畏敬
婚姻後の話です。
緊張に強張る肩に、そっとリネイセルの手が添えられる。
「無理はせずとも……」
「いいんです」
リネイセルはすぐにそうやって私を甘やかそうとする。そういうところもすごく、とっても大好きだけど、今回ばかりは甘えるわけにはいかない。
「行きましょうか」
そう声をかけると、リネイセルは気遣うような表情を見せつつも、手を差し出してきた。
今日は婚姻後、初の夜会だ。
リネイセルがイスタルシア一族だと認められ、なおかつ黒姫と契りを交わしたということで、いつになく規模の大きい夜会が開かれた。
ということは、沢山の貴族たちが参加するわけで。
しかも今回は私たちがその大規模な夜会の主役だというから、緊張するなといわれてもどだい無理な話だった。
私たちが姿を表すと、ざわりとフロア内の貴族たちがざわめくのが分かる。
リネイセルが魔力を吸収すると分かって、リネイセルと一緒にいるときの私はそこまで匂わないと知って、きっと今日の夜会は皆油断して来ていることだろう。
だから、思い知らせることにした。
今まで“色無し”だと嘲ってきた奴らに、“異色”だと疎んできた奴らに、私たちの価値を、存在を再度知らしめるため。――これがイスタルシア一族の力だと、思わしめるために。
私はリネイセルと共に、一歩、前へと踏み出した。
途端にシンと静まる会場。誰もが私たちを振り向き、緊張に顔を固くして、固唾を飲んで見守っている。
私はリネイセルを見上げた。透き通るような翠の目は、すぐに気づいて見返してくる。凛と立つ愛しい人に、微笑みかけた。
リネイセルも普段の無表情から、ふわりと淡い笑みを浮かべてくれる。まるで応えてくれているようだ。
その頭髪は黒く染まり、きっと芳しい魔力が香っているに違いない。だって誰もが唖然とし、目を離せないでいる。
この色は、否応なく匂やかに香ってきては、思考さえも奪ってしまうような暴力的な色だ。……私には全然分からないけど。でもその圧倒的なまでの色の威圧に、現に誰もが動けないでいる。
そんな周りを意にも介さずに、お互いに見つめ合い、微笑み合いながら入室してきた私たちに、王が苦笑を浮かべている。
「あなた、今日は随分と思い切ったのね」
私たちに負けず劣らず絢爛たる衣装に身を包んだアシュリーと王が、近づいてきた。
「あなたが今までいかに周りに興味がなかったのか、まざまざと思い知らされた気分だわ」
「本当に、今日は雰囲気が違うね」
相も変わらず、この人たちは同じ人間とは思えないような美しさだ。
この人たちの先祖、カーディナル・イスタルシアは太陽の乙女に愛されて加護を授かったと言うが、その気持ちもわかる気がする。こんなにも光り輝いて人の目を離さない一族は、この人たちをおいてほかにいないだろう。
そんな人を惑わすような魅惑的な笑みを浮かべながら、王はその形の良い手を伸ばしてきて、私の頬に触れた。
「……陛下」
「怒らないでよ、リネイセル。なんだか成長した娘を見ているような気になっただけだから」
「陛下はまだ婚姻も済んでいませんが」
「君たちを見ていたら、もうお腹いっぱいなんだよね。僕はもう少しだけ自由を謳歌することにする」
「そんなことを言っていると、私に先を越されても知らないわよ」
アシュリーが呆れたように口を挟む。
「それにしても、急にどうしたのかしら。今まで当てつけのように投げやりだったくせに」
アシュリーの言い様に苦笑を返す。
私はただ、リネイセルと一緒に歩む決意を固めただけだ。
この国の貴族たちに対しての苦手意識は、依然としてある。だけど、イスタルシア一族になるというのにいつまでもビクビクしているわけにはいかない。それがリネイセルの評判に直結するというなら、なおさらだ。
だから今回の夜会に出席するにあたって、けじめをつけようと思ったのだ。
私はもう、今までの私ではない。
絶対不可侵の王宮に突如舞い降りた、異色の乙女。
そしてカレナリエル杯の勝者との愛を実らせた、栄光の太陽の乙女。
それが今の私、だから。
「まあまあ、いいじゃない」
呆れたようなアシュリーに、王はクスリと笑う。
「今の君がリネイセルと共にイスタルシアにいてくれるなんて、心強くて助かるよ」
王は面映そうに目を細めると、私の長い黒髪に指を滑らせ、遊び始めた。
「……けど、そのままの君でいてほしかった気持ちも、ちょっとあったんだけどね。まあ、どちらにしろイスタルシア一族となる以上、君に潰れてもらっては困るから。もっと逞しく、強かに生きる君の姿を楽しみにしているよ」
王の指がくすぐるように頬を撫で、離れていった。
「……あなたにそうなってほしいと願っていたはずなのに、そうなったらなったで寂しいだなんて、お兄様も難儀な人ね」
アシュリーは、「ま、せいぜい頑張りなさい」と言い置くと、振り返りもせずに王と共に去ってゆく。
その後ろ姿を眺めながら、もう二度と戻れないのだと、ふとそんな思いが胸をよぎる。
私はここで、イスタルシア一族として骨を埋めるのだ、と。
今日のダンスは、主役の私たちからだ。
自然と囲うように開いたフロアの真ん中に、二人、堂々と進み入る。
姿勢のいい立ち姿で手を差し伸べてきたリネイセルに微笑みかけると、いつになく甘い笑みが返ってきた。
微笑み合いながらホールドの構えになった私たちに、貴族たちがざわついたのが分かった。
ダンスが苦手な私のためにスタンダードなワルツが始まって、リネイセルが優しくリードする。
その動きにふと、ある日の夜会を思い出す。
アシュロムも、ダンスを踊るときだけは優しかった。
唯一私たちが触れ合う機会、真正面から顔を合わせるときがダンスだった。そのときだけはアシュロムは私と真っ向から向き合っていて、彼は存外に優しかった。……それ以外の彼は、本当に憎たらしいほど私を蔑ろにしていたけれど。
「黒姫様」
リネイセルに呼ばれて、夢のような現実へと引き戻される。
「さすがに……ダンスのときにほかのことを考えられると、妬けてしまいます」
見上げた目が少し困ったように笑っていて、それに焦って足をもつれさせてしまいそうになる。
「本当に! ……すみません」
必死に謝りながらも、なんとかこらえて持ち直す。今日のダンスだけは絶対に失敗するわけにはいかない。ふらつきそうになった私を、リネイセルの力強い腕が支えてくれる。
「アシュロム様、のことでしょうか」
その声音が少し強張っていたことに、私の全身にも力が入る。
「その……」
「あまり他人に対してどうこういった感情を抱く方ではないのですが……アシュロム様にだけは、いつまで経っても苦汁を飲まされる」
見上げたリネイセルの透き通るような瞳に今まで見たことのない熱が映っていて、それに気づいてつい魅入ってしまった。
「最後の最後まであなたを悩ませるあの方が、正直に言うと腹立たしい」
どこか悩ましげなリネイセルに……こんなことは口が裂けても言えないが、私はうっとりと見惚れていた。
どんなときだって冷静沈着で、凛としていて、頼もしいあのリネイセルが、私のことでこんな表情をするなんて。
「……いつか」
輪の外では、幾人かの貴族がフラフラとよろけだしている。
「いつか、必ず……あなたの心を私で満たせるように。あなたの心に刻みつけられたその傷を癒せるように。覚悟しておいてくださいね。私は努力を惜しみませんから」
「リネイセル……」
あまりの感動に、うっすら涙まで浮かんできた。
リネイセルが、自分の存在で私をいっぱいに満たしたいだなんて……そんなのもう、とっくに満たされているのに!
でも、それを教えたくないなんて……リネイセルの瞳の中の焦がれるような熱がもっと見たいだなんて、私も大概図々しくなったものだ。
演奏が止んで踊り終えた私たちに、若干迷惑そうな顔をした王が拍手を送っている。その周りの貴族たちの顔に畏怖が浮かんでいるのを見て、私は心からの笑顔を浮かべた。
みんな、思い知ってくれたみたいだ。
思う存分化け物だって、悪魔の誘惑だって罵ってくれて構わない。
もしも私たちを脅かすものがあれば、この魔力がすべてを蝕んでいくのだと、その本能に刻みつけてもらいたいから。
私はただ、リネイセルと二人無事に暮らせるのならば、それでいい。なのにそれすらも邪魔されるようなことがあれば、そのときは容赦なく黒色の甘美な闇が襲いに来ることだろう。
その後、戦々恐々とした貴族たちの挨拶を受けて、それをなんとか捌き、やっと一段落ついたところで退室しようと扉へと足を向けた。
「でも、よかったんですか」
私たちの後ろ姿を見送るその目に、明らかに安堵の色が浮かんでいるのを確認しながら、リネイセルに尋ねる。
「これであなたも化け物の仲間入りを果たしてしまいました」
リネイセルはちょっと眉を顰めながら、視線を下ろしてくる。
「あなたのそばにいられるのなら、化け物だろうと悪魔だろうと、構わない」
「……リネイセル」
「たとえ彼らがどう思おうと、なにを言おうと、私にとっては些細なこと。こうしてあなたの隣に立てて、あなたと同じ色を纏えるようになったことが、私にとってはなによりも代えがたいこと、です」
その言葉に、不意打ちのなによりも素敵な愛の言葉に、目を見開く。
じわりとこみ上げてきた熱い雫が、向けられていた翠の目をぼやかした。
「あなたは、この世にない異色を持つお方で、イスタルシアの栄光で、……そして唯一無二の、私の伴侶だ」
そのままリネイセルが身を寄せてきて、ふわりと頬に口づけを落としてきた。
途端にまた幾人かが足元をふらつかせて、支えられながらフロアの隅に避難していく。
向けられてきた王の視線をものともせず、リネイセルは一心に私を見つめている。
「……リネイセル、私も……あなたの存在が、なによりも大事です」
そのまま背を向け、誰もいなくなった扉から廊下へと出る。
背後のざわめきには頓着しないまま、私たちはただひたすらにお互いを見つめていた。
私はこの日から、自分のこの魔力を厭うのを止めた。




