいとか、そういう訳ではなかった。
惰眠を貪る男。傍から見れば陰鬱とした生活で、希望も見いだせず、惰性で生きる哀れで惨めな男だった。
そして男は見つける。自らの深くに、暗きに、 鬱蒼と絶望感が漂う夢の深層で。封印された記憶。体験。そう直感した。
箱型のそれは、簡素な留め具がひとつあるだけで容易く開けれそうだった。 開けても良いのか? そう自問する。 それを繰り返している間に、別に開けろと囁く声も無ければ、開けたいと思う衝動も無く、ただ理性に則った決断を下そうとする男の姿だけがあった。そして、数刻たった頃、男は決断する。
この箱を、開けてみよう。自らの記憶を知りたい―
男に箱を開けさせたのは、好奇心だった。
留め具に手を掛け、外す。 この数瞬の動作にこれ程までに気を使い、緊張する事はなかっただろう。 男はそう思う。
刹那ー 何かが飛び出してきたー
其れは、かつて男を恐怖させ、絶望感で包み、男の全てを踏みにじり、尊厳など吹き飛ばした、其れ であった。
全てを思い出す。そうだ!こいつは!膨大な、有機の記憶が溢れる。忌むべき、暗く、淀んだ記憶であった。 そして、
男は怒りの炎を灯す!其れを徐々に、鮮明に思い出すにつれ、炎は強く、激しく燃え盛る!正に男の怒りを体現した、全てを焼き尽くさんとする怒りの業火!自らを凌辱した其れを焼き尽くすのだ!炎は、其れに襲い掛かる。男の怒りを糧として、全てを焼却する地獄の業火として!
男は目覚める。気持ちの良い朝だった。
全てが澄んで見える。体が軽い。万能感に包まれるー
男は変わった。試練を乗り越えたのだ、そう感じる。
男は思う。苦しむ者たちに試練を与えなければー と。
「同胞に試練を」 そう呟いた。




