救援
よろよろと部屋を抜け出した先の廊下には護衛の騎士たちが倒れている。
近づくにつれ苦しそうに呻き始めたその姿を見て、とにかくこの場を離れなければと慌てて歩みを進めた。
とりあえず、王に会わなければ。まずはこの事態の収拾をつけなければならない。
そしてそれが終わったら、王に伝えるのだ。私はアシュロムとは結婚できないと。
今まで言いなりになって王の望むように大人しく振る舞ってきた。でもいい加減それももう止めよう。嫌なものは嫌だと、きちんと声に出して伝えてみよう。
自分を救いたいのなら、自分で足掻いてみるしかない。
……しかし問題はどこに王がいるかだ。こっちから王に会いに行ったことなど今までない。なのでどこに進めばいいのかも分からず、迂闊に歩を進めることもできない。あてもなく少し彷徨って、そしてますます現在地が分からなくなって立ち尽くしていると、やっと向こうから人影が現れた。
「黒姫様!」
リネイセルが駆けてくる。その姿を見たらほっとして急に体から力が抜けてきた。床にへたり込んだ私をリネイセルが支えてくれる。
「お怪我はありませんか」
僅かに息を切らしたリネイセルは、しかしすぐに冷静な表情に戻ると安否を確認してくる。その後ろから王も追いついてきた。
「っ……! これは、道理で……とりあえず黒姫、落ち着こうか」
近づこうとした王はしかし、顔を歪めると後退ってしまった。まさか王にまで避けられるとは思ってなくて、ショックに茫然と見上げる。
「リネイセル、あとは任せていい?」
「ええ」
「僕はアシュロムを確認してくるよ」
そう言うと王は身を翻して去って行った。
「立てますか?」
手を差し出され、恐る恐るその手に掴まる。
「あの、大丈夫でしたか」
昨日の今日でリネイセルは動いて大丈夫なのだろうか。それに、私に近づいてしんどくないのだろうか。
きっと今、私の周りにはむせ返るような濃密な魔力とやらが漂っているのだろう。
「左手の方は……」
「今は私のことなど捨て置きましょう。大丈夫ですから」
見上げた先の清冽な翠の瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
「ですが、このままでは他の者に影響を及ぼします。こちらへ」
ふわりと抱え込むように支えられ、そのまま彼は歩き始めた。思ってもみなかった近い距離に一気に顔が赤くなる。
リネイセルから仄かにいい香りが漂ってくる。清潔感のある、優しい香りだ。その香りを嗅いでいると張り詰めていた思考が落ち着いてきて、いくらか冷静になってきた。
「こんな状態でどこに行けば……どうしたらこの匂いは抑えられるんだろう」
「心配なさらずとも少しずつ落ち着いてきています。これから緊急時用の別室へ向かいます」
リネイセルは手短にそう言うとあとは黙々と歩き続けた。廊下には人っ子一人いない。不気味なほど静まった廊下に響くのは二人の足音だけだ。
リネイセルは淡々と歩を進め、入り組んでいる廊下を右に左にと複雑に進みながらやがて一つの部屋の前で止まると中へと促した。
部屋の中には不安そうな顔をしたメイヤさんが待っていた。私の顔を見てはっとしたようにそのテールグリーンの頭を下げる。
「ご無事で何よりでした」
「メイヤさん、知らせてくれてありがとう」
お茶を淹れにいったメイヤさんをチラリと目で見送って、リネイセルはそのまま私をソファに座らせると、目の前に跪いて見上げてきた。
「黒姫様、何があったのか聞かせてくれませんか?」
真っ直ぐに翠の瞳に覗き込まれ、そう尋ねられる。
もう大丈夫だ。なんの根拠もなくそう思った。
リネイセルは私を傷つけない。安堵感に息を長く吐き出す。
「多分、アシュロム様の面目をつぶしてしまったのだと思います。私のせいで晒し者になったって。そ、それで……その、突然太陽の乙女の口づけがほしいと言い出して」
見上げてきていた透き通った翠の目が、すーっと細められた。その表情の変化に戸惑って言葉が途切れる。
リネイセルのこんな表情、初めて見た。
一瞬怒気を向けられたのかと思って、尻込みして次の言葉が出なくなる。
「……失礼しました。それでアシュロム様は黒姫様に狼藉を働いたと」
「あ、いえ……私、その、拒否してしまって。それで多分魔力が漏れ出てあんな事態になってしまったのだと思います」
リネイセルは立ち上がって、私に背を向けた。その視線は遠いどこかを鋭く捉えている。
「黒姫様、どうぞ」
メイヤさんがティーセットを持ってきて勧めてくれた。ベイビーブルーの透明な液体、リネイセルがブレンドしてくれたタルブム草のお茶だ。
自分が今どれほどの魔力を匂わせているのか分からないので、藁にもすがるような気持ちでそれを飲み干した。
目を見開いたメイヤさんに、行儀悪くもおかわりを促す。
「しばらくは私が護衛いたしますのでご安心を」
「あの、ありがとう。正直、来てくれたのが騎士サンダルディアでほっとしています」
「……陛下からの沙汰があるまで、しばらくこちらのお部屋でお過ごしください」
それきり、リネイセルは口を開くことなく扉のそばに寄るとそこに佇立した。
「黒姫様、本来ならばおそばにいなければならないところを、申し訳ございません」
「気にしないでください。私は大丈夫です」
メイヤさんは申し訳なさそうに一礼すると、控室へと去っていく。部屋の中にリネイセルと二人取り残された。
なにをする気にもなれず、ただ厚手のショールに包まってソファの上でボーッとしている。
静かな部屋に、リネイセルと二人きり。彼は護衛に徹していて微動だにしない。
さっきからその存在ばかり意識して、一人で勝手に気まずく思っている。
カレナリエル杯での、額への口づけ。
まんまるに見開かれた、翠の目。
言い訳をしたい気持ちと、言及すると墓穴を掘りそうな危うさの間で迷いに迷って、結局なに一つ言葉を繰り出せないでいる。
「……あの」
長い時間二人きりでの無言の時間を過ごして、とうとうたまらなくなった私は部屋の隅に佇んでいるリネイセルに声をかけた。彼は視線だけを私に向けてくる。
「こんなに長い時間私と同じ部屋にいると、気分が悪くなりませんか」
姿勢良く伸ばされた背筋はいつも通り凛々しく、微動だにすることもない。
「その、みなさん耐えられないようですぐに出て行きますので、いてくれるのは心強いんですけど、しんどくないのかなって」
「……恐らく私は、魔力の入っている器のようなものが人よりも大きいのだと思います」
リネイセルがふと視線を落とす。はらりと淡い色の睫毛が伏せられた。
「魔力は殆どと言っていいほどないのにこの器が大きいせいで、時に私は他人の魔力を受け入れてしまうことがあるのです」
このとき初めて、私は魔力を入れる器のようなものがあると知った。
それならば、私の魔力の器はどうなっているのだろうか。もしかして、魔力がだだ漏れになってしまうほどの大きさしかないのだろうか。
「他人の魔力は不快なものが多いので普段は受け入れないようにしていますが、受け入れてしまえば一次的に自分のもののように扱うこともできます。……セリオン隊長の荒れ狂う炎のような魔力には難儀しましたが。まるであなたへの抑えきれない熱情を表したかのような、コントロールの効かない魔力でした」
その言葉にぞわりと背筋が逆立つ。表情にも現れていたのか、「すみません、彼の話は止めましょう」とリネイセルはすぐに謝ってきた。
「あなたの魔力はかつてないほどに甘く、人を惹きつけて止みません。そんな魔力が行き場を失って彷徨っている。この過剰な魔力に皆耐えられないのだと思います。ですが私は幸いなことに、この空の器はあなたの魔力をも受け入れる」
それはつまり。
「私の魔力を吸収できるってことですか?」
「……そうとも言えます」
「じゃあ一緒にいれば、私の匂いが抑えられるってことですよね……!」
「陛下にはご内密にお願いします」
リネイセルの釘を刺すような言葉に、息が止まりそうになった。
「陛下には未だこのことをお伝えしていません。黒姫様の魔力を吸収することが可能だと、知られたくない」
――それは、なんでだろう。
思いがけなく見えた希望の光が、急に奪われたようだった。
「……陛下はあなたの今の状態を、その人を惑わす芳しい魔力を、最大限利用するおつもりです。このことが知られれば――」
そのとき、扉をノックする音が響いてリネイセルは口を噤んだ。