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瞬間

最後のエピソードです。

※リネイセル視点になります。

 

 その瞬間、目を奪われた。

 その人ははっとするほど深い闇を覗かせる黒の瞳で、こちらを見据えていた。けぶるような豊かな睫毛が物憂げに陰を作っている。

 ずぶ濡れで噴水のど真ん中に立ち尽くしている、異色の人。

 儚げに立ち竦むその人に、私は心を奪われた。








 驚くほどに中毒的な魔力を放つその人は、たちまち王宮の奥深くへと保護され、まるで幻のような、あっという間に手の届かぬ存在へとなってしまった。

 私にできるのは、陛下の護衛として顔を合わせたときに、彼女の無事を確認するくらい。

 陛下は、あんなにも人を利用価値有りきで判断する陛下にしては、珍しく黒姫様のことを気にかけていたから、その機会が度々訪れるのがまだ幸いではあった。

 どこか遠いところばかり見つめて心ここにあらずな彼女の様子が、陛下は単純に心配だと言う。たしかに彼女が自身の故郷に帰りたいと願っているのは、誰の目にも明らかだった。

 陛下はそれをできることなら叶えてあげたかったと言った。だが、イスタルシアのためにはここに繋ぎ止めておくほかないと、そう決断したようだった。

 そのために、陛下は彼女と末弟のアシュロム様との暫定的な婚約を決めた。黒姫様がますます塞ぎ込もうとも、彼女を繋ぎ止めるためにはそうするしかなかった。

 だが肝心のアシュロム様は、今までのご令嬢と違って頑なに心を開こうとしない黒姫様に、どう接していいのかわからないように見えた。アシュロム様もどうしてか、そんな黒姫様に対して不誠実なことばかりなさる。二人の仲は傍から見ても冷え込んでいた。

 彼女はこの世界で、一人ぼっちだ。

 彼女はほかの人たちとは圧倒的に違う。圧倒的に魔力量が違う。ただそれだけなのに、彼女と私たちを隔てる壁は途方もなく厚い。

 周りがどれだけ天の御遣いだ、天女様だと騒ごうとも、傍や悪魔だ化物だ、傾城だと囁こうとも、彼女はただ魔力が多すぎるだけの、一人の孤独な人だった。








 転機が訪れたのは、陛下の一声だった。


「今年は黒姫にカレナリエルの乙女役をやってもらおうか」


 陛下がそう告げたときの黒姫様のあからさまに嫌そうな顔ときたら。乙女であれば誰もが憧れる栄誉ある役目すらも、彼女にとっては自分をこの世に繋ぎ止める煩わしい枷でしかないらしい。

 明らかに気の乗らない様子で、なんとか辞退しようと必死な彼女。

 だが……願わくば、黒姫様はカレナリエルの乙女役を引き受けてくれないだろうか。

 太陽の乙女は、カレナリエル杯の勝者に栄光の口づけを落とす。

 暫定的とは言え、黒姫様は今やアシュロム様の婚約者。特に腐ってもイスタルシアの血が流れている自分が安易に黒姫様に近づけば、アシュロム様は黙ってはいないだろう。黒姫様にご迷惑をおかけしないためにも、自分はこの位置からは動けない。

 だけど、もし、黒姫様がカエナリエルの乙女ならば。

 陛下はその帰り、黒姫様がカレナリエルの乙女になると聞いてどことなく緊張感の漂う己の近衛騎士たちに向かって、見事な微笑みを向けてきた。


「カエナリエルの乙女の口づけは、勝者に与えられるんだよ。勝者にね」


 陛下の視線は、まるで私の心の内まで見透かしてしまっているかのようだった。








 黒姫様は基本的に、自分から積極的に人と会おうとはされない。そしてその中でも特に苦手にしている人が幾人かいるようだった。


「おーい、セリオン隊長、こっちにいる?」


 近衛騎士の詰所へと顔を出した同僚に、ギルノール・セリオン隊長の行方について尋ねられる。それになんだか嫌な予感がした。


「いないが、どうした?」

「いやー、サロンにまだ来てないってんで、ちょっと探してきてくれってお嬢様方に頼まれてよぉ」

「見かけたら声をかけておく」

「すまん、頼むよ」


 彼は詰所にいるほかの騎士たちにもそう頼むと、すぐに持ち場へと戻っていく。


「リネイセル、どこへ行く?」


 休憩中であるはずの自分が立ち上がったことに、隣のスールウェが眉を寄せる。


「……気にしないでくれ」


 気のせいであればそれでよかった。だが、もしも万が一のことがあれば、彼女はただの非力な女性。その膨大な魔力を扱う術も知らない。

 つい最近、あの躯体を前にただただ身を竦ませていた姿を思い出しては、そのまま見過ごせるわけもない。

 案の定、黒姫様がよくいらっしゃる北の庭園に顔を出すと、どことなく異様な雰囲気を醸し出すセリオン隊長とひどく怯えた黒姫様がいる。

 詳しい様子はわからなかったが、なにやらセリオン隊長に問い詰められているようだった。


「――セリオン隊長、ここでなにを?」


 声をかけて、向けられたその瞳。


「……リネイセルか」


 いつも通り快活で落ち着いた、頼りになる隊長の姿。整った男らしい顔貌も、鍛え上げられた体躯も、品行方正なその物腰も、いつもと変わりない。

 ただその瞳だけが、とぐろを巻くような激しい炎の渦に呑まれていて。そして、振り返った黒姫様があまりにも縋るような顔をしていたから。

 気づいたときには、頼まれてもいないのに余計なお節介を焼いていた。








 意味もなく連れてきた西の庭園で、ふと我に返って立ち竦む。

 私はいったいなにをしているのだろう。あるはずもない用事で黒姫様を連れ出してしまった。

 呆然と立ち竦む私に、だがしかし黒姫様は。


「あ、あの……助けてもらって、ありがとう、ございました」


 俯いていた黒姫様が顔を上げ、真正面から目が合う。

 吸い込まれそうなほどの真っ暗な目。誰とも目を合わせない彼女が、今だけは私を真っすぐに見つめている。


「……あなたは、なぜ」


 ザァっと吹き抜ける風に、夜の帳のような黒髪が乱されていく。


「色無しの私なんかを、そうも信頼してくださるのですか」


 彼女からの返事はなかった。

 後ろに控えているベルゼンヌ侯爵夫人の視線に、今度こそ我に返って、慌ててその場を立ち去る。

 一人になってよく頭を冷やすべきだと、詰所に戻る道中、軽く頭を振って拳を握り締めた。









 謹慎明け。

 予選会場に姿を現した私を出迎えたのは、観覧席の端っこで身を縮めて小さくなっている黒姫様だった。そのすぐそばにはアシュロム様がたくさんのご令嬢方に囲まれている。

 まさか予選会場に黒姫様がいるとは思ってもいなくて、虚をつかれる。

 それと共に私の頭に浮かんだのは、タルブム草のお茶の件だった。

 あの日、黒姫様は最後まで飲んでくださったが、果たしてあのお茶を本当に気に入ってもらえただろうか。もしも黒姫様が所望されるなら、また差し上げても構わないだろうか。

 そんなことを考えながら対峙していたら、いつの間にか試合が終わっていることに気づく。

 ならばと、心が急くままに彼女へと話しかけに行った。


「黒姫様、」


 見上げてくる目はまんまると大きく見開かれていて。


「先日の茶葉はお気に召していただけましたか」

「あ、それは、もちろん……!」


 次いで浮かべられたほのかな笑みに、こっちも思わず頬が緩む。それは初めて見た、彼女の心からの嬉しそうな笑顔だった。


「騎士サンダルディア、私の婚約者になにか用かな?」


 だが、そんな空気に水を差すように、アシュロム様の冷たい声が降りかかってきた。

 やはり、アシュロム様は私が近づくのをお許しにはならなかった。そう、あの慰問の日もそうだった。彼はあの日、わざわざ黒姫様の様子を見に来たと言っていた。あのタイミングで、まるで誰かしら騎士が黒姫様に近づくのをわかっていたかのように。

 これ以上ネチネチ言われる前にと、素早く頭を下げて退場しようとする。

 その私を引き止めたのは、ほかでもない彼女だった。


「……騎士、サンダルディア、」


 小さな手が、震えながらも私の服の裾を掴んでいる。続いてか細いながらも、たしかに私に向けて発せられた声。するりと手の中から抜けた裾が、ひらりと翻って。

 俯いて口元に手をやった彼女から、無理やりに目を逸らす。

 たとえ一生、報われないとしても構わない。孤独な彼女がそんなふうに笑ってくれるのならば、それだけで。

 だからどうか、カレナリエル杯だけは。ああ、勝利を司る太陽の乙女よ。

 今だけは、私の中に流れるイスタルシアの血に力を与えてくれないだろうか。








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