04 今はまだ知らない
初のセミナーを明日に控えたわたしたちは、一台のパソコンを覗き込んで、当日使うスライドの最終確認に入っていた。
「うーん、やっぱりここの流れがわかりにくいよ」
「今わたしも思った。なんか嚙み砕いた資料なかったかな」
壁際のキャビネットから分厚いファイルを引っ張り出して、適当な資料がないか考える。
「流れがわからないって質問をもらったら終わりだ。ここははっきりさせとこう」
「うん、そうだよね。ちょっと考えてみる」
浅田くんは思うことがあるのか、わたしの隣にやってきて、同じように手元を覗き込む。
その時だった。
バン、と、この平穏な事務所に似つかわしくない音がして、わたしたちは顔を上げた。
勢いよく開いたドアと、人の気配に、浅田くんがとっさにわたしを背後に追いやる。
そして、わたしを背中に隠したまま、ドアを開けた人物を見て固まった。
「姉ちゃん・・・」
ソファーに座って、艶やかな髪を耳にかけながら、長い脚を組みなおす。
浅田くんのお姉さん、朝子さんは、この会社の顧問税理士だ。
「急になんだよ、ていうか、もう少し静かに入って来いよ」
珈琲を出しながら浅田くんが不満げな声を出す。
「なぁに、お取込み中だった?」
「ばか、社長の身の安全を確保したんだよ」
いよいよ拗ねたように言い放った浅田くんは、朝子さんを放って、自席に戻ってしまった。
「今日はどうされました?連絡くだされば近くまで伺ったのに」
「理乃ちゃんにお願いがあって来たの。突然でごめんなさいね」
「なんでしょうか、わたしにできることなら」
「友人の会社で、社内セミナーをしてほしいの。福利厚生の一環で、美肌プログラムをって」
「社内セミナーですか」
仕事の話だと気付いた浅田くんが、手帳を片手にこちらへやってくる。
「美容が、福利厚生に入る時代なんですね」
感心しながら差し出された会社案内を見る。
メディアによく取り上げられる社長さんの顔に見覚えがあった。
「時代は変わるわよね。それで、信頼できる美容家を紹介してほしいって言われてね。理乃ちゃんしか浮かばなかったのよ」
とろけるような微笑みを浮かべながら、朝子さんはわたしの膝に手を添える。
美しく生きるための知識を得ることが、福利厚生の一環になる時代が来た。
一年前思い描いた未来は、思ったよりも早く現実になった。
「ありがとうございます、喜んでお受けします」
「ありがと。候補日とテーマはあちらと調整して近いうちに連絡するわね」
「はい、お待ちしてます」
「一度顔合わせしたいんだけど、涼、調整しましょう」
「セミナー自体はいつ頃考えてるか聞いてる?今月来月は山下のスケジュールが埋まってるし、再来月はちょっと休ませたいんだよね」
近いうちに連絡する、と言う朝子さんの背中を見送って、わたしは深呼吸した。
「こんな日が、くるなんて」
「時代は変わる。山下の感覚は正しいってことだろ、今のところ」
にやにやと笑うわたしを睨んで、浅田くんは叫ぶ。
「お前、早く修正しろって。今日中に出力しなきゃいけないんだからな」
浅田くんは、まだ知らない。
一年前のわたしが、自分も浅田くんも信用していなかったことを。
まさか二人で、こんなに頑張れると思っていなかったんだもん。
でも、今は違う。
浅田くんがいてくれたら、どこまでもいけるような気になる。
この先も、ずっと二人でやっていけたらいいのに。
そして、わたしも、まだ知らない。
この気持ちの正体を。