結~第四楽章
デュクラへ行く前の、幸せな子供を私は嗤う。
会って、少し話をしただけ。
それだけでも人は恋に落ちる。
この理不尽を理屈で説明しようとすれば出来なくないが、説明すればするほど、大切なものはこぼれ落ちてゆく。
どうしようもない渇望。
自覚以前からの渇望。
彼女は私の、欠けた一部のようなもの。
私の中には、彼女でなければ埋まらない空虚がある。
知らないでいられれば、そのまま穏やかに生きられたかもしれない。
しかし知ってしまった今、私は彼女を渇望せざるを得ない。
だけど彼女は兄の婚約者だ。
デュクラから戻ってしばらく後に、私は成人の儀に臨んだ。
その夜、慣習に従って私は、あてがわれた女を抱いた。
行為そのものは問題なく出来たし、さほど嫌悪はなかったが……翌朝、ひどい虚しさに吐き気がした。
翌年、初夏。
眩しく明るい日差しを浴び、ラクレイドの王太子とデュクラの王女は、互いを伴侶として共に歩むと神に誓った。
そして婚礼の宴。
祝わない者など誰もいない、隈なく明るい宴が慣習に従い、今後十日に亘って続く。
ここに至るまでの私の心中の嵐など、語るのも馬鹿らしい。
乱高下する情緒に振り回され、私もいい加減くたびれた。終わりに出来るかと思うといっそ清々しい。
宴はたけなわ、いい感じに場も和やかに乱れてきた。
そろそろ新郎の弟たちによる祝いの歌が披露される。
白ずくめの慶事の礼装に身を包んで、こちこちに緊張している弟へ目をやる。
緊張しすぎて青い顔をしているが、それでいて彼は本番で実力以上を発揮するのだから可愛げがない。
「そろそろ行こうか、アイオール」
声をかけると弟は、無言でこくりとうなずいた。
紋切りの口上の後、私は弟と竪琴をかまえる。
華やいだ前奏に、皆の顔も明るく輝く。
「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
恥じらいを含んだ甘やかな声が広間に伸びる。本当に少年が歌っているのかと私でさえ思う『乙女』の歌詞。弟は悔しいくらい芸達者だ。気持ちを落ち着かせようと、私は深く息を吸い込んだ。
「星の煌めき 銀の月影
山の彼方の遠雷や?
否や否 それは汝なり
高き峰より降り来る 黄金の毛並みは
孤高の神狼」
ふたつの竪琴の音が高まり、絡み合う。
「誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
底に力強さをひそめた深い声。そんな声が出ているか心許ないが、己れに出来る限界まで私は声を張る。『神狼』の歌だ。
「草原のざわめき 小川のせせらぎ
匂いやさしき春風や?
否や否 それは汝なり
若菜摘みする甘き歌声 瞳あかるき
麗しの乙女」
一瞬、兄が真顔になった。
私は気付かないふりをして、一心に竪琴を奏で、歌う。
歌は佳境だ、気を散らせてはならない。
「星の煌めき 銀の月影 山の彼方の遠雷や?」
「草原のざわめき 小川のせせらぎ 匂いやさしき春風や?」
「否や否 それは汝なり」
「否や否 それは汝なり」
『神狼』と『乙女』の歌声が絡まる。
「否や否 それは……」
竪琴の音はさらに高まる。
「汝、のみ」
一瞬の静寂。
万雷の拍手。
我々の祝いの歌は大成功をおさめた。
興奮冷めやらぬ皆を制すると、兄は赤葡萄酒を手にこちらへ来た。
「いやあ、素晴らしい。アイオールが芸達者なのは知っていたが、セイイール。お前、そんなに歌が上手かったのか?はっきり言って驚いたぞ」
「ひどいですね、これでも一生懸命練習したのですよ。もっと真っ直ぐ褒めて下さいませ」
しかめ面を作って言うと、兄は大声で笑った。つられたように皆も笑う。こういうやり取りは、我々兄弟の約束事のようなものである。
「お前たちが我が思いを代弁してくれたことに感謝する。私は残念ながら、披露するだけの腕前がないからな」
甘さをひそめた一瞥を花嫁へやり、兄は向き直る。そしてグラスを差し出し、ほほ笑んだ。
「褒美の葡萄酒だ。アイオールは成人前なので、セイイール。代表で受け取れ」
竪琴を置き、兄へ寄る。型通り片膝をついて頭を下げる。
許されて立ち上がり、グラスを受け取る刹那、兄はこの上なく機嫌のいい笑みを張り付けたまま、ささやいた。
「許せ、とは言わない。だが私の命ある限り、彼女は渡さない」
瞬間的に硬直した後、私もこの上なく機嫌のいい笑みで兄を見返した。
「御心のままに、ライオナール王太子殿下」
肩を叩いてきびすを返す兄を、私はやや情けない気持ちで見送る。
子供の頃から思ってきた。
私は兄に敵わない。
張り合う前から負けている。
背筋を伸ばし、グラスを高く掲げた。
「ライオナール王太子殿下、アンジェリン王太子妃殿下の御結婚を祝して」
ひと息にグラスをあおる。
しっかりとした味わいの濃い赤葡萄酒は、私には少し渋く、そして酸味もきつかった。