起~第一楽章
竪琴の音が流麗に響いている。
この前、十五歳になったばかりの腹違いの弟が私と共に奏でているのだ。
……弟の方が私より上手い、認めたくないが。
この弟は本当に、何でもそつなくこなしてしまう。
時々本人が言うように器用貧乏な面もなくはないが、本音を言うならこのそつのなさ、実は少し腹立たしい。
「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
乙女にまごう高い声。
声質そのものは私と弟は近いのに、音域は弟の方が桁外れに広い。
音楽に造詣が深く、ご自身も歌い手や舞い手として一流だった弟の母君・レーンの方に似たのかもしれない。
「星の煌めき 銀の月影
山の彼方の遠雷や?
否や否 それは汝なり
高き峰より降り来る 黄金の毛並みは
孤高の神狼」
竪琴の音が高まる。
次は私が歌わねばならない。わかっているが声が出なかった。
弦を弾いている指先も、引きつったように止まってしまう。
「兄上。セイイール兄さま」
弟も竪琴を止め、唇を尖らせた。
「真面目に練習して下さいませ。婚礼の宴まで、半月を切りましたよ」
「ああ……わかっている。悪い」
手首を振り、指を曲げ伸ばしし、私は苦笑を浮かべる。
「なんだか上手く指が動かなくて。そのせいか気が散って仕方がないんだよ」
弟はふと、菫色の瞳を曇らせた。
「ひょっとして、お身体の調子がすぐれないのでは?」
私はかぶりをふり、笑みを作る。
「そうではない。多分、しばらく竪琴を触ってなかったせいで指がなまっているんだよ」
それでも心配そうにしている彼へ、私は明るい声で言う。
「大丈夫だよ、アイオール。時間もないのにすまなかったね、仕切り直そう。練習再開だ」
私は『基本の音』を高く鳴らし、前奏を奏でる。
そして自分の受持ちを歌い始めた。
「誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
底に力強さをひそめ、深みのある声で歌うべし。
楽譜にはそう注意書きがある。
私が歌い始めたので、弟も竪琴を合わせ始める。
祝婚歌に相応しい、華やいだ音色が音楽室を満たす。
「草原のざわめき 小川のせせらぎ
匂いやさしき春風や?
否や否 それは汝なり
若菜摘みする甘き歌声 瞳あかるき
麗しの乙女……」
私がその『瞳あかるき 麗しの乙女』に出会ったのは、去年の秋の初め。
王太子である兄の名代として隣国デュクラへ行き、兄の婚約者である王女へ誕生祝いの品を持って挨拶に行った時だ。
兄は婚約が調って以来、毎年誕生祝いを持って王女に会いに行く。
初めてあちらへ行き、初めてあちらの王女と対面した兄は、腑抜けて帰ってきた。
恋に落ちたのだそうだ。
以来折に触れ、互いに手紙のやり取りをしている。
政略結婚には違いないが、兄とデュクラの王女は互いに思い合っている様子であり、めでたい限りである。
めでたい限りであると私は、いそいそと手紙を広げてはやに下がっている兄を横目で見ながら思っていた。
そして、普段は同年代の男どもと剣を振り回しては高笑いしている、愛にも恋にも興味なさそうなこの男の心臓を奪った隣国の王女を、あっぱれだともとんだ魔女だとも密かに思っていた。
この恐るべきあっぱれな魔女が義姉になるのかと思うと、気ぶっせいなのが正直なところだった。
だから本来は今年も、兄が誕生祝いを持ってデュクラを訪問するはずだった。
まして今年は、王女が満十五歳になる誕生日。
わが国でもデュクラでも、十五歳になると女性は結婚が可能になる。
兄はすでに十八、成人の儀を二年前に終えているから当然婚姻は可能だ。
デュクラの王女が十五になれば、次の年の初夏に結婚することがあらかじめ両国の間で決まっていた。
この大切な誕生日に兄が祝いに行けないほど手を取られているのは、王太子としての仕事が忙しいだけでなく、兄が春から将軍職を務めている陸軍でごたごたが続いているせいであった。
「あの馬鹿どもめ」
忌々しそうに歯噛みして兄はうめいたが、さすがに務めを放り投げてまで女の機嫌を取りに行くことは出来ない。
父王や外相などが諮り、兄の名代として私がデュクラへ行くことになる。
私はまもなく十六になるが、病がちな幼少期を過ごしていたせいで国外へ出る事なく今まで来た。
初めての外国訪問として、友好国の王家への私的な訪問(名目上)というのはちょうどいいと大人たちに判断されたのであろう。
決定を聞き、私は兄から恨みがましそうににらまれた。
にらんできたが、最終的に静かな声で、アンジェリン王女へよろしく伝えてくれと兄は言った。
「来年が待ち遠しいとお伝えしておくれ、我が心は貴女のものだと」
「わかりましたよ、お熱いですねえ。しかし、どうしてそんな気持ちになれるんですか、会って少し話をしただけなのに」
あきれ半分に私は言った。
私は常々、不思議で仕方がない。
美しい女性や可愛らしい女性を見れば、私も男だ、好ましいと思う。
曲線を描く肩の線やまろやかな胸のふくらみに、胸がざわめくこともある。
だが、誰か一人に執着せざるを得ない『恋』という感情が、私には未だによくわからなかった。
大切だと思う。好ましいと思う。
その感情は友情とどこが違うのか?
性的な要素を言うのなら、それこそ嫌悪を催さない相手であればそれでいい。
人間として尊重しあえる女性であり、互いに好もしいと思える女性であれば、私はその人を妃に迎え、大切に出来る自信があった。
そりゃあ、と言いかけ、兄は赤面した。
「……私にもそんなことわかるものか。とにかく彼女を一目見た途端、私の心は捕らえられた。わかっているのはそれだけだよ」
まこと、恋とは理解しがたい。