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帰還

 

 すべてのことに方が付き、そしてこれ以上ここにいる必要もなくなって。

 太陽の天馬に騎乗しての帰還途中、幕を下ろすように色が変わりゆく空を背景に、黒姫様はぽつりぽつりとまるで言葉を零すように、いろんな話を私にしてくれた。

 これほどまでに話す人だったのかと驚くほど、黒姫様は自分のことをたどたどしくも一生懸命に語り、そして私の話を聞きたがった。

 それはまるで、ただの人のようで。

 彼女と言葉を交わせば交わすほど、彼女が“神の御使い”でも“悪魔の誘惑”でもない、ただの一人の人間だということを実感する。

 私たちは今こうして初めて、お互いに人として言葉を交わし得たのだと実感する。

 段々と沈みゆく陽が、地平に吸い込まれていく。その様子を眺める横顔は、疲れが滲みながらも今までのしがらみからの解放に明るく、それでいてどこかしら引きずられるように寂しそうでいる。

 段々と小さくなっていく儚い斜陽の光が、まるで私たちを染め上げるように照らしている。彩られたその姿をじっと見つめていると、私の視線に気づいた黒姫様がわずかに微笑みかけてきた。

 夕陽に浮かぶその笑みは、いつまでも私の心に焼き付いて離れなかった。









 無事に帰還した私たちを受けて、珍しく陛下やラエル卿、アシュリー様までもが出迎えに出てきてくれた。


「君ならやり遂げてくれるって信じてたよ」


 陛下はただ、それだけを告げた。その表情にはどこか寂寥が浮かび、それになにも返せずにただ礼だけを返す。


「当たり前よ。黒姫の騎士を名乗るのなら、これくらいのことが処理できなくてどうするの」


 相変わらずアシュリー様の言葉は手厳しいが、その目に浮かんでいた険は既にとれていた。


「黒姫様……」


 ラエル卿はひたすら、黒姫様の無事な姿を見つめていた。


「……ご無事のお戻り、なによりです」


 彼にはもっと、言いたい言葉、かけたい言葉もあったのかもしれない。だがラエル卿はそれらを全部笑顔の下に押し込んで、頭を下げながらそうとだけ口にした。


「ありがとう、イシルウェ。それに陛下やアシュリー様も……ご迷惑をおかけしました」


 気弱にそう告げた黒姫様を、ベルゼンヌ侯爵夫人がそっと支える。彼女を部屋まで送りたかったが、詳細な報告のためにと執務室へと促され、そのまま立ち去っていく黒姫様を見送る。


「……黒姫様」


 ――のはずが、その後ろ姿に声をかけてしまったのはなぜだろう。自分でもよくわからない。この心の内に沸き上がった衝動がなんなのかもよく把握できないまま、私は黒姫様に声をかけていた。


「リネイセル」


 束の間、その吸い込まれそうに真っ黒な瞳を見つめる。

 すでに沈んでしまった太陽はもう見えず、薄くヴェールがかかったように辺りは薄闇に覆われ始めている。

 そよ風にさらされている黒姫様の真っ黒な髪は、星明かりにわずかに反射している。まるで夜の帳に溶け込んで消えてしまいそうな、そんな危うくも幻想的な佇まい。


「またすぐに伺います」


 喉元まで出かかったたくさんの感情を処理できずに、なんとかそれだけを口にする。

 彼女は少し驚いたように目を丸くしたあと、ふわりと微笑んだ。


「はい……待ってます」


 ベルゼンヌ侯爵夫人に促されて、すぐにその小さな背は見えなくなった。


「驚いた」


 背後では珍しく陛下が素で驚いた声を上げている。


「あの子、あんなふうに笑えるんだ」

「そうですね……黒姫様のあんな表情を見るのは、私も初めてです」


 どこか切なそうな呟きをこぼすと、ラエル卿はしかしすぐに切り替えたように表情を引き締める。


「では騎士サンダルディア、さっそくで申し訳ありませんが、事の顛末を伺いましょうか」

「ええ」

「では、こちらに」


 ふと見せた寂しげな表情など幻だったかのように、その顔には今はもう、事務的な冷徹さしか浮かんでいない。

 彼は今までもその手腕を発揮して、黒姫様の預かり知らぬところで彼女のためにと尽くしていたことを知っている。そして彼の心が変わらない限り、それはこれからも彼女の知らぬところで続いていくだろうことも。

 先を行く後ろ姿を見つめる。彼ほど心強く、頼もしい存在はいない。だが同時に、恐ろしくもある存在も――。


「どうかしましたか」


 ラエル卿は私の視線を感じ取ったのか、足を止めて訝しげに振り返ってきた。


「いえ」


 それに(かぶり)を振って返す。


「今回の事件で、あなたに書いていただかないといけない書類がまた劇的に増えましたね」

「それは……ちょっと聞きたくなかったかもしれません」


 ラエル卿は冗談とも本気ともつかないことを言って微笑みかけてきた。


「これから黒姫様の伴侶になろうという方が、なにを弱気なことを。これくらい片手間にでも片付けられるようになっていただかないと、この先もずっと黒姫様に寂しい思いをさせてしまうことになりますよ」

「仰ることもごもっともですが……」

「そう厭わなくても、いつでも手伝いますよ。安心してください」


 ふと感情のないはずの、事務的なアイスブルーの瞳の奥から、彼の本心が顔を覗かせる。


「それが黒姫様の安寧に繋がるというのなら、私はいくらでも私の力を貸しますから」


 淡い彩色の彼と対峙する。魔力など薄いはずの彼から感じる圧倒的な意思の熱に、ただ静かに見返す。


「ありがとう、ございます」

「……いえ」


 再び前を向いた彼は、もう振り返ってはこなかった。








 数日後。

 私は堅苦しい執務室の片隅で大量の書類に囲まれて、すでに限界の状態だった。

 会いに行くと言っておきながら、あれから一度も黒姫様の元へと伺うことができていない。

 身の回りのことがすべて変わってしまってから、とにかく覚えなければならないこと、こなさなければならないことばかりで、おまけに今は本当に必要なのか疑問に思うほどの大量の“必要な”書類の提出に追われている。それをまたラエル卿の手を煩わせながら一枚一枚拙く仕上げるのに、私は多分に体力を消耗していた。……これならどんなに粗野で乱暴に扱われようとも、演習場の中を縦横無尽に駆けずりながら剣を振るっているほうがよほど気楽で性に合っていた。

 ついに音を上げて万年筆を置いた私に、ラエル卿は片眉を上げて見下ろしてきた。


「おや、騎士サンダルディア。手が止まっているようですが?」


 おそらく彼に他意はないのだろう。だがしかし事務的な態度だからこそ、彼のこれくらいで音を上げるのか……という失望が透けてきて、それはそれでなかなかに辛いものがあった。


「ちょっとさ、シル」


 見兼ねた陛下がそっと口出ししてくる。


「リネイセルも毎日毎日真面目に頑張ってるみたいだし、そろそろこの辺で。ね?」

「……」


 ラエル卿は陛下の言葉にしばらく考えを巡らせていたようだが、やがて唐突にくるりと背を向けて扉に手をかけた。


「失礼、急用を思い出しました。しばらく席を空けます。そのあいだ、進められるところは進めておいてください」


 どこか視線を逸らしながらラエル卿はそう言うと、一礼して足早に去って行ってしまった。

 視線を感じて陛下のほうを振り返る。陛下はじつに悪い顔をしていた。


「ほらリネイセル! チャンスだよ!」

「……チャンスとは」

「もう! ここまでお膳立てされてもわからないの?」

「残念ながら」

「君さぁ……」


 なぜか盛大にため息をつかれる。


「この辺のいい加減さも、そのうち慣れるといいね。バカ真面目だけじゃやっていけないからね」

「……はぁ、そうですね」

「つまり、見て見ぬふりするから会いに行ったらってこと!」


 目を瞠った私に、陛下はいい笑顔を見せてくれた。


「実を言うと前から黒姫の様子が、って報告も受けてたしさ。これは多分君にしかできないことだろうから。今のうちに一度こっそり顔でも見せてきなよ」

「しかし」


 ただでさえ業務外のことでラエル卿の手を煩わせているのだ。ラエル卿に対しての後ろめたさも多少なりともあった。


「早く行かないと、そのうち痺れを切らしたシルが帰ってきちゃうんじゃないの」

「……。そこまで陛下が仰るのであれば」


 踏ん切りがついて立ち上がった私に、陛下のしたり顔が追ってくる。


「なんだかんだ言って君も、ずっと黒姫のことが気になってたんでしょ」


 それは……そうに決まっている。なにせあれから一度も様子を伺いに行けていない。

 聞いた話でも、ずっと考え込むように物思いに沈んでおり、どことなく元気のない様子だという。……あんなことがあったというのだ、それも当然だろう。

 朝から晩まで難解な文章に責め立てられてがんじがらめになっている今の私では、そんな彼女を慰めに行くことすらできていない。これではなんのために婚約者の座を勝ち取ったという。情けない自分に思わず自嘲が漏れる。


「ではお言葉に甘えて、もしもラエル卿に見つかった際には陛下に唆されて仕方なく、とでも」

「……君ってそう案外としたたかなところ、昔から変わらないよね」


 陛下への感謝の言葉もそこそこに、席を立つ。陛下の従僕が先触れはもう出してあると耳打ちしてくる。……なにからなにまでお膳立てされて、本当に情けない限りだ。

 それでも、黒姫様の元へと伺う足取りは自然と早くなった。








 柄にもなく、緊張しながら部屋の扉を叩く。護衛の騎士たちから浴びせられる視線が痛い。――つい先日、二人きりであれだけ言葉を交わし合ったのがなんだか夢のようだ。

 中から開かれた扉の先、待ち兼ねたようなベルゼンヌ侯爵夫人の口からお小言が飛び出す前に、わかっているとまずは謝罪の言葉を口にした。


「ご機嫌いかがでしょう、黒姫様。なかなか伺う時間が作れずにすみません、……」


 久しぶりにお会いした黒姫様は私を見た瞬間に立ち上がり、なんと文字通り突進してきた。

 そのままポフリと腹部にしがみついて収まった彼女は、なにを言うこともなくぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。

 それに驚いたのも束の間、いつも塞ぎ込むように自分を抑え込んでいる黒姫様の感情的な行動に、心の奥底からなんだか妙な情動が沸き起こってくる。

 まるでこの世には私しかいないとでもいうように、今までの寂しさを噛みしめるように震えながら抱きついてくる黒姫様に、愛しさのような、侘しさのような、なんともいえない感情の沸き起こるままにその体を抱き締め返す。


「……寂しい思いをさせてしまいましたね」


 ポツリと呟いた言葉に黒姫様は首を振るけど、ここから動こうとはしない。いつになく無作法な振る舞いだが、ベルゼンヌ侯爵夫人も珍しくそそくさと背を向けるようにお茶を入れに行ってしまった。覚悟していたお小言の数々が飛んでくる様子もない。

 それをいいことに、私は寂しかったのだと訴えるようにわずかに震えるその体をそっと腕の中に閉じ込めた。

 もう大丈夫だと。これからはずっと私がそばにいる。そんな気持ちが伝わるように、私は黒姫様と温もりを分け合い続けた。








 ……ちなみにその後、思ったよりも早く執務室に戻ってきてしまったラエル卿に、書類もほっぽりだして黒姫様と花揃えに興じていたことを、冷静に、論理的に詰られたことは、黒姫様には内緒だ。








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