第零話 悲劇の始まり
真紅金剛の刀身が振り払われ。拭われた血が地面を濡らした。右胸に現場指揮官の階級章をつけ男性士官服を着るアキトは、周囲に敵がいないことを確認すると刀を鞘に納めた。
「クニークルス。この辺りはどうだ」
「も、もういないみたいです」
「分かった。ウルペース、スキウールス。そのまま警戒態勢を維持して。敵影を発見次第報告」
ざっとノイズ交じりの音を立て、耳元から伸びる無線マイクに話しかける。
『了解』
『了解っすぅ』
無線の向こうから聞こえたその声は酷く楽しげで。アキトは特に何も思わなかった。
刀の柄に手を掛けてただ佇むアキトのその場所には。地下施設へと続く階段の周囲に崩落した建築物が散乱していた。
自由気ままに生えた植物に侵食され、大木の根が固いアスファルトを貫いてる。まるで自然の驚異にでも晒されてしまったかのような。世界が滅んでしまったかのような不可解なフィールドがそこにはあった。
「アキトさん。敵です」
「数は」
「約三十です」
「分かった。俺が行く。クニークルスはここで待機し、階段付近の防衛に努めてくれ」
「分かりました」
その途端。クニークルスの表情がすうっと冷たくなった。
その場所から立ち去ったアキトの周りを囲むのは得体のしれない化物。おおよそ人の形をし。呻き声を上げる悍ましき化物。血と肉と腐敗の匂いが辺りに充満し、濃厚な臭気にアキトは目を細めた。
アキトは真紅金剛の刀身を抜き放つ。頭の中心点から地面に貫かれた中心線。そこから両手に構えた刀の切っ先までの彼の絶対領域。
化物の群れは彼を取り囲み、まるでゴールのテープを切るかのように彼の絶対領域に踏み入った。刹那。数多の剣閃が放たれ、化物の血しぶきが燦然と舞う。例え、目を閉じていても絶対必中の彼の絶技が、己の領域を犯す全ての化物を叩き斬った。
僅かにして。すべてを終えたアキトは血に濡れた刀身を振り払い、鞘に納めて元の場所へと戻った。
「終わりましたか」
「ああ」
アキトの返答を聞いたクニークルスは、冷気の漂う表情から一転して心優しそうな表情に戻った。
アキトはヘッドマイクを上げると無線通信状態に入る。
「ウルペース。スキウールス。そっちの状況はどうなって――」
『駄目だ、駄目だ、駄目だって! こいつだけやばすぎるって! 逃げるよスキー!』
『ま、待って! ウルペース!』
アキトの言葉を待たずして、彼の耳を喧騒が脅かした。彼女たちの叫びはなおも続く。
『速いって! 何でこんなに速いんだよ!』
『駄目! もう追いつかれる!』
『こうなったらもう最後の手段だ! スキー! ここは私に任せて先に――』
『ウルペース? ウル――!?』
瞬間。何かが弾けるような音とともに轟音がアキトとクニークルスの耳を襲った。そして、地下室の階段。その階下から上階に跳ね上がるようにして何かが登ってくるのを彼らは見た。それは、人の上半身。血と内臓を引きずるようにしてこちらへと登って来ていたのはスキウールスだった。その顔は涙に濡れ、血にまみれ。痛みに悶絶しているようで耐え。下半身を失くしてなお、彼女は死ねず。こちらへと登って来ている。
アキトとクニークルスの中に、込み上げる何かがあった。それは悲哀なのか。それとも恐怖なのか。
少なくともアキトはただ動けなかった。目の前の現状を認識できずにただ茫然と。ただ自失し。彼は様々な何かを思い。何も思うことができなかった。
「スキー! 待ってて! 今行くから!」
しかし、クニークルスは動いた。心優しい彼女は、スキウールスを思い。ただ動いた。
陽光の温もりを求めるかのように階段を上る彼女の手を、クニークルスは掴もうとして。
『え』
そのまま頭を砕かれた。何かを思う暇もなく彼女の命は呆気なく桜のように散った。彼女が最後に発した言葉を聞いたのは、無線を通していたアキトだけだった。そしてスキウールスはもう死んでいた。
最後に残されたアキトはただ恐怖していた。動かなければ。逃げなければ。次第に状況を認識し始めたアキトは、ただそう思っていた。まるでそれが当然であるかの如く。目尻に涙を蓄えて、カタカタと震える自分と目の前の光景を認識していた。
ウルペースを殺し、スキウールスの胴体を割り、クニークルスの頭を砕いた。その化物は。伸びすぎた爪を生やし。吸血鬼のような鋭い牙を持ち。生気の宿っているような顔をしていた。
やがて、化物はこちらを一瞥すると、何もせずに地下へと潜っていった。
恐怖に呑まれていたアキトの心を安堵が満たしたとき。彼は思った。
――助かった、と。
しかし、その言葉を思い浮かべた時。彼は酷く動揺した。自分だけが。訳も分からず、自分だけが。ただ助かった。助かってしまった。
何もわからず。何を知ることもなく。ただ一人だけ。生き残ってしまった。彼はそう思った。
最早、何を思うこともなく彼は膝をつきただ涙を漏らして、請う。
「誰か……。説明してくれよ……」