婚約者
「私の可愛い黒姫、会いたかったよ」
侍女が名を告げると同時に入って来たのは、王によく似た見事な金髪の美丈夫だ。冬の海のような紺碧の瞳にどこか冷たい色を浮かべながら、彼は大仰に両手を広げた。
「ごきげんよう、アシュロム様」
それにぎこちないお辞儀を返しながら、義務的に抱擁を受け入れる。彼の腕の中は、毎回違う香水の匂いがする。
アシュロム・ティボリ・イスタルシア。
王家の末席に名を連ねる身分であり、派手な交友関係を持ち、女性との艶聞が絶えない男。一夜を望む女性は後を絶たないために、いまだに特定の恋人もつくらず独身を謳歌していたところを、私の体の良い婚約者にされてしまった男。
可哀想に、陰で化物のような魔力だと揶揄されるような女の婚約者にされてしまって。
それでもこの国の頂点である王が定めた婚約者を、王家が庇護している私を、この男も無碍にするわけにいかない。男は来るたびに甘い声色で睦言めいた言葉を囁きながら、深い瞳の奥に嫌悪めいた色を浮かべるのだ。
「おや、今日は騎士サンダルディアがいるね?」
「ああ、陛下が残されて行ってしまったので」
婚約者より先に会いに来てくれた王は、途中で侍従になにか耳打ちされると、リネイセルを置いて足早に去っていってしまった。
チラリとリネイセルの方を伺うと、彼は相変わらずの無表情のまま、静かに佇んでいる。
「……そう。それは、彼が望んで?」
「さぁ? そんなことはないと思いますけど……」
戸惑ってリネイセルを見上げるも、表情を変えることなく、こちらを見返してくる。
彼が望んで私のそばに?
そんな都合のいい話などあるのだろうか。
「まぁいいか。それよりも私の黒姫、今日はどんな歓迎をしてくれるのかな?」
微かに苦笑を浮かべながらお茶の用意が整ったテーブルを指差され、肩を竦められる。一日のうちで最も苦痛な時間が始まった。
アシュロム・ティボリ・イスタルシア、この男はふらりとやってきては、毎回私のマナーの勉強の進歩状況を聞いてくる。そしてその輝かんばかりの笑顔で、やれ覚えるのが遅いだの、今のままでは自分に相応しくないだの、チクチクと駄目出しをしてくるのだ。
そして最後には「このままでは、君は僕とは結婚できないね」と言い捨てて去っていく。
その一部始終を、今日はリネイセルに見られてしまう。
そう思うだけで羞恥に居た堪れない。そんな私に気づいているのかいないのか、アシュロムの私を見る目も、いつもより険しい。
二人からの妙な圧のようなものを勝手に感じてしまって、いつもよりも大分不格好でぎこちなくなる悪循環に陥ってゆく。
溜息をついたアシュロムに、もういいと制されてしまった。
「どうしたのかな?」
声音こそ甘いが、確実にその顔に浮かんでいるだろう嘲笑を見る勇気がなく、顔を俯かせる。
「なんだかいつもより気が散っているような気がするな。なにか……ほかのことに気を取られていたような。たとえば――」
ハッとして顔を上げると、王によく似た美貌の顔には想像していたような嘲笑の色はなく、微かに苦々しげに顰められていた。
「すみません。やり直します」
私の視線の先は、気付かれてしまっただろうか。
「余計なことは考えないで」
ピシャリと言い放つと、アシュロム・ティボリ・イスタルシアはそれきり黙ってしまった。