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聾聲

作者: 吉田 将

柳瀬やなせとおるさん。残念ですが、あなたの左耳は―――』


 一週間前、耳鼻咽喉科の医師に言われたことを思い出しながらボクは人々の雑踏行き交う街中を歩いていた。

 始め、それを聞いた時はすぐに事の意味を理解することが出来なかった。

 医者の言葉から出たのは突発性難聴とっぱつせいなんちょうという言葉であった。

 難聴……他の人の話しではよく聞くが、まさか自分がそれになるとは思わなかったからである。

 土曜日の夕方、昼寝から目を覚ました時には確かに左耳に違和感を感じていた。とはいってもボーッとした軽い耳鳴りと高い山に上った時の気圧変化によって生じる耳の閉塞感だけだ。

 それにその日はちょうど雨だった為、天気の悪い日に必ずといって言いほど起こる偏頭痛持ちのボクにとってはいつもと変わらない大したことが無いものだと思っていた。

 ところが、次の日よく晴れた日曜日でも耳鳴りと閉塞感は全く改善されなかった。いや、寧ろ耳の中に水が溜まっているかのようにますます聞こえにくくなったのである。

 とはいえ、日曜日では耳鼻咽喉科を受診しようにも休診であったから、その次の月曜日に受診することとなった。

 そうしてようやく耳の診察へとこぎつけたのだが、医者からの話しだと左耳の聴力、特に低音に関して鼓膜が働いていない為、薬を処方するのでそれを一週間飲み続けた後に再度受診に来てください。といったものであった。

 そうして、その再度受診に訪れた一週間前の診察において、その病名を告げられたのである。

 医者の話しではもう聴力は著しい程に落ちており、恐らく回復してもあまり聴こえないであろう。ということであった。

 現にボクの左耳は僅かな雑音と大きな耳鳴りしか聞こえない。もはや見た目だけのただの飾りにしかならない。

 聞こえなくなった……そう周囲の人に話した結果、皆はボクを気遣うような言葉を掛けてくれた。

 しかし、その後はボクを腫れ物のようにして扱い「聞こえないから……」という理由で話しの輪にもなかなか参加させてくれなかった。

 どうして、人と少し違うだけでここまであからさまな反応をするのだ? それはもはや差別と偏見ではないか!

 そう憤ったところでまた以前のような暮らしに戻ることは出来ない。見た目は変わらないのに……まだ片耳は聞こえるのに……そんな急に気を遣わなくたっていいのだ。以前と同じように接してくれて良いのだ。

 ボクは交差点の赤信号を待ちながら、今後のことを考える。そんな時であった。


「ねぇ」


 ボクの隣で少女のような声が聞こえた。

 まぁ、こんな雑踏だ。ボクの近くに居る誰かが話しているのだろう。


「ねぇ、誰か……私の声を聞いて……」


 そんなことを思っているとまた少女のような声が聞こえてきた。

 ボクは軽く辺りを見渡す。

 声の主は十代くらいの若い女の子の声だ。

 だが、ボクの周りにいる女性は二十代後半から四十代くらいの女性ばかり……こんな若い声を出せるような人はいなかった。

 そんな中、信号は赤から青へと変わる。

 ボクはそれに気付いて周囲よりも先んじて渡ろうとした。


「危ない!」


 その途端、先程まで聞こえた少女の声は急に激しいものへと変わり、ボクは思わず何事かと立ち止まって声の聞こえた方を振り返った。

 瞬間、ボクの前を左から大型トラックが猛スピードで通り過ぎていった。信号無視だ。

 トラックの通過した際の風圧を受け、そのいきなりの出来事にボクは思わずその場で尻もちをついてしまった。

 周囲にいた人達が心配そうにボクに近付き、気にかける。

 安否を気遣う声、驚きの声、通過したトラックに罵声を浴びせる声……様々な蛙鳴蝉噪あめいせんそう罵詈雑言ばりぞうごんが飛び交う中、ボクの左耳はあの声を捉えた。


「良かった……届いた……」


 右耳が様々な雑音を受け入れる中、静寂を貫く左耳はその温かく優しい言葉だけを引き込む。

 ボクは周りを見渡したが、あの声を持つような人はいない。

 そんなボクの様子に安心したのか周囲の人達は潮が引くように周りから離れて信号を渡っていく。

 気のせいだったのだろうか……そんなことを思いながら立ち上がったボクはふと、信号機の根本にあるものを見つけた。

 それは可愛らしい一輪の黄色いタンポポであった。

 こんな雑踏の中でも懸命に生きている。

 まさかとは思うが―――


「……君が声を掛けてくれたのか?」


 そう思わず尋ねてしまった。

 タンポポは何も答えない。

 思わず自分の滑稽な行動に苦笑し、気のせいかと横断歩道を渡る。

 そんな時、またあの声が左耳に聞こえた。


「ありがとう……聞いてくれて……」


 思わず、立ち止まり振り返りそうになったが信号は点滅を始めていた。

 慌てて向こうに渡ってから振り返る。

 タンポポは通る車の風に煽られ、なびいている。

 その姿がまるで手でも振っているかのようにボクには見えた。

 恐らく、彼女は恥ずかしがり屋なのだろう。

 そう思い小声で「こちらこそ、ありがとう」と呟いたボクはその場を去る。

 どうやら、ボクの左耳はまだ飾りにするには早いようだ。と、同時にボクは難聴になってからのことをふと振り返った。

 そういえば、自分から周囲へ話しかけていなかった……話し掛けてその内容の一つ一つを繰り返し尋ね返すのが皆の迷惑になると思ったからだ。

 でも、本当は皆そんなことは思っていなかったのかも知れない。

 変に気を遣っていたのはボクの方だったのだ。

 そのことに気付き、ボクはおかしくてフッと笑った。

 これからは積極的に動いてみよう……あのタンポポのように自分から動かなければ何も始まらないのだ。

 命を救ってもらったばかりか、そんなことまで教えられた……あのタンポポには感謝してもしきれない。

 そんなことを思ったある麗らかな春の一日であった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 良いお話でした。 難聴の方は、意外と近くにいるものです。僕は、その人に余計な気を遣って、嫌な思いをさせたかも知れないことがあります。今でも、その人の前に出ると変に緊張してしまいます。相手は…
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