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愛を知ってIを知る  作者: 餅巾着
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中編

「時間通りに来れたわね」

「あぁ」

 事情聴取が終わり、電車に揺られること二駅。駅近のよくわからないモニュメントの前で金髪美少女が待ちわびていた。

「ごめん、美羽待った?」

 暁がデートで駆けつけるイケメンのように爽やかに小走りで歩み寄る。その後ろでポケットに手を突っ込んだ男がゆっくりと歩き出す。紛うことなき美男美女カップルにやっかむ変質者こと俺の登場である。

「いいえ、今来たところですよ」

 優しい笑顔で暁に応対する美羽の姿はいつも通りの制服姿ではあったが、場所が変わるだけで随分と印象が変わるものだ。今まで当たり前だった制服姿がすごく似合っている。

「ふむ」

 腕組みをして二人を見守る俺をよそに二人は仲睦まじげに話をしている。

「そんなこと言って」

「あっ」

 暁が美羽の持っていたスマホを取り上げる。

「既にバッテリー残量が九十パーセント…三十分前ってところかしら」

 暁は美羽のスマホのバッテリー残量から美羽が着いた時間を推測した。なんだ、その確認方法。イケメン過ぎるだろう。だが、勘違いしてはいけない。これを俺がやったらダメだということを。何事もやっていいのはカッコいい奴と相場が決まっているのだ。

「もう……暁さんには適いませんね」

 髪を耳に掻き上げ、笑顔を見せる美羽に周囲の人々はざわつく。チルドコーヒーが斜めになっていることに気付かずに零している人もいる。俺はそんな二人の光景を口を開けて見ていた。

 これから美術館に行くのにルーベンスの絵でも見た気分だ。いや、ルーベンスの良さは豊満な女性の肉体美にある。それでいうと服を着ている二人には当てはまらない。

「ふふふ」

 笑顔を見せる美羽を見て思う。今はそんな些細な事良いではないかと。美しいものに理屈や理論は必要ない。ただ目の前のある情景を目に焼付けようではないか。

「君」

 そう、必要なのはありのままの美しさだ。かの美術家達はこの目に映る美しさをそのまま絵に残そうとした。カメラという近代技術がない王族達は自分たちの姿を後世に残すことに躍起になっていたのだ。画家の力量が自分たちの力量となり知名度となる。今知られている歴史的偉人の周りには否応なく有名な画家たちの姿があったのだ。

「どれ、俺も一枚」

 俺には絵の才能はない。ならば、最先端の技術に頼ろうではないか。普段使わないカメラを起動し、写真を撮る。

 カシャ。

 オーソドックスなカメラのシャッター音が鳴る。この写真はあとでプリントアウトしよう。この良さを後世に伝えるのだ。

「盗撮容疑で逮捕する」

 いつの間にか近くにいた警察官に後ろ手に関節を決められる。なんだなんだ、俺は友人達の写メを撮っただけだぞ。一体、何の恨みがあるというのか。

「暁、美羽。助けてくれ」

 俺の言葉でこちらを振り返る二人。だが、その目は慈愛に満ちていた。ふざけていると思われたのか。二人は笑顔でこちらに手を振っている。そして、俺は悟った。これはお別れの挨拶なのだと。そして、俺は再び警察署にカムバックしたのである。


「ぐすん」

「ごめんなさい。てっきり遊んでおられるのかと」

「男が泣くんじゃないわよ」

 椅子の上で体育座りをする俺に二人は優しく話し掛けてくる。そんな見せかけの優しさに俺はなびくわけにはいけない。

「ほ~ら、飴ちゃんですよ~」

「許す」

 美羽は小さい子をあやすようにぺろぺろキャンディを差し出してきた。それを即座に受け取る俺。そんなものをどこから取り出してきたのかが気になるが、このまま拗ねていても仕方ない。

「というか時間なのにあなたの友人は来ないのね」

 暁は類は友を呼ぶと言いたげな顔で俺に言う。ちょっと待て。俺は一時間前行動をしていたのだ。それをあいつと一緒にするんじゃない。

「あら、尾崎さんの携帯が光っていますよ」

「えっ?」

 ポケットの携帯が光っていた。そんな機能が付いているのか。あまり使ってこなかった弊害だ。ひとまず携帯を手に取ってみる。

「もしかしたら、金井さんからの連絡かもしれませんよ」

 どうやら連絡が入って点滅していたようだ。鬱陶しくてマナーモードが常時だと気付かないものだ。

「よっと」

 携帯のロックを外す。もっともパスワードは設定してないから画面を横にスワイプするだけだ。その画面にはメールが一件来ていた。しかもメールが来たのは警察に事情聴取されていたときだ。あのときは色々あって携帯に見向きもしなかった。

「で、どうなのよ」

 暁が催促してくる。その声に俺は答える。

「あいつ、来られないみたいだ」

 俺の言葉に暁はやっぱりねみたいな顔をし、美羽は残念そうな顔をしている。

「事故とか事件じゃないならいいわ」

 暁にしては相手に配慮した言葉を選んだ。それもそうか。仮にもこれから遊びに行こうとするのにわざわざ空気を悪くする必要はない。そう踏んだのだろう。

 下にスクロールすると文章が続いていたので、それを読み上げる。

「えっと、なんでも“どうしても美術館に行きたいと言われて季節外れのコートとハットの男に渡してしまった”らしい」

 その文章を読み上げて、俺と暁は顔を見合わせた。

「それって……やっぱりあれなの」

「ここまでピンポイントな特徴を持つ奴はいないな」

 蚊帳の外になってしまった美羽は首をかしげる。その仕草のひとつひとつに女の子らしさを感じる。

「どうせだから、近くに出来た遊園地に行こうかしら」

「非常に残念だが、それも致し方あるまい」

 俺達二人の意見が一致したところに美羽が一際大きな声を上げた。

「ダメです!」

 その声に俺と暁は驚く。今日は驚くことが多い。

「どうしたのよ、美羽。近くの遊園地の方がきっと楽しいわよ」

 暁は美羽をなだめるように正論を言う。確かに美術館は少し年齢層が高いイメージがある。それよりもジェットコースターや観覧車に乗った方が楽しいしアクティブだ。大声だって出せて盛り上がるだろうし。もっとも付き合って間もないカップルはその待ち時間の沈黙のせいで別れるというジンクスもあるようだけど。

「だって、初めて友達から誘われたのですもの」

 美羽の言葉は意外なものだった。

「暁さんが私に行こうと言ってくれたものですから。変えたくありません」

 その言葉の真意がどこにあるのかはわからない。でも、それでも理事長の娘として複雑な人間関係だったのは間違いないだろう。近寄ってくる者は自分を利用しようとしているかもしれない。そんな疑心暗鬼な世界で唯一、自分の友達になってくれる人がいた。その人が行こうと言ってくれた予定を変えたくない。以上、俺の推測でした。

「それに……せっかくタダで行けるのに勿体ないじゃないですか」

 てへっと舌を出す美羽。暗くなりそうな雰囲気が一気に明るくなる。

「確かに学生じゃ咄嗟に遊園地に行くには手持ちがないわな」

 俺の財布事情を述べておく。少々格好が悪いが、美羽の気持ちを優先してやりたい。暁も同じ気持ちのようだ。

「仕方ないわね……でも、美羽。季節外れのコートとハットを身に着けた男には近寄っちゃダメよ」

 それだけ言うと暁は美術館に向けて歩き出した。

「暁さんも冗談を言うのですね」

 美羽は暁の背中を追う。どうやら冗談だと思っているようだが、そこは訂正しないでおこう。あれは口で説明するよりも一度見た方が良い。百聞は一見にしかずという言葉もある。実際、あれが何なのかは説明出来るだけの語彙力を持ち合わせていないのが現状だ。

「ったく、金井の奴。余計な厄介事増やしやがって」

 そのお陰で暁と美羽の仲がより深まったように見えるし、案外悪くない案配だったのかもしれない。単純に俺達とあの男を引き合わせた方が面白いと本能的に感じ取ったんだろうけど。

「早く行くわよ」

「遅いですよ、尾崎さん」

 先の方で手を振る二人。さっき警察に厄介になったときとデジャヴを感じながらも、二人の後を小走りで追った。


「ここが美術館ね。いかにもな雰囲気だわ」

 暁は建物に入るや否やそんな感想を漏らしていた。学校でも似たような設備や施設はあるはずだが、そういうところには近寄ってこなかったようだ。

「そうだな。気分が落ち着くというか。頭が良くなったような気さえする」

 こういうところに来ると何故か知的になった気になる。周りの人間達も外で見るよりどこか賢そうだ。場酔いというやつだろう。

「あそこにお土産コーナーがありますよ」

 入ってすぐにあるお土産コーナーが美羽は気になるらしい。限定品は恐らく奥の方にあるお土産コーナーにあるだろうが、ここで軽く雰囲気を楽しむのも悪くない。

「ポストカードって使いどころわからないのよね。こういうのって蒐集して楽しむだけなのかしら」

 暁は有名な画家が描いた絵がプリントされているポストカードを見ている。確かにポストカードを買おうという気持ちにはならない。まだテナントの方が魅力的である。あと木刀とか。なんか買いたくなっちゃうんだよな、あれ。

「尾崎さん。尾崎さん」

「ん?」

 美羽に呼ばれ、声のする方向を見ると、そこにはモナリザがいた。

「ふふふふ」

 美羽がクリアファイルで顔を隠していた。こういう茶目っ気があるのが美羽の恐ろしいところだ。危うく抱き締めてしまうところだった。クリアファイルの後ろから軽く舌を出した美羽が現れた。

「モナリザより可愛い子が現れた」

「まぁ、尾崎さんったらお上手」

 お座敷遊びに興じるエロ……偉い人の気持ちがわかった。

「穣」

「ん?」

 声のする方を見ると、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢がいた。

「可愛い結婚したい」

「え」

 反射的に出た言葉に暁がたじろぐ。てっきり何をやっているんだと言われるとばかり思っていたのだろう。そこをあえて避ける高等テクニック……ただのあまのじゃくだった。

「……じゃーん、私よ」

 沈黙に耐え切れず、慣れないテンションで下敷きを顔から外す。慣れないことをするものじゃないわね。そんなことを考えている顔だ。

「おぉ、御労しや。こんなお姿になられて……」

「おい」

暁に内腿を蹴られた。痛い。ちょっと変な空気を元に戻しただけなのに。

「暁さんも女の子ですものね」

 美羽が笑っている。何を当たり前のことを言っているのだ。

「とっとと中に入りましょう。お店の人にも迷惑よ」

 先ほどまで遊んでいたとは思えない発言だった。だが、買いもしないのにお土産コーナーに居座るのは確かに迷惑だ。それも醍醐味といえば醍醐味なのかもしれないが。

「えっ、先ほど触ったものは買わなくてもよろしいのでしょうか?」

 美羽の発言にぎょっとする俺と暁。そうか、一応お嬢様だった。今まで普通に接してきたが、こういうずれもあるのだな。少しホッとした。

「いいのよ、美羽。こういうのは旅行に来てお土産に困ったとき用のものよ。しらふじゃ買えないわ」

「おいおい、そんな乱暴な言い方するなよ」

 俺は手にしていたポストカードをそっと棚に戻した。別に今の言葉で我に返ったのではない。荷物を増やして美術館を巡る労力が見合わないと判断したのだ。ポストカード程度の重さで労力と呼べるかは甚だ疑問だが。

「そうですのね。わかりました。ここは涙を忍んで買わないでおきますわ」

 忍ぶ涙があるのか。こんなに思って貰えるお土産達は本望だろう。俺は先ほど戻したポストカードを見る。

「……」

 特に何も思ってないようだ。俺に買われなくて良かったとさえ見える。悲しい。

「そういえばちゃんとチケット持ってきているわよね」

 暁に言われて、俺はポケットをまさぐる。チケットを貰った時は制服だったし、入っているはずだ。そのはずだった。

「あっ」

「嘘、忘れたの?!」

「冗談だ」

 俺はポケットからチケットが入った封筒を取り出す。リアクションにまんまと騙された暁は悔しいのか。再び、内腿に蹴りを入れてきた。

「痛い」

「反省しなさい」

「何故、内腿ばかり」

 そんな俺たちの問答を見ていた美羽がお腹を抱えて震えている。

「どうしたの、美羽。こいつに変な薬でも飲まされた」

「おい」

 女の子に変な薬を盛るなんて……そういう展開も嫌いじゃない。性には素直だった。

「いえ……ちょっと、可笑しくて……」

 美羽は息も絶え絶えになっている。そこまで面白かったか。美羽の笑いの沸点がわからなかった。

「ちょっと美羽泣いてるじゃない。大丈夫。はい、ハンカチ」

「ありがとうございます、暁さん」

 暁からハンカチを受け取り、目の端に溜まった涙を拭った。

「やっぱり、暁さんには適いませんわ」

「大丈夫よ、美羽。この程度の蹴り、三日あれば習得できるわ」

 良い音を鳴らし、的確に痛くない部分に当てる。まさに芸人顔負けの技術。それを三日でとは、末恐ろしい。

「美羽は美羽のままでいいんだよ」

 俺は何故こんな言葉を言ったのか、自分でもよくわからなかった。でも、言わなければいけない気がした。

「ありがとうございます、尾崎さん」

「えっ、なに。なんなのよ。ちょっと意味深じゃない」

 こいつうるさいな。今はそういう感じじゃないだろう。

「えっ、私だけ。私だけが付いて行ってない? 置いてけぼり?」

「暁さんは暁さんのままでいいのですよ」

「えっ、そうなの。わかったわ」

 暁はほっと胸を撫で下ろしている。こいつ意外に馬鹿なのかな。勉強出来るからって、頭が良いとは限らないようだ。

「流石に人が増えてきたし、早く中に入ろうか」

 いい加減、お土産コーナーの店員もこちらを見ている。そりゃ、コントやったり泣き出したりすれば嫌でも目に付く。早いとこずらかろう。

「行くぞ」

 美羽のハンカチを持っていない方の手を取る。

「えっ」

「ちょっ、何勝手に手を握ってるのよ!」

 後ろから暁の声が聞こえたが無視する。金井がいたら写真を撮られていただろうが、今は関係ない。純粋に楽しもうではないか。

「いい加減にしろ!」

「いてっ」

 暁が投げた携帯が内腿に当たった。何故、内腿ばかり。


「でかいわね……」

 暁が口をあんぐり開けながら、目の前の大きな絵を見ている。どうやら先ほどお土産コーナーで見たクリアファイルやポストカードと比べているようだ。あれはかなり小さくなっているからな。

「そのセリフは男の前では言わない方が良い」

「え? 何が」

 意図せずコンボが決まり心の中でガッツポーズをする。

「尾崎さん、どういう意味ですか?」

 美羽に聞かれ、たじろぐ。この二人に比べて俺は俗世に染まり過ぎってしまったのか。それとも親父に幼い頃から仕込まれた会話術が原因だろうか。少なくとも、意味を理解した上で使用するようになってからは俺のオリジナルブレンドなので原型は既にない。

 守破離という言葉がある。まずは基本に沿って学び、それを壊す。そして、そこから離れることで新しいものが生まれるという教えだ。型破りと言えば馴染み深い。もっとも親父がそもそも基本ではないので、型無しだが。

「男にとっては、普通の言葉でも興味を引く言葉があるってことさ」

 その言葉に二人は頭からはてなを出す。こいつらは頭が良いから馬鹿な話をしてこなかったのだろう。無菌室で育てられた二人にはどうかそのままでいてほしい。

「それにしてもなんでこの人は裸なの」

 暁が目の前の絵に疑問を持つ。絵には女性が手で胸を隠し、大きな貝に乗っている。これだけでもう分かる通り、サンドロ・ヴッティチェリが描いた“ヴィーナスの誕生”である。

「暁さん、誕生だから裸なのではありませんか」

 美羽が暁の疑問に答える。生まれたときに服を着ている人はいない。的を射ている。

「でも、誕生と言っても大貝に乗って島に上陸しているように見えるわよ」

 厳密には誕生とは呼べないとの暁の異議申し立て。確かにそうだが、もしヴィーナスの誕生を厳密に描いたら、それは男にとっては凄惨というか。こう、下半身がキュッとなる絵になることだろう。

「尾崎さん、この絵の説明をお願いできますか」

 美羽からお願いされると何でも教えたくなる。

「早く教えなさいよ」

 暁から文句を言われるとネットで勝手に調べろと言いたくなる。

同じ行動でも人によって感じ方や受け方が変わってしまうのだ。自分が嫌われないように注意しよう。そもそも人間関係が希薄だとその心配もないか。

「これはサンドロ・ヴッティツェリが描いた“ヴィーナスの誕生”という作品で、天から授かった愛をヴィーナスが届けにきたところを描いている」

 俺が喋り出すと二人は興味深そうに話を聞いている。もしかしたら、まともに俺が話しているのはこれが初じゃないか。基本的に変な奴に掻き回されていたからな。篠原兄弟と金井の姿を思い出す。だが、彼らはここにはいない。もういないのだ。自然と目の端に涙が溜まる。

「暁の言う通り、これは誕生ではなく浅瀬に打ち上げられたシーンだ。誕生とした方が聞こえが良かったんじゃないかな。それに帆立貝が生殖や豊饒を。左下のガマの穂は再生や多産を意味するし誕生といっても間違いじゃないよ」

 暁が自分の意見が間違ってなかったことを自慢げにしている。目をつぶって胸を大きく張っている。しかし、美羽の前では張っているか定かではない。胸囲の格差社会。

「それでは裸の理由ももしかしたらそれに起因するのかもしれませんわね」

 美羽が片手を頬に当てながら思案している。それについては断言できない。というか神話を描いた作品は基本的に裸だからなぁ。

「それにしても」

 暁はまだ疑問があるらしい。立派な事だ。

「寒くないのかしら」

「ブッ」

 思わず吹き出してしまった。そんなことは考えもしなかった。芸術という美しさがそれを隠していたのだろう。確かにそうだ。ガウンに春の花が描かれているから、季節は恐らく春だろう。まだ長袖を着ていても全然おかしくない。それなのに一糸まとわぬ姿。しかも、後ろから風を浴びせられているのだから、きっと寒いはずだ。

「くくく」

 ちょっとツボに入ってしまった。まさかそんなことを考えさせられるとは。やっぱり、こいつは面白い。天才になってもなお、基本はあの頃のままだった。

「ちょ、ちょっと! 何笑ってるのよ!」

 暁は不服そうな顔をしている。そんな暁を見て美羽は笑顔で言った。

「それじゃあ、寒くないように服を着せようとしていますのね」

 純粋とはこういうことを言うのだろう。子供が風で本のページがめくれる光景を見て、風が本を読んでいると思ってしまうような。俺だけが汚れているのか。いや、年相応だ。彼らがおかしいのだ。そこを間違えてはいけない。

「というか、この辺全体的に寒そうな人ばっかりね」

 暁が周りを見渡しながら、そんなことを言った。こいつが勝手にルネサンスのコーナー。しかも、神話をモチーフにした区画に来たので当たり前だ。

「まぁ、それは冗談ですが……美の女神と称されるだけあって、とても美しい女性ですね。同じ女性として憧れてしまいますわ」

 冗談だったのか。てっきり本気にしたのかと柄にもなく焦ってしまったぜ。

そんな美羽を見ると綺麗な金髪がヴィーナスと重なって見えた。

「美羽はこのヴィーナスと似てるよな」

 きめ細かい金髪がとてもよく似ている。もし、ヴィーナスをキャスティングするなら、誰もが美羽を選ぶだろう。周りにいる客たちも絵画の前にいる美羽を見ている。まるで、絵から出てきてしまった光景を目の当たりにしたような。その幻想的な光景に誰もが見惚れていた。

「そんな、恥ずかしいですわ」

 美羽が恥ずかしそうにするとますます絵に寄っていく。このまま絵の中に帰ってしまいそうだ。そんな彼女をただ見ていることしか出来ない。

 そんな空気をある人物が壊す。

「えっ、全然似てないでしょ。あんた美羽のどこを見てるのよ」

 暁はそう言いながら美羽の後ろに回る。一体何が始まろうとしているのか。俺と美羽は黙って暁の方を見る。

「これよ、これ。これがその絵にはないでしょ」

 暁は美羽の胸に手を当てる。手ブラというやつだ。それも傍から見たら美少女の二人だ。その破壊力は凄まじい。

「プリマヴェーラ」

 自然と声が出てしまった。その言葉に意図はない。

「暁さん……」

 美羽がわなわな震えている。顔は下を向いているため、よく見えない。

「ちょっと、あちらによろしいですか」

 笑顔だが、その顔から怒っているのがわかった。さすがに異性の前で胸を触られたら美羽でも怒るようだ。

「冗談よ、美羽。少し落ち着いて」

 初めて見る美羽の姿に暁が怯えている。その姿を他人事のように見ている。

「いいから」

 美羽が暁の手を引いてどこかへ行ってしまった。その間、暁は何かを言っていたが効果はなかったらしい。南無。俺は手を合わせておいた。

「さてと」

 一人になって絵画を見て回る。やはり芸術に触れるのは一人に限る。決して暁と美羽が鬱陶しかったわけじゃないが、絵を見るタイミングはどうしても合わない。

一人でカラオケに行ったら好きな曲を好きに歌えるのと近い。もっともカラオケには久しく行ってはいない。

「これは」

 目の前に三枚のパネルの絵が広がっていた。人間と奇怪な生物がひしめきあっている。“快楽の園”と書かれた絵からは不安しか感じられない。好き勝手にしている人間の姿。しかし、それは全然美しさと呼べるものはない。人間の欲望による悪徳が如実に現れている。

「左は“エデンの園”で右は“地獄”か」

 ヒエロニムス・ボスが描いた作品。単純に言えば左から右へ読む三コマ漫画だと思ってくれていい。それにしては最後が凄惨過ぎるけど。

 まず左のパネルは“エデンの園”。その名の通りアダムとイヴが描かれており、地上の理想的な調和で描かれている。手前の池から何か這い出てきているのが、今後起きる何かを予感させてくる。しかし、この絵からはそこまで不安は掻き立てられない。

 問題はやはり“快楽の園”だろう。サイズからして、これが作者が一番伝えたかったことだ。快楽に溺れる人間の醜さ。それさえ分かっていれば、この絵も意味を持つ。

 そして、右のパネルの“地獄”。もはや言うことは何もない。その名の通りの光景が広がっている。欲望に対する贖罪。こんな世界にいたら命がいくつあっても足りない。いや、むしろ死んだ方が楽になるのかもしれないな。そんなことをふと思った。

「面白いねぇ」

 声のする方向に振り向いた。そこには季節外れのコートにハットを被った謎の男がいた。やっぱりいたか。金井のメールを見て、こうなることは確信していた。しかし、偶然一人になったときに現れる辺り何か因縁めいたものを感じる。

「この絵が面白く見えるなら眼科をおすすめします」

 不快感を隠しもせずに言った。これで多少なりとも相手が引いてくれれば万々歳だ。

「君はこの絵をどう見る」

 その男は俺の言葉など気にも止めていない様子だった。それどころか疑問を投げかける余裕の態度。気に入らない。声から察するにあまり歳は変わらないはずなのに。異常なほど落ち着いている。どのように生きたら、このような存在になれるのだろうか。

「人間の欲を戒める絵に見えますね」

 これ以上ないくらい簡潔に答えた。その言葉に嘘はない。嘘を言う必要はない。いや、嘘を言ってはいけない。そんな気がしてならない。

「模範解答をありがとう。そんな君にあと一つ聞いてもいいかな」

「どうぞ」

 どうせ嫌だと言っても無駄だと思い即答した。

「君は今、幸せかい」

 その質問の意図を理解出来ない。もしかしたら、俺が持つ問題に関係しているかもしれない。きっとそうだ。この男は何故か分からないが全てを見通せるようだ。俺が持つチートのような力の更に上の力。こいつはもう人間ではない。確信だった。

「幸せ……なんだと思います」

 休日に暁や美羽と遊びに行けて、学校では金井やシノッチと他愛無い会話をして、両親も今は家にいないが健在だ。これが幸せと言わずなんというのだろう。幸せのはずだった。 

はずだった? 何故、俺は幸せを肯定出来ないのだろうか。思いっきり肯定したい。したいのに出来ない。自分の力が異常だとわかり、怠惰に身を落とす羽目になったせいか。それが俺の邪魔をしているのか。幸せの邪魔を。妨げを。一生このままなのか。それでいいと思ったのか。違う、そう思わざるを得なかった。どうして、自分がこんな目に合わなければいけないのかと憤りを感じたはずだ。何年も前のことではっきりとは思い出せないが。いや、きっと思い出したくないだけだ。一体いつからこれが板についてきたのだろう。自然と問題が起きないように思考してしまう。行動してしまう。

「俺は……」

俺は助けを乞うたはずだ。周りの人間には相談出来ない。親に迷惑は掛けたくない。じゃあ、誰に助けを乞うた。世界にだ。世界の不和は世界に直して貰おうとした。自然な流れだ。それは間違いだとは言わせない。でもダメだった。その次は。

「俺は……」

その次は彼女だ。まだ到底天才とは呼べなかった彼女だ。彼女がとても歪に見えたのは自己を投影してしまったから。それを直せれば自分の歪さもなくなると思った。でも、それは間違いだった。変わったのは彼女だけ。それを直視出来ず、俺は彼女の前から姿を消した。会ったときはびっくりしたものだ。でも、彼女は俺を覚えていない。それが嬉しかった。きっと天才になった彼女が俺を救ってくれる。そう思えたから。

現に彼女と一緒にいるのは楽しい。さっきだって笑った。幸せだったはずだ。

「幸せ」

 あとちょっとだ。声にするだけで良い。それだけで何かが変わるはずだ。目の前の男に堂々と言ってみせろ。出来るはずだ。しかし、口から出てきた言葉は違うものだった。

「なのか……」

 疑問だった。

「君は一番右かな」

 男はそう言って姿を消した。

 一番右。後ろを振り返り、絵の方を見る。それは“地獄”だった。

「うっ」

 急な吐き気が俺を襲う。さっきまでうんちくを語るほど絵を見続けていたのに。今は直視出来ない。

 この吐き気をどうにかしようとトイレに駆け込んだ。個室に入り、便器に顔を入れる。そして思いっきり吐いた。俺の悪いものがすべて出るように。願わくば、この力が全部出ていくように――



「ふぅ」

だいぶ楽になった。洗面所で顔を洗ってすっきりする。多少は見られる顔になっただろうか。鏡を見る。そこには相変わらず冴えない男がこちらを見つめていた。

「うぷ」

 まさか自分の顔でまた吐きそうになるとは。でも、その吐き気は先ほどと違うものだ。

 ブーブー。

 ポケットの中が振動していた。携帯にメールが送られてきたようだ。恐らく先ほど別行動を取ることになった暁か美羽だろう。しかし、二人にメールアドレスを教えた記憶がない。どこで情報が漏れたのだろうか。疑問が増えてしまったが、直接会えばわかることだ。

慣れない手でメールを開く。どうやら差出人は暁のようだ。

「えっと、旗を掲げた女性の絵の前にいる……か」

 恐らく連絡もなしに場所を移動した腹いせか。

タイトルを言えばすぐにわかるのに、厄介なことをする。

「まぁ、恐らくあれだよな」

 この美術館は有名なものしか展示されていない。ならば、答えは絞られる。


「よくわかったわね」

「ですわ」

 二人はメールしてすぐ訪れた俺に驚いたようだった。

「あんまり旗を持っている女はいないからな」

 これが男だったら、ちょっと時間が掛かっただろう。

 二人の後ろにはフェルディナンド・ヴィクトル・ウジェーヌ・ドラクロワの“民衆を導く自由の女神”があった。なんとも噛みそうな名前だと思う。当の俺もフルネームはカンニングしながら言っている。

「尾崎さん、ご気分が優れないのですか」

 美羽はどうやら俺の様子がさっきと違うことに気付いたようだ。もっとも吐いた後の顔の蒼白さからバレてしまうのは分かっていた。

「元からそんな顔よ、美羽」

 暁も気付いていたようだが、気付かないふりをする。それが今の俺にとっては有難かった。

「まぁ、ちょっとな」

 空元気から乾いた笑いを浮かべる。我ながら頑張っている方だと思うが、その頑張っている感が尚更痛々しかった。

「ちょっとでそんな風になる理由が見当たりませんわ」

 美羽の顔から心配していることが見て取れる。そんな顔をさせてしまう自分が情けない。

「変な奴にでも会ったのかしら」

 暁は大方見当が付いているようだ。

「それよりも、よく俺のメールアドレスを知ってたな」

 先ほどの疑問を暁に投げかける。個人情報が重んじられる現代においては重要な問題だ。

「あぁ、あなたの見学が決まった時に篠原先生から教えて貰ったのよ」

 シノッチから情報が漏れたらしい。別にとやかく言うつもりはないが、教えたことを教えて貰いたいものだ。もしくは直接聞いてくれればいいのに。考えてから一瞬真顔になる。こいつにはそんなコミュニケーション能力があるようには見えなかった。

「何か失礼な事考えてるでしょ」

 どうやらこういう能力には長けているようだ。

 いつものやり取りに安心してしまう。その安心からか。つい気が緩んでしまった。

「お前は変わらないな」

 つい漏れてしまった。言って気付く。俺は何ということを言ってしまったのかと。

「えっ」

 暁はその言葉の真意に気付いてしまったのか。遠回しに君を助けたのは俺だと。だから、次は俺を助けてくれと。そう言ってしまった気がした。

 俺はなんとか話題を逸らそうとした。気付かれないように。気付かせないように。

「そ……それにしても、この絵は良いなぁ。さっきのヴィーナスとはだいぶ違うけど」

 そう言ってまた墓穴を掘ったことに気付いた。泥沼だった。

「この女性は暁さんに似ていますわね」

 美羽がどうにか話を広げようとするが、それが逆効果だとは言えない。

「どこがよ。私はこんなに強そうじゃないわよ」

 男たちを連れて先導している旗を掲げる女性。死を代償とする自由を勝ち取る姿。その至高ともいえる美を内包している。

「でも胸はこっちの方が大きいですわね」

「ちょっと、美羽! やっぱりさっきのこと根にも持ってるのね。そうなのね!」

 二人の間で何かが交わされたようだが、いともたやすく美羽が寝返ったようだ。しかし、美羽は徐々に逞しくなっていく。お嬢様が俗世に触れることで強くなっていく。今後は暁をバシバシ突っ込むようになるだろう。そこには俺が入れないくらいの。

「美羽。女の子がそんなことを言うもんじゃない。それは直接見ないことには」

 すべてを言う前に空気でわかった。これ以上言ってはいけないと。一転した空気で気まずい。そんな中、暁と美羽と不意に笑い出した。

「やっと調子が戻ってきたわね」

「それでこそ、尾崎さんです」

 俺は頭からはてなを出す。こんなことをする機会が訪れるなんて考えもしなかった。原理がわかれば出すことは出来そうだ。ポン。ポン。と。

「いや、俺はこんなエロオヤジみたいなこと言わないよ」

 少しは言ってきたが、それも記憶に残らない程度だ。それでいつも通りと言われるのは心外だ。

「その憎まれ口が言えるだけマシよ。さっきまで死にそうな顔してたじゃない」

 暁曰くどうやら俺は死にそうな顔をしていたようだ。それこそいつも通りの顔をしていたのだが。

「あのまま帰らせたら明日学校に来るか心配でしたから」

 真面目な美羽は学校に来ないことも心配していたようだ。理事長の娘としての立場もきちんと全うしようとしている。

「だから、これはその罰です」

 そう言って美羽は俺に腕を絡めてきた。

「なっ」

 突然のことに声を漏らす。鼻腔を燻る女性特有の香り。匂いではない。香り。それに付随して柔らかさと温かさを感じる。この腕は女性とのこの行為の為に設計されたのではないかと勘違いしてしまう。俺の腕の設計をしてくれたガウディに御礼を言っておいた。

「ちょっ、美羽! そんなの触ったら病気になるわよ」

 暁の物言いにちょっとショックを受ける。そんなの。俺はそんなの。先ほどから回復した心が早くも崩れ始める。

「あら、そんなこと言って暁さんもやりたいのじゃありません」

 美羽が俺の隣で暁を挑発する。あぁ、なるほど今日はデートだったのか。確かに男と女がすることと言ったら、どうしてもそれに行き着いてしまう。恋は突然始まるのだ。

「はっ! そんなのしたいわけないでしょ。意味わかんない」

 強い否定に更に俺の心は崩れ落ちる。心が崩御寸前だ。

「あら、暁さん。そんなこと言って、実は出来ないのではないですか」

 からかうように美羽が煽る。こんなのに乗っかるほど暁は。

「できるわよ!」

 子供だった。そう言ってずんずんと俺の隣に陣取る。左側は美羽が占拠している為、必然的に右側に来る。

「暁さん、慣れないことはしなくても」

「あんたは黙ってなさい」

 慣れない敬称を付けてみたが、どうやらダメだったようだ。

「こうかしら」

 暁は俺の腕を取るとそれを自分の腕と絡める。しかし、それはただ手を取っただけで色気の欠片もなかった。

「暁さん、こうするんですよ」

 美羽は暁に見本を見せるように俺と腕を絡める。それに伴い、密着が強くなりどうしても当たってしまう。決して何が当たっているかは言えないが。その、当たっている。

「こ、こうね」

 美羽に習った暁が俺と腕を絡める。不慣れながらもちゃんと腕を絡める。もっとも美羽の過剰なスキンシップを見ているため、暁のも当たってしまう。

「あの、ちょっと恥ずかしいんですけど」

 二人に苦言を呈する。世の男性陣から見たら両手に花な状況で間違いないのだが、周りの老夫婦が若いわね~と言い、外国人が口笛を鳴らす状況で鼻の下を伸ばせるほどメンタルが出来ていなかった。

「は! あんたは黙ってエスコートすればいいのよ。男冥利に尽きるでしょ」

 先に精も根も尽き果てそうだ。

「下のカーペットがまるで結婚式のようですね」

 美羽は地面のレッドカーペットをバージンロードだと思っているようだ。美術館の作りとしては珍しくもないが、それは言わないでおこう。夢見る少女ほど美しいものはないのだ。

 パシャ。

 カメラのシャッター音がする。俺は館内が撮影禁止だと思っていたので、その音に振り向く。パンフレットを買えば、写真を撮る必要はないのだから、わざわざ危険を侵さなくても。そんなことを考えていた。しかし、撮られたのは絵画ではなかった。カメラのレンズが俺達に向いていた。

「オージャパニーズ修羅場!」

 外国人に扮した金井だった。似合わないサングラスを掛けている。本人は変装のつもりだろう。

「何やってるの? お前」

 つい聞かずにはいられなかった。

 すると、金井は勿体ぶってサングラスを外した。

「あのおっさんにチケットを渡して思ったんですよ……やっぱり生で見たいなって」

 金井の熱意に感服する。ここまで、こいつに芸術を愛する気持ちがあったなんて。確かにこいつが記事にした写真はどことなく構図がラファエロのようだと思った。ダヴィンチの完璧と言われた構図を更に発展させた遠近感。そうか、そうだったのか。こいつとどうして気が合うのかと思ったら、根源は同じ。芸術を愛する気持ちだったのか。今なら隣にいる二人を振り払ってでも抱き締めたくなる。

「修羅場を」

 その言葉で上がっていた株が大暴落した。まさか懇意に使っていた日本円が紙切れになるなんて。大体、構図がラファエロってなんだよ。カメラで撮ったものに遠近感も糞もないだろう。もし、あっても俺には見分けはつかない。どうやら完全にほだされていたようだ。

「いやぁ、撮れてよかった。生で見れて良かった」

 一眼レフに頬擦りしながら、金井は身悶えていた。どうか、神様。こいつに天罰を与えてください。今後多少不幸になってもいいですから。お願いします。

「君、ちょっといいかね」

「えっ」

 金井の後ろには警備員の人が立っていた。どうやら、カメラを持っている姿を不審に思って駆けつけたようだ。

「ザッキ―助けて! あとで現像してあげるから!」

 断末魔の声が聞こえたが、恐らく気のせいだろう。何かデジャヴを感じたのもきっと気のせいだ。俺の足は自然と出口へ向かっていた。

「あんたは友達を選んだ方が良いわ」

 腕組みをしているので、首を傾けながらの暁が言った。角度的に少し可愛く見えてしまう。

「暁さんではなく私を選んだ方が良いですわよ」

 美羽が暁と同じように顔を傾けながら誘惑してくる。

「善処します」

 便利な言葉を述べる。ズルい政治家になったような気がした。しかし、金井の登場のお陰で先ほどまでのぷち修羅場のような空気はなくなっていた。もしかしたら、金井はこの空気感を壊す為に使わされた天使だったのだろうか。そんな考えが過ぎるほど、俺はこの場を満喫していた。

しかし、どうにも疲れてしまった。一日で多くのイベントが起こった。出来れば帰ってから、ゆっくりと眠りたい。明日からはいつも通りの日が始まる。それが堪らなく嬉しかった。それに今日は美少女二人に両腕を絡められる稀有な体験も出来たことだし。新しい発見が多かった。

それにしても、なるほど。両腕から二人の体温を感じる。それがとても安心出来た。よく人肌が恋しいなんて言うけど、この温もりを当たり前に感じた後遺症のようなものだろう。守ってあげたくなる存在から守って貰っていたという皮肉。全然上手くない。

 どうにもこうにも守って欲しいのは俺の方だ。他の人のことを心配する余裕なんてなかった。願わくば、こんな普通を幸せと呼べる日が来ることを。いや、これは普通じゃないか。俺はモノローグでノリつっこみを繰り広げていた。



「う~ん」

 いつも通りの朝だった。寒さもだいぶ和らいできたなと思う。昨日は色々なことがあったので、念の為に目覚ましを掛けておいたが、どうやらそれも杞憂に終わったらしい。

 シャッ。

 いつも通りカーテンを開け、朝日を全身に浴びる。いつから習慣付いたのかはわからないが、その太陽の光が天からの思し召しのように感じたことを覚えている。天啓というやつだ。もっとも神に愛されていると実感したことは一度もない。

「神ね……」

 神よりも髪の方が男にとっては重要なことのように思う。外国では頭皮が露出している方が良い仕事をしてきたと評価されるのに、日本人はそれをわかっていない。どうせ今でもエントリーシートを手書きで書いているのだろう。そのまま世界から遅れてしまえ。

 朝から世俗的な発想が嫌になる。こんなにイラついているのはやはり昨日のことが影響しているのだろう。的を射た正論に成す術もなく、子どもの様に言い訳をしていた自分。そして、心の奥底で望んでいた救世主。これが子供と言わずに何なのだろうか。

「暁……」

 その救世主の名前を口にする。もっとも彼女は俺のことなど知らない。以前より世界に慣れ、周りからも賞賛されるほどの人物になった。もう彼女に俺は必要ない。必要としているのは俺の方だけ。

「そうだ、目覚ましを切っておかないと」

 その言葉と同時に目覚ましがけたたましくなった。強制的に脳みそを覚醒させられるほどの轟音に顔をしかめる。急いで目覚ましの上部にあるボタンを押し、後ろに付いている音が鳴るスイッチを切っておく。明日も同じように轟音で起こされては堪らないからだ。

 さっきまで考えていたことがクリーンになった。早く洗面所に行きたい。先ほどまで気にならなかった顔の汚れが気になりだした。早く顔を洗い、歯を磨きたい。

 学校指定の制服に着替え、足早に洗面所に向かった。


「おえっ」

 例の如く嗚咽を漏らす。ヘビースモーカーのお父さんばりの嗚咽に我ながら歳を取ったと思う。しかし、うちの家族でたばこを吸う人はいないので、あくまで想像の中のヘビースモーカーだ。

 どうにか直そうとしたが、歯ブラシを奥の方まで入れてしまう悪癖は直らない。直そうとしたが、思いっきりやらないと口の汚れが取れないと頑固になったのも原因だ。そのせいで毎朝目の端に涙を溜めることになっている。

「ふぅ」

 顔を洗い、歯を磨き終えた。あとは適当に髪を手櫛で戻すだけだ。寝癖が目立たない髪だったが派手に頭皮が露出していた。夜中にうなされでもしたのか、こんなに凄い寝癖は初めてのことだった。

「お、おぅ……」

 背筋に悪寒が走る。何か悪い予感がした。目覚ましと言い、寝癖と言い、何かいつもとは違う。些細なことだが、今日一日は注意しよう。そう思った。


「……少年犯罪が急増していますね」

 テレビをつけると朝からコメンテーター達が討論をしていた。朝っぱらから重い話題を取り上げている。特に見たい話題でもないからチャンネルを変えた。

「有名人の結婚ラッシュということで」

「あのアーティストのミュージックビデオを」

「今日の占いは」

 いつもは見ない番組で手を止めた。占い。いつもは全然気にしていないが、昨日の運勢が最悪だった手前、今日は少しでも良くあって欲しい。

 パンをトースターに入れながら、耳はテレビの音を聞いていた。

「七位はおとめ座のあなた。今日は目立つことは控えましょう」

 俺の星座は七位と言う微妙な順位だった。一位と最下位ならまだ一喜一憂出来そうなものを。難しいリアクションを求められる。

 チン。

 その占いを聞くや否やトースターからパンが出た。その音とトースターの匂いが食欲を刺激する。それを無造作に皿の上に乗せ、バターを塗る。バターがちょうど溶ける良い感じの温度だ。

「七位か」

 どういうリアクションが正しいのだろう。悲しむべきか喜ぶべきか。バターを塗り終え、牛乳をコップに注ぎながら呟いた。

「目立つことを控えろねぇ」

 いつも目立たないようにしているが、周りの連中のせいで悪目立ちしている感が多大にある。しかも、昨日の調子の悪い姿を美羽に見られたせいで教室にまで様子を見る可能性がある。それに暁まで付いてきた日にはどうしても視線が注がれてしまう。

「S組の中でも目立つ二人がなんでC組に来てるんだ!」

 想像の中の二人に突っ込む。朝っぱらから何をしているのだろうと自問自答の末、首をロープで括りたくなった。ふと時計を見ると、結構良い時間になっていた。

「そろそろ出るか」

 皿とコップを流しに置き、家を出る。学校へ行けば少しは気が紛れるだろう。なんだかんだであいつらに期待している自分がいた――

「ザッキ―飯にしようぜ」

 金井が俺を昼食に誘ってくる。どうやら、この呼び方が気に入ったらしい。まぁ、エセ関西弁であんさん言われてたけど、使い勝手が悪かったのだろう。そうなんやろ、あんさんや。心の中で煽る。

「久しぶりに学食に行ってもいいか」

 いつもは購買でパンを買って食べていたし、話し込んで食べないときもあった。そういえば食堂に行くのは随分久しぶりだ。それもこれも食堂の一角がS組の場所になっていることを知らず、間違ってその席に座ってしまったせいだ。そこで文句を言われて以来行きたくても行きにくい雰囲気になってしまった。というかS組の席は別に確保されているわけではなく、暗黙の了解とされていただけだ。意図せずにその了解を打ち払ったわけだが。

「またS組に殴り込みっすか」

 金井は随分野蛮なことを言う。あれは無知によって起こった悲劇だ。その時に食べ損ねたうどんがどんな味だったか。それだけが気がかりだった。

「うどん」

「え?」

 知らずに声が出ていた。金井にとっては謎を深めてしまったようだが、こいつのことだ。また何か問題でも起きないかとハイエナのように嗅ぎつけているはずだ。まぁ、問題を起こすつもりはさらさらないが、一人で行くのは心細い。俺のメンタルは常時の半分以下にまで落ち込んでいる。それを賄う為に金井の存在は必須だった。

「でも、よく行く気になりましたね。前回は相手が手を出す寸前に教員が駆け付けたから良かったものの……下手したら停学ものですよ」

 どうやら俺の言い分が気に食わず、金井が油を注いだ形になり、やっこさんのプライドを傷つけてしまったというわけだ。

「う~ん、単純にパンやおにぎり以外のものが食べたい」

 理由は単純な食欲だった。食に興味がないと思っていたが、飽きというものが俺にもあったらしい。電子レンジ的な温かさではなく、本当の温かさが欲しい。俺は卑しい人間だった。

「まぁ、理由なんて何でも構いませんけど。でも、一応カメラは持っていきますか」

 昨日、警察に没収されたと思われたカメラを取り出す。官憲さんの仕事というか人情というか。金井の泣き脅しが利いたのだろう。無事カメラは没収されずに済んだようだ。そう思うと、このカメラが百戦錬磨の道具に見えてくる。アーサー王のエクスカリバーのような。もしかしたら、このカメラもそんな名前が付くのかもしれない。

「じゃあ、毒を食らわば……善は急げっすよ」

 不穏な言い間違いが聞こえた気がしたが、気のせいだろう。そんなにポンポン問題が起こっていては身も心もボロボロになってしまう。俺の体はもうボロボロだった。

「絶対S組の奴らがいる席には座るなよ。それさえ守れば大丈夫だ」

 一応忠告しておく。同じ轍を踏むほど愚かではないが、愚か寄りな俺達も時には賢くありたいときがあるのだ。

「大丈夫っすよ。地味メンな俺達にやっかむ相手なんているはず」


「あら、尾崎さん。それに金井さんも」

 S組専用席に美羽の姿があった。美羽がいるということは。

「ここは食堂よ。汚物は入場を控えなさい」

 開口一番に俺達を汚物扱いしてくる暁も一緒だった。そういうのは口に出す方が問題であり、俺たちの汚物っぷりは関係ないのだ。……汚物っぷりってなんだ。疑問がまた増えてしまった。

「いやぁ、ちょっと自分らも学食の温かいご飯を食べたいなぁと思いまして」

 金井が卒なく会話を広げてくれる。勝手に話してくれる人がいると良いな。口を開けなくても良いのだ。そんなことを思った。

「そうですか。ここの食堂は美味しいですからね」

 美羽はその小さな口でパスタを食している。フォークとスプーンを器用に使っている光景は天使がダンスを踊っているような。その一方で。

「ずぞぞ~」

 暁がラーメンを啜っている。しかもチャーシュー増し増しのやつだ。部活をやっている男子学生くらいしか食べない量だぞ、それ。美羽との対比は上手く取れているが、女子的には色々失うものもありそうだ。

「良かったら、こちらの席で一緒に食べませんか? 何故かは知りませんが、席が空いてますの」

 美羽の誘いは非常に有難いが、ここはS組の席だ。しかも、この二人に気後れしてS組すら座れていない状況だ。そこに俺達が座ってしまっては。

「いいんですか。ありがとうございます」

 金井は持っていたトレイを美羽の隣に置いた。

「金井さん、ちょっと」

 俺は金井を呼んで、二人に聞こえないように内緒話をする。

「金井さん、ヤバくないですか」

「何がですか、尾崎さん」

 俺の丁寧口調に金井も丁寧口調で返してくる。

「いや、この席あれですよ。S組の専用席ですよ」

「大丈夫ですよ。久遠寺さんのご厚意と言えば、無問題っすよ」

 そう言って、金井は美羽の隣に座った。

「失礼します」

「どうぞ」

 美羽は笑顔で金井に挨拶した。そして、俺は必然的に暁の隣にトレイを置いた。

「失礼します」

 俺も金井に習って暁に挨拶をする。

「ずぞぞ~」

 麺を啜る音が返ってきた。その音を勝手に肯定として受け取った。

 こうして俺と暁が隣り合い、対面に美羽と金井がいるという状況が生まれたのだった。いや、別に特殊な状況ではない。しかし、実際に学校の食堂で四人が揃ったのは初めてだった。何を言えば良いのか。普段している会話が思い出せない。

「あんたはうどんでそいつはカレーか……まぁ悪くないチョイスね」

 暁は俺たちのトレイの上を見て感想を漏らした。その発言から、暁は食堂の常連らしい。それに付き合わされた美羽も同様のようだ。

「カレーで失敗する可能性は少ないっすからね」

 金井はもっともなことを言う。確かに誰が作ってもある程度のクオリティを出せるのがカレーの良いところでもある。それと何より。

「尾崎さんのうどんにも合いますよね? カレーって」

 美羽が俺の言いたいことを代弁してくれる。そうなのだ。カレーはライスは勿論。パンにもうどんにも合う。炭水化物との相性は最高なのだ。しかし、一つ難点がある。

「でも、カレーって味が強すぎるから結局カレーがメインになるのよね」

 そうなのだ。カレーは味が強すぎる為、すべての主役を掻っ攫ってしまう。炭水化物に合うということは味が薄いものに合いやすいだけということなのだ。悲しいことだ。

「それが分かっているから、うどんだけの味を知る必要があるのだ」

 いつの間にか声に出していた。カレーも好きだが、うどんも好きなのだ。その味を知ることが出来なかったのが悔しい。あのとき、うどんを食べていたら今日はカレーにする予定だったのに。

「でも、どうしてうどんだったんですかね。そばにカレーでも良かったような」

「少し黙ろうか」

 俺は憤りを隠しもせずに金井に言った。

「お前は年越しにそばではなく、うどんでも良いというのか」

「ぐっ」

 年越しそばの由来は麺が切れやすいことから厄災を断ち切るというものだ。それをうどんにしてみろ。厄災と一緒に過ごすつもりか、お前。しかし、年越しそばならぬ、年越しうどんというのもあるらしい。うどん好きのニーズにもきっちり対応してくれている。

「まぁ、そんなことより」

 俺は手を合わせて、いただきますと言う。これが食べたいが為にわざわざ食堂に来たまであるのだから、食べずには帰れない。その思いでいっぱいだった。

ブーブーブー。

 携帯のバイブ音が鳴った。もちろん俺の携帯にはメルマガすら来ないので、俺ではない。すると、美羽が携帯を取り出した。どうやら、美羽の携帯にメールが来たようだ。

「すいません、尾崎さん。金井さん。生徒会の用事が入りましたので」

 そう言って申し訳なさそうに席を立った。

「大丈夫っすよ」

「お構いなく」

 俺と金井は美羽を送り出した。

「じゃあ、私も」

 そう言って席を立つ暁。勿論、それを許すわけにはいかない。咄嗟に手首を掴んでいた。

「ちょっと待って。お前がいなくなったら、俺達はどうなる」

「別に普通に食べれば良いじゃない」

 暁はことの重大さを全くわかっていない。美羽がいなくなったのだけでも多少動揺していた。それでもまだ暁がいるから笑顔で送り出したのだ。

「お前が席を立つなら俺も席を立つ」

「そうですよ。もう前みたいなことは嫌ですし」

 俺達に必死の剣幕に暁は面倒臭そうに応じた。

「じゃあ、さっさと食べなさい」

 その言葉を聞いて俺と金井はご飯を掻き込む。味わいたかったが、暁に迷惑を掛けるのは忍びない。出来るだけ迅速に箸を動かした。

 むすっと肘を立て外の景色を見ている暁。それをよそに忙しくご飯を食べる二人。この光景を傍から見たら、餌を貰った犬と飼い主に見えるかもしれない。だが、これは自費だ。そこは安心して欲しい。

「あれ、夏目さん。おひとりですか」

 そこに一人の男が暁に話し掛けてきた。S組のバッジを付けていることから暁のクラスメイトであることは分かった。美羽と一緒じゃない暁につい声を掛けてしまったようだ。

「見て分かるでしょ。三人よ」

 その後ろでご飯を食べる二人の姿。彼の目にはどう映っているだろう。少なくとも良くは見えないはずだ。金井の言葉を借りると地味メンだからな。

「夏目さん……付き合う相手は選んだ方が」

 彼はどうやら暁の心配をしているらしい。

「そんなの私の勝手でしょ。言いたいことはそれだけ?」

 暁は会話が面倒になったらしい。早々に切り上げようとする。それが逆に彼の正義の心に火を点けたようだ。

「あなたはS組のトップなのですから、もっとふさわしい相手がいるはずです!」

 それが逆に暁に火を点けてしまった。

「うるさいわね。私に意見があるなら、このゴールドのバッジを奪ってみなさいよ」

 胸に輝くバッジをこれ見よがしに見せる。ように見える。相手にもそう見えたはずだ。「そんなの無理ですよ」

「無理じゃないわ」

 暁は即答していた。その自信はどこから来るのか。上の方かな。目線を上に上げる。知らない天井があった。

「少なくとも、こいつらは無理なんて言わないわ」

 急に矛先がこちらに向いてきた。俺と金井は黙々とご飯を食べていた手を止めた。

「無理っすよ」

「無理だよ」

 小声で聞こえない声で言い合った。どちらも言い出すきっかけがわからずに黙っていた。それが相手に付け入る隙を与えたらしい。

「彼らだって無理だって言いますよ。こういうのもあれですけど、“勉強が出来ない人は切り捨てる”べきだと思います」

 その言葉に先ほどまでの威勢が嘘のように暁は消沈していた。

「切り捨てる? 私が?」

 暁の様子に言った本人も動揺している。それを傍から見ている俺と金井もそうだった。

「あの、その、夏目さん……」

「私は切り捨てたことなんて……一度だって……」

 暁は相手の声が聞こえていないようだった。いつもの然とした態度ではなく、小さな子供が怯えているように見えた。その姿を見た瞬間に何故か俺は声を出していた。

「無理じゃないよ」

 その言葉にそこにいた全員が俺を見た。目立つのは控えろという占いは守れそうにない。

「何が無理じゃないんですか? ゴールドバッジを取ることがですか?」

 弱った暁に引けを感じてか噛みつけそうな俺に噛みつく。そんな俺を怯えた目で暁が見ていた。そんなに見て欲しくないのだけど……。

「勿の論だ。この世に無理なんてものはない。ただ無理を作っているだけなんだよ」

「穣……」

 暁の小さな声が聞こえた。どうやら俺の声はどうにか聞こえたらしい。こいつがこんなになるなんて……少し意外だった。ちゃんと女の子だったようだ。

「馬鹿馬鹿しい。そんなホラを言うなんて……出来なくてもどうにかなると思っているからだろう」

「う~ん、信じられないなら……そうだな。出来なかったら、この学校を辞めるよ」

 口にして俺は今人生で一番目立っていることを自覚する。どうか占いさん気を損ねないでください。これは流れからくるものであって決して喧嘩を売っているわけではありません。そこのところ、よろしくお願いします。

「ザッキ―……」

 金井が珍しく心配そうな声を上げる。

「ふふふ、ホラ吹きもここまで来たら才能だね。じゃあ、出来たら僕が」

「いいよ」

 彼が喋り終える前に俺は制止の声を上げていた。

「同じクラスメイトにそんなことは望まないよ」

「ふふふふ……はっはっはははははは! そこまで言われたら、その言葉に甘えないわけにはいかないね。良いよ、その言葉忘れないようにね」

 その言葉を最後に彼は去って行った。その一部始終を見ていた二人もあっけらかんとしている。いや、一人がぷるぷると打ち震えていた。金井だ。しかも、それは悲しみとか生易しいものじゃない。これは狂喜だ。

「ひゃっほう! やった。これは超面白い展開じゃないですか。タイトルはそうだな。一人の女を巡った男の理不尽な賭けってところですかね。こいつは最高に盛り上がるぞ! やっぱりザッキ―と飯を食いに来て良かった。最初はちょっと面倒かなとも思っていたんですけど」

 後半の方は初耳だったので少し悲しい。それでもこいつは俺の友人としての立場よりジャーナリズムの立場が勝ったらしい。こいつのこんな満面な顔を見る為にしたことじゃないのだけど。

「早速、今の会話を文字起こししなきゃ……くそ~録音してないから記憶が頼りだぞ、俺!」

 そう言って、残りのカレーを掻っ込み、水で飲み干した。そして、急いで席を立った。

「じゃあ、ちょっと忙しくなるので俺っちはこれで」

 手を上げて金井どこかへ消えてしまった。金井のテンションの上がりようから自分がしでかしたことの大変さを知る。やべぇ、ってかゴールドバッジを取るってことは暁より点数取らないといけないんだよな。ミスった、あいつより点数取るとかにすればよかった。今はなきS組の彼の姿を探す。あとでレートを下げて貰えないかな。そんなことを考えていた。すると、黙り込んでいた暁が話し出した。

「あんた……馬鹿なの」

 もっともなことを言われると意外と腹が立つな。はいはい、馬鹿ですよ。今までお世話になりました。

「でも、ありがとう……」

 暁がお礼を言っていた。俺はその頭をポンポンと叩く。

「何すんのよ」

「いや、その頭に肖ろうと」

 普段なら避けるだろうが、今はその力がないらしい。まぁ役得だということにしておいてくれ。下手したら俺はここにいないのだから。いや、下手しなくてもバイバイするかも。

「まぁ、いいわ。私もやることが出来たから」

 そう言って暁は立ち上がった。どうやら何かするべきことを思い出したようだ。

「あんたに負けないように勉強しないといけないから」

 暁はその言葉を最後にどこかへ行ってしまった。

 えっ? そんなに俺を退学させたいのか。それとも今頭を触ったのが気に障ったかな。というか、試験は夏休み前だから結構期間がある。もしかしたら、あいつは満点以上を取るつもりなんじゃないか。

「ははは」

 乾いた笑いが出た。でも、なんかいつも通り元気になったみたいだし、それでいいか。

 すると、暁が再び戻ってきて、俺に一言言った。

「もし私に勝てなかったら、一つ言うことを聞いてよね。負けたら、何でも言うこと聞いてあげるから」

 どうやら、自分にも何かゲーム的要素が欲しいらしい。強欲というか負けん気というか。そんな暁に一言言ってやった。

「じゃあ、俺が勝ったら、俺の犬になってくれ」

「いいわよ」

 ニッと笑顔になって暁は本当にどこかへ行ってしまった。俺の戯言にも何のリアクションもないとは、やっぱりまだ本調子じゃないようだ。

「麺伸びちゃったな……」

 伸びた麺を啜る。味はよくわからなかった。


「さて」

 授業も終わったし、そろそろ帰るか。周りの生徒達は部活に精を出すつもりらしく、忙しそうにしている。部活に勤しむのは悪いことではないが、その時間は一体何になるのだろう。ふとした疑問だった。

 野球で甲子園に行く。そうすれば球団から指名がかかり、多額の年俸を貰えるからか。サッカーで国立。ラグビーで花園。吹奏楽だと普門館だったかな。そこに行き着けば将来を見据えていると言えなくもないが、大半はそこに行く前に終わる。終わった者の時間は一体何になるのだろう。悔しいだったり、嬉しいだったり、その思いは様々だ。人によって受け取り方は違うだろう。しかし、俺のような人間からすると。

「時間の無駄」

 そう感じてしまう。考え方の相違だとは思うが、俺の様に部活に入らず、ただ生き永らえている人間が自由な時間を手にしている。もっともその時間をただ浪費するだけなのだから、スポーツで汗をかく方がよっぽど健全である。それもまた事実だ。

「おーい、尾崎」

 帰り支度をしていると声を掛けられた。このやる気のない声はシノッチだ。

「なに、シノッチ」

 簡潔な受け答え。教師に対して友達のような愛称は躊躇われるか。しかし、この男は別にそんなことを気にしている様子はない。こういうところが生徒からも好かれる要因になっているようだ。これも人徳の類か。その形は様々だ。

「お前、あんまり研究室に行ってないらしいな。あいつが寂しがってたぞ」

 ここで言うあいつは恐らく篠原教授のことだろう。それが寂しがっている。その姿を想像するがぴんと来ない。ただ暇を持て余しているのだろう。

「う~ん、暇だから行ってみるか。シノッチの車で行けるの?」

 美術館のお礼も兼ねて行ってあげよう。それにあの男について何か知っているかもしれない。篠原教授は一回会っただけで俺の全ての事情を把握していたようだし、それを暁に伝えて様子見している節もある。

「まぁ、誘った手前もあるしな。乗せてってやるよ」

 シノッチにしてはやけに素直だ。こりゃお兄さんに買収されたね。この男は一体何で買収されたのかな。

「教授に何貰ったの」

 ド直球に聞いてみた。下手に悟られると答えない可能性の方が大きい。だから、あえてそれを外す。そうすれば、焦ってボロが出る。

「ば、バッカ言ってんじゃねよ。アナウンサーの連絡先なんて聞いてないぞ」

 うわぁ、ここまで計画通りボロを出す人間がいるなんて。テレビに引っ張りだこのお兄さんから女性アナウンサーの連絡先を聞くなんて……他の生徒が聞いたら軽く引くぞ。しかし、そういう世俗的な欲求を見ると少し安心する。きっとシノッチは誰よりも純粋なのだ。そこが本当の魅力なのかもしれない。

「じゃあ、その目的達成の為に行ってあげましょう」

「本当か!? いやぁ、マジでサンキューな」

 嬉々としてシノッチは喜んでいる。こういう子供のような大人を好きになってくれる人もきっといるはずだ。そのアナウンサーがそういう人であることを望む。俺はきっかけを与えるだけだ。

「その代わり、もし上手く行ったら……そうだなぁ俺の退学の取り止めを理事長に直談判してね」

「おう、任せろ! えっ、なにお前退学するの? このご時世中卒は厳しいぞ」

 やめて、現実に戻さないで。それが嫌だから色々手を回しているのもなんか格好が悪い。まぁ、いいさ。もし退学したら高卒認定試験を受けて大学に行こう。美羽や篠原教授とも知り合いだし、伝手はある。あとはちゃんと点数を取れば文句はないはずだ。

「早く行こうか。アナウンサーが待ってるよ」

「お、おう! そうだな」

 シノッチに聞いてほしくないことにはあまり踏み込まないように誘導する。これで良いのだ。これで。俺はこれで良いのだ――

「来てくれて嬉しいよ」

 篠原教授は歓迎してくれた。歓迎と言っても口先だけで、パーティーのような飾りつけはしていない。てっきり百均のパーティグッズぐらいを身に着けていると思っていたが、俺が来ることは見越していなかったようだ。

「お久しぶりです、教授」

 軽く挨拶を交わす。俺のいつもと違う雰囲気に教授も気付いたようだ。そう、あの美術館以来。もっと言うと、あの男に会って以来。俺は本調子ではないのだ。

 俺は用意されている椅子に座らずに立ったままで応対する。篠原教授も汲んでくれたようで、席に座ったままだ。落ち着いた様子で接してくれる。勿論、コーヒーを注ぐようなことはしない。それが有難かった。

「随分、疲弊しているね。これじゃあ、暁と勝負するような愚行に及ぶわけだ」

 俺の様子がいつもと違うことに気付いたらしい。それに暁との勝負もしっかり押さえている。話す手間が省けて助かる。

「そんなことは今はどうでもいい。冬物のコートにハットを被った男に心当たりはあるか」

 少々物言いがきつくなる。そこからも余裕のなさが如実に現れている。どうやら、この問題を解決しなければ、俺が生きるにはこの世界は厳しすぎる。

「ふむ、そうだね。その人物は暁も目撃している。あの暁と君が形容できない人間なんて、普通はあり得ない存在だ。ちなみに君の見解はどうだい」

 俺とは違い、篠原教授は心底楽しそうだ。こんな顔を見てしまったら、普段が猫を被っているのがバレバレだ。狂気染みている。そんな顔を見る為にここに来たわけではないが、ここまで心強い人はいない。嘘偽りは必要ない。思ったことを答える。

「端的に言えば、この世の人間じゃない。この世界の枠組みから外れている感じがした」

 世界は自由だと言う人がいる。しかし、この世界は時間に支配され、ある程度の行動が制限されている。本当に自由だとするなら時間の超越。それと地球から自由に出られる環境が必要になる。仮に火星に行けるようになっても、その行動は制限された行動の一部でしかなくなる。この世に本当の自由なんてものはないのだ。しかし、あいつはその制限を受けていない。そんな気がしてならない。

「本当の意味での自由人か。厄介だね。恐らくその人物にしてみれば、こうやって僕と会話していることも把握している可能性がある。そして、僕は直接会うことが出来ない」

 篠原教授の確信がそこにはあった。教授の考察はまだ続く。

「君は他にも何かを思ったはずだ。そう例えば、職業めいたものを」

 それで篠原教授は止まった。俺に解答を求めている様子だ。怯えるな、この人は味方だ。もし、敵に回ったら俺はどうしようもない。それこそ、怠惰でいられなくなる。

 素直に答えれば良い。それだけだ。

「……調律師」

 調律。勿論そのままの意味ではない。楽器ではない。彼にとって楽器は恐らく。

「世界の調律か」

 世界の不和を取り除く。その為の存在。自分で言い出してなんだが、これほど適切な例えは思い浮かばない。それぐらいの模範解答を出せた自分を褒めてやりたいくらいだ。

「ともすれば、その人物が望むのは君の能力を失くさせることだろう」

 篠原教授は一つの結果に結び付く。やっぱり今日会って良かった。俺は自分の解答に自信を持てなかった。あの男によって俺は本調子ではない。その中で得た結果が正しいかなんてわからない。しかし、確証は得られた。

「俺の能力……やっぱり気付いていたんですね」

 分かっていたことだが、改めて目の前にいる男の凄さを知る。普段なら気味悪がり、遠ざける存在だが。事が事だけに頼りになる。

「有り体に言えば、未来予知だね。でも、それは世界の全ての事柄に対してというよりは自分の今後の人生の予知ってところだろうね」

 本当にこの人は油断ならない。もう俺の存在は丸裸だ。その上で足掻いている姿は滑稽に見えるだろうか。

「教授。俺は変われるでしょうか」

 最後に一抹の期待を込めて。俺は聞いていた。

「君の今後に起こることはわからない。でも君の側には暁がいる。それに一応僕もね。だから、心配する必要はないよ」

 力強い言葉だ。ここまで言われてはしまってはいつまでも泣きべそをかいていても仕方がない。欲しい解答は貰った。それに確信も得た。その上で、今後あの男がどのように干渉してくるか。それが問題だ。

「あぁ、あと暁に勝つ手段だけどね」

 最後に現実に引き戻される。そういえば、そんな賭けをしていたな。思いの外、問題は山積みのようだ。ひとつひとつ片付けなければいけない。

「特に気にしなくても大丈夫だよ」

 アドバイスにしては中途半端というか。何も射てない発言だが、教授が言うのだから心配はいらないはずだ。もしかしたら、暁に花を持たせる手段かとも思うが。気にしてもしょうがない。この世界、なるようにしかならないのだから。

「今日はありがとうございました」

 軍隊でするようなお辞儀をした。ちゃんとした相手にはちゃんとした礼儀を持って接する。助けを乞うのならば、それに準じた対応をしなければいけない。

「送ろうか」

「いえ」

 少し考え事をしたい気分だ。それにさすがにおんぶにだっこじゃ格好がつかないという男の意地。歩けない距離でもないし、最近運動不足だしなぁ。部活をやっていた生徒達に対抗心が生まれたのか。俺は家まで歩くことを決めた。

「今度会うときはもっと厄介な状況で来ますね」

 その言葉に教授は心底嬉しそうだった。これは本当に厄介になったら面白いけど、さすがにそれを望むほど教育者としては落ちぶれていない。どっちつかずの気持ちに困り、前者が勝ってしまった顔だ。

「期待して待ってるよ」

 あぁ、もう隠そうともせずに。あなたの弟さんも純粋だけど、あなたも大概だな。俺は本当に頼ることがないことを望む。

「期待はしないでください」

 一応、反論はしておいた。


「ふぅ」

 家に帰り、ひとっ風呂浴びた。バスタオルを肩に掛けて如何にもおじさんスタイル。その格好で腰に手を当て、コップに入った牛乳を飲み干す。瓶牛乳の方が雰囲気的に良いが贅沢は言えない。それにしても汗をかいた。

自分が考えていたよりも距離があったせいだ。あの距離を暁は毎日往復しているのか。動きやすい格好の理由がわかった気がする。

用意していた下着を身に着け、寝間着に着替える。

「勉強するか」

 自分からそんな言葉が出ることが意外だった。久しく勉強していないが、やり方を忘れているということはないはずだ。どんなに時間が経っても自転車の乗り方は忘れていないのと一緒だ。俺は手早くコップと朝食の皿を洗い、自分の部屋に向かう――


「えっと、電気はこれか」

 机の照明を点けるボタンを探す。そのボタンはすぐに見つかった。とりあえずポチポチ押してみる。しかし、反応がなかった。電球が切れたのかな。そんなことを考えていたら、あることに気付く。そして、恥ずかしさで赤面する。

「コンセント入ってなかった」

 コンセントを入れると照明がぱちぱちっと点灯し、そして点いた。俺は周りを見渡していた。良かった、誰にも見られていない。もし見られていたら、死んでしまいたくなるくらい恥ずかしい。

「さて」

 その言葉と共に鞄から教科書とノートを取り出す。ノートは真面目な生徒から毎回コピーさせてもらっているから問題はない。USBに入れた過去問のデータで必要なものを印刷する。これで準備は整った。あとは試験問題の予想をすればいい。

「まずは数学からやるか」

 数学の教員は比較的過去問を重点的に出している。範囲が被っていれば、過去問のみでも構わない。だが、それはパスするだけの話だ。問題は最後の大問でここ一番の難しい問題を出している。配点は小さいから、生徒からの苦情はないが。これを取りこぼしてしまえば暁に負けてしまう。まぁ範囲内で一番難しそうで、あまり触れてこなかった問題。

「これか」

 恐らくこの問題を崩した問題が出るはずだ。数学はこれで問題ない。次は。

「英語かな」

 英語は簡単だ。TOEICという英語でコミュニケーションを取るためのビジネス英語。この試験に習っている。普通の英語の勉強では点数は取り辛く、それ専用の勉強法があるものだ。うちの学校はそのテストで六百点以上は取らないと卒業できない。その為に、英語はもっぱらその勉強しかしないのだ。過去問とノートを見合わせるだけで十分。強いて言えば単語さえ目を通せばあとは当てはめるだけだ。リーディングはネイティブ過ぎなければ大丈夫だろう。

「次は国語か」

 この教師は現代文より古文が多い。しかも、漢字検定一級相当の漢字が最初に五問出される。これは予想することが出来ない。ある意味で範囲がない。ざっと漢字を見ておく必要がある。古文はおくの細道だろう。何せ授業中に俳句を書かせるほどだ。その出来の悪さに叱られた。季語を入れなかったからだ。無季俳句ってものがあることを知らないのだ。そんな私怨はさておき。次は。

「社会科学」

 これは種類が多いが選択も多いので得意なものを選べる。世界史の教師は十四世紀から十六世紀にかけての時代を好んでいるから、このルネサンス期を勉強すればいい。地理は日本地理が主で少し外国地理が入る程度。政治経済は右寄り、左寄りになりがちだがあくまで中立である立ち位置さえ変えなければ大丈夫と。次は。

「理科ねぇ」

物理はシノッチだから過去問とノート以外から出すことはない。化学と生物、地学は過去問を見ても統一性がない。これは。

「過去問を当てにさせないやつかよ」

 理系の教師はちょっとひねくれているからな(個人の見解です)。まぁ、過去問がこれだけあるとむしろ範囲は絞られる。生徒に嫌わられる教師は生徒に点数を取らせない教師だという俺の持論。しかし、センター試験のときに役に立つのは意外にこういうのだったりするから、一概には言えないか。

「これで予想は出来たから、あとは補填だな」

 一位を取ると言った手前、問題を落とすことが出来ない。それを補うのは時間しかない。総力戦というか白兵戦というか。物理量に頼るのは忍びないが。

「頑張ろう……」

 こんなことなら喧嘩を売ってきた奴と喧嘩をすれば。いや、それは先にも言ったが、あの状況だとビッグマウスになるのも仕方がない。俺も本調子でなかったし、暁も……。

 そういえば暁は何であんなに弱気になったのだろう。自分のことばかりで相手のことを考える余裕がなかった。しかし、それも篠原教授との会話で少し楽になった。そのおかげで考える余裕が出てきた。

「過去のトラウマと見て間違いないか」

 あいつの過去に何があったのかは知らないが、その過去には俺がいた時期もある。出来れば自分がそのトラウマに関わっていないことを願う。

「さて、勉強勉強」

 久しぶりに机に座って教科書やノートと睨めっこしているのだ。眠くなる限界までやってやろう。お腹が減ればカップ麺でも食べればいいか。俺は意気込み新たに机に向かった。


「もうダメだ……」

 いつもなら寝ている時間とだけあって、睡魔がそこまで来ている。時間は午前四時を回っている。結構頑張った方だ。こんな風に机に向かっていたのは小学生の頃以来だ。もっとも、未来予知のお陰ですべてを悟ってしまったのだけれども。このまま頑張っても救える人と救えない人、どちらが多くなるのかが見えてしまった。それならば、何も救えなくても良い。そう思っていたときに暁に出会った。そして、思った。この子を救うことで俺は救われようと。単純明快な思考に幼さを感じる。

「寝よう」

 明日、もとい今日は普通に学校がある。それなのに夜更かしして遅刻してしまえば、暁のやる気が増す可能性が重々にある。そんなことをしてしまえば、俺の睡眠時間がますます減ってしまうではないか。俺は限りある睡眠時間確保の為、ベッドに横になった。

 ボフッ。

 布団が沈み、サスペンションが沈む。なるほど、いつも当たり前過ぎて気付かなかったが、このベッド。どうやら人を気持ちよくさせる産物のようだ。こんなに優しく俺を受け入れてくれるなんて。涙が出そうだ。

「いかんいかん」

 さすがにこのまま寝てしまえば起きることは出来ない。目覚ましをセットする。今からなら二時間以上は眠れる。しかも、あの轟音だ。起きれない心配はないだろう。無駄にセットしたお陰でこのアイテムが便利グッズであることを知っている。

「おやすみ」

 その言葉を口にした瞬間に意識が途絶えた。



 ジリリリリリリリリリ。

 字面にすると大したことはないが、けたたましい轟音が頭から鳴り響いている。ハンマーで頭を殴られている感覚に近い。

「わかった。わかったから」

 半ば不機嫌になりながら目覚ましを止めた。目覚めは意外にすっきりしていた。

「ふぁ~」

 大きく欠伸をして、ベッドから下りる。シャッと小気味いい音でカーテンを開く。寝る前と同じくもう朝だ。

「いつもより快調だな」

 少し仮眠したあとの満足感と疲れの取れた快眠ぶりだ。これが毎日続けられれば一日二時間程度の睡眠で生きられそうだ。八十歳まで生きる人間は三十年くらい眠っているらしいから、それを半分にすればだいぶ長生き出来る。

「まぁ、言うが易しってか」

 以前、勉強をするために眼帯をして片方の脳を寝させようとした人がテレビに出ていたけど、そこまで必死に勉強するなんて凄いと思ったものだ。渡り鳥のような、はたまた遊泳性の魚類か。その思考につい脱帽したのを覚えている。世の中には色んな人がいると思ったし、もっと見聞を広げるべきとも思った。

「とっとと学校に行って寝よう」

 授業中寝てしまってはあまり勉強の意味がないように思われるかもしれないが、必要な事を必要なだけやっていれば問題はないのだ。それでいうと授業は効率が悪い。全部聞いていても出る問題は少ないからだ。容量良く生きる為にはちゃんと時間の仕分けが必要だ。

 俺は寝間着をほっぽり、制服に袖を通す。顔を洗ったりして、ご飯を食べる。いつものルーティーンだ。それに朝の占いを入れるか。なんだかんだで前の占いは間違っていなかった。今度こそ気を付けよう。そう思った。


「おとめ座のあなたは十一位。気分が憂鬱になる日。下手に外に出ない方が良いかも」

 テレビから流れてくる自分の占い結果。ちょっと待て。最下位なら懇切丁寧にどうすれば良いかを教える癖に、その一個前だとざっと流していないか。

「これはあれだな。事実上は十一位が一番悪い奴だ」

 不平不満を朝から言う羽目になった。下手にルーティーンを変えるものではない。異物が俺の生活を侵食していく。

「よし」

 良くはないが、とっとと学校に行こう。早速外に出てしまうが、占いを信じて休むわけにはいかない。学生の本分とは学校に行くことと見つけたり。当たり前のことをそれっぽく行って気分を盛り上げる。その自分の必死の頑張りにちょっと盛り下がってしまう。


 通学途中に黒猫が横切った。この辺で飼っているのだろう。それなら首輪を付けて貰いたい。じゃなきゃ、野良の黒猫にエンカウントする俺の運が悪いと思われてしまうからだ。

朝は確かそんなことを考えていたはずだったが……。

「うーん、それにしても……寝てたら授業が終わったなぁ」

 いつの間にか授業が終わり放課後のチャイムが鳴っていた。時間が盗まれてしまった。その時間泥棒を是非紹介して頂きたい。嫌な時間を全て奪って貰えれば、嫌な仕事も楽ちんになるからな。

「まだ働きたくない」

いや、ちょっと待つんだ俺よ。なんで嫌な仕事と決めつけるのだ。働くときはホワイトで無色透明な企業と決めている。公務員なんか素晴らしいな、うん。

「帰ろう」

 金井の姿は見ないが、廊下の掲示板には部活勧誘ポスターだけでなく、俺の記事がたくさん貼られている。一夜にして有名人になっていた。さすが金井、仕事が速い。

 しかも、その記事を見たS組の連中が猛勉強を始めたらしく、一位争いは苛烈を極めそうだ。その現在トップの暁さんは記事を見て更にやる気を出したらしく、休み時間の勉強はおろか昼飯も片手で済ませながら勉強といった徹底ぶりだ。

 サンドイッチはずっと賭け事をしたいという思いから生まれたとは聞くが、それを実際にやる人間がいるとは。驚きを通り越して少し呆れている。勉強するだけが学校じゃないんやで。今、その発言をしてもS組は精神操作だ。耳を貸すなと言うのだろうな。

「はぁ……」

 溜息が出てしまう。恐らく試験までこんな状況が続くのだろう。その面白みのない日常に少し退屈してしまう。

「えっ、あの人が夏目さんを取り合ってる渦中の人」

「あんまり冴えない感じだけど、やることは大胆なのね」

 俺の顔を見るなり、女生徒達が楽しそうに話している。冴えないは余計だ。その好奇の目を別のことに向けろ。その方が絶対に良い。人間なんて若いうちが華なのだから。

 居心地の悪さに居た堪れなくなり帰り路についた。夜は勉強だ。そんなことを思った。



ジリリリリリリリリリ。

 前日と同じように時計が鳴る。前回の様に快眠とはいかずに体にだるさが残る。やはり睡眠時間は容易に短くすることは出来ないようだ。ショートスリーパーの夢は叶いそうにない。

「うるせぇな」

 目覚ましに文句を言いながら止める。そういえば、この音が嫌いでいつからか目覚ましを掛けなくなったのだった。小学生くらいのときだったと思う。眠る時間と起きる時間を規則正しくすることで自然と起きられるようになった。それが習慣となったときはガッツポーズをしていたが、いつの間にか当たり前になっていた。

「身近にある幸せを当たり前と勘違いしていた」

 まるで恋愛の歌詞のような寂しさを口にするが、そうではない。ただ初めて出来た感動。それが当たり前になったときに幸せと認識しなくなる。初めて自転車に乗れた感動を味わうことはもう出来ないのだ。

「これが俗にいうジャネーの法則か」

 生まれてから二十歳までと、それから死ぬまでの体感時間は同じらしい。それは新しい経験が少なくなるから、だったっけ。既に老成気味の俺だと十五歳くらいで折り返し地点を迎えてしまったようだ。非常に悲しい。

 シャッ。

 ベッドから体を起こしカーテンを開ける。寝間着から制服に袖を通す。そして、顔を洗う為に洗面台へ。朝食のパンをトースターで焼きながらテレビを見る。一応、占いを見る。そして、学校へ行く。当たり前の日常だった。

「おとめ座のあなたは最下位。何をやってもうまくいかない日。頑張るのは明日からにしよう」

 どうやら、この占いはおとめ座に当たりがきついらしい。こんな思いをするくらいなら、別の番組を見れば良かったと思う。しかし、俺は諦めない。この占いには続きがある。

「ラッキーアイテムは好きな女の子。側にいれば、きっと幸せになれるよ」

 ピッ。

 俺はいつの間にかテレビを消していた。今日の俺の運勢は最悪で、それをなくすことは出来ないらしい。好きな女の子ってなんだよ。そんな子と一緒にいれば、そりゃあ幸せでしょうよ。メディアの恋愛至上主義は撤廃するべきだ。独裁が許されれば、是が非にでもそうしたい。しかし残念ながら、この国は民主主義だった。

「とっとと学校へ行こう」

 そう言って牛乳を一気に飲み干す。食器を流しに置き、鞄を片手に学校へ行く。またいつもどおりの日常だ。


「誰とも会わないなぁ」

 いつもだったら会おうとせずとも会える人物に会えない。暁然り、美羽然り。あと金井も入れておいてあげよう。

「しかし、カレーが美味い」

 俺は食堂に来ていた。前にうどんを食し、次はカレーを食べようと決めていた。昨日はずっと寝ていたせいで昼食を取らなかった……食費が浮いた、なんて貧乏学生にありがちな感動を抱いていた。本当なら今日も食堂に来る予定はなかった。なぜなら、廊下の掲示板には俺の顔と暁の顔がでかでかと貼られており、否が応にも視線が注がれる。プライバシーもへったくれもなかった。

もっとも暁の方は教室から一歩も出ていないせいか、この騒ぎに気付いていないようだ。もし気付けば金井に食って掛かるはずだ。そのときは加勢して二、三発殴ってやろうと心に決めているが、その時は訪れない。

「本当に俺を退学させる気なのかな」

 あんな約束をしたのは暁の為と言えなくもない。だから、てっきり俺に一位を譲ってくれるものとばかり思っていた。そんな自分の甘さを呪いたくなる。まさか、あんなにやる気を出すとは。その姿が以前よりも元気に見えるので、俺の行動もあながち間違ってはいなかったようだが。

 それが結果的に俺の首を絞めている。しかも久しぶりの勉強に頭が痛くなっていた。生活のリズムも崩れている。本当、口は災いの元なんて昔の人は上手い言葉を作るものだ。お口にはチャックをしておこう。そうしよう。

「ねぇ、あれって」

「あっ、そうだよ」

 お口にはチャックを。

「S組の子を好きになって勝負しちゃったってやつでしょ」

「身分違いの恋って素敵よね。悲恋よね」

 チャックを。

「でも、あんまりぱっとしない顔よね」

「やっぱり、こういうのは美男子がやるべきよね」

 ぷちっ。

 チャックのファスナーが取れてしまった。

「おい、君たち(ry」

「あなたたち!」

 俺の声は大きな声でかき消されていた。この声は誰だろう。聞き覚えはあった。

「「く、久遠寺様!」」

「陰口は陰で言いなさい。本人に聞こえてしまっては不快です」

「「し、失礼しました!」」

 そう言って女生徒達は急いで食堂を出て行った。美羽の物言いに多少の疑問はあるが、助けて貰った手前それを言うのは野暮というものだ。

 それにしても俺の噂は随分脚色されているな。人の想像力につい感心していた。

「ふぅ……」

 美羽はやれやれといった感じで息を吐いた。普段の美羽らしからぬ行為に俺は言葉が出ない。すると、美羽が俺に向かってきた。一直線の最短ルートだ。

「尾崎さん」

 目の前に美羽の姿があった。不機嫌さを露わにした珍しい顔。一体、どうしたのだろう。

「どうしましたか」

 つい物怖じして丁寧口調になってしまった。

「どうしましたか、じゃありません。あんなことを言われて黙っていては体に毒です」

 たしかに学校に対していつしか居心地の悪さを感じていた。そのことを言っているようだ。

「まぁ、あながち嘘でもないし。暁もやる気になってるし」

「それです!」

 美羽がずいっと顔を近づける。凄く綺麗な顔だ。目を背けるのを忘れてしまう。

「学校とは誰にとっても過ごしやすい環境でなければなりません。それを暁さんの為とはいえみすみす手放してはいけません」

 さすがは理事長の娘といった言葉だ。そんな風に考えたことは一度もなかった。頭が良い奴、運動が出来る奴、友達が多い奴。そういう奴らが過ごしやすい環境が学校であって、特に何もない人間にとってはただ時間を浪費する場所。そんな風に思っていた。

「手放したつもりはないよ」

 俺は美羽に倣って顔を近づける。真剣さを伝える為に。

「お、尾崎さん……その、近いです……」

 美羽に顔を背けられた。やはり俺の顔では顔を背けたくなるようだ。少しショックを受ける。

「ごめん」

 顔が悪くて。

「いえ、その急だったので……」

 沈黙が続く。なんだ、これ。さっきまでの威勢はどこにいったのだろう。美羽の顔が熱っぽくなっている。もしかしたら調子が悪いのかもしれない。そんな相手に無理をさせてしまうなんて、俺はどうしようもない奴だ。

「暁さんじゃなくて私だったら……」

 美羽が凄く小さい声で何かを言った。俺に聞かせる為の言葉ではないようだ。ならば、聞き返す必要はない。

「ありがとう、美羽」

 ひとまず言い忘れていたお礼を言った。すると、美羽は笑顔になって。

「困ったことがあったら、いつでも頼ってくださいね」

 美羽はもしかしたら暁との一件を知り、自分が蚊帳の外に置かれてしまったような気になっていたのかもしれない。そうじゃなければ、美羽がこんな行動をするとは考えられなかった。

「それじゃあ、転校手続きをお願いしようかな」

「それは遠慮させていただきます」

 美羽がいたずらっぽい笑みを浮かべる。まるで、そんなことはさせないと言っているかのようだ。まぁとりあえず頑張ってみて、それでダメだったら再度お願いしよう。

 カレーは冷えてしまっていたが、俺の心は再び熱を取り戻していた。


「ふわぁ」

 熱を取り戻したと言っても授業中に眠くなくなるわけではなかった。

「帰ろう」

 家に帰ってまた勉強だ。暁に勝つには知識を詰め込まなければ。鞄が重い。普段なら置き勉する教科書たちを詰め込んでいるからだ。鞄の中が俺の脳みそだと思え。

「おめぇ」

 教科書とノート、過去問の範囲をあらかたやったので、参考書や資料集などを持って帰ることにした。その結果がこれだ。無駄にでかく、無駄に厚い。一生開くことなく本屋に売ろうと思っていたが、その思惑は外れてしまった。俺は腰に負担を感じながら帰路に着く。


「赤か」

 家に帰る途中の横断歩道。俺は赤信号に捕まっていた。鞄を地面に置き、軽く伸びをする。家に持って帰れば、しばらくは学校に持っていかなくて良いな。そんなことを考えていたはずだ。

 ブォーン。

 遠くから結構な速度を出しているトラックが見えた。しかも、右へ左へと足元がおぼつかない。飲酒運転かな。このときの俺は呑気に構えていた。歩道にいるから大丈夫だろう。帰ったら、シャワーでも浴びよう。この荷物のせいで汗をかいてしまった。

「危ない!」

 周りの人間が大きな声を出していた。それが自分に向けられたものだと瞬時に気付いた。気付いて、突っ込んでくるトラックを避けようと反射的に体が動く。

 そのはずだった。しかし、それはあるもので妨げられた。地面に置いた鞄だ。俺はこともあろうに鞄に足を取られてしまった。いつもの軽い鞄なら蹴飛ばしていただろうが、今日の鞄はちょっとやそっとじゃ動かない。そうして俺は無様に転んでしまった。

「ドジっ子」

 転んだ俺の目に飛び込んできたのはトラックだった。永遠にも感じられるような時間。これが走馬灯というやつか。おいおい、冷静に分析してどうする。しかし、これが最後の感想だ。全くろくなことがない。学校に入って美羽に会って。暁と再会して。金井とふざけて。シノッチに煽られて。教授の研究室に入って。挙句に退学をかけて暁と対決。その全てが終わってしまう。あまりにあっさりとした幕引きに俺はコンティニューを切に願う。次はもっとうまくやりたいものだ。さながら強くてニューゲームといった心持ちで。そうして、俺は死んだ。十五年と言う短い人生が終りを迎えたのでした。


ジリリリリリリリリリ。

 この音は一体なんだ。俺の記憶が正しければ、俺は死んだはずだった。しかし、この音。死後の世界は完全なる無だと思っていたし、勿論音なんてものはないと思っていた。いや、もしかしたら即死だと思っていたが、最新の医療技術によって俺は救われたかもしれない。だが、もしそうだとしてもこの目覚ましみたいな音は一体なんだ。その説明がどうしても出来ない。俺は必死に目を開けようとした。

「え?」

 目があっけなく開いた。そのことにも驚いたが、もっと驚いたのは、その天井に見覚えがあったことだ。

「俺の、家……か」

 正確には両親の家だが。その世帯主云々の話は今は重要ではない。重要なのは俺が何故ここにいるのかだった。トラックはどこにいった。いや、俺は……死んだのではなかったのか。

「ぐっ」

 情報量の多さに頭が痛む。普段は抑えていた感情のような渦が頭に波紋を広げていく。理解が追いつかないなんてことが久しぶりだった。いつもどこかで落としどころをつけていたし、それに納得していたのに。

 俺は鳴り続ける目覚まし時計を止める。日付は四月二九日を示していた。あまり日にちを気にしない俺だが、それがおかしいことにはすぐに気付いた。なんせその日は昨日過ごしたはずの日なのだから。

「とりあえず」

 シャッ。

 カーテンを開ける。その天気にすらデジャヴを感じるなんて相当だ。毎日朝日を浴びているが、そんなことは初めてだった。

 次に机に置かれた教科書とノートに目をやる。そんなはずはない。あり得ないと思いながらもページを捲る。

 そして、それは確信に変わった。昨日、もとい今日の朝にやった部分がない。正確な日にちを言うと四月三十日にやった部分がごっそりとなくなっている。

「これは」

 夢かと思うのが普通だが、それにしてはここ数日の記憶がリアル過ぎる。トラックがぶつかる瞬間。死を体感した瞬間。あんなものが夢なら現実との区別なんてつきそうにない。

 確認する事柄が多い。俺は寝ぼけ眼を擦りながら、朝食を取る時と同じようにテレビを点けに行った。


「おとめ座のあなたは十一位。気分が憂鬱になる日。下手に外に出ない方が良いかも」

 覚えている占いの内容。使い回しがここまで露骨なら、俺はテレビなんか見ないだろう。そして、俺は一つの解答を導き出した。

「過去に……戻った」

 死ぬ前の状況に戻った。幸か不幸か。俺はやり直す機会を与えられたのだ。しかし、それが意味するものがそれだけとは考え辛い。考えられることは。

「「君は今、幸せかい」」

 嫌な言葉を思い出した。もしこれが幸せを問うものならば。これで終わりと考えるのは楽観的過ぎる。そこまで俺は楽観的に物事を考えてはいない。いや、甘くは見ているけど。そのせいで色々問題が起こったのも確かだけど。

「えぇい!」

 頭をぶんぶん振り考えるのを辞める。考えたら負けだ。頭で理解するには度を超している。そんなのは考えるだけ無駄だ。

「よし」

 ひとまず今やるべきことは学校へ行くことではない。さすがに同じ行動をすれば同じ結果になる可能性があるからだ。それは出来れば避けたい。誰だって死にたくはないのだ。

 そして、俺は妙案を思いついた。

「家から出なければいい」

 もしこれが普段の状況なら引きこもりを宣言するという異常事態だが、目の前の異常事態ではそんなものには目を瞑ろう。

 それに眠っていれば時間もあっという間だ。俺は休日には丸一日寝ている日だってあるくらいロングスリーパーだ。自慢出来ない特技だが、その特技を活かせる機会が訪れたと喜ぶべきではないだろうか。

「そうだ。その通りだ」

 生きていれば一生日の目を見ない特技を披露出来る。良いこと尽くしだった。

「寝よう」

 言うが早いか俺は自室のベッドまで移動し、そしてベッドに体を預けていた。

「次は良い夢を頼むぞ」

 そう言って夢の世界に身を任せた。



ジリリリリリリリリリ。

 その音に目が覚める。意識がはっきりしてくると、その音の正体に気付く。目覚まし時計だ。どうやら設定したまま寝てしまったようだ。そのせいで強制的に起こされる羽目になった。目覚ましを止める。そして、状況を整理する。この音が鳴ったということは丸一日経ったことを意味する。邪魔がなければ記録更新出来ていただろう。惜しいことをした。

「今日は四月三十日か」

 目覚まし時計に表示される日にちを確認する。もし俺の推察が正しければ、俺は死ぬかもしれない。そのことを考えただけで背筋に嫌なものが走る。それを少しでも緩和出来るように顔でも洗おう。そう思い、洗面所で顔を洗う。

「ふぅ」

 すっきりした。というかあのまま寝てしまったから風呂はおろかシャワーすら浴びていない。不潔かと思われるかもしれないが、中世のフランスでは風呂はおろか髪を溶くことすらあまりしなかったのだ。一生で三度しか風呂に入らなかった国王までいるのだから、今の現代人は少々過敏なのだ。以上、俺の言い訳タイムは終了。

「次に確認することは」

 指差し確認ならぬ声出し確認を行う。黙ってやると見落としがあるかもしれない。もっともやるべきことなんてそんなにないので必要かどうかは定かではない。

 ピッ。

 リビングにてテレビを点ける。勿論、テレビを見たかったわけはない。確認するべきことはそこではない。俺が見たいのは。

「今日の占いです」

 これだ。もしこれで十二位ならば、トラックに跳ねられたのは夢というには無理がある。まだ半信半疑な自分を信じさせるには、この方法が一番だ。俺は知らずに祈っていた。頼む、十二位ではないと。いや、十二位でも構わない。前に聞いたことと多少異なっているだけでも構わない。俺はかじりつくようにテレビを見ていた。

「おとめ座のあなたは最下位。何をやってもうまくいかない日。頑張るのは明日からにしよう」

 俺の期待は無残にも。

「ラッキーアイテムは好きな女の子。側にいれば、きっと幸せになれるよ」

 散った。

 しばらくテレビをぼうっと眺めていた。あの日と全く同じ占い。そして、それが意味することは恐らく。

 ――死

「おいおいマジかよ」

 学校を退学するとかしないとか、そんなことは些細な問題だった。それで真面目に勉強なんかしちゃって。そんな日常も悪くないと思っていたのに。

「ははは」

 乾いた笑いしか出ない。感じているのは、純粋な恐怖だった。漠然としか考えていなかった死という存在。それがあるから命は尊く、人生を楽しめる。その程度の認識。

 だが、まだ諦める必要はない。まだ杞憂に終わる可能性だって十分にあるのだから。俺は普段使わない脳みそをフルに回転させる。

「俺は死なん」

 まるで戦争ものの映画でフラグを乱立する兵士の如く。ロケットに入った奥さんと子供の写真に向かって言うように。自分を奮い立たせた。

 やることは簡単だ。まずは家のブレーカーを落とし、ガスを止め、水道の元栓を閉める。当たり前に使っているものが一番危険だという認識を忘れてはいけない。これで少なくとも漏電したり、爆発したり、溺死したりする確率は減るはずだ。

次に俺は家中の窓にある雨戸を出した。日本だから狙撃という線は考えられないが念には念を入れておこう。それと同時に鍵を全て閉める。まるで籠城するかのように。考えられる全ての要因を除去しなければ。

そして、考えられる全てのことを行い、俺は再びベッドに横になっていた。

「これで何も起こらなかったら笑えるな」

 そのときは笑い話として金井やシノッチにでも聞かせてやろう。俺は覚悟を決めた。あとは時間が解決してくれる。俺は真っ暗になった世界でただ時間が過ぎるのを待った。


 あれから何時間くらい経っただろうか。真っ暗になったせいで少し眠ってしまっていたかもしれない。その判断すら危うい状況だった。そして、俺は一つの異変に気付き、布団を跳ね飛ばしていた。

「臭い」

 それは体臭からくるものではない。何かが。そう、何かが燃えている臭いだ。

 急いで起き上がる。ドアから距離を取り、親父から貰ったただでかいだけの謎のモニュメントをドアに投げつけた。一際大きな音と共にバックドラフトが起こる。今回はそれに巻き込まれる間抜けな死に方は避けられたが、無傷とはいかなかった。

「あっちぃ! って、なんだよ、これ」

 ドアの向こうは一面火の海だった。こんなになるまで気付かなかった。俺は自問自答する。しかし、それに対する答えはない。普通ならあり得ないことが起きているのだ。こんなになるまで気付かせないなんて造作もないことだろう。

 俺は次にこんなミスをしないように動いていた。目覚まし時計もこの炎の中でなら確認出来た。

「午後八時か」

 日付は変わっていなかった。どうやら四月三十日に俺は死ぬらしい。俺は一階に降りることが出来ないことを確認してから、自室の窓を開けようとする。しかし、雨戸がどうしても開かなかった。掃除なんてろくにしていなったからだろう。窓から出ることは出来そうにない。まさか自分で逃げ道を塞ぐことになるとは。壊そうとも思ったが既に煙が漂っている為、時間を掛けていては死んでしまう。

「こうなったら一か八か」

 階段を走って玄関から出よう。あそこには雨戸はない。問題を上げるならチェーンが外れるかどうか。いつもなら簡単なことでも今、この死と隣り合わせの環境で上手く指が動いてくれるかどうか。しかし、このまま何もしなくても死んでしまう。それなら。

「よし」

 俺は火の海となった一階に向かって下りる覚悟を決める。既に煙のせいで目を見開くことすら厳しい。だが、真っ直ぐ進めば出口がある。それさえわかっていれば十分だった。俺は胸に手を当て階段を駆け下りた。

 バキッ。

 足を踏み外した、のではない。踏むべき階段が壊れた。本来あるはずのものがなく、体はバランスを崩す。その結果、視界が一転する。

「ぐっ」

 次の瞬間俺は火の海となった床に叩きつけられた。一般家屋の二階の高さは三メートル。だが、その高さでも打ち所が悪ければ死んでしまう。そして、不幸にも両足には全く力が入らなかった。叩きつけられた衝撃で折れてしまったようだ。

 火の海で一歩も動けなくなってしまった。俺は自分の体が燃えていく様をただただ眺めることしか出来ない。人の焼ける臭い。それも自分の体が焼けていく臭い。形容しがたい悪臭だった。

 それでも動く両手で体を動かそうとする。しかし、力が入らない。良く見ると指が解け、グーの状態から開かなくなっていた。野口英世も火傷して、こんな風になったのか。俺の脳みそはもう助かろうとは考えてはいなかった。全身がこんがりグリルされる感覚。さながらファラリスの雄牛と言ったところか。唯一違いを述べるなら、俺は一声も上げることがなかったということだ。



ジリリリリリリリリリ。

 音が聞こえる。始まりであり、終わりの音。

俺はまた両目を開けることが出来た。もしかしたら、現代の医療によって焼死を避けられたのかもしれない。そんな期待に胸を膨らましながら、両目を開けた。

 知っている天井だ。何のことはない。自分の家の天井だ。俺はうるさく鳴る目覚ましを止め、体をゆっくり起こした。

「またか」

 簡単に動いた両の手を見る。指はちゃんと五本あり、しっかりと動いていた。さっきまで全然動かなかったのに……動かなかった?

 火の海。赤い光景がフラッシュバックする。

「うっ」

 急な吐き気が襲ってきた。俺は急いで洗面所に向かった。

「うえっ……うっ、うぐぇえ」

 歯ブラシを喉の奥に入れた嗚咽ではない。

 人が焼ける臭い。それを思い出しただけで吐いてしまった。老成した精神を持っていると自負していた俺でも簡単に吐けてしまった。心では納得していても体は別だった。初めて死体を見た時に吐いてしまう気持ちが今ならわかる。

「はぁ……はぁ……はぁ」

 少し落ち着き鏡を見ると、今にも死にそうな顔をした男が映っていた。

「今度の死はだいぶ早く訪れるな」

 精一杯の強がりを言っていた。どうやら俺にはまだ余裕があるらしい。二回死んでも余裕があるなんて表現は間違っているが、俺の心はまだ死んでいなかった。今はそれがわかっただけでいい。

 ついでにシャワーでも浴びよう。寝汗が酷い。さっきまでなら肉汁と言った方が正しかっただろうか。

俺はすっきりして、考えるべきことをまとめようと動いていた。


「逆に考えよう。死ぬ前に何がしたい」

 リビングのソファに腰を掛け、テレビを点け、漠然と考えていた。寝間着から着替えることなく、休日のお父さんスタイルのままだ。

 この現象に意味があるなら、問題はそこだ。恐らくどんな試行を凝らしても、死を回避することは出来ない。ということは死の回避が重要なのではないのかもしれない。逆転の発想……別に逆でもないか。

 そして、残念なことに俺の未来予知は今回使うことが出来ない。使わないように努力した成果が表れたのか。非常に役に立たない俺の能力。まるで俺自身だ。

「はぁ……」

 溜息は幸せが逃げるなんて言葉があるが、そんなもの今の俺には当てはまらない。二回死んで、またこれからも死ぬというのに幸せも減ったくれもない。

「あぁ、死にたい」

 ソファで横になる。一体どうしろと言うのか。俺は時間がただ過ぎるのを見ながら、だらだらしていた。

 グー。

 いくら考えても良い案は出ない。しかし、お腹の虫は元気だった。当たり前だが、腹が減るのか。生理現象とはいえ何か情けなさを感じる。

 いつも通りパンをトースターに入れ、朝食を取る。そして、そのときに。厳密にはパンを口に入れ、咀嚼しているときに。俺は一つの考えが浮かんだ。

「どうせ死ぬなら美味いものが食べたいな」

 よく最後に何が食べたい、なんて質問をよく聞く。ラーメンだったり、カレーだったり、焼肉だったり、寿司だったり。はたまた母親の手料理だったり。それほどまで食は重要視されている。もしかしたら、そこに突破口があるのかもしれない。

 やることは決まった。俺は銀行の通帳を探し、残高を確認する。

「四十万くらいか」

 小さい頃から貰ったお年玉や誕生日、それに月々のお小遣い。色々含めた金額だった。

「これだけあれば好きなものが食えるな」

 あまり相場は知らないが、一食でこの金額を使い切れるお店は少ない。かなり数が絞られる。今まで食べていたものが嘘のように感じることだろう。俺は死ぬというのにかなり不謹慎だった。

 生憎、朝食を取ってしまった為、昼食から楽しむことにしよう。そうしよう。

「ランプフィッシュの卵を黒く塗ったやつが食べたい」

 そんなことを言っていた……はずだった。


「ピザうめぇ」

 俺は豪快にピザを食べていた。目の前には色とりどりのピザ。全てのピザにはこれでもかとチーズが乗っており、旬のお肉や野菜が乗っている。かなりの量だ。

「こりゃ食べきれないな」

 俺は粗方手を付けて、そう思った。ポストに入っていたデリバリーピザのチラシ。それを見てMサイズを三枚ほど頼んだ。久しぶりでサイズとかカロリーとか全然気にしていなかったのだ。そのせいで、目の前には半分ほど残ったピザがある。

「夜に食べよう」

 どうやら、俺は目の前のピザを捨てることが出来ないようだ。貧乏性が板に染みついてしまっている。ピザを皿の上に移動させ、ラップを掛けて、冷蔵庫に入れる。冷えてしまったピザはどうしても美味しくなくなってしまうが、そんな贅沢は言えない。というか俺に贅沢は難しい。そんな悲しい結果になってしまっていた。



ジリリリリリリリリリ。

 聞き慣れた音が部屋に響く。俺は心の奥でまた今日が来てしまったと思う。今日。恐らく俺は死ぬ。そんな思いがあってか、目覚めはかなり悪かった。

「はいはい、今起きますよ~」

 そう言って目覚ましを止める。静寂と共にカーテンの隙間からは陽光が差し込む。憂鬱な気分になっているのは俺の心だけらしい。世界はどうやら幸せに満ちているようだ。

「はぁ、死にたくない」

 俺は当たり前の感想を漏らしながらカーテンを開けて、日の光を全身に浴びる。久しくこの日課もやらなくなっていた。理由は言わずもがな、だろう。

「さて」

 昨日はピザを食べて一日が終わってしまった。その反省点を活かし、量は多くないのに値段は高い。そんな食べ物を探していた。

 ネットで調べてみた結果、近くにある寿司屋がそうらしい。魚の値段は時価と書かれており、平均的に五、六万はするみたいだ。盛大なランチを楽しむことにしよう。

「朝食を軽めにして、昼まで映画でも観よう」

 普段しない行動を積極的にする。そうすることで現実を見ないようにしていた。もしくはそうすることで現実を変えようとしていた。俺は落ちそうになる気分が下がらないように洗面台で顔を洗う。冷たい水が俺に生きているという実感を湧き上がらせる。そんなことを気にするようになったのはここ最近だ。俺は生に貪欲だったようだ。

「っしゃ!」

 顔を叩いて気合を入れる。気合を入れてすることが映画を観るというのは締まらないが、気にしていても仕方がない。俺は勇み足でリビングへと向かう。


「ゾンビとラブロマンスか」

 デッキの下に置いてあったDVDはこれしかなかった。近くのレンタルショップで借りに行っても良かったのだが、外に出る恐怖が勝ってしまった。極力外に出るのは控えたい。その結果がこの二本のDVDということだ。

「これ二つとも見れば丁度、お昼ぐらいになるな」

 問題はどっちから見るかだが、ゾンビ映画にはグロテスクなシーンが付き物だ。それを見て昼食というのも気が引けるので先に見るのは必然的にこちらだ。DVDのジャケットを見ると、マンガ調のゾンビが描かれている。それだけ見ると全然怖そうじゃない。あまり期待しない方が良いかもしれない。

 俺は一抹の期待だけを胸にDVDをデッキに入れた。


「う~ん」

 ゾンビ映画を観終わって、俺は唸り声を上げていた。どうしても結末に納得がいかなかったからだ。

「最後にミサイル打って終わりって……しかも倒せてないし」

 洋画にありがちなミサイル打って万事解決というシーン。主人公とか登場人物が全員死ぬというなんとも全てを諦めたような展開。脚本家が匙を投げたような気がしてならない。

それにゾンビ映画によくある裸の女性のシーン。こんなものを親の前で見たら気まずい沈黙が訪れることだろう。ほぼ一人暮らしの俺には静止ボタンを押すほどの余裕があった。ビバ一人暮らし。ありがとうフルハイビジョン。

しかし、かなりの人間が死んでいたな。今の俺には死ぬシーンが目に付いてしまう。フィクションでも死は死として存在しているからだ。それに比べると俺の死は死と言えるのだろうか。謎だ。

「まぁ、いいや。次はこのラブロマンスを見るか」

 先ほどの映画のお陰でだいぶハードルは下がっているし、ジャンルが異なるので新しい気持ちで見られるはずだ。

 俺は気持ち新たにDVDを入れた。


「う~ん」

 先ほどと全く同じ言葉を漏らしていた。もっと純粋なものかと思いきや、主人公の男と女が殺し屋というなんとも浮世離れした職業。しかも、そのあと雇い主を殺して自由になってハッピーエンドになるかと思いきや。そんな単純には終わらず、女の故郷の地に男が連れて行き、そこで男が殺される。そんな死が溢れた作品だった。この男は女の為に生き、そして死んだ。そこに幸せがあったのだろうか。少なくとも俺には理解出来ない。

 というかほとんどの映画には死のシーンが含まれている。目に見えて悲しい。その分かりやすい展開でないと人は悲しみを理解出来ないからだろう。人の感情とはどんどん希薄になっている気がしてならない。

「というか」

 俺の死で悲しむ人はいるのだろうか。俺が死んだあとの世界で俺の為に涙を流す人はいるのだろうか。いや、死んだあとの心配なんてする必要なんてない。

よく“生まれるときにあなたは泣き、周りが笑顔になる。死ぬときはその逆であなたは笑顔になり、周りが泣く”と良い人生だと言われる。俺の人生はどうやら良いものではなかったようだ。

グー。

お腹の虫が鳴る。時計を見ると丁度お昼頃だった。俺は通帳を片手に外に出た。最後の晩餐だ。



晩餐と言いつつ昼食だ。最後の昼食では格好が悪いということで却下した。それが誤用であっても譲れない何かがあったわけで。決して馬鹿なのではないという注釈をわざわざ説明しているわけだ。説明しなければ、わからない人もいるということを俺は知っている。

「四十万円か」

 銀行のATMで引き出した大金にギョッとしてしまう。こんな大金を手にしたことなんて一度もなかった。これだけあれば車と二輪の免許が取れる。上手い例えが思いつかないが、結構な金額だということだ。あとは初任給の倍くらいしか思いつくレパートリーがない。貧困な脳みそとは裏腹に手にしたお金は大きかった。

「あとはこれをぱーっと使うだけ」

 こんなことをしていいのだろうか。もしこれで死ななかったら四十万円の出費だ。来月は霞でも食べないとやっていけない。最悪、誰かから借りるしかないか。美羽辺りに頼めば問題なく借りられそうだ。体で払うと言えば適当な仕事もくれるに違いない。そうだ、美羽に頼もう。俺は一つの模範解答に行き着いた。

「え~と、お店は」

 最近の携帯電話では目的地までの場所を教えてくれる機能まで付いている。そのことに最近気が付いた。それ以外にもたくさん機能が付いているのだろうが、俺の携帯に選ばれた時点でこいつは百パーセントの性能を引き出すことはないだろう。宝の持ち腐れというやつだ。それでもこの地図機能を使うことは出来た。

俺は右や左という音声に従って、目的地に向かった。


「ここか」

 その出で立ちに高級感が漂う。もし普通に生きていたら来ることはなかっただろう。見た目はシンプルイズベストで、そんなに大きいわけではない。しかし、ここはミシュランで星を取った名店だ。緊張で引き返そうとも思ったが、最後の晩餐にはふさわしいはずだ。

俺は引き戸を開けた。

「いらっしゃい」

 ねじり鉢巻きのオヤジさんがカウンター席の客に寿司を握っていた。その洗練された所作につい目がいってしまう。箸と手で食べる客に合わせたシャリを握る。そして、ネタごとにもシャリの量が違う。本物だ。この親父の手は寿司と奥さんだけしか抱いていない。

「こちらにどうぞ」

 奥さんらしき人が俺を空いたカウンター席に誘導してくれる。良かった、勝手に座って常連客から白い目で見られなくて済む。俺は誘導されるがままに席に座った。

 目の前には魚や貝が自分たちの出番を待ちわびている。そんな風に見えてしまう。神聖な魚介を前に俺は何を頼んでもはずれがないことを確信する。

「ご注文は」

 あがりとおしぼりを持ってきてくれた奥さんが注文を尋ねてきた。俺はメニューを見るが、どれが良いのかさっぱりわからなかった。こういうときは無知を恐れずに聞いた方が良い。そう思って奥さんに尋ねた。

「えっと、最後にふさわしいものをお願いします」

 言葉が悪かったのか、奥さんは少し困った様子だった。しまった、自殺志願者と思われてしまったか。いや、しかし、あながち間違いじゃない。それが俺の気分を下げる。

「お客さん、任せとけぇ! また食いたくなるもの作ってやるよ」

 オヤジさんに注文が聞こえていたようで、陽気にそう言い放った。なるほど、そういうことが言えるからこその名店か。俺は先ほど下ろした封筒を奥さんに渡した。

「これで食べられるだけ」

 そう言って奥さんは封筒の中身を見て驚いていた。まぁ、ただの学生風情が持つには大きな金額だ。でも、見た目で判断されて安いものを出されても仕方ない。俺にはもう時間がないのだから。

 奥さんはオヤジさんに耳打ちをする。値段に合わせたネタを考えているのだろう。少し考えたあと、親父は俺の前で寿司を握った。

 そこから先はよく覚えていない。ただ百円寿司しか食べたことない俺にとっては本当に寿司なのかと疑問に思うようなネタばかりだった。赤身やトロ、貝。その全てを堪能した。この日の味を一生忘れることはないだろう。そう思えるほどの一食だった。もう思い残すことはない。その気持ちが俺の心を支配していた。

「ありがとうございました」

 店を出た俺にオヤジさんのお礼の言葉が聞こえた。俺はごちそうさまとだけ言った。本当にお礼を言いたいのは俺の方だ。さて、これで食べ納めか。このあと俺はどんな目に合うのか。考えただけで胃がきりきりと痛む。まだだ、まだ消化させておくれ。

「なんだとぅ、こらぁ!」

「てめぇこそ、どこ見てんだこらぁ!」

 急に怒号が聞こえた。その方向を見ると如何にもな男たちがとっくみ合っているではないか。俺はお世話にならないように踵を返す。

「どらぁ!」

 片方の男がドロップキックをかまし、蹴られた男が俺の背中にぶつかった。

「ぐぇ」

 変な声が出た。食べた直後の衝撃で戻しそうになった。もったいない。

「この野郎」

 ぶつかった男がナイフを取り出した。おいおい、マジかよ。そして、男は蹴った男に向かって切りかかろうとする。

「ちっ」

 バン。

 発砲音が聞こえた。ナイフを持った男に向かって発砲したのだ。しかし、残念なことに狙いは逸れていた。当たったのはご存じのとおり、射線上にいた俺だった。一瞬のことでよくわからなかった。

「はは、こいつぁ痛てぇ」

 俺の胃のあたりに風穴が空いていた。そこから血だけはなく色んなものが噴き出る。さっき胃に収めたものだ。

「全部赤身になってやがる」

 俺は風穴に手を当て、必死に血を止めようとする。だが、血は一向に止まらない。だんだんと呼吸をするのが苦しくなってくる。ヒューヒューと呼吸をしながら、俺の意識が遠退いていく。

 苦しくなって堪らず仰向けに倒れた。周りは大騒ぎになっているようだ。人々の驚いた顔、悲鳴を上げる顔、手で覆われた顔、色々な顔がある。残念ながら何を言っているのかはわからない。音が一切聞こえないからだ。そして、唯一見えていた視界もぼやけ始める。そんな中、俺が思ったことは一つだけだ。

 美味かったなぁ。そのあとの記憶はない。

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