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別れ

 

「おい、なにをしている」


 幌をかき分けて荷台に入ってきた御者へと、アシュロムは冷たい声をかけた。だが、次の瞬間息を呑んだかと思うと、唐突に私を突き飛ばしてくる。


「くそっ……!」


 アシュロムが口汚く悪態をつく。

 乱れた前髪の奥から見えたのは、短剣を手にした若い男。


「手錠が壊れた時点で、この逃走劇は失敗だ。すぐに追手がくるだろう。その前に魔納器官だけでも取り出させてもらう」

「……そうか。残念ながら交渉決裂、といったところか」

「悪く思うなよ。こちらも命がかかっているのでな」

「安心しろ。みすみす取られるつもりもない」


 狭い馬車の中で対峙する二人。

 なんだかもっとまずいことになった気がする。

 焦ってガチャガチャと力任せに手錠を揺するけど、そんな動きで壊れるはずもなく、耳障りな音を立てるだけだ。

 歯を食いしばってぎゅっと目をつむる。焦燥感のそのままに強く念じると、やっとまた一つ装飾の宝石がとれて転げ落ちた。


「おい黒姫、こんなときに魔力を匂わせるな。気が散る……」

「私は別に構わないがな。ついでにイスタルシア一族の魔納器官も手に入れるいい好機になる」

「ぐっ……」


 アシュロムがぐらりとをよろけたのを見て、慌てて力を抜く。

 切羽詰まった状況に、目の前には呻くアシュロム。対して御者の男はふらつく様子もなく、余裕そうに薄く笑っている。


「魔力吸収装置をいくつか持ってきておいてよかった。これでもけっこうきついものがある、が、な!」


 アシュロムの動きが鈍ったその隙に、案の定男は私めがけて短剣を振りかざしてくる。


 もうダメだと思った。

 とうとう死ぬんだ、と。

 さすがに命の危機にまで陥る羽目になるとは思ってなかった。

 焦る思考とは裏腹に、ただ目を見開いて男を見上げるしかできない。

 振り下ろされた刃は、しかしふいに男が倒れ込んだせいで、私には届かずに床へと転がり落ちる。

 のたうちながらもアシュロムが男に手を伸ばして、その足首を掴んでいた。


「悪い、が、渡せない、な……」

「……魔力の通じない相手に抵抗してどうする? お前など、その光の魔力を封じられれば、なにの役にも立たないだろうに」


 アシュロムが這いずるように男に近寄ると、取っ組み合いがはじまった。

 その様子を見守りながら、どうすれば状況が打開できるのか、必死に頭を働かせる。

 肝心なときにこの化け物じみた魔力が使えないなんて……もどかしさに歯噛みする。

 このまま手錠を壊そうとすればアシュロムが倒れてしまうし、かといってなにもしなければ抑え込まれたままだ。

 どうする、どうすればいい。どう動くのがベストだ?

 うんうんと唸りながら考えても、いい案なんて出てこない。そうしている間にも、形勢はアシュロムが押され気味になっている。何度も殴られたアシュロムがふらふらと数歩後退る。ところどころナイフを避けきれなかった切り傷から、血が滲んでいる。


 ……とりあえず、一旦逃げよう。

 そしてアシュロムがあの男を抑えている間にここを離れて、それから手錠を壊そう。

 そう決めて、ずりずりと床を這って出口へと向かう。しかしそれはすぐに遮られた。


「黒姫っ……!」


 切羽詰まった声がして振り向くと、アシュロムが顔面を強く殴られて床へと沈み込むところだった。

 その瞬間を目の当たりにして、思わず息を呑む。


「どこへ行く?」


 男は切れた唇を指で乱雑に拭きながら、こっちへとやってきた。近づいてきた男に力の限り暴れて抵抗するが、難なく抑えつけられてしまう。


「どこへ行こうと逃げ場はないのに。イスタルシアの王宮を出た時点で、お前の運命は決まった。我が愛する祖国、ニムラスの玩具になることだとな。その魔納器官、いただく!」


 男は何度も私めがけてナイフを突き下ろしてきた。

 それに精一杯抵抗して、手も足も狂ったようにバタつかせる。ナイフが掠ったところが熱い。感覚が麻痺しているのか、痛みは感じない。ただがむしゃらにその刃を避けるように暴れる。

 振り上げた片足を男が掴んで、力の限り押さえつけてきた。

 あまりの恐怖に、引き攣れたような悲鳴が上がる。目を見開いた私に、とうとうナイフが振り下ろされた。


「ぐぅっ……!」


 しかし次の瞬間やってくると思っていた衝撃は、やってはこなかった。

 アシュロムが庇うように、私の前に体を割り込ませていた。

 突き飛ばされたのか、御者の男が尻もちをついて呻いている。

 危機一髪回避したことにホッとしたのも束の間、アシュロムは崩折れるように地面に蹲った。


「その傷……っ」

「騒ぐな、大したことはない……」


 そう言いながらも、アシュロムの体からは段々と力が抜けていっている。

 どくどくと生暖かい液体が、赤い血潮がその体を濡らしていく。


「……いいことを思いついた、君の心に爪痕を残す方法だ、」

「なにを言って……、血がっ……!」


 アシュロムは呟くように囁いてくると、横顔でニヤリと笑いかけてきた。

 いつもの、皮肉らしい笑みだった。

 再び男がにじり寄ってくる。それにも関わらず、アシュロムは悠長に笑いかけてくる。


「よく聞け、一度しか言わない」


 戦慄く唇が、言葉を紡いで。

 そしてその瞼が、ゆっくりと閉じていく。

 アシュロムが伸ばした手から、まるで太陽のプロミネンスが吹き上がるような、ものすごい熱量の光が吹き出してゆく。同時にアシュロムの体が崩壊するように崩れ去っていった。


「アシュロム!」


 手を伸ばそうとしたが、目を開けていられなくなって、思わず腕で顔を覆った。








 眩いほどの発光は、しばらくの間続いた。

 長い間辺りを覆い尽くしていた光が、段々と落ち着いてきたのを瞼の裏で感じて、恐る恐る目を開く。

 辺り一帯がまるで焼け野原みたいになっていた。木々も馬車も、なにもかもが吹っ飛んでいる。

 少し離れたところに御者の男らしき人物が、全身火傷状態でヒューヒュー言いながら横たわっていた。その様子に、思わず悲鳴を上げながら後ずさる。


「……アシュ、ロム……」


 アシュロムはどこにもいない。

 まるで最初から存在していなかったかのように、なに一つアシュロムのいた痕跡は残っていない。


『君を愛していた、と言ったらどうする?』


 ……どうして最後の最後で、あんな言葉なんか遺していってしまったんだろう。

 そんなこと、今更言われたって……。

 なにを考えているかなんて、全然分からなかった。それは本当に最後まで、ずっとそのままで。

私たちの間には圧倒的に言葉が足りなかったのだということを、この期に及んでまざまざと思い知らされる。


「……充分、残してくれましたよね」


 ボロボロに崩れ去っていった手錠を払いながら、よろよろと立ち上がる。

 一人取り残された私は宛てもなく踏み出そうとして、ふと後ろに人の気配を感じて振り向く。


「黒姫様」


 振り返ったその先には、騎乗したまま喜色満面の笑みを浮かべた、ギルノールがいた。









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