慰問
その日の目覚めは最悪だった。
「本日は訓練所への慰問があります」
起きた途端に侍女にそう告げられ、一気に気分が重くなる。どこに慰問に行くのか知らないが、たとえ行ったところでロクなことにならないのは目に見えている。
「私が行っても、慰問にはならないのでは?」
僅かな反抗にも侍女は顔色を変えることなく、頭を下げてくる。
「陛下がお決めになったことです」
慇懃な態度の侍女は目覚めのハーブティーを用意すると、再びお辞儀をし、下がっていく。動くのも億劫で、お気に入りのはずのハーブティーも口にする気にならない。
衣食住世話になっといてなんだけど、私のことは静かに捨て置いといてほしいのに。
「黒姫、準備は出来たかな?」
わざわざ迎えに来てくれた王に内心安堵するが、そうすると別の不満が出てくる。
王が行くなら、私って要らなくない?
そんな気持ちを読み取ったのか、王はその彫刻のような美貌に苦笑を滲ませた。
「行きたくないかもしれないけど、カレナリエルの乙女の騎士団慰問は毎年恒例の行事だからね。諦めて」
ぶすくれた気持ちのまま、王の背後に視線を遣る。今日の護衛はリネイセルじゃない。彼の顔が見られなかったことも、憂鬱さに拍車をかけた。
――さっと終わらせて早々に退場しよう。
どうせ皆の視線など、目の前のこの王がすべて浚ってしまうだろうから。
そう思ってたけど、『黒姫』の珍妙さは私の想像していた以上だったらしい。騎士隊の訓練場に着いた途端、ガヤガヤしていたそこは水を打ったようにシンと静まり返り、一気に場の注目を集めてしまった。
誰もが私に注目している。
あまりの視線の多さにびっくりして、足がすくんで動けなくなった。
「騎士セリオン」
王の艷やかな声が響き、きりっとした表情の近衛騎士団長が前へと出てくる。目の前で跪いた彼に、王は言葉をかけた。
「今年のカレナリエルの乙女だよ」
ギルノールは「はっ」と返事すると、途端に瞳を甘くして私を見上げた。
「なんてことだ、麗しき黒姫様。貴女を巡って争わなければならないなんて……今年のカレナリエル杯はきっと、血を血で洗う熾烈な争いとなりましょう」
なにそれ、怖い。闘技大会って、そんなに過激なものなの?
今年はよりによって私がその乙女役だが、いったいどこの誰が私を巡って血を流しながら争い合うというのだろう?
「ああ、カレナリエルの乙女、愛らしき黒姫様。出来ればあなたを私の懐に大事に大事に隠しておきたかったが、そうもいかないようだ。さぁ、お手を」
王の呑気な「隠したらダメだよ」という茶々を気にする様子もなく、ギルノールは大仰な仕草で手を差し伸ばしてくる。訓練場中の視線を一挙に集めている中で、流石にその手を拒む度胸はなかった。
指先だけをちょんと触れさせた私に、彼は恥ずかしそうに笑いかけてくる。
「控えめな黒姫様も、なんともお可愛らしい。ですけれども、遠慮は入りません。このセリオンに身も心も預けて下さい」
どさくさに紛れて余計な一言を聞いた気がする。でも一々反応していては彼を喜ばすだけだというのはとっくに学習していたので、黙って視線で促すだけに留めた。
腰の引けそうになる体を叱咤して、彼に引っ張られるままに訓練場の中へ進んでいった。騎士達は既に整列しているようで、ギルノールはそのまま私をエスコートすると、少しの間どろりとした視線を合わせてきた。そのまま数秒見つめられ、それからやっと彼は目前の騎士達のほうを向く。
「それでは今年のカレナリエルの乙女を発表しよう。言わずと知れたこの御方、我が愛しき黒き女神よ! ああ黒姫様、どうか哀れなあなたの下僕共に、慈愛の言葉をおかけください」
恭しく前に押し出されて、数多の視線に晒される。囁き声一つ聞こえてこず、張り詰めた緊張に息が出来なくなる。
――なにこれ、こんなの聞いてない。これ、なにか一言でも言わないといけない感じなの。……でもあの喰えない王、一言もそんなこと言ってなかったよね?
怒りに震えながら遠くの王を睨みつけるけど、彼は面白そうに私を眺めているだけで、悪びれた様子もない。
……あの様子からして、絶対に確信犯だな。
真っ白な思考はどうでもいいようなことしか思い浮かばず、呼吸は浅く、上手く空気も取り込めない。
「……が、頑張ってください……」
それだけを押し出すのが精一杯だった。
当然ながら、騎士達の反応はない。
ただ隣でギルノールだけが「お可愛らしい……」なんて、ズレた感想を漏らしている。
私は悶えている彼を置き去りにしてさっさと壇上から降りると、笑い転げている王の元へと逃げ帰った。王は腹を抱えて笑っていたようで、宝石のような瞳が涙に濡れてキラキラと光っている。そんな王の様子に、言わずにはいられなかった。
「こんなの、聞いてませんけど!」
「いやぁ、ごめんごめん。言ったら逃げられそうだったから。しかしあれはちょっと酷いなぁ。とても慰問に来た人の激励とは言えないよ」
君、もうちょっとちゃんと交流してこよっか。
神のような美貌の男の口から、悪魔のような言葉が飛び出す。
踵を返して飛び出そうとした私の前を、王の護衛が申し訳なさそうに遮った。
「さすがにそんなに嫌がられると、彼らが可哀想じゃない。一緒に行ってあげるから、ちゃんと役目は果たそうね?」
珍しく王に手を取られる。滑らかなその手は白魚のようで、自分の手よりも美しい様に、思わず怒りを忘れて感嘆の溜息が出た。
容赦ない王のせいで訓練場内に舞い戻った私は、ひたすら王の影に隠れていた。どこに視線を遣っても騎士達と目が合い、まるで拷問のようだ。
「……あの、ずっと眺められてる気がするんですけど」
「そりゃあ見るだろうね。なんてったってあの黒姫だしね」
訓練場内にて普段の鍛錬を視察しがてら、王が皆にちょこちょこ声をかけている。
彼らは鍛錬に集中しているはずなのに、それでもあちこちから視線が飛んでくるような気がしてならない。
「あの黒姫って……それ、どういう意味ですか」
「うーん、強いて言うなら、架空の生き物? 空想上のものだと思っていたものが実際にいたんだ、って感じかな。あとはその魔力」
いつも思うんだが、人を芳香剤みたいに言わないでもらいたい。甘ったるいだのすごい匂いだの、結構地味に傷ついている。
「この匂いって、陛下の魔力でどうにか出来ないんですか? 遮蔽するとか」
「うーん、そういうのはやったことないね」
王はチラリと視線を寄越した。
「君みたいな暴力的な過剰魔力を有する人は、見たことないからなぁ。僕たちですら、良くて仄かに香るくらいなのに。匂い過ぎて困るなんて誰も思ったことないんじゃない?」
確かにこの魔力がなければ、私は王宮で保護されることもなく、不審者として即座に斬り捨てられていたことだろう。
この世界で私を異色たらしめる魔力には感謝している。が、にしてももう少し加減というものができないものか。
「あ、リネイセル」
王の声に、瞬く間に思考は中断された。視線の先には同僚と打ち合いをしている彼の姿。
いつものストイックに着こなしている騎士隊服も素敵だが、シャツに革の胴着を着けたラフな姿の彼もまた、初めて見る姿で新鮮だ。軽く打ち合っているのか、姿勢を崩すことなく剣撃の音がカッ、カッ、カンと小気味よく鳴っている。一纏めの長い銀糸のような髪が揺れ、毛先が軽やかに踊って、真剣に相手を見据える翠の目もまた惚れ惚れするほど美しかった。
リネイセルの新たな一面をじっくり眺められる貴重な機会に、瞬きも忘れて食い入るように見つめる。そうやってせっかく鍛錬している姿を存分に目に焼き付けておきたかったのに、王は残念にもすぐに彼に声をかけてしまった。
「リネイセル」
言葉が届いた途端、打ち合っていた二人はピタリと動きを止め、すぐさま敬礼する。
「君、一番黒姫に慣れてるだろ? なんか一人ぼっちでかわいそうだから、場内を案内して回ってよ」
衝撃のあまり、意識が飛んでいきそうになった。思わず勢いよく王の顔を見上げる。
リネイセルと、二人で?
――二人きりで?
「あっそうだ、折角だから君もついていって」
だが、私の高鳴る胸を王は残酷にも踏みにじった。
「……」
「ハッ」
敬礼のまま返事した彼は、どことなく見覚えのある顔だ。
「スールウェ・ラエルと申します」
その名前から連想する者が、一人。
「……もしかして」
「イシルウェは、私の兄です」
薄氷色の頭髪、アイスブルーの瞳。
色合いは同じだが、受ける印象は全然違う。細身のイシルウェに対し、彼は適度に筋肉のついた長身で、頭髪も短く刈り込んでいる。涼やかな目元は険を増して、もはや鋭い。
二人は敬礼を解くと、促すように私を見る。見事に上げて落としてくれた王の笑顔に見守られながら、私は淡々とした二人についていくことにした。