憤懣
「今日はなぜ呼び出されたか、わかる?」
陛下に呼び出され、執務室に入った途端、陛下は書類から目も上げずにそう仰った。
「昨日の演習場での騒ぎの件でしょうか」
「そうだね、まぁあれはアシュリーになにか考えがあってのことだったんだろうけどさ。それで? 結果的に黒姫の同意も得られた、ということでいいのかな? これ、話進めちゃっていいんだよね?」
ピッと一枚の紙を突きつけられて、それに肯と返す。
「本当にいいんだね? もう後戻りはできないよ?」
「覚悟はとうに出来ております」
陛下は印を押すと、ため息をつきながらイスに深く沈んだ。
「これで、アシュロムは出てこざるを得なくなった、か。さぁて、彼はどう動くかな」
アシュロム様がどう動こうが、私は勝利して黒姫様にこの気持ちをお伝えするだけだ。
もう用は済んだかと礼とともに退室しようとすると、陛下から呼び止められた。
「あの子のこと、よろしく頼むよ」
その言葉に、陛下をまじまじと見返す。いつになく陛下らしくない、感傷的な声音に聞こえたからだ。
「この二年間、懐かないわ反抗的だわでちっとも可愛げのないって思ってたけど、いざ君に任せるとなると……手のかかる子ほどかわいいってのも、あながち嘘じゃないかもなって、思えたりしてね」
陛下は民の前では決して見せないような、どこか自虐的な笑みを見せた。
「君となら、もしかしたら案外とうまくいくのかも、なんて……まぁ僕も珍しく感情的になったもんだ。といっても、僕には君たちがどう愛を囁き合うのかさえ、想像もつかないんだけれどさ!」
今度こそ陛下は言葉を切り、その沈黙を皮切りに私は陛下の執務室を出た。
扉の外ではちょうど、アシュロム様がいらっしゃったところだった。
「おや、これは騎士サンダルディア」
アシュロム様はひょいと片眉をあげると、いつもの皮肉げな笑みを浮かべてみせた。
「君も兄上に呼び出されていたのか?」
「ええ」
「もしかして、昨日の演習場でのとんちき騒ぎの件でかな?」
「……」
アシュロム様はつかつかと歩み寄ってくると、ふいに私の襟首を掴んで引き寄せてくる。
「まったく、どいつもこいつも困った奴らだよ……婚約者を差し置いて嫌がる女性に迫るなんて、スマートな男のすることじゃないね。君もそう思うだろう?」
口元の笑みに対して、その紺碧の瞳は凍りついていて少しも笑っていない。
「ええ」
その目を真っ直ぐに見返しながら相槌を打つ。どうやらそれがアシュロム様の気に触ったようだった。
「ハァ……どうやら騎士サンダルディアには皮肉も通じないらしいね。君、自分が昨日黒姫にしたことを思い返してごらんよ」
「ええ、ですから嫌がる女性に無理やり迫るなど、到底見過ごせることではないと」
アシュロム様の顔から笑みが消えた。
「それは当てつけか?」
「事実を言ったまでです」
そのとき、冷え切った紺碧の瞳にわずかに感情が揺らぎ起こった。
それはまるで、身悶えるような――嫉妬。
その目の中の感情に気づいて目を瞠ると、アシュロム様は乱暴に私を突き放して目を背けた。
「……失礼するよ。君もせいぜい身を弁えて、過度な発言には気をつけるようにね」
拒絶するように向けられた背に、視線を遣る。相変わらずなにを考えているのかわからないお方だ。その立場に甘んじずに素直に愛を乞うていれば、あるいは違った未来が訪れていたかもしれないのに。
すべては順調に行くはずだった。
私はアシュロム様との一騎打ちに勝ち、黒姫様へとその勝利を捧げた。彼女にこの胸の内を包み隠さず明かし、そして黒姫様からも確かに愛の返答をもらったのだ。私は至上の喜びに胸を踊らせた。そのときは、ああ、自分は世界一の幸せ者だと、そう信じて疑わなかった。
どこか浮ついた思考を切り離せないまま陛下の執務室に連れてこられ、そこで煩雑な手続きに必要だという小難しげな紙の束を押し付けられる。それに悪戦苦闘していると、見兼ねたラエル卿が親切にも手伝いを申し出てくれた。それらに四苦八苦しながらも、この時間もまた一歩黒姫様へと近づくためのものだからと、そう思えば苦ではないと言い聞かせていた私を待ち受けていたものは。
「陛下っ……!」
扉を開けるにはいささか乱雑な音を立てて、スールウェが駆け込んできた。
「何事ですか」
私の手元を覗き込んでいたラエル卿が、顔を上げてすっと目を細める。
「おや、誰かと思えばスールですか。そんなに慌ててあなたらしくもない。どうしたっていうんです」
「黒姫様がっ……!」
その言葉だけで、反射的に体が動いていた。
「えっ? あ、ちょっと! 騎士サンダルディア!」
ラエル卿の呼び止める声が一瞬聞こえてきたが、返事をする余裕はなかった。ただ無我夢中で王宮内を駆け抜けていた。行儀が悪いなどと言っていられない。すれ違う人々を紙一重で躱しながら一足飛びに階段を飛び降りて、そして駆けつけた先――。
「……黒姫様!」
部屋の前で倒れ込んでいる護衛の騎士たち。開けっ放しの扉のその奥では、ベルゼンヌ侯爵夫人が力なく倒れている。チロチロと舐めるように燻っている炎だけが、その中でまるで唯一生きているかのようだ。そう、勝利に酔い痴れて間抜けにも油断した私を嘲笑っているかのように、残された炎は――。
……いや、私としたことが、こんなときに感傷に浸っている場合ではない。
「ベルゼンヌ侯爵夫人」
夫人に駆け寄り、そっと抱き起こす。ベルゼンヌ侯爵夫人は今は粛々としたご婦人ではあるが、こう見えて昔は男まさりに魔術を操り、やんちゃなベルゼンヌ侯爵を長年卸してきた、まさに手懐けた女傑としても名高い。そのベルゼンヌ侯爵夫人をここまで追い詰めた人物といえば、もうあの人しかいない。
「リネイセル様……私としたことが……」
薄ぼんやりと目蓋を開いた夫人は、状況に気づくと自ら体を起こそうとした。
「ご無理はなさらず。すぐに救援が来ます」
「黒姫様はどこに……」
その言葉に、ただ静かに首を振る。夫人は見たこともないほどに青褪め、そして顔を覆った。
「この私が、あのような者に遅れをとるなんて……若い頃であれば、一発やニ発お見舞いしたものを……年はとりたくないものです」
「今の隊長が相手ならば、致し方のないことです。彼は完全に妄執の炎に取り憑かれている。残念ですが、彼にはもうなにも届かないのでしょう」
夫人はなおも私の手を拒否して、フラフラと一人でなんとか立ち上がった。
「ああ……黒姫様、いずこに……」
そのとき、遅れて陛下やラエル卿が騎士を引き連れて到着した。
「やってくれたね……!」
部屋の惨状を一目見た瞬間、陛下の両目が眩いばかりの黄金にぎらついた。あまりの圧に直視できずに咄嗟に視線を逸らす。
陛下はそのまま室内を睥睨すると、すぐに踵を返した。
「君がそういうつもりなら、僕もそれに応えてやらなければならないね。シル」
「は」
「此度の奪還作戦は君に一任する。黒姫の居場所、君なら絶対に見つけられるよね」
「ええ、必ずや」
一歩後ろを付き従うラエル卿に、怯んだ様子はない。ちらりと振り向いた横顔の視線が今まで見たこともないほどに凍てついていて、それは平素から感情を見せない彼すらも怒りに満ちていることを現していた。
「騎士サンダルディア、頼みの綱はあなたです。必ず黒姫様を……お願いいたします。その道は、私が見つけてみせますから」
「行くよ、リネイセル」
陛下はもう、振り返らなかった。
「君についてきてほしい場所があるんだ」




