02 午前8時の動揺
弱いところなんて、見せたくないのに。
AM7:30
昨日は珍しく日が変わる前に自宅に帰った。
終わりが見えない仕事のことを考えていると、随分早く事務所に来てしまった。
仮眠をとっているであろう相棒に気を遣って、音を立てないようにそっとドアノブを回す。
と同時に、中から勢いよくドアが開いた。
「うわ、危ないな。なにすんの」
抗議の声を上げると、ドアを開けた浅田くんが嬉しそうにわたしを見下ろす。
「おはよう」
「おはよ、気味悪いんだけど。なに笑ってんの?」
「いいから入れよ、朗報」
一枚の紙をこちらに差し出しながら、わたしを招き入れる。
「コラボ、セミナー・・・え?!うそでしょ」
「ほんとだよ、ちゃんと読めって」
「今人気の美容師さんだよね?どうしたの?」
「ちょっと前からSNSでアプローチかけてたんだよね。この人、環境に配慮してる商品扱ってるメーカーの情報追ってたりして、今の時代にもお前の主張にも合ってるだろ」
「うーわ、浅田くんほんとできる男だね。わたしもこの人の発言追ってたんだ」
泊まり込んだはずなのに、浅田くんは朝から爽やかだ。
折り曲げたワイシャツの袖から、逞しい腕が覗く。
そういえば最近ジムにも行けてないって言ってたなあ。
わたし一応社長なのに、こんなに働かせてていいのかな。
余計なことを考えたせいでぼーっと見つめていたわたしに、浅田くんが困ったような顔をする。
「あれ、タイミング違った?」
「あ、ううん。そういえば浅田くん休んでないなって」
「今更かよ。それより寺田さんの略歴送ったから見といて」
うん、と答えてPCを立ち上げる。
ポケットに手を突っ込んだままこちらを見る浅田くんは、いつもより少しだけ声が高い。
「セミナーのテーマ、希望ある?調整するけど」
「・・・いつもと同じで」
了解、とつぶやいて浅田くんはデスクに戻っていった。
山野さんというその美容師さんは、高い技術力と端正な顔立ちで人気を集めている。
SNSの使い方もすごく上手で、いつかは一緒に仕事がしたいと思っていた。
わたしと山野さんの主張は同じ。
「環境にも人にも優しい美容」この一言に尽きる。
環境まで考えている美容師さんとはなかなか出会えなくて、山野さんのSNSや書籍はすべて目を通した。
そんな人と仕事ができる嬉しさは、この道に進んでいなかったら味わえなかった。
スケジューラーを立ち上げると、思わずうわっと声が出た。
昨日23時に退社した後、乱雑に入力されたわたしのスケジュールを浅田くんが整理してくれていた。
「スケジュール、ありがと」
声をかけると、今度こそ困ったような声を上げる。
「お前、ほんとに休みないじゃん。空き時間はずっと資料作ってるしさ。秘書としては心苦しいよ」
「もう少し落ち着いたら、休むよ。こんなよちよち歩きの会社に仕事くれる人がいるんだから、喜んでやらなきゃ」
浅田くんの言う通り、会社を立ち上げてからほとんど休んでいない。
自分が社長なんだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど、さすがに疲れも溜まってきた。
だけど、仕事が入らない恐怖と、休めない辛さの間で、わたしはもうずっと揺れている。
しばらく黙って仕事をしていたのに、突然浅田くんが口を開いた。
「あのさ、山野さんとのセミナーが終わったら、しばらくセミナーは休みにしよう」
ついに、きた。
今のわたしのキャパを突き付けられたようで、思わず強い声が出た。
「どうして?全然いけるよ。もう普段用の資料も固まってきたから、毎回微修正で出せそうだし」
今日の浅田くんは、よく困ったような顔をする。ほら、今も。
「ちょっと休もう。大丈夫、期間開けて次の設定しとくし、集客の期間がちょっと長くなるだけだって。それに、今までの間隔が異常だからな」
浅田くんはわかっていない。その期間が、怖いんだということを。
「浅田くん、わたしね、会社始めてからもうずっと怖いんだよ。仕事なくなったらどうしようって」
起業に向けてひた走ってた時は、自分がこんなに弱いと思っていなかった。
ただ目の前の目標を達成することだけに全力を注いでいたけど、生きている以上、その次もその次も見据えていないとだめだったんだ。
しばらく黙っていた浅田くんは、コツリと革靴を鳴らして、わたしのそばに立った。
そして、会社を背負っているというプレッシャーで食事も喉を通らなくなって、随分細くなったわたしの腕を掴んで言った。
「これ以上痩せてく山下は見てられない。会社は、何があっても守ってやる。だから、頼むから、自分のこと大事にして」
浅田くんは、何も悪くないのに。
あの日、偶然人生が交わって、そこからわたしがこんなところまで連れてきてしまったのに。
どうしてこの人は、こんなにやさしい瞳でわたしを見るんだろう。
「・・・山野さんのセミナーまでは、今まで通り死んでもやりきる。それが終わったら、少しだけペース落としてもらえるかな」
腕を掴まれたまま、目をそらすわたしに。
彼は、一瞬満足そうに目を細めて、いつもの強気な顔で言った。
「仰せの通りに、社長」