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逃亡

 

 ガタガタと、全身のひどい揺れに朧気な意識の中で顔を顰める。


「しかし、平民の振りをするのも楽じゃないな。乗り物ぐらいもっといいものを用意できなかったのか」

「お言葉ですがアシュロム様、この国を出る前に見つかっては元も子もありません」

「分かってるさ。ただこんなにも粗悪なものだとは思わなかっただけだ」

「それより、無事にニムラスに着いたらきちんと取り決めを守ってくださいね。黒姫様との婚約を解消してくださると」

「お前もしつこい男だな。分かっているよ。ほら、これが契約書だ。こんななんの特徴もない凡庸な小娘など、無事に事が運べばいくらでもお前に下げ渡してやるさ」


 その言葉にまぶたを開ける。

 見知った紺碧の瞳に息を呑んだ。悲鳴を上げようとして、咄嗟に口を抑えられる。


「いいか、よく聞け。大きな声を出したら、君の口を縫い付けて一生開けなくさせてやる。私の魔力でどろどろに溶かした唇など、君もさぞかしイヤだろう?」


 こくこくと深く頷くと、アシュロムの手が離れていく。


「やっとお目覚めか、私の黒姫」

「アシュロム様」

「なにを怒っている、ギルノール。国を越えるまではまだ私の婚約者だろう?」


 すぐ隣にアシュロムが、顔を覗き込むようにギルノールが座っていた。

 二人とも随分と普段と様子が違う。薄汚れた簡素な衣服に、乱れた頭髪。その髪の隙間から見えた目が、暗い笑みをたたえている。

 カタガタ揺れる木の床に厚い布で覆われた狭い中は薄暗く、細部まではよく見えない。

 どうやら荷馬車へと乗せられているようだ。


「黒姫様、ご気分はどうですか」

「ヒッ……」


 私の顔色を伺うようにギルノールが顔を覗き込んできて、それに身をのけ反らせた。


「な、なんでこんなことに……」

「言ったでしょう。少し休暇をとって北へ行くと」


 覗き込む顔は、あくまで紳士的な笑顔を浮かべている。


「自分のおかしさを自覚したって……」

「ええ。なのでしばらくあなたと二人きりで、ゆっくりと過ごしてみようかと。そうすればこの胸を焦がすような苦しみも、毎夜私を苛む渇望も、少しは癒えるのではないかと思ったのです」

「は……」


 あまりにも自分勝手な言い分に、思わず言葉がこぼれ出る。


「だからってこんなの、誘拐ですよね? あなたがしてることは拉致ですよ」

「ええ、そうですね。でも私をこんなにもおかしくしてしまったのは、紛れもないあなただ」


 不意に見開かれたアンバーの瞳には、これ以上ないほどのどす黒い焔が渦巻いていて、その狂気に身の毛がよだっていく。

 近づいてくる彼を何とか牽制しようと両手を振り上げて、やたらと過剰な装飾をされた手錠をつけられていることに気づいた。


「ギルノール。愛しの黒姫が怯えているぞ」


 迫るギルノールの肩に手を置いて、アシュロムは彼に下がるように指示した。


「この狭い馬車の中で暴れられても迷惑だ。ニムラスに着くまで我慢しろ」

「……」


 渋々といったように離れていくギルノールに、とりあえず一息つく。

 これはかつてないほどに危機的状況だ。

 今まではなんだかんだ言って王宮の中にいたから、いつでも誰かが――リネイセルが助けてくれたし、どうにかなった。

 でも今は、そばにいるのはこの誘拐犯だけ。頼れるのは自分しかいない。


「この腕の拘束はなんですか。外してください」

「それを外すわけにはいかない」


 にべもない口調で断られた。

 こっちを見もしないアシュロムには、取り合う様子もない。


「でも、痛いんです。動けないし重くて……お願い、逃げないから」

「煩い、黙れ」


 アシュロムの口調が急に変わった。


「さもないと本当にその口をきけなくさせてやるぞ、薄汚い小娘が」


 憎々しさを隠しもしない、身を刺されるような冷たい声音だった。


「魔力がなければなんてことはない、ただの凡庸で平凡な小娘が。こんな奴に振り回されているだなんて……考えるだけで腸が煮えくり返る」


 吐き捨てるように言われて、唇を噛み締める。一か八かで賭けてみたが、やはりダメだった。

 そんな侮蔑に唇を歪めているアシュロムの横で、ギルノールは私を眺めてうっとりと呟いた。


「黒姫様、あなたはやはり間違っておられた」


 ギルノールは頬を紅潮させ、興奮に言い募るように囁いてくる。


「黒姫様の魔力が抑え込まれたって、私のこの狂おしいほどにあふれ出す愛は、少しも変わりはしませんでした」


 まるで愛しい恋人へ愛を乞うかのように、ギルノールが上っ面の言葉を羅列している。それを冷たい瞳でアシュロムは眺めていた。


「……あなたのこの白い腕を彩る腕輪は、隣国が極秘で開発していた、あなた専用の魔力抑制器だそうです。少し体がだるいと思いますが、これも隣国に着くまでの我慢。ニムラスに着けば、晴れて私たちは夫婦になれる。それまで大人しくしていてくださいね」


 どおりで二人とも平気そうなわけだ。こんな状況で私の魔力にあてられないだなんて、おかしいと思ったんだ。

 言いたいことを言い終えてすっきりしたのか、ギルノールは性懲りもなくまた私に近づいてこようとした。


「おい、ギルノール」


 そのとき、アシュロムが退屈そうに声を上げた。


「ここまで来たんだ、もういいだろう。私は喉が渇いた。黒姫にも食事をさせてやらねばなるまい。ここで待っていてやるから、ちょっと街まで行ってなにか買ってこい」

「なぜ、私が」

「私が買い物などできるとでも? それにこの容姿ではすぐに目につく」

「ですが、黒姫様が……」

「黒姫もそう望んでいるだろう? なぁ」


 薄笑いのアシュロムにそう同意を求められて、必死に頷き返す。

 とにかくギルノールと距離を置きたい。その一心で精一杯の笑顔を浮かべた。


「ギルノールさん。私、喉も渇いたしお腹も空いたなぁ。おまけにドレスはボロボロだし、馬車は乗り心地が悪くて体が痛いし……色々と買ってきてくれたら嬉しいんですけど」

「……黒姫様のお望みとあらば、致し方ありませんね」


 私と離れたくないと渋るギルノールを、アシュロムは無理やり馬車から降ろす。フードを深く被りこんだギルノールは、しばらく未練がましく私を見つめていた。だけど面倒くさそうなアシュロムに「さっさと行け」と片手で追いやられて、いやいやながら馬に乗って去っていく。

 その後ろ姿をアシュロムはしばらくじっと眺めていた。が、戻ってくると、あろうことか御者にすぐに馬車を出すよう指示を出した。


「まさか、置いていくんですか」

「おや? あれだけ嫌悪していたのに、彼の心配をするのか」


 再び揺れだした馬車の中で、隣にドカリと腰掛けたアシュロムは斜に構えた笑みを浮かべる。


「あのままいくと、君は彼に好き放題されていたかもしれなかったんだよ? それを救ってやったんだ。感謝してほしいくらいだね」

「国だけでなく、仲間まで裏切るんですね」

「仲間なんかじゃないさ」


 そう言って、どこまでも薄暗い瞳のまま前を向くアシュロム。

 この人も……どこまでいっても孤独なんだなと、唐突に思ってしまった。

 たくさんのご令嬢やご婦人方に囲まれていても、貴族たちと一緒にいても、この人の心には結局孤独しか残らない。

 この世界に一人ぼっちの私と同じだ。

 ……だからといって、今回の件に同情を挟む余地なんか微塵もないけど。

 妙な憐憫よりも、まずは魔力を封じられたこの絶望的状況で、自分になにができるかを考えなければ。

 リネイセルは二度も絶望的状況を打ち破って、私の元にきてくれた。彼は決して諦めなかった。

 だったら私も、なにがあっても諦めるわけにはいかない。


「ニムラスまであとどのくらいだ」

「あとニ、三時間もあれば」

「先は長いな……」


 御者に声をかけているアシュロムに見えないように、感情的な昂りを起こそうと、躍起になって悲しい出来事、辛い出来事を思い返してみる。

 せっかく……せっかくリネイセルと想いを通じ合わせることができたのに、このままいくともう二度と会えなくなってしまう。

 それだけは、絶対に嫌だ……!


「なにをしている」


 一人でうんうん唸っていると、私の様子がおかしいことに気づいたアシュロムに声をかけられた。


「なんだ、この香りは……」


 そのとき、手錠の装飾に使われていた宝石がぽろりと一つこぼれ落ちた。それを見て、アシュロムが驚きに目を瞠る。


「おい! 手錠が壊れたぞ!」

「……なんだって?」

「どうなっている? これで黒姫の魔力を抑えられるんじゃなかったのか!」

「想定魔力で作られているので、こちらの予想以上の魔力を流されると壊れる可能性があるが……」

「なんだと!」


 アシュロムは御者と怒鳴るように言い合ったあと、ギロリと私を睨みつけた。


「やってくれたな……!」


 ずいっと顔を近づけてくると、アシュロムは私の胸ぐらを乱暴に掴んで引き寄せた。

 間近に迫った紺碧の瞳に、怒りと傷ついたような痛みが爛々と燃えている。


「今すぐ魔術を使うのをやめろ!」


 嫌だ。だってもう少しでまた一つの宝石がとれそうだ。

 この手錠さえ外れれば、きっと魔力を放出することが出来る。

 そうすればきっと、この状況を打開できる。この国にいさえすれば、リネイセルなら絶対に私を見つけ出してくれる。

 そう信じて、希望を胸に強く手を握りしめる。そんな私の意識を引き戻すように、アシュロムが乱暴に肩を揺すってきた。彼は縋るように私を引き寄せると頭を抱えてくる。


「なぁ黒姫、お願いだからやめてくれないか。もう少しでなにもかもが上手くいくんだ」


 耳元でアシュロムの声が震える。


「黒姫……頼む。君は私の婚約者だろう? いつものように私の言うことを聞いてくれ」


 切ない掠れ声が、私の同情を誘うように耳元に流し込まれてくる。


「なにを……」


 覗き込んでくる必死な瞳から目を逸らすために、瞼を閉じる。

 この人は冷徹で、残酷で、そして口先だけの甘い言葉をなんの躊躇いもなく言える人だ。


「……潮時かな」


 そのとき、ひた走っていた馬車が唐突に止まった。








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