変化
翌日、朝早くから面会に来たのは王の代理だというイシルウェだった。
「あれ、黒姫様? 今日はなんというか、その……お顔がいつもと違うような気がして」
涼やかな目がまじまじと顔を覗き込んでくる。本当にこの人は容赦がない。
「昨日の名残です」
「ああ、失礼しました。あの大号泣の」
納得がいったようにイシルウェは頷くと、冷たい美貌が珍しく柔らかく微笑んだ。
「お疲れ様でした、黒姫様。無事にカレナリエルの乙女役を果たされたそのお姿、立派でしたよ」
その声音はいつになく優しい。思わぬ人からの優しさに、ついポツリとこぼしてしまった。
「……全然立派なんかじゃなかったですよ」
ちらりと伺ったイシルウェは静かに聞いている。
「私にはカレナリエルの乙女役は務まりませんでした。騎士サンダルディアを贔屓してしまったんですから」
「それは……」
既に王から経緯は聞いて知っていたのだろうか。イシルウェはさほど驚いた様子もない。
「私は騎士サンダルディアに勝ってほしいと、二人の前でそう口にしてしまいました」
昨日のギルノールの様子を思い出して身震いする。あの炎を吹き上げリネイセルの腕を焼き焦がす様を目にしてしまっては、もう二度と彼と普通に話をできそうになかった。
「そのせいであんな事態が起きてしまいました。私はなんてことをしてしまったのかと……」
「お言葉ですが、黒姫様」
後悔にぐだぐだと言葉を連ねる私を、イシルウェは突如遮ってくる。
「いかに黒姫様と言えども、両者を見縊らないでいただきたい」
ピシャリと言い放ったイシルウェに、呆気にとられて口を開けた。
「黒姫様はご存知ないのかもしれませんが、このカレナリエル杯というのは実に伝統のある大会です。カレナリエル杯に出ることは王宮の騎士にとって誇りであり、その優勝者には惜しみない賛辞が与えられる。そんなカレナリエル杯において騎士たちは常に全身全霊をもって勝負へと臨んでいます。だからあなたが彼らになにを言おうが言わまいが、結果は決して変わらなかったでしょう」
そう言われると、確かに自意識過剰な気がしてきた。私が勝ってと言ったから左腕を犠牲にしてまでも戦っただなんて、そんな風に思っていた自分が恥ずかしい。
「だからあなたはなにも気にしなくていい。これは彼らが覚悟して行ったことなのですから」
「……そうですね、そうですよね。反省しました……教えてくださってありがとうございました」
別の意味で顔が熱くなって恥ずかしさに気まずい私を気にすることなく、イシルウェは本題に入っていく。
「黒姫様とはもっとゆっくりとお話ししたいところではありますが、何分長居することが出来ませんので。こちらは陛下からの言伝を預かっております」
凍えるようなアイスブルーの瞳が感情を潜め、その声音が無機質になる。
「今後の沙汰を追って出すまでは不要な外出を控えること。アシュロム・ティボリ・イスタルシア、リネイセル・サンダルディア、ギルノール・セリオン、及びその関係者への接触一切を禁ずる。以上です。これが辞令になります」
「そんな……」
思わず呻いた私にイシルウェが片眉を上げる。
「なにか問題でも?」
「いや……でも、アシュロム様やアシュリー様からは面会の申し出が既に来ているんです」
「お断りしてください」
イシルウェはあくまで事務的だった。
「あなたの今後に関する重要な時期です。身勝手な行動は控えていただくよう、くれぐれもお願いします」
イシルウェは言いおくと、さっと立ち上がる。
「ではこれで。……黒姫様」
退室しようとして、思い出したようにイシルウェは振り返ってくる。こうも話すなんて珍しいなと思いながら、その姿を眺めていた。
「私はあなたに出会って、初めて自分の魔力量がそう多くないことを残念に思いました。私にもっと魔力があれば、あなたと私の関係性はもう少し違ったものになったのでしょうか」
このいつもクールでストレートな文官様が、なんとも遠回しな言い方をする。
「もう少し、あなたと話していたかった。黒姫様、あなたの幸せを願っています」
ふわりと笑ったイシルウェの笑顔は儚げで、でも声をかける前に彼は扉を潜って部屋を出ていってしまった。
今日の彼はいつもと様子が少し違っていた。
いつもよりほんの少し饒舌で、ほんの少し感情的で、そしてなぜだか寂しげだった。
それを問いかける前に、彼はあっという間に去っていってしまったけど。
アシュリーとアシュロムには早速事情をしたためた言伝を送ってもらい、さて再び始まった軟禁生活はどう暇を潰そうかと本を手にとったはいいものの。
「黒姫様」
メイヤさんが部屋に入ってくると、困ったように頭を下げる。
「どうしたんですか?」
「その、アシュロム様ですが」
躊躇ったのちにメイヤさんは切り出す。
「どうしても黒姫様にお会いしたいそうで」
「あれ? でも王命出てますよね? ダメって」
「そうですが、もうこちらにこられていまして、今は護衛の騎士が止めていますが、いつまでもつか……」
どういうことだ?
アシュロムがそこまでして私に会いたい用とはなんだ。
きっと昨日のことで来たことには違いないんだろうけど、彼がどういった感情でそんな強行突破に至ったのか読めなくて混乱する。
「とりあえず、私は会いませんと再度伝えてもらえますか? それと陛下にも知らせてください。なんとか騎士さんたちが頑張ってくれるといいんですけど」
メイヤさんは頭を下げると、すぐに部屋を出ていった。
しばらくは扉の外でなにやら言い争う声が微かに聞こえてきていた。だがやがて唐突に激しい音がして、とうとう私のいる部屋の扉がアシュロムによって乱暴に開け放たれた。
「やあ、私の黒姫。いるじゃないか」
入ってきたのは皮肉げな笑みを浮かべたアシュロムだった。衣服も髪も若干乱れて、いつもより装飾も控えめだ。
「なんの御用ですか。護衛の騎士に止められたはずですが。しばらくは誰にも会えないんですよ、私は」
「そう堅いことを言わないでくれ。君と私の仲だろう?」
アシュロムはつかつかと私に歩み寄ってくると、ソファに腰を下ろす。隣に座るよう私に要求してきた。
「君の騎士たちの頭の固いこと……さすが黒姫の騎士だと自認するだけあるな」
「騎士さんたちになにしたんですか」
「そう睨まないで。少し大人しくしてもらっただけだから」
「こんなことをして、後で陛下に怒られても知りませんからね」
「いいじゃないか。陛下が陛下がって……もううんざりなんだよ」
憎々しげに呟かれた言葉。その紺碧の瞳はいつになく冷たく凍っている。アシュロムは立ちっぱなしの私を見上げると、「座れ」と冷たく命令してきた。
「黒姫、少し話をしないか?」
渋々と少し距離を開けて座った私に、アシュロムは笑っていない目で笑いかけてきた。
「そうだな、まずはカレナリエルの乙女役、ご苦労だったとでも言おうか。よくもあんな真似をしてくれたね」
強くなった語気に咄嗟に立ち上がろうとしたが、その前に手首を掴まれる。
「おかげで私はいい晒し者になったよ。いまや宮中ではどこもかしこもこの話題であふれ返っている。黒姫は色無しサンダルディアにご執心、ってね」
その手を振り払おうとして、逆に強い力で握り込まれた。
「よりによって乙女の口づけを額に与えるだなんて、君は一体なにを考えているのだろうね?」
「すみませんでした。でも、知らなかったんです。陛下がどこでもいいから早くしてくれって急かしてくるから、それで……」
「どこでもいいからって、だからって額にするのか?」
うっすらと笑みを浮かべたアシュロムの紺碧の瞳は、暗い感情に鋭く光っている。容赦なく握ってくる力に思わず呻いた。
「君が実際に口づけを落とすところを見ていたよ。慈愛に満ちた眼差しを向け、まるで抑えきれない想いを伝えるような口づけだった」
「何度も言いますけど、あれは……」
「私にもくれないか」
甘い甘い声音で、アシュロムは強請るように囁く。
「婚約者である私にもその権利があるはずだ。さあ、早く。この私が君の口づけを乞うている」
握られた手首を引き寄せられ、ぐいっと顔を近づけられる。
「あの色無しサンダルディアにはできて、この私にはできないのか」
危険な色香を漂わせながら、アシュロムは囁いてくる。
「だから、あのですね……」
王はまだなのか。王じゃなくてもいい。誰でもいいからとにかくアシュロムを止めてくれるような誰かに早く来てほしい。
――“幸せになりたいのなら、自ら掴み取りに行きなさい”
そのとき、唐突にアシュリーの強い視線を思い出した。
誰も捧げてはくれない。
確かにそうだ。誰も私なんか助けてはくれない。どうにかしたいのなら、誰かの助けなんか待ってられない。自分で足掻くしかない。
「……できません」
「なんだって?」
「あなたに口づけは、捧げられません」
寄せられた紺碧の瞳に向かってはっきりとそう言うと、その瞳がすーっと細められた。
「……君の婚約者は誰だ」
「……」
「このアシュロム・ティボリ・イスタルシアじゃないのか」
返事をしない私にアシュロムの顔から段々と笑みが消えてゆく。
「そうか。黒姫、君がそのつもりなら、私は君から奪うしかないね」
体を寄せてくるアシュロムに対しての、咄嗟の判断だった。
「いや!」
強い力を込めて叫んだ声は、自分でも驚くほど響いていった。アシュロムは苦痛を受けたように顔を歪め、動きを止める。
私には魔力を使うということがどういうことかよくやからないが、今までの経験から、恐らく強い感情を放ったときになんらかの魔力が放出されているのだと思う。
本気の全力で拒めば、最悪なにも起きなくても、濃い魔力自体に彼の動きが鈍るのではないかと思ったのだ。
恐らく大方の予測は外れていなかった。
崩れ落ちるように蹲ったアシュロムを尻目に、私はよろよろと部屋を出て駆け出した。