呑闇
「きっ……緊張しましたー……」
客室に戻り、リネイセルと二人きりになった途端、黒姫は崩折れるようにソファへと座り込んだ。すかさずリネイセルは持参していたタルブム草のお茶を手早く準備する。
黒姫はか細い声でお礼を言うと、些か品のない動作でそれを一気に飲み干した。次いで注がれた二杯目も、勢いのままに喉の奥へと流し込む。
カップを置いた彼女はソファの背に身を預けたまま、顔を覆い隠してしまった。
そうやって動かなくなってしまった彼女を、リネイセルはしばらく見つめていた。
「後悔していらっしゃいますか」
黒姫からは、すぐに返事は返ってこなかった。
「また一人、魔力中毒者を出してしまったことを悔いていらっしゃるのでは……」
「いいえ、違うんです。残念ながらそうじゃなくて」
聞こえてきた黒姫の声は思ったよりも落ち着いていて、リネイセルは途中で言葉を切った。
「私は私が思っているよりも、どうやら薄情な人間だったみたいです。彼にはちゃんと治療を受けて正気に戻ってもらって、事の次第をきちんと説明してもらわないといけないのに、私はグルーイルがこのまま一生目を覚まさなくても構わないと、そう思ってしまいました」
そこでやっと、黒姫は顔を覆っていた手を外した。リネイセルを迎えた黒い瞳は、言いようのない深い闇に沈んでいる。
「そうしたら、リネイセルはこれ以上このことに煩わされなくて済みますよね。あの人の事後処理なんかで陛下にこき使われるのは、もう懲り懲り。あの人が目覚めなければ、陛下もこれ以上せっついてこないだろうし……私だってもっとリネイセルと一緒にいたいのに、グルーイルばかりリネイセルの関心を引いてずるいんですよ! もうこれ以上、引っ掻き回されるのはごめんです!」
「く、黒姫様……」
やがて、黒姫の瞳に強い色が浮かんできた。それは本来二人の婚姻生活において、一番仲睦まじいはずの蜜月の時期を台無しにされた憤りだった。
今回の訪問に至るまで、グルーイルは実に執拗だった。二国間の友好を口実に、何度も何度も黒姫の来訪を切望してきた。
それをリネイセルは内心憤慨しながらも、毎回そっけなく断っていた。リネイセルとしてはむしろ彼の所業を糾弾したいくらいだったのだが、下手に正面から挑んでも、はぐらかされてしまってはおしまいだ。
毎夜真っ暗闇な悪夢に苦しむ部下をほったらかしの時点で、グルーイルがしらを切るのは目に見えている。リネイセルはなかなか動くタイミングが掴めなかった。
――だがその矢先、第二の誘拐未遂が起こってしまった。
犯人は元護衛の騎士。黒姫に憧れて護衛騎士に志願したというが、魔力耐性が若干低く、魔力依存の傾向が見られたため、すぐに違う担当に回されたはずだった。
しかしグルーイルはその闇につけ込んだのだ。後戻りできるはずだった彼を焚き付け、その気にさせ、結果後戻りできないところまで引きずり下ろしてしまった。
一つだけ幸いだったのは、今回はアシュロムのときと違って、呆気なく事件は解決したことだ。
彼はアシュロムと違って常時黒姫のそばに居られるほどの高魔力は持っていなかったし、ギルノールのような強力な協力者もいなかった。それに彼女の周りには今はもうリネイセルがいるし、あのアシュリーまでもが目を光らせている。
彼はただただグルーイルに甘言で騙されて利用され、ニムラスに渡れば、閉じ込められたかわいそうな黒姫に自由を与えてやれるとそう信じて――。
そして彼もまた、二度と戻れないところまで堕ちてしまった。
その姿を目にした黒姫は、ある一つの決断をした。その日の晩餐、黒姫はその決意をリネイセルに伝えた。
「……なんだって?」
普段敬語の抜けない彼が思わず口調を乱すほど、それは信じられない提案だった。
「私、グルーイルの招待を受けようと思います」
「駄目です」
間髪入れずに、リネイセルは遮った。彼にしては珍しく、冷静さを失った鋭い声だった。
「それだけは絶対にできません」
「なぜですか」
「あなたの身になにかあったら……」
「これ以上なにも起きてほしくないからこそ、決着をつけに行くのです」
「だからって、なぜあなたが」
「終わらせたい。もうこれ以上グルーイルに私の生活をかき乱されたくないからです。会ったこともないその人のせいで、私はリネイセルと一緒にゆっくりと過ごすはずだった時間まで奪われてしまってるんです」
リネイセルは一瞬言葉を詰まらせたが、やはりそんなわけにはいかないと首を縦には振らなかった。
この件は、非常にデリケートでややこしい問題だ。ニムラスを糾弾するのは簡単だが、二つの国の間には切っても切れない関係がある。
それにグルーイルの目的はほかでもない、黒姫だ。そんな相手の思惑通りに動いてはいけないといくらリネイセルが説得しても、これ以上事態が悪化する前に決着をつけると黒姫は譲らなかった。
いくら言葉を重ねても進展の見られない話し合いは三日三晩続き、リネイセルが様々な代案を用意したりもしたが、黒姫はいつになく頑なに折れなかった。
「でしたら、こういうのはどうでしょう」
なにを言っても考えを変えない黒姫に、リネイセルはほとほと困りきっているようだった。
「私が代わりに黒姫様の魔力を纏って、一人で向かいます。それならば……」
「もしも本気でそれがいい解決案だと思っているのなら、私、しばらくリネイセルとは口を利きませんから」
「なっ……」
絶句したリネイセルを、涙目の黒姫が睨む。その日は黒姫に黙って一人で勝手な行動はしないと誓うまで、黒姫は機嫌を直してくれなかった。
そうして何度も話し合って衝突して、しまいにはイスタルシア王やその王妹アシュリーまでをも巻き込んだ話し合いの結末は、二人でグルーイルに対峙する、というものだった。
もちろん、周りからは散々反対された。特にアシュリーからはいつになく感情的に怒られた。
アシュリーは珍しくはっきりと、黒姫の身が危険に晒されることが心配なのだと、そう口にした。ここイスタルシアにいればいくらでも自分が守ることができる。でもニムラスではそうはいかない。
「あなただって、あのときに経験したでしょう?」
アシュリーの怒った顔は、さすがに迫力があった。
「魔力を出せないことがどんなに恐怖か、私たちから魔力を奪ったらどんなに非力な存在か、あなたはもう知っているはず。それをわかっていながらみすみす向かうなんて、それは自ら命を差し出しに行くようなものじゃないの!」
「ええ、知ってますよ。彼の魔道具の脅威は」
両手に嵌められた豪華な枷。目の前でアシュロムが殴られているのに、なにもできない歯痒さ。次は自分の番だという恐怖。
そうだ。あのときリネイセルが助けに来てくれて、これで終わったと思っていたけど、本当は終わってなどいなかった。
グルーイルの魔の手は、常に黒姫に向かって伸ばされている。
「だからこそ、終わりを告げに行くんです」
そしてそのためには、黒姫自身が行くしかない。
イスタルシア王の統治をより盤石なものにし、イスタルシア王朝は決して揺らがないものであると内外に示すためにも、ここで一度自分の意志を示す必要がある。
そのために、ニムラスに向かうのだ。
長い回想から戻ってきた黒姫を、リネイセルの腕がそっと包み込んだ。
「それを言うなら、私には血も、涙さえもないのでしょう」
リネイセルの腕の中は暖かかった。そこはいつも暖かくて優しくて、ふわりと柔らかく包み込んでくれる。黒姫だけの居場所。
「あなたの安寧を脅かすすべてのものは、この世から消え去ってしまえばいいと私は常々思っているのですから。あなたをそのように悩ませるくらいなら、いっそ私がこのままグルーイルを……」
「いえ、いいえ! 大丈夫ですよ! 彼にはまだまだ生きていてもらわないといけませんから。だから気にしないでください」
真顔で物騒な発言をしだした己の伴侶に、黒姫は慌てて制止をかける。
この世でたった一人だけ、黒姫の家族になってくれた人は、こうしていつも黒姫のことを一番に考えてくれる。
だから黒姫だって、こんなにも強くなれた。
「でも、ありがとうございます、リネイセル。……こんな私のそばに居続けてくれて、本当にありがとう。あなたの優しさが私の救いです」
「それを言うならば、私こそ。あなたのその姿を見るだけでも幸せでしたのに、今こうして“……”の隣に立つことができることに、感謝を」
決してほかの人には見せないような甘い笑みを浮かべて、リネイセルは彼しか知らない黒姫の名を呼んだ。目を瞠った黒姫を、慈しむようにそっと抱き寄せる。
回された腕に体を引き寄せられ、黒姫はわずかに顔を赤くする。だがそうやって恥じらいを見せながらも、黒姫は彼の胸に甘えるように顔を押し付けて、ようやく強張った体から完全に力を抜いた。
表面上、ニムラスはイスタルシアの最大の友好国として在り続けた。だが、魔力中毒者となったグルーイルの帰還が叶わぬ以上、ニムラスにイスタルシアに抗う術などなかった。
それに、ニムラス国王は黒姫の名を聞くたびに思い出すのだ。
二つの双眸から覗く、どんな闇よりも深い闇。
あの闇がどんなときも常に自分を見張っている。もう二度目はない。
次に揺り起こしてはいけないものに手を触れてしまったら、そのときは自分もグルーイルのようにあの闇に呑み込まれてしまって、二度と戻ってはこれないだろう、と。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次で最終エピソードとなる予定です。
よろしければ最後までお付き合いいただけますと嬉しいです!




