後編
ジリリリリリリリリリ。
俺は慣れた手つきで目覚ましを止めた。
「ようこそ、地獄の三丁目へ」
俺の地獄がまた始まる。しかし、慣れとは恐ろしい。もう死ぬことにもだいぶ慣れてしまった。
「うっ」
唐突な吐き気が襲ってくる。どうやら死に慣れというものは存在しないらしい。俺は急いで洗面所に向かった。
「ぐっぇ…かはぁ」
体が焼けた臭いとは違った気持ちの悪さ。自分の体から臓物が出る感覚も同様の気持ちの悪さだ。出来れば老衰で死にたいものだ。十五の自分からは難しい注文だろうが。
さて、どうしたものか。今日は四月二十九日だ。死ぬのは経験上明日になるはずだ。一日を生きられる貴重な一日だ。それなのにこれといって予定が思い浮かばない。久しぶりに学校に行くか。そして、暁や美羽に言うのか。俺を助けてくれと。
「馬鹿馬鹿しい」
そんなことを言って誰が俺を信用するものか。過度なストレスで頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。そのストレスが暁に勝つという些細な問題だと思われるのは気が引ける。 暁の為を思って言った約束でおかしくなったと思われたら、それこそ暁の負担になりかねない。助けたつもりで重荷を背負わせるなんてことはしたくないのだ。
「ふぅ」
顔を洗い終えてだいぶ落ち着いてきた。しかし、当分ご飯は食べたくない。朝食は食べないことにした。食べても恐らく出てしまうからだ。
そして、とうとうやることが思い浮かばない。何をやっても何をしてもこの気持ちのままでは楽しむことは到底できそうにない。それほどまでに疲弊していた。
「ずっと寝て、良いもの食べて……あとは残っているのは」
性欲か。期しくも人間の三大欲求の二つを堪能していた。そうなるとどうしてもコンプリートしたくなってしまう。しかし、性欲か。年齢的にそういったお店に行くのは難しいだろう。まだケツの青いガキの面をしている。成人しているとは思えない。では、どうするか。見知った人間でも襲うか。それとも知らない人間の方が非情になれるか。
ピンポーン。
家のインターホンが鳴った。まだ朝早いのに一体誰だろう。今までこんなイベントは起きなかった。ただの宅配便でも、新聞の勧誘でも、俺にとっては有難かった。
寝間着のまま俺は玄関に向かった。顔は洗ったし、もともと寝癖みたいな髪型だ。ちょっと外に出るくらい問題はない。そう思って扉を開けた。
ガチャ。
そこには見知った人間がいた。あぁ、なんで会っちゃうかな。俺は疲弊した自分の姿を見られるのが恥ずかしかった。目の前には仁王立ちした暁がいたのだ。
これは夢か。朝日が後光に見える。もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれない。そうだ、これはきっと夢だ。性欲を満たす為に用意された幻想だ。じゃなきゃ、こんなにタイミングよくこいつが現れるはずがない。そうだ、そうに違いない。
「ちょっとあんたに……えっ」
バッと暁の声を聞き終える間もなく、俺は暁に抱きついていた。この温もり、この感触。夢にしてはかなりリアルな質感だ。まるで本物のようだ。匂いは。匂いはどうだ。俺は鼻で大きく匂いを嗅ぐ。
首筋から後ろ髪にかけて、ほのかな柑橘系の香りがする。恐らくシャンプーの香りだろう。もし同じものを使っても俺の髪からはこんな香りはしない。女の体とはこれほどまでに良い香りがするのか。そんなことを思っていた。
「あんた……一体何を」
暁がぷるぷると震えている。さすがに急に抱きつかれて怒ってしまったか。俺の夢の中だというのに随分リアルなリアクションだ。ここは好きにして、くらいの言葉が出てもおかしくないというのに。変にリアルだ。リアル過ぎだ。もしかして、これは。
「あれ……これは、もしかして」
夢じゃない。そう思った瞬間に俺の顔には衝撃が走っていた。
パン。
綺麗な音だ。まるで専用のSEが用意されていたかのような音だ。そして、その音が頬を叩かれた音だと気付いた。
「急に抱きついてきて、匂いまで嗅いで、変態野郎ね……」
叩かれた衝撃で地面に倒れていた。そこから見上げる暁の姿はやっぱりどこか神々しい。相変わらず仁王立ちだし、先ほどよりも幾分か機嫌が悪そうだが。それでも俺にとっては神様のように見えていたのは間違いない。
「とりあえず説明して貰おうかしら」
「は、はい」
俺は言われるがままに暁を家に上げていた。立ち話にしては長くなるし、あまりご近所さんに見られるのはよろしくない。既に抱き締めてしまった手前、今更感はあるが。
「なるほど、それで時間が戻っていたのね」
俺のおおよその説明をし終えると暁は頷いていた。しかし、家のリビングに暁がいる状況は見慣れないな。というか家に人を上げたのは初めてかもしれない。それが同級生の女の子。両親は不在だ。妙に意識してしまう。
「驚いたわよ。ずっと勉強していて気付かなったけど」
暁はずっと勉強して気付かなったそうだ。異変に気付いたのは授業に耳を傾けた時に同じ内容をやっていたかららしい。それほどまで集中していたのか。俺はこいつに勝てるのだろうか。心配になる。
「それで学校を調べてみたら、あんたがいなかったから当たりをつけて来たってわけ」
お見事だ。いや、こいつならもっと早く気が付いてもおかしくなかった。もしかしたら三回も死なずに済んだかもしれない。まぁ、さすがにそれは高望みか。
「なるほど」
「そしたら、いきなりあなたに襲われたってわけよ」
どうやら先ほどのことを根に持っているらしい。あれは不可抗力だ。いや、十分堪能しましたけど。
「仕方ないだろ。睡眠欲と食欲満たしたら、やるべきことは一つだ」
「時間が戻るからって女の子に乱暴しようと考えていたってことでしょ。どのみち最低よ」
言い逃れは出来ない。俺は人としても、男としても最低だった。
「誰でも良かったわけじゃねぇよ」
「へっ……」
あちゃあ、何言っているんだ俺は。こんなこと言っても意味なんてない。そう頭でわかっていたはずなのに、つい声に出していた。本当に最低だ。
「まぁ、それを未然に防げて良かったわ」
あれ、あっさり許されたな。こんなに心が広い奴だったっけ。ちょっと見直したぞ。
「それで、これからどうするつもり」
暁が本題に戻した。そうだ、俺の性犯罪は未然に防がれてしまい、それ以外のことを考えていなかった。やりたいことは特になかった。
「やること、決めてないのね」
俺の様子を見ていた暁が呆れた様子だ。まぁ、そうだろう。久しぶりに会った男が犯罪に手を染めようとしていたのだから。それで俺との関係を断ったとしても文句は言えない。それなのに変わらずに接してくれているのは、俺の尋常ならざる様子からだろう。普通に話していても三度の死を思い起こさずにはいられないのだ。
「……デートでもするか」
特に何かを考えていたわけではない。気晴らしに何かをしたい。そう思った。
「じゃあ、一人で行って来たら。私は勉強してるから」
そう言って鞄から教科書とノートを取り出し、テーブルに広げていた。勉強なら俺の家でなくても出来るだろうに。それでも帰らないのは俺を心配してのことか。はたまた同情か。それはわからなかった。
「はぁ……俺も勉強するか」
もしも、この世界から抜け出したら暁との退学を賭けた試験がある。いや、退学を賭けたのは別の奴か。暁とは何でも言うことを聞くだっけか。俺は暁を犬として扱うとか軽口を言ったけど、今ならまだ変更出来るのかな。もっとも、勝てなければ何をされるかわかったものではない。勝つまでなくても引き分けに持ち込む必要がある。
「わからないことがあったら教えてあげるわよ」
「誰が敵に教わるか」
そう言いながらも暁がどんな風に勉強しているかが気になり、暁と同じテーブルで勉強を始めてしまった。これはあれだ。敵を知り、己を知れば、百戦危うからずとかいうやつだ。無知の知なんて言葉もある。少なくとも暁を知って悪いことはないはずだ。俺は自分を言い聞かせながら勉強したのだった。
グー。
お腹の虫が鳴いている。そろそろお昼時だ。しかも気分が優れないせいで朝食を省いた。そのせいで俺のお腹は限界を迎えていた。その音は暁の耳にも届いたはずだ。少し恥ずかしい。
グー。
「うるさいわね」
暁が俺のお腹の虫と会話を始める。これはこれで面白い展開ではあった。しばらくこのまま様子を窺おう。そう心に決めた。
グー。
ガタッ。
暁が席を立った。さすがに怒らせてしまったか。しかし、お腹が鳴るのは俺の意思とは関係ない。これは俺の意思ではないのだと言い訳させてもらう。
「ちょっとキッチンを借りるわよ」
暁はそう言って冷蔵庫を開け、中を見ていた。そして、てきぱきと料理を始めた。人の家の冷蔵庫を勝手に開けたのには少し驚いた。しかし、驚くべきことはそれだけじゃなかった。
「料理出来たのか」
慣れた手つきというレベルじゃない。料理で生計を立てる者の動きだ。日頃からインスタントか軽い料理しかしない俺としてはその凄さは目を見張る。
「これくらい普通よ」
そう言って手早く調味料を入れ、炒める。野菜を炒めて焼肉たれをぶっかける男料理とは違い、見栄えが良い。
「テーブルの上を片付けてくれるかしら」
「お、おう」
素直に従う。片付けると言っても暁は既に勉強道具をまとめており、それを動かすだけだった。むしろ俺が使っていた方が汚い。俺はテーブルからものをどかし、その上をふきんで拭く。こういう準備をするのは久しぶりだった。
「今の具材じゃこれが限界よ」
その言葉とは裏腹に凄く美味しそうな野菜炒め。それにご飯もよそってくれる。なんだかすごく申し訳ない気分になる。持て成すのは俺の方だっていうのに。いや暁が予告なく来ているのも問題だが。
「なんか悪いな」
「別にいいわよ。私も食べるし」
テーブルにお茶碗とお皿が二つずつ並ぶ。こうやって家で誰かとご飯を食べるなんて考えもしなかった。しかも、こんな不可解な状況で。
「いただきます」
「あぁ、いただきます」
黙々と料理を口に運ぶ暁。俺もそれに続くように食べ始める。
「美味いな」
「普段からちゃんと良いもの食べているんでしょうね。インスタント食品ばかりだと体に悪いわよ」
あまり使わないキッチンの様子から俺の食生活を見抜かれたようだ。男の一人暮らしなんて基本そんなものだ。
「そんなに言うなら毎日作ってくれよ」
「えっ」
「あっ」
反抗のつもりで言った言葉がまるでプロポーズのようになってしまった。いや、これは暁の料理の腕を認めたということであって、決して深い意味は。
「夜は出前でも取るか」
「そ、そうね……」
あれ? なんか夜も一緒みたいな物言いになってしまった。おかしい。おかしいぞ。何が起こっているのだ。どうやらおかしいのは世界だけじゃない。俺自身もだった。
なにかぎくしゃくした時間を過ごしたが、悪い時間ではなかった――
「そろそろ帰った方が良いんじゃ」
お昼を一緒にしてから、またすぐに勉強に戻った。それから夕飯まで勉強し続け、夕食は先ほど会話で言った通りに出前を取った。暁も自分で言った手前、夕飯までは一緒だったが、さすがにこれ以上は。そう思っていた。
「別にいいわよ。それに明日になったら、あなたはいなくなるんでしょ」
どうやら暁は俺が死ぬのをその目で確認したいらしい。いや、人の死というよりも時間が戻る原因を知りたいということか。さすがに前者は人として問題があるからな。
「そりゃそうだけど……着替えとかもないし」
「それならTシャツとかジャージとか貸してくれれば良いわよ」
暁は退く様子がない。もう心に決めているようだ。それをとやかく言うのが男の方というのは何とも情けない。
「わかったよ。サイズは合わないだろうけど我慢しろよ。それに来客用の布団とかないから親のベッドを使ってくれ。部屋はあとで教える」
もうどうにでもなれ。半ばやけくそだった。
「じゃあ、先にお風呂を貰うわね」
いつの間にか風呂を沸かしていたらしく、俺からジャージを受け取るとすぐにすぐに姿を消した。要領が良いというか。遠慮を知らないというか。翻弄されっぱなしだ。いつもなら俺の方が……いつもなら? そのいつもじゃないことで余裕がなくなっているのか。俺は今更ながらあいつの遠慮のなさが、俺に元気を出させる為だったのではないかと思い始めた。まさか、そんなに気を使える奴だったとは。
「ねぇ」
「おわっ」
暁がドアの方から顔を覗かせていた。開けっ放しだったのはそのためか。その声に少し変な声が出た。風呂に行ったんじゃないのかよ。
「絶対に覗かないでよ。あと、私の残り湯を飲んだりしないでよね」
それだけ言うと暁は本当に姿を消した。あいつ、言うだけ言って、そんなことをするわけ。たまたま口に入ることはあるだろうよ、なぁ。
「ははは」
笑ってしまう。こういう日が過ごせるなんて夢みたいだ。死に始めてからはそんな余裕がなくなっていた。余裕ぶって、平気なふりして、ただただ虚勢を張っていた。そんな俺が無理をしていることに気付いた。あいつはやっぱり。
「天才だ」
♥
チャプ。
湯船から足を出す。いつもの私らしくない。そんな行動ばかりしてしまった。
「はぁ……なんでこんなことに」
本当だったら様子を確認したらすぐに帰るつもりだった。それなのに勉強なんて始めて、空気が読めない女だと思われたかもしれない。いや、そもそも女として見られてないからただの変な奴になったかも。
ブクブクブク。
湯船に口を浸け、息を吐く。人の家のお風呂に入ることが自分にあるとは。しかも、異性。しかも、泊まり。
「でも、仕方ないか……」
家を訪れたときに穣に抱き締められた。突然のことに驚いたが、そのとき彼の手が震えていたのだ。あの他人に期待せず、自分にも期待せず、毎日を淡々と、無理なく、無理せず過ごしていた彼が怯えていた。何が起こっても自分一人でどうにかする。そんな強さを持っていると思っていた彼が、だ。
それこそあの変な男と会ったときみたいに。もしかしたら……いや、もしかしなくてもあの男が関わっていることを確信していた。あいつをあんな風に出来るのはあの男しかいない。では、私には何が出来るだろうか。何をしてあげられるのだろうか。
「側にいることしか、出来ない」
私は自分の力を正当に評価出来ているつもりだ。それが弾きだした答えがこれなんて。我ながら情けなさで死にたくなってしまう。でも、それでも。穣がまともな顔をするようになった。私の力も全くの無駄ではないのだ。
「のぼせそう」
湯船で考え事をしたせいで倒れそうだ。しかし、ここで倒れたら私のあられもない姿を穣に見られてしまう。そんなことではあいつを元気になんてさせてやれない。
胸を触る。美羽のような魅力があれば私でも元気づけられたかもしれないけど。えぇい、余計なことは考えるな。私はただ傍若無人であり続ければいいのだ。
「上がろう」
私はお風呂から上がった。そういえば行き当たりばったりのせいで下着は身につけていたものしかない。この際ノーブラノーパンで過ごしても問題ないだろう。ジャージならわからないし。そんなことを考えていると着替えのジャージの上に新しい下着が置かれていた。
「あいつ」
どうやらコンビニで急いで買ってきたようだ。こういう気の遣い方が出来るなんて、しかも私を早く帰そうとしてたし。
「ふふ」
思いの外紳士なのかもしれない。私は下着を広げてみる。無地に軽くフリル。お世辞にも可愛いとは言えない。それでも、あいつが恥ずかしがって買ったものだ。仕方がないから着てあげよう。これは私が初めて人から貰った下着だ。大事にしてあげよう。そう思った。
♠
「この部屋は好きに使っていいから。あと喉とか乾いたら冷蔵庫に入ってるもの好きにしてくれ。トイレはさっき言ったところ、一階と二階にあるからタイミング被っても大丈夫だろ」
俺は自分の家を簡単に説明する。人を家に上げたことがないからよくわからないけど、こんなもんで大丈夫だよな。俺は不備がないことを確認する。
「この大きなベッド使っていいんだ」
暁はクイーンサイズのベッドに目を奪われている。さすがに一人で使うにはでかいが、でかくて使えないなんてことはない。
「シーツも新しいのにしたから。もし嫌ならリビングのソファでも使ってくれ」
「別に嫌なんて言ってないでしょう。こんなにいいベッド使っていいのか疑問に思っただけよ」
もともとは二人で寝る用のベッドだ。その二人ですらゆっくりと出来るサイズなのだから一人ならゆっくりどころじゃない。贅沢の限りだろう。
「じゃあ……おやすみ」
「うん、おやすみ」
俺は部屋を後にした。誰かにおやすみなんて言うのも久しぶりだ。そんなことを思いながら俺は自室に戻る。家の中に誰かがいると考えると少し落ち着かない。しかし、ベッドで横になっていると、そんなことはどうでもよくなる。俺はその眠気に身を委ねた。
ガチャ。
ドアが開く音がした。暁がトイレにでも行っているのだろう。しかし、その音がやけに大きかったように思う。これは……俺の部屋か。
どうやら暁が俺の部屋に入ってきたようだ。一体何を考えているのだろうか。これが何を意味するのかはわからない。だが、俺の背後には間違いなく暁の気配があった。寝首をかかれるのか。それともただ寝ぼけているのか。前者よりは是非後者を推したい。
「寝てる……わよね」
小さな声だった。すると、何を思ったのか。暁がベッドに入ってきた。俺のベッドはシングルベッドで二人で寝るには小さい。寝返りを打てば接触するのは間違いないだろう。その危険を犯してまで何故、同衾を謀るのか。まさか暁に限って寂しいからなんてことはないだろう。一体どんな意味があるのか。俺は必死に考えていた。
すぅ…すぅ…。
俺の疑問を余所に暁は寝息を立てていた。背中越しに誰かがいる感覚。誰かに守られているような感覚。俺がいつの間にか寝ることに恐怖を感じていたことに気付く。それこそ酷い顔で無理やり眠っていたのかもしれない。暁はそんな俺に気付いた。そして、今こうやって俺の為に動いてくれている。
情けない。プライドの塊だった暁にこんなことをさせてしまうなんて。好きでもない男と同衾なんて誰だって嫌なはずだ。それを暁はやってのけた。暁は変わってきている。俺も変わらなければいけない。暁と対等であるために。友人であるために。今は恥を忍ぼう。
でも、そのお陰で今日はゆっくり眠れる。俺の意識は緩やかに落ちていった。
ジリリリリリリリリリ。
目覚ましの音が聞こえる。その音が聞こえると同時に止めていた。意識がはっきりしている。良い目覚めだった。
「はっ!」
普段なら考えられないスピードで起き上がっていた。すぐに隣を確認するが暁の姿は既になかった。暁の寝顔が見られるかもしれないという期待もあったのに少し残念だ。もっともその寝顔を見たところで俺には何も出来ない。今の俺は自分のことで精一杯なのだ。
「本当に俺って奴は……」
自己嫌悪に陥る。今の俺の精神的支柱が暁になりつつある。だが、それではダメだ。俺が解決しなければ、この先あいつの隣を歩けない。そんなことではいずれ皆に見捨てられてしまう。その予感が俺を支配していた。
「何、黄昏てるのよ」
いつの間にか暁の姿があった。制服にエプロン姿という出で立ちが様になっている。というかそのエプロンは家の母親のものだった。
「お前、そのエプロン」
「あぁ、これ。ちょっと借りてるわよ」
そのエプロンがハートマークを大きくあしらった新妻用のもので、制服と相まってとてもいかがわしい感じがした。いや、いかがわしかった。暁はどうやらそのことに気がついていないようだ。
「朝食作ったから早く降りてきなさい」
「お、おう」
それだけ言って暁は出て行った。リビングに向かったのだろう。俺は暁の異様なほどの慣れに驚きを隠せない。暁は美羽と出会ってから変わり始めた。といってもまだ全ての人間に対して良好な関係を築けるには至らないだろうが、確実に成長している。
「俺も変わらないと」
いつの間にか俺は宣言していた。俺を救おうと動いてくれる暁の為に何かしてあげたい。その思いが次第に強くなっていくのを感じた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様です」
朝食を終えていた。食器の片付けを始める暁を手伝う。もとより自分の家なのだから、手伝うのは当然だ。むしろ手伝いになっていることをどうにかせねば。
テレビが点いていた。何気無しに音声だけを耳に入れる。ちょうど占いが流れているところだった。
「おとめ座のあなたは最下位。何をやってもうまくいかない日。頑張るのは明日からにしよう」
既に何回か聞いたことがある内容だった。それを聞いて思い出した。俺は今日死ぬという事実を。暁の出現で少し忘れかけていた。
「ラッキーアイテムは好きな女の子。側にいれば、きっと幸せになれるよ」
「私最下位だ」
暁がぽつりと呟いた。並んで洗い物をする俺ですら聞き逃す程度の音量だった。しかし、それを聞き逃さなかった。
「おとめ座なのか」
隣にいる暁を見るが、とてもおとめ座には見えない。だからといって俺は性別すらも違うので文句を言える立場にはいないけど。
「今、見えないって思ったでしょ」
暁の勘が妙に冴えている。そうか、一応女の子だ。女の勘は当たるのだった。
「いや、獅子座だと思っただけだ」
ある意味では肯定とも取れる返答をしてしまった。まんま肯定していた。
「大体、この占いは何様よ。何をやってもうまくいかないのは努力が足りないからだし、明日から頑張ろうなんてただの言い訳でしょ」
頭が痛い。まるで自分のことを言われている気がしてならない。
「それにラッキーアイテムが好きな女の子って。女は一体どうすればいいのよ。ってか好きな女の子がいるならそれだけで幸せじゃないの」
以前の自分と全く同じ感想を漏らしている。自分は男で気にならなかったが、そうか確かに女性だったら百合になってしまう……それはそれでいいな。暁だったら美羽になるのか。ってか百合ってどこからが百合だ。過度なスキンシップを行うのはセーフなのか。皆の前でやらなかったら、違うのかな。俺の頭の中のニューロンが蠢き出す。
「よし! 準備しなさい」
洗い物を終えた暁が高らかに言い放った。一体何の準備をするのだろうか。テレビ局に殴り込みでもするのかと内心冷や冷やする。
「何の準備をするんだ? 電話で済まさないか」
さすがに電話でクレームを言う程度に留めておきたい。俺は事なかれ主義だった。
「何って、こんなことを言われてるのよ。決まってるじゃない」
含みを持たせるような言い方だった。俺はそれに従うしかないだろう。本能的にそれがわかった。
「遊びに行くわよ!」
何故その結論に行き着いたのかはわからなかった。
「平日なのに人が多いわね」
「まぁ、出来たの最近だからね」
俺と暁は遊園地に来ていた。前に来た美術館の近くにある。立地的に色々な娯楽施設が充実している為、カップルと家族連れの巣窟と化している。そして、残念なことに俺と暁はカップルではない。傍から見たら大差ないが、当人からすると大した問題だ。
「このフリーパスってので全部のアトラクションが楽しめるの?」
「あぁ、まぁ中には別料金が掛かるやつもあるけど、大方はこれで大丈夫だ」
暁は派手な色をするブレスレットをもの珍しそうに見ている。バーコードの部分を見て納得していた。その部分に全ての情報が含まれているのだ。
「バーコードの情報だけじゃなくて、この色でも判別してるのね」
暁が当たりを付けている。ボウリングシューズが派手な理由は持ち帰りを防ぐ為だとか。これもその一種だと踏んだのだろう。日によって変わるので、不正防止の一つだろう。
「とりあえず何か乗るか」
そう促すが暁は別のものに目を奪われていた。なんだかんだでノリノリだ。俺は暁の視線の方を見る。すると、そこには青い奇怪な生物が動いていた。
「なんだ、あれ」
俺が不審な声とは裏腹に暁の目は光り輝いていた。
「あれはダニー君よ」
ダニー君と呼ばれた着ぐるみはその名の通り、ダニのキャラクターだ。
「ダニか……ダニねぇ」
何故そのチョイスなのかは苦言を呈したいが、暁には思いの外好評のようだ。
「あっ、あれはノ美ちゃんよ」
暁が指差す方向を見る。そこにはピンク色の着ぐるみが動いていた。
「ノミのノ美ちゃんね」
なぜ節足動物をピックアップしたのか謎が深まるが、子どもたちからの人気は高いらしい。写真を撮る人達で溢れている。
「写真。写真を撮らないと」
「じゃあ、俺が撮るから行ってきな」
「いいの!?」
テンションが上がる暁を余所に俺のテンションはそこまで上がらない。ダニー君とノ実ちゃんに挟まれる暁の姿は幸せそうだった。
「じゃあ撮るぞ。いちたすいちは~」
「だに~」
変な掛け声まであるのか。末恐ろしい。暁のテンションは俺が今まで見たことないくらいにまで上がっていた。
「撮れた? ねぇ、撮れた?」
「撮れたよ」
ダニー君とノ実ちゃんと別れた後に駆け寄ってきた。俺が携帯で撮った写真を見せると暁は非常に満足気だった。
「あとで送ってよ」
「はいはい」
暁の新たな一面を見てしまった。その後の暁は全てのアトラクションに乗ると言って奔走し、昼食は全ての味をコンプリートしようと大量の料理を頼んでいた。俺はそれにただただ付き合わされ、食べたり戻したりを繰り返していた。
「これで最後ね」
「そうだね」
全てアトラクションを網羅し、最後に観覧車に乗っていた。ゴンドラが風に揺れるだけで気持ち悪くなる。時間ももう閉園間際だ。
「観覧車のイルミネーションが見えないわね」
「乗ってるからね」
暁は観覧車のイルミネーションを見ようと座らずに下を見ている。窓に張り付いて必死に見ようとしているが、どうやら諦めた様だ。席におとなしく座っていた。
「というかなんで遊園地に来たんだ?」
俺は疑問だったことを暁に聞いていた。唐突だったから聞きそびれていた。
「特にないわよ……ただ、何をやってもうまくいかないってのが気に入らなかっただけ」
占いの結果が突然の奇行に繋がったらしい。
「でも、こうやって遊んだら楽しかった。それだけでうまくいったってことでしょ」
遊びに行って楽しかったら、うまくいったということ。暁はそれを証明する為にわざわざここに来たのだ。
「それに個人的に気になってたし……」
あの節足動物達か。なるほど合点がいった。
「そうだったのか」
俺はてっきり冥土の土産かと思った。思い出なら持って行けるでしょという今生の別れ。そこまで考えて俺は気付いてしまった。
「暁! 今の時間は」
「えっ、えっと……八時前よ」
八時前。ずっと寝ていた日に死んだのもその時間だった。死ぬときはもっとも合理的な死が訪れた。多少の無理があっても死が理由をつけてやってきた。そして、俺が気付いたのは、その理由が容易に見つかったからだ。
ガタン。
頂上まで来ると観覧車が止まった。これが常時ならそういう演出と取れなくもないが、今は違う。俺の死が続く地獄の中だ。
「キャッ……止まったの?」
「それだけならいいけど」
ゴンドラが風で軋む。そして直観した。このゴンドラごと落ちることを。
「くそ!」
俺は扉を思いっきり叩く。鍵はすぐに施錠できるタイプだ。思いっきり蹴れば振動で開くかもしれない。
「何やってるのよ。危ないでしょ」
暁の静止の声は聞こえない。それほどまでに焦っていた。何故こんなに時間がかかる乗り物に乗ってしまったのか。それをただ悔いていた。
「俺は……俺は死んでも恐らく元に戻る」
扉を蹴りながら、俺は悲痛の声を上げていた。
「でも、お前は……どうなるかわからない」
暁が死んでも元に戻る確証がない。死ぬかもしれない暁をどうにかしなければ。その一心だった。
「知ってたよ」
「えっ」
暁ははっきりとした口調で言った。まるで覚悟を決めているといった感じだ。
「だから、最後にこれに乗ったの。一番時間がかかる乗り物だから」
俺は暁が何を言っているのかわからない。これが暁が望んだ状況だとでも言うのか。
「だって、私……気付かなかった。穣が何回も死んで苦しんでいるときに、何も出来なかった」
やめてくれ。それ以上は言わないでくれ。
「だから、これは罰なんだ」
やめろ!
ガチャン。
一際大きな音ともに扉が開いた。開いた扉からは冷たい空気が吹き込んできた。
「罰なんか必要ない。俺は暁に救われてたんだから」
俺の足取りは軽かった。もうすることは決まっていたからだ。
「穣、止まって」
暁が俺の肩に手をかける。暁にはこの先の展開が読めている。ここまでやったら誰でもわかるか。
「楽しかったよ。もしこれから死に続けても、それだけは言える」
「穣!」
俺は暁の手から逃れるように足を進めた。
「これで……お前だけでも死なずに済む」
その声を発すると同時に俺は落ちていた。観覧車の頂上がどれくらいの高さかはわからない。だが、死ぬには十分な高さだろう。
「ぐっ!」
中心にある支柱にぶつかった。両腕でガードしたが、それも大した意味をなさない。骨が折れ、皮膚から飛び出る。もうこの腕は動かせないだろう。
「「あとで送ってよ」」
そういえば写真を暁に送り忘れていたな。でも良いよな。暁が死なずに済むなら。さすがに許してくれるだろう……いや、暁のことだから死んでも送れとか言うのだろうな。
「ふふ」
自然と笑っていた。だって、最後の最後で思い出したのが、ダニとノミに囲まれている暁の姿だったからだ。こんなに死が怖くないのは初めてだった。
♥
「穣!」
私は大きな声を上げていた。そこに穣の姿はない。それもそのはずだ。ここは遊園地ではなく私の部屋だっだ。
「私は……穣は……」
体をゆっくり起こし周りを見渡す。状況を整理する。今は一体いつだ。目覚まし時計に表示される日付を見る。
「五月一日」
何度も続いていた四月は終わっていた。これは一体どういうことだろう。あの世界から解放されたと考えるべきか。
「もう!」
私は着替えを済ませ、顔を洗った。さすがに外に寝間着のまま出るわけにはいかない。必要最低限の身嗜みだけ整えて外に出ていた。勿論向かったのは穣の家だ。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ……」
息も絶え絶えになっていた。それもそのはずだ。家から全速力でここまでやってきた。多少の運動はしていたが、ここ最近はそれをサボっていた。その弊害だ。
「お願い、はぁはぁ……いなさいよ」
私はインターホンを押した。しばらく待っているが返事はない。それどころか、この家には人の住んでいる気配を感じなかった。
「はぁ…はぁ…嘘でしょ」
私は膝から地面に落ちていた。まるでフラれて悲しむ痛い女のように。今はそんな周りの目すら気にならなかった。
「私だけ……助かったの」
絶望的な答えだった。あいつはまだあの死に囚われている。それを想像しただけでもぞっとする。私は穣を助けた気になっていた。いつもならしないことをして、目に見えて穣は元気になった。それに安心していた。助けたつもりになっていた。穣の姿を見て助かったものだと胡坐をかいていた。その結果がこれだ。
私だけ助かった。私が死なないように穣は自ら命を断った。話を聞いた限りでは穣は何かしら死を供給されていた。私と会ったときは自分から死を生み出した。そのイレギュラーな行為のお陰で私は助かったのか。それならば、あの時間に戻って穣を助けなければいけない。それには私だけでは駄目だ。私だけで試みた結果がこれなのだから。誰かに助けを乞う必要がある。この事情を呑み込めて、その上で協力してくれる人。
「一人しかいないじゃない」
それから私はその人物に会いに行った。また走って汗をかくのが嫌だったが走らずにはいられなかった。
「やぁ、夏目君。出来ればコーヒーを淹れてくれないか」
その人はいつものように私にコーヒーを頼んでいた。しかし、今日はそんな悠長なことをしている時間はない。一刻も早く、あの世界に戻らなければいけない。私は堪らずに助けを乞うた。
「教授。お願いです。私を……いえ、穣を助けてください」
初めて誰かに頭を下げたように思う。今までをそれをしなくても私一人の力で大概なんとかなってきたからだ。だが、今回ばかりは私の手に余る出来事だった。常識からかけ離れた事案は同じく常識からかけ離れた人でなければ解決出来ないのだ。
「珍しいね、君がそこまで疲弊してるなんて……とりあえず話を聞こうか」
教授は私の話が長くなると踏んで自分でコーヒーを淹れていた。来客用のソファに座り、私も向かいのソファに座る。教授がいつもの机から移動するのは珍しいことだった。それほど私が深刻そうな顔をしていたのだろう。私にはそんな自分を客観的に見る余裕さえなかった。
「君の分も淹れたよ。カップはちゃんと洗ったから綺麗なはずだよ」
教授が私にコーヒーを差し出す。普段私が使っているカップからはコーヒーが良い香りをしている。しかし、私にはゆっくりとお茶をする時間さえ惜しかった。
「今、穣は死の世界に閉じ込められています」
私は教授に全ての事の顛末を話した。
「なるほどね」
教授は腕組みをして考え込んでいる。この人が考える仕草をするのは珍しい。いつもなら何でも即答してしまうからだ。だが、今回の話は常軌を逸している。普通の人が聞いたら空想の世迷言だと思われ、真面目に受け取ることすら困難だろう。だが、教授は聞いた話をうんうんと頷きながら自分の中に落とし込んでいく。そして、ある程度考えがまとまったのか口火を切った。
「本当に面白いことになっているね。俗に言うパラレルワールド、世界線という存在に近いね」
教授は笑っていた。これほど面白いことは他では味わえないとでもいう顔をしている。普段の温厚そうなテレビ用のマスクが偽物だということに気付く。私の背筋はぞくっと悪寒が走った。
「それに彼が追体験し続けている時間。四月の二十九日と三十日、これも少し出来過ぎているね。日本で言うところの忌み数字だ」
「忌み数字」
私も知っている。日本では四や九といった数字が忌み嫌われる。四は死を。九は苦を意味するからだ。
「まぁ、それは単なる数字でしかないから意味はないだろうけど。その世界を作った人間は日本人かもしれないね。心当たりはあるかい」
心当たり? そんなものは大ありだ。穣が苦しむときには必ずと言っていいほど、あの男が関わっていた。冬物のコートとハットを身に纏った男だ。
「あぁ、言わなくても良いよ。今回は犯人捜しをする必要はないからね」
教授はコーヒーを一口飲み、ソファに座り直した。ここからが本番のようだ。
「まずは夏目君の話を整理しよう。夏目君がどうして巻き込まれたかだ」
私がどうして巻き込まれたか。理由があるのだろうか。たまたまのような気がするが。
「私が巻き込まれた理由……ですか」
「そうだ。君は四月の二十八日。つまりは尾崎君が時間を繰り返す前日だね。その日に君は一体何をしていたんだい」
時間で言えば三日前のことだが、生憎私も時間を繰り返してきた。一週間前となるとさすがに考えてしまう。誰だって一昨日の夕飯が何なのかを思い出すのには時間が掛かる。だが、こと私にとってそれは朝飯前だった。
「私は話した通り、ずっと勉強していました。食事や睡眠の時間も惜しんで」
「ふむ」
教授は私のその言葉で何か分かるのだろうか。しかし、少しの言葉でも教授にかかれば公式に変わるのだ。多分。
「サーチュイン遺伝子か。でも、あれは真偽が確かではないが」
「サーチュイン遺伝子ですか」
聞いたことがある。飢餓状態で発生する長寿遺伝子のことだ。それが今回の私とどういった関係があるのだろうか。
「仮説でも良いか。元より常識から逸脱した出来事だ」
そう言って教授は仮説を述べる。
「つまり君はそのサーチュイン遺伝子によって本来通過する時間を退行していたと考えていい。今回は尾崎君だけが巻き込まれるはずだった世界に君が偶然入ってしまったのだよ」
本来通過する時間の退行。そんなことが可能なのか。
「仮説にしてはちょっと飛躍しすぎですね」
私はイマイチその案を飲み込めなかった。
「じゃあ、有名な相対性理論にしよう。アインシュタインはそれをわかりやすく言い直している。好きな人と過ごす時間は一瞬であると。つまりは夏目君が尾崎君を思う気持ちが時間の進みを遅くしたと」
「さっきのサーチュイン遺伝子の方で良いです」
原因がなにかなんてどうでもいい。問題は私があの世界に行き、穣を元の世界に戻せるかどうかだ。
「君が戻るのは多分可能だよ。さっき言った二つの事を行えば効果も二倍だろうしね」
相対性理論の方は遠慮したはずだが、どうやら頭数に入っているらしい。
「じゃあ、なんですか飲まず食わずで好きな事を考えていれば良いんですか」
私は半信半疑で答えた。かなり曖昧だ。
「う~ん、さすがに好きなこと考えるって漠然としているからね。ここは夏目君に体を使って貰おう」
「体を使う?」
一体何をされるのか。言葉だけだとどうしてもいかがわしく聞こえてしまうが、教授に限って……十分あり得た。
「そんな目で僕を見ないでおくれ。え~こほん。夏目君には今以上に汗をかいて貰いましょう。さぁ、外に出て走る準備だ!」
「え? あぁ、そういうことですか」
教授が何をしようとしているかわかった。先ほどの相対性理論の話は抽象的だったが、本来の意味のことを言っているのだ。つまり早く走れば時間が遅れると。なんとも馬鹿げた話だとは思うが、これ以外にやることもない。それならばやってみる価値はあるかもしれない。ただ私がお腹を減らして走るというダイエットを実施するだけだ。問題はないだろう。
「わかりました。走ります」
「よっしゃ、自転車借りてこよう。あとメガホンと竹刀も必要だな」
教授はなにか別の企みがあるようだが、それはこの際追及しないでおく。私はどうしても穣を助けなればならない。もとい試験で負かせなければならないのだから。
「疲れた……」
私は疲れていた。それもそのはず、あれから太陽が沈むまで走り続けたからだ。
ぐぅ~。
しかも朝から何も食べていない。出されたコーヒーも結局、教授が飲ませてくれなかった。水一滴飲んでいない。厳密にはうがいの際、一滴以上は飲んではいる。しかし、それだけでは喉の渇きも空腹も満たせそうにない。本当にこんなことで時間が戻るのだろうか。私はただただ心配だった。
「「あぁ、それと尾崎君を助ける方法だけどね」」
教授には一応、時間が戻った際にやるべきことも教えて貰った。それを実践するのだが、その内容も先ほどやったことと大差ない。本当に大丈夫なのかと不安になる。
「もう寝よう」
先ほどシャワーを浴びて、今日はもう寝るだけだ。もしこれで戻れなかったら教授の裏情報を雑誌記者にリークしよう。そう教授を脅せば、もっとまともな手段を講じるはずだ。
「あふぅ」
私はベッドに体を預ける。目を閉じると、穣が笑って逝った顔が思い浮かんでいた。
「お腹空いたぁ!」
がばっと体を起こした。それもそのはずだ。一日飲まず食わずで過ごしたのだ。一日でこれなのだから堂入りする修行僧は並大抵のことではないと感じる。
「とりあえずご飯を」
カーテン越しに朝日が漏れている。朝になったのならもう我慢する必要はない。私は最低限の身嗜みを整え、キッチンに足早に向かった。
「トーストにベーコンエッグ、サラダでいいか」
これぞザ朝食というべきメニューだ。決して空腹のせいで時間が掛からない手抜きだとは思われたくない。手早く作り朝食を食べる。
「美味しい」
これほどご飯が美味しかったなんて。空腹が最高の調味料だとはよく言ったものだ。時計を見るといつも登校する時間だった。眠ったと言うよりは気絶していたと言った方が正しいだろう。胸の脂肪が燃焼されていないことを願う。
「今日は何日だろう」
壁時計では時間しかわからない。私は携帯を取り出し、日付を確認した。期待は全くしていないが、ダメならば次の手を考えねばならない。どのみち、確認は必要だ。
「嘘……」
携帯では四月三十日と表示されていた。戻ったことにも驚いたが、それが中途半端に戻っていることにも驚いた。今日、穣が死んでしまう。そう考えると、いても経ってもいられなくなった。
「早く行かなきゃ」
私は食器を片付ける手間さえ惜しみ靴を履いて外に出た。折角戻ったのに何も出来ないなんてことになれば穣にも教授にも顔向けできない。
「家にいなさいよ」
私は穣の家へと走った。私は最近走ってばっかりだ。
ピンポーン。
インターホンを押す。だが返事はない。もし穣が家にいるなら突然の来訪者に驚き、そして絶対に外に出るだろう。この世界ではイレギュラーなことをする人間は否応なくこの現象に巻き込まれていると考えていいからだ。
「ったく、どこに行ってるのよ」
外出している場合を考えていなかった。時間が戻っても会えるとは限らない。普通なら学校に行くだろう。もしくは家でだらだらしているはずだ。しかし、今の状況は普通ではない。そんな状況では穣であってもいつもどおりではいられないはずだ。死が迫ってくる。どうあっても逃れられない。そんなことになれば落ち着けず、つい動いてしまうだろう。
それはまるで亡霊のように。
一体どこにいるのか。穣が行きそうなところは……。心当たりはある。穣にとって戻りたい日常を体現したような時間。みんなと過ごした時間。それが一番如実に現れていたのは。
「美術館」
あのときの彼は少し浮かれていたように思う。なんせ電車でICカードと話していた。途中にアクシデントがあったとは言え、金井という友人が現れた時、彼は嬉しそうに見えた。全部憶測。全部想像。でもそれ以外考えられない。私は駅に向かった。不思議と汗は気にならなかった。
「やっと見つけた」
美術館の椅子に座っている負のオーラを漂わせる男を見つけた。その声にリアクションを示さない。目に見えて疲弊している。現実にいるのに存在感がない。触れるだけで消えてしまいそうだ。そんな霧のような霞のような男の前に立つ。
「下手に動かないでよ。見つからなかったらどうするのよ」
悪態をついていた。私だけでも強くあろうとした。この男の前ではいつもどおりであり続けたい。それだけだった。
「仕方ないわね」
私は座っている穣を抱き締めた。これでリアクションがなければ一発殴ってやる。そう思った。
「……」
呼吸の音すらか細い。もしかしたら既に死んでいるのか。体温はあるが、肉体ではなく心が死んでいるのかもしれない。そうなっては私の手で救うことは出来ない。
すると彼はゆっくりと手を動かした。まるで縋る様に。何かを求めるように。
「ひゃっ」
ふにっ。
手が私の胸に触れる。突然のことで変な声を出してしまった。恐らく触ろうとして触ったわけではない。これは我慢しなければ。
ふにっふにっ。
あからさまに揉んでいた。私は反射的に手を払い退け、渾身のエルボーを頭にぶちかましていた。
「何すんのよ!」
頭に衝撃を受けた彼は夢現な目にはっきりと光が宿った。
「……おいおい。弱った男には身も心も捧げる準備くらいしておけよ」
いつもの穣がいた。まだ弱々しいが、すぐに元に戻るだろう。まだ完全には死んでいなかった。
「死にそうな顔して何言ってるのよ」
「あれから結構経つからな。結構ボロボロなんだ」
穣の声はとても小さかった。私にとってはつい二日前のことでも穣にとってはかなり時間が経っているらしい。それに伴い穣は死んでいる。それでまだ正気でいるのだから好ましい状態ではあるようだ。
「ところでなんでここにいるのよ。何か理由でもあるの」
「ここにいるときが一番落ち着く。それに死ぬまでの時間が不思議と長いんだ」
死ぬまでの時間が長い。つまり遊園地で過ごした時間。それに日がな寝続けた時間よりも長く生きられるようだ。ということは日を跨ぐ可能性が一番あり得るということ。それは彼が救われるには重要な事だった。
「教授が言っていたこともあながち間違いじゃないようね」
相対性理論の曲解。好きな事をすると時間が速く感じる。体感時間が短いお陰で本当の時間が長くなっている。この世界では幸せを感じれば、元の世界に抜け出せるのかもしれない。
「頭が痛いわね」
元の世界でのそれらは時間を短くしていた。そのお陰で過去に戻ることが出来たと言うのに。今度はそれで未来に進もうとしている。かなりあべこべだ。
「ん? ということは……」
一つ気掛かりなことがあった。普通なら気付かなくとも良いところだ。
「私との遊園地が美術館に負けてるってこと……いや、それは別に良いけど寝ていた時よりも劣るってこと」
ギクッ。
穣の体がこれ見よがしに動いた。そんなオノマトペを体現することが出来るものなのかと感心してしまう。しかし、それよりも正論を言われたようなのが気に掛かる。
「いやまぁ、だって乗り物酔いにフードファイトだったし。それでげぼってたからその分が差し引きされたんじゃないか。いやぁ、暁との時間だけだったら抜け出せてたかもなぁ」
はははと乾いた笑いを浮かべる穣。実にわざとらしいが確かに振り回してボロボロにしていた自覚はある。それは反省しなければならない。
「それなら、ここで私と過ごせば万事解決じゃない」
少々自惚れが強いが、さっきの言動から考えるとそういうことになる。今この状況は彼が一番幸せに感じる条件が揃っていると言っていい。
「そうなるな。じゃあ、デートでもするか」
いつもならデートじゃないと言い張るところだが、せっかくの気分に水を差すのも悪い。私は穣が望むことをしてあげることにした。
「ちゃんとエスコートしなさいよ」
そう言って足取りがおぼつかない穣と一緒に館内を回った。一枚一枚説明してくれたおかげで時間はだいぶ潰せそうだ。それに近くにレストランもあるから昼食には困らない。昼食を終えてからはまた絵を見て回った。そのお陰でだいぶ時間が経っていた。
「この絵は不思議な感じね。タイトルは接吻」
色彩が他のものとは違う感じがした。この絵には幸せが溢れているように思う。
「クリムトの一番有名な作品だな。自分と彼女をモデルにして書いたものだ。一見すると幸せそうだけど、その構図から不安を予見させる」
パッと見ただけではそこまでは分からないが、そうなのだろう。言われればどことなく形に違和感を覚える。
「じゃあ、今の私たちにはぴったりかもね」
何気なしに発言したが、ふと我に返った。それが告白の様にも取れると気付いたからだ。しかし、撤回すれば真実味が増してしまう。失言だ。
「う~ん、それよりかはこっちの方が合ってるかな」
そう言って穣は別の絵を見ていた。先ほどと似たような雰囲気だが明らかに異質な感じを漂わせていた。
「死と乙女」
タイトルから既に不穏だ。それに逃れられない死の空気が穣と重なる。似ていると言った方がこんな絵なんて。先ほどまでの私の葛藤はなんだったのだろうか。
「シーレはクリムトと師弟関係だから近くに置いたのかな」
冷静な分析ありがとう。だが、そんな冷静さが鼻に付く。ここはこいつにも私のように取り乱してほしい。何か良い手はないものか。
「穣はキスしたことある?」
「えっ」
即興にしてはどうやら効いたらしい。先ほどまでの余裕は微塵もなかった。と言っている私もかなり動揺している。私はなんといやらしい女になってしまったのだろう。
「キスは……小学生のときに奪われたな」
穣の答えは意外なものだった。小学生? 奪われた? そんなに進んでいたのか。この国の行く末が不安である。むしろ少子高齢化な社会にとっては喜ばしいことなのか。私に判断はつかない。
「へぇ~そうなんだ」
「その子も驚いてたけどね。まぁ子供のすることだしノーカンだろうけど」
務めて冷静に相槌を打てたように思う。私は女優向きかもしれない。
「暁はどうなの?」
「えっ」
思わぬ反撃が来た。どうしよう。だが、この歳でキスしたことないと言うのは少し恥ずかしい。それが私の間違いだった。
「もうしまくりよ。初めては私も小学生だったかなぁ……もう挨拶みたいなものよ」
「そうか、なら。大丈夫だな」
その言葉の意味を理解する前に私の唇が何か触れていた。近くに穣の顔があったから、すぐにそれがなんなのかわかった。
「いやっ!」
私は唇を抑えて穣と距離を取っていた。不覚にも目の端に涙を溜めていた。
「あれ、ちょっとやり過ぎたかな」
キスしてきた穣本人も驚いていた。
「私の初めて……色気の欠片もなく」
白馬の王子様に奪われる予定だったのに。大事に取っておいたのに。
「挨拶みたいなものじゃ……」
「……」
「やりまくりなんじゃ……」
「……」
「まぁ、冥土の土産ってことで」
「ダメよ!」
私は大声を出していた。傍から見たら情緒不安定な女に見えるかもしれない。でも、それでも穣のその発言には納得できない。
「私とキスしたんだから責任を取りなさい。勿論、元の世界で」
そうでなければ唇だけ奪われるという結果だけが残る。そんな不名誉なことがあるだろうか。もしかしたら、穣は自分さえいなくなればノーカンとでも思っているのか。もし、そうなら引きずってでも連れて帰る。そして、試験で負かしてやるのだ。私はその為に来た。そう言っても過言ではないのだから。
「うん、そうだね」
穣はそれ以上何も言わなかった。
「閉館のお時間になりました。お客様はお忘れ物のないようにお帰り下さい。本日は本当にありがとうございました」
「もう終わりね。帰りましょう」
いつの間にかそんなに時間が経っていたようだ。携帯を見ると八時を迎えていた。いつもなら穣が死んでいてもおかしくない時間だ。穣はそのことに気付いても、いつもどおりに振る舞っている。だが、どこか落ち着かない。良かった。もしここで本当にいつもどおりだったら、それは死に慣れたということ。もしそうなっていたら、元の世界に戻っても普通に生きることは出来ないだろう。生物にとって死とは恐怖の対象でなければいけない。それと友達になってはいけない。いくら友達が少なくても友達は選ばなければいけないのだ。
「もしかして、結構失礼な事考えてる?」
「えぇ、そうね。多少は」
「やっぱりそうか」
ひとまず穣が無事なことが分かれば十分だ。これ以上ここにいては美術館に迷惑を掛ける。私たちは早々に帰ることにした。
♠
「あと二時間くらいで日付が変わるわね」
「そうだね、それを乗り越えたら祝勝会でもしようか」
いつもなら不安と恐怖に押し潰されそうになるだろう。だが、隣には暁がいる。それだけで随分救われる。俺はこれ以上彼女に何を求めているのか。リビングのソファでただ時間が過ぎるのを待つ。いっそベッドで眠ってしまえれば考える必要もないのだが。
「じゃあ、私はもう寝るわね」
「えっ、あれ? このまま一緒に夜を明かすんじゃ」
どうやらただ待つだけでは退屈なようだ。それならいっそ寝る方が良い。そう思ったとしてもおかしくない。おかしくないんだけど。
「穣も早く寝なさい」
「あぁ、そうする」
暁は以前使った両親の部屋に向かった。俺も自室で一人になる。思えば一人なのは当たり前なのに離れているだけで寂しくなる。そして、彼女だけが元の世界に戻り、俺が一人孤独な世界に残る。それでもいいが、ここまで来たら欲が出てくる。暁と一緒に帰りたい。その世界に何もなくても。普通でも。今の俺ならそれを幸せと呼べる。その自信がある。
「以前の俺が聞いたら驚くだろうな」
ベッドで横になって天井に話し掛ける。まるでそれが板についた気になっているが、ただの高校生の痛い行動だ。大目に見て貰いたい。そうしなければ、暗い闇に飲み込まれる。また俺は死ぬのだと諦めてしまう。それではここまでやってくれた暁に申し訳が立たない。
「ははは、こんな状況でも眠くなるのな」
近くに暁がいるからだろう。俺は安心している。そして、経験から言うと俺の家は火の海に包まれるだろう。そのときは暁だけでも助けよう。そう、心に決めていた。
「はっ!」
少し意識が飛んでしまった。時間は十一時半を示している。今までの中では最高記録だ。あながち俺の心情によって変わると言うのも嘘ではない。というか頷ける。俺はただ好きな事をやっただけだ。
「「いやっ!」」
しかし、あれだけは頂けない。売り言葉に買い言葉というか。暁が嘘を言っていると分かっていたのにいじわるをしてしまった。子供かよ、俺は。
「十五はまだ子供……だよね」
二十までは子供扱いだ。それもどんどん引き下げられていくのだろうけど。
チッ。チッ。チッ。
時計の秒針の音が聞こえる。目覚ましはデジタルだから本来音は聞こえない。だが、その音が俺の耳には確かに聞こえていた。もうすぐ、もうすぐやってくる。
死の足音が迫ってくる。俺はそれに抗ってやろう。最後の悪あがきだ。
ウーーーウーーー。
サイレンの音が聞こえた。こんな時間にパトカーとは珍しい。しかもかなり近い。
「近いというか。家に向かってる」
俺は音の出所を探す。窓からだと赤い光しか見えない。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。もしかしたら警察に発砲でもされるのか。確かに同級生の女の子と同じ屋根の下にいるが。せめて補導程度であってほしいものだ。とりあえず無視するわけにもいかず、俺は玄関のドアを開けに行った。
「はい」
「通報ありがとうございます。未然に犯罪を防ぐことが出来ました」
「はい?」
通報? 一体誰がしたんだ。勿論、俺ではない。
「私よ」
暁が階段から下りてきた。てっきり熟睡していると思っていたが、まだ起きていたようだ。それにしても通報しただけで犯罪を未然に防いだのか。警察は事件や事故があってからでないと動かないとばかり思っていた。
「ったく、俺の名前を出すなんてやってられねぇぜ……今日は娘の誕生日だってのに」
髭面のいかにも警察にいるようなキャラクターだった。スーツはよれよれで強面の仏頂面。
「あなたが本当に困ったら使っていいって言ったんでしょ。娘に似てるから特別だ。とか言って」
「相変わらず怖いもの知らずだな。俺はそのお陰で振り回されっぱなしだ」
どうやら暁と知り合いらしい。変な人脈があるものだ。
「まぁまぁ、そのお陰で連続放火魔を捕まえたんですから」
下っ端の刑事がどうどうとなだめている。本当に典型的だな。新人とベテランが組むバディっていうのも。
「お礼を言っておくわ。娘さんの誕生日に悪かったわね。これでますます険悪になりそうだわ」
「うるせぇよ。まだ一緒に洗濯物洗ってるわ」
それが刑事さんなりの精一杯の好かれているポイントなのだろう。涙ぐましい。
「じゃあ、僕たちはもう帰りますね。失礼しました」
そう言って嵐のように刑事さんが去って行った。一体何が起こっていたのだろう。下手なドラマを見ている気分だった。
「日付が変わったみたいね。これで一安心だわ」
「えっ、あぁ……本当だ」
五月一日になっていた。あれほど辛く長い苦しみがいとも簡単に終わってしまった。もしかしたら俺の生のパトカーを見られた感動で乗り切ったのかもしれない。
「あっ……」
暁が不穏な声を上げた。まだ何かあるのだろうか。
「どうした? トイレならそこだぞ」
「そうじゃないわよ。ヤバいわね、てっきり忘れていたわ」
また何か大きな問題が発生したのか。火事じゃないなら次は何だ。雷でも落ちるのか。
「寂しいなら一緒に寝てやろうか」
「違うわよ。そうじゃなくて、私たち二人が学校を無断で休んでいることよ」
なんだ、そんなことか。それが今更なんだと言うのか。些細な問題だ。
「あなたのお友達のせいで色々噂が立っているかもしれないわ」
そこまで言われて俺も気付いた。学校の生徒が二人休んでいる。しかも、噂の渦中にあった二人だ。愛の逃避行。そんな記事が学校の掲示板を埋め尽くしていることだろう。
「さすがに金井でもそんなこと」
「「しますよ」」
……するな。想像の中でも肯定してきやがった。なんて奴だ。
「そのときは手でも繋いで一緒に登校するか」
「嫌よ。元の世界に戻ったら私たちは敵よ。試験のこと、忘れてないでしょうね」
試験の件? はて何だったかな。あぁ、確かテストで暁に負けたら退学する話だ。そうだ、そんな約束をしていた。
「そっか、俺退学するのか」
前途多難だった。折角解放されたのに、どうやら神様は俺に試練を与え過ぎている。
「そうじゃなくて、私たちの約束よ。負けたら言うこと聞くやつ」
あぁ、そんな約束もしていたな。でも負けた時点で俺は退学になるし、その上で何かさせられるのか。オーバーキル。死体蹴りも良いところだ。
「まぁ噂も試験もなんとかなるだろ」
俺にとっては些細な問題だ。さっきまで生き死にを体験してきたのだから。
「私はもう寝るわね。明日は勝手に学校に行くから」
「おぉ、たっぷり休んでいけ」
暁は両親の部屋に戻った。俺は自室に戻った。そして、元の日常に戻った。
「で?」
「で? って、それで終わりですよ」
久しぶりに来た場所で久しぶりの相手と会話していた。
「えっ、それで乗り切ったの? もっと何かあるんじゃないの。火の海と化した空間で彼女は言う。こっちから逃げられるわよ。しかし、俺は彼女を巻き込むわけにはいかない。しかし、もう死ぬのは嫌だ。彼女と共に逃げるか。それともまた自分の命を断つか。みたいなさぁ」
「そんな映画みたいな展開にはならないですよ」
既に映画染みた展開を繰り広げておきながら、どの口が言うのか。そんな視線を向けられる。
「まぁ、それは置いておいて結局何が君を救ったのかな」
どうやらそれが気になるらしい。確かに聞いた話を想像するよりも当人に直接聞く方が正解に近いはずだ。俺は頭を悩ませる。
「う~ん、そうですね。やっぱり暁に全て持って行かれましたね。自分だけだったら多分ずっとあの世界で死に続けて。そして、本当に死んでいたんじゃないかと」
真実を伝えていた。恐らく、間違いようのない事実。俺は暁に救われたのだ。
「君は人を頼ることをしないからね。僕に救いを求めたのも夏目君だったようだし」
教授はコーヒーを一口飲んだ。少し残念がっているようだ。
「それに、君と話をしたいと思っていたのに結構時間が経ってるし」
「色々片付いた後の方が気持ち的に楽だったので」
確かにもう夏休み前だ。季節が移り変わりつつある。その間、何度も呼ばれたが結局行かなかった。
「それで君は変われたのかな?」
教授は問う。俺はそれに答える。
「変われた、と思います。少なくとも今が幸せだと、そう言うことは出来ます」
美術館で男に問われた時は言えなかった言葉だ。それを言えるようになっていた。
「それは良かった。ところで、僕は絵にはあまり詳しくないんだけど。その男が言ってきた絵はどういう意味だったのかな。大方の当たりは付けているんだろう?」
やっぱりそこが気になるか。この不可解な現象自体の答えを知ることは出来ないだろう。しかし、ヒントらしきものはその男が言っている。理解出来ないまでも都合のいい解釈が出来るといった算段だ。
「快楽の園ですね。あれは右に読む三コマ漫画みたいな絵画なんですけど、その右側は地獄を表しているんです。で、男が言った一番右というのは地獄自体のことではなかったんだと思います」
あくまで予想だ。これが正解だとは断言できない。
「男が言った一番右というのは地獄の更に右。つまりはベッドで横になる怠惰に過ごす人。それを俺に伝えたかったんじゃないかと」
「怠惰。七つの大罪か。その一つを君に指摘したんだね」
教授の言うことは正解だろう。しかし、それだけではないと既に感じている。
「それと、あの絵は扉絵のようになっていて、閉じることが出来るんです。閉じると天地創造の絵。つまりは地球の絵が現れます」
ここから先は俺の想像だ。絵の解釈など、どうとでも出来てしまうのだから。
「地球は自転しますし、よく万物は流転するなんて言葉も聞きますからね。それを絵に当てはめると……」
教授はそれだけ聞いて納得していた。俺の言わんとすることを理解したようだ。さすが教授だ。話が速くて助かる。
「つまり地獄で終わりではないということだね」
「そう、なんだと思います。これはエデンと現世、そして地獄は繰り返される。地獄からエデンや現世に戻ることが出来るんじゃないかってことです」
実に都合の良い解釈だ。有り体に言えば、四コマ漫画で見る無限ループと同じだ。最後のコマから最初のコマへ。これはそれと同じ理屈だ。
「現世で怠惰な君を無理やり地獄に送って再起を図る。その男も随分荒療治なことをしたもんだ」
まったくもってその通りだ。下手したら地獄で終わりだった可能性だってあり得たのだ。それを平然とやってのける相手には何を言っても無駄だ。
「その結果もあってだいぶ力も治まったようだね」
やっぱりこの教授は凄い。謎の男が会いたがらない理由がよくわかる。もしかたら、それこそ天地を揺るがす出来事になるのかもしれない。
「そうですね。机の奥底に閉まった感じです。無理に開けなければ自分を殺さなくても大丈夫になりました」
死に過ぎた副作用のようなものだ。それ自体が男が望んだことだろうけど。
「また再発したら地獄に行くのかな。万物は流転するらしいし」
「やめてくださいよ」
嫌な冗談だ。それが冗談と言える現世にいる。喜ばしいことだ。
「ところで、夏目君とはもう付き合っているのかね?」
「ぶっ!」
つい吹いてしまった。いや、当然の疑問か。さっきの話よりもこっちの方が気になる人が多い。もしかしたら、さっきのはただのおまけか。
「キスはしましたが……あれ以来特に何も」
あの後から臨戦モードとなった暁とはそんな甘い空気すら流れなかった。避けられていたのか。忘れてしまったのか。恐らく後者だろうなぁ。
「じゃあ、付き合えてはいないんだね」
「あの暁ですからね。付き合おうなんて言った日には愛想を尽かされるんじゃなかと」
そう思ってしまう。下手に言い寄ったら嫌われるかもしれない。恋の駆け引きが全く分からなかった。
「君はもっと夏目君を。いや自分自身を知るべきだね」
教授が少し呆れている。この人にはもう答えが分かっているのかもしれない。
「相手を知り自分を知る。愛を知ってIを知る、なんて言い得て妙じゃないかね」
ここに来てのオヤジギャグ。しかもバイリンガル。
「愛なんて分かりませんよ。それこそ虚数じゃないですか」
そう言って墓穴を掘ったことに気付く。誰しもが一度は思うことだ。
「尾崎君のiと夏目君のi。その乗算で愛が現実になるんだね」
今の教授はちょっと面倒臭いぞ。というか完全におちょくりに来ている。俺は何とか言い負かせられないか考える。
「でも、それじゃ実数になってもマイナスじゃないですか」
「よく言うだろう? 結婚は人生の墓場だってね」
なるほどマイナスからのスタートか。結婚は一緒に幸せになるものじゃなく、一緒に不幸になるものと考える。その上で相手と一緒に不幸になれるかで愛を測るのか。言い負かされたのは自分の方だった。哀。
そのとき研究室の扉が開いた。この部屋に入ってくるのは一人しかいない。
「あっ、穣いたわね」
夏目 暁。その人である。
「どうした?」
俺はいつも通りに接する。
「どうした? じゃないわよ。あなたがくれたこの首輪のせいで変な目で見られるのよ」
暁は首にチョーカーを付けている。傍から見たら首輪と大差ない。
「暁は犬なんだから大丈夫だろ? というか、人間の声が聞こえるなぁ~」
このときの俺は最高に下卑た笑みを浮かべていることだろう。なんせあの暁が言い成りなのだから。
「くっ」
そのリアクションが更に俺を下種にする。もとい興奮させる。制服とチョーカーは思いの他合っている。
「わ、わん……」
そう言って暁は四つん這いになっていた。なんだこの高揚感というか背徳感。こんなものがまだ世界にはあったのか。生きていて良かったと痛感する。
「犬ならご主人様の顔とか舐めるんじゃないか」
言ってさすがにパンチかキックが飛んでくることを覚悟した。人には越えてはいけないラインがあるのだ。
「わ、わん……」
暁が俺の膝に跨る。その表情からパンチが飛んでくることはなさそうだ。暁の顔が俺の顔に近づいてくる。えっ、もしかして。もしかしなくても。そういうことか。そういうことなんですか。言った俺自身が動揺している。
ちろっと赤い舌を暁が出している。恥ずかしげな顔が更に俺の背徳感を怒張する。俺の顔を舐め、舐め、舐めちゃうの?!
ガタン。
そのとき一際大きな音が響いた。そういえば忘れていた。この部屋にはもう一人いたのだった。
「えっ……もしかして、教授ですか」
暁は俺の膝から離れ、資料の山に話し掛けていた。
「これで付き合ってないって言うのかよ!」
それは教授の言葉と言うよりは全世界の男子の声だろう。教授はその代弁をしていた。
「これは、その、あれです。ただの罰ゲームと言うか。遊びと言うか」
暁は慌てふためいている。まぁ、確かにわんわんプレイをお世話になった人に見られたら恥ずかしくて死にたくなるだろう。俺は知らずに手を合わせていた。南無。
「いやぁ、久しぶりに滾ってきたよ。今日はもう帰るね。今から娘に弟か妹をプレゼントしなきゃいけないから!」
その言葉と共に教授は脱兎の如くいなくなっていた。兎は万年発情期である。
「行っちゃった……」
教授の慌て様に暁は冷静さを取り戻していた。かくいう俺も冷静になっていた。
「あの、その……あれだ。嫌ならもうやめていいぞ」
俺はこの理不尽な関係を終わらせようと提案していた。
「えっ、この首輪も返さないといけないの」
暁が何を言っているのかわからない。そんなもの外して然るべきだろう。
「一応、これが穣から貰ったものだし……」
なんと可愛いことを言ってくれるのか。俺はこんな純粋な人を性欲の捌け口にしようとしていたのだ。死にたくなってくる。いや、死にたくはない。
「それはあげるよ」
俺はつい口に出していた。明日から夏休みだ。それなのに制約を付けては可哀想だ。暁には助けて貰った恩もある。
「へへへ、やった」
嬉しそうに笑う暁が眩しかった。窓からは夕日が差し込む。俺の胸のバッジがきらりと輝いていた。