訪問
あの後必死で何杯も飲み干した私を、リネイセルはどこか満足そうに見遣りながらその場を辞していった。
再び鍛錬へと戻る彼を眺めながら、心なしか膨らんだお腹を抱えて一人休憩を決め込む。
結局慰問というよりも、ただの見学状態になっていた私を残したまま、今日の鍛錬は終わったようだった。
「黒姫様」
いつの間にか後ろにメイヤさんが控えていた。
「陛下よりお言付けです。本日中にアシュロム様をお訪ねするように、と」
その言葉の意図が読めず、メイヤさんを見つめる。
だってアシュロムとはもう会ったし、あんな感じで去って行って、なんかちょっと気まずいというか触れがたいし。
そもそもアシュロムのことだから、部屋に女性を連れ込んでそうで怖いのだけれども。
「それは王命ですか?」
行かないで済むのなら行きたくない。
だが、私の心情をよく理解しているだろうメイヤさんは恭しく頭を下げたあと、容赦無く頷いた。
今はもう誰もいない鍛錬場を見つめる。
ここでもう少し、リネイセルとの思い出に浸っていたかった。
結局グズグズしていたら夕方近くになってしまい、「婚約者と言えども夜に殿方の部屋を訪れるのは……」とメイヤさんに控えめに言われて、やっと重い腰を上げる。
考えてみたら、自分からアシュロムの部屋を訪ねるのはこれが初めてだ。
いつもフラフラとどこかの貴婦人と出かけているし、気が向いたときにしか会いたくないだろうと、自分から訪ねてみるだなんて考えたことさえなかった。
……またなにか嫌味を言われるだろうか。
重い足取りで、アシュロムの部屋へと向かう。
扉の前にいる護衛の騎士が私を見て、驚いたように目を丸くした。
「黒姫様の来訪をお伝えください」
メイヤさんが頭を下げる。
「先触れがなかったようですが」
「先触れを出すといなくなるだろうから不要だと、陛下が」
騎士と一緒に閉口する。
そこまでしてなぜ会わせたい。
「お待ちください」
騎士は慌てたように扉を叩き、顔を出してこれまた目を丸くした従僕に事の経緯を話している。
少しして再び従僕が顔を出すと、やっと中へと通された。
アシュロムの部屋は、意外なほど飾り気がなかった。
いつも身嗜みに気を遣い、きらびやかに着飾っているアシュロム。
そんな彼のことだから、部屋も目が痛くなるほど派手に違いないと勝手に思い込んでいた。
でも彼の部屋はシンプルというよりも、物がなくてがらんどうで、どこかもの寂しい。
そしてその部屋の有り様もだが、なによりも衝撃だったのは、シンプルなシャツとスラックスだけを身に着けて、髪を下ろしたアシュロムの姿だった。
「……え?」
「随分な挨拶だな、黒姫は」
大袈裟な仕草に嫌味な笑い方は変わらない。
だけど着飾っていない彼は覇気がなく、どこかいつもと違う印象を抱く。
「先触れもなしに来といて、詫びもないのかい?」
腕を組みながら見下ろされ、慌てて頭を下げる。
「あ、ごめんなさい。陛下が行けって言ったから……」
「陛下が行け、か」
組んだ腕をほどきながらアシュロムは溜息をついた。
「本当に君には呆れるよ。まあ、来たからにはしょうがない。お茶を入れるから座ってくれ」
促され、慌ててソファへと座る。
従僕が運んできたティーセットを、馴れた手付きでアシュロムは淹れていく。
今日はもうこれ以上いらないんだけど、そうも言えない雰囲気に仕方なく出されたものに口をつけた。
「……いい香り」
お茶のことなんてよく分からないが、自分が淹れたものと全然違うことだけはよく分かる。
驚きに固まる私に、目の前に腰掛けたアシュロムはフンと鼻を鳴らした。
「違いがわかってもらえたようで、なによりだ」
王は一体なんのためにここに来いだなんて言ったのだろう?
彼の得意な嫌味で正気を取り戻せと?
浮かれ過ぎるなっていいたいのか?
アシュロムは長い足を組むと気怠そうに髪を掻き上げた。
「それにしても、わざわざここまで足を運ぶなんて、君はどうかしている。しかもこんな時間にときた。……もしかして、まさか期待しているのか?」
まじまじと正面から覗き込まれるが、悪いがなにも期待していない。
半眼になった私に、アシュロムはまた自嘲気味な笑みを浮かべると、金色の睫毛を伏せる。
冬の海のような冷たい瞳が隠された。
「君はいつもそうやってだんまりを決め込むな。まるで私との会話はつまらないものだとでも言いたげだ」
……別に、そういうわけじゃないけど。
ただ私にはこの世界の貴族たちを楽しませるような知識も会話術も持ち合わせてはいないし、それにすぐにマナーが礼儀がと口を挟むのはアシュロムのほうだ。
これ以上ボロが出ないようにと口数が少なくなってしまうのも仕方がないと分かってほしい。所詮、私なんかにウイットに富んだ会話なんてできるわけがないんだ。
「ほら、なにか言ったらどうだ?」
「……お部屋ではシンプルな服装なんですね」
「お望みなら、着替えてくるよ?」
なんとか絞り出した会話はすぐさま嫌味で返された。
「だから……そういうことじゃなくて。私はただ、そっちのほうがいいと思って」
「こっちのほうがいい? 君の感性はよくわからないな」
クツクツと笑い声をあげられる。
嫌な笑い方だった。
「自分をよく見せるために着飾るのに、その逆がいいだなんて、それじゃあまるで本末転倒じゃないか」
「そうですね、そう言っています」
「……なに?」
アシュロムは笑いを引っ込めた。
冷たい紺碧の瞳が私に向けられる。
「いつものアシュロム様はゴテゴテし過ぎてて、その、ちょっと……苦手です。そのくらいでいてくれたらもっといいのにと、そう思っただけです」
なまじ美形なだけあって、ジロリと見られると迫力がすごい。
似合ってないくらい言ってやろうと思っていた意気はすぐに挫かれて、無難な言葉しか口にできなかった。
「本当に?」
ポツリと、力無く呟かれた。
おもむろに立ち上がると、隣へと掛け直してくる。
急に近づいた距離に反応する間もなく、肩に手を回された。
「この私なら、受け入れるか?」
顎に指をかけられ、くいと顔を寄せられる。
「え? なんですか」
振り払うこともできずに眉を顰めると、下りた前髪の隙間から、じっと見つめられた。
珍しく嘲笑の浮かんでない、吸い込まれそうに深い紺碧色の瞳だった。
「こんななにもない私のほうが、君はいいって言うんだね?」
「なにもない、って」
なんなんだ、彼は一体どうしたんだ。
そもそも受け入れる受け入れない以前に、私たちは一応婚約者という関係だ。
だいたいマナーもなにもなっていないって、このままじゃ結婚しないって私を受け付けないのはアシュロムのほうだ。
浮名を流して私のほうを見向きもしないのも、アシュロムじゃないか!
「なにを仰りたいのかちょっとよく分からないです。こういった意図の分からない会話は、苦痛です」
「……」
顎にかけられた指から力が抜け、離れていった。
「君は本当に……」
アシュロムは暫く私の目を覗き込むように見つめていたが、ややあって立ち上がると背を向けてきた。
「今日はもう帰ってくれ」
言われるがままにぎこちない礼を披露して退室する。
アシュロムは背を向けてしまって、結局最後までこっちを見ることはなかった。
王がなんのためにこんな命令を下したのかよく分からない。
ただなんとなく……いつもと違う色を浮かべた瞳だけが、少し気にかかった。