プロローグ
一目惚れだった。
その人は静謐な湖畔を思わせる翠の瞳で、こちらを見据えていた。けぶるような銀の睫毛が物憂げに陰をつくる。
ずぶ濡れで噴水のど真ん中に立ち尽くしている私を、一番に助けてくれた人。
凛と佇むその人に、私は恋をした。
王宮に保護されてニ年。
ここイスタルシアという世界では、魔力が高いほど濃い色の頭髪の子が生まれるそうだ。といっても王族は特別で、代々光の加護を受け、見事な黄金色の御髪をしている。
そんなこの世界では、自分の真っ黒な髪はかつてないほどの“異色”なんだそうだ。歴史上においても、これほどの濃い頭髪は現れたことがないそうで、私が突如王宮の庭園に現れたときは、とんでもない騒ぎになった。
絶対不可侵の王宮に、突如舞い降りた異色の乙女。
その神がかり的な登場の仕方も相俟って、神の御使いだと崇め讃えられ、大切に保護されたのはまだ運が良かったと言える。誰もが私の強すぎる魔力にうっとりと顔を蕩けさせ、平伏す様子は異様すぎて、恐怖さえ感じたけど。
その一方で、この暴力的なほどの甘い魔力が、理性を試す誘惑だと密かに畏怖され、遠巻きに厭われているのも知っている。
私はこの世界にやってきて早々、右も左も分からぬうちに王宮の奥深くへと、保護という名の軟禁に遭い、王の威光の象徴になることを余儀なくさせられている。
気まぐれに、この国の王は私の元へ訪れる。
「黒姫、ご機嫌は如何かな?」
目の前には、緩く波打つ黄金色の髪を煌めかせた、神の創り出した彫刻かと見紛うほどの美貌の男性が堂々とした笑みを湛えている。
アシュクロフト・ティボリ・イスタルシア。
サファイアのように深い蒼の瞳は太陽の光に輝き、瞬き一つで世の女性を魅了してしまうことだろう。すっと通った高い鼻筋に、薄く男性らしい唇、白磁のような滑らかな素肌は陶器のよう。均整のとれた肉体は惚れ惚れするような美しさで、彼の王としての威厳と自信を表していた。
一目見てこの世の存在じゃないと思った程の圧倒的な美貌だ。
私はその問いにぎこちなく礼を返し、ちらりと彼の後方に佇む人物へと視線を遣る。
リネイセル・サンダルディア。
銀色にも見えるプラチナブロンドを緩く結い、翡翠のように透き通った翠眼は無表情に遠くを見据えている。騎士にしては少し細身の身体は常に崩れることなくピンと伸びていて、凛とした佇まいが伺えた。
彼に初めて会ったあの日。
すべての人が平伏す中で、一番に私に手を差し出してくれたあの時。
そのすべてを見通すかのような透明度の高い瞳に見つめられて、私は恋に落ちた。
それきり、あの人の視線が私を向くことはないけれど。こうしてその清廉な佇まいを見られるだけで、胸がいっぱいになる。
「そういえば、もうすぐ騎士団が大会を開催するんだよ」
カップに口づけながら、目の前に座っている美貌の王は、ふと思いついたように悪戯っぽく笑んだ。
「今年は黒姫にカレナリエルの乙女役をやってもらおうか」
初めて聞く言葉に眉を顰めると、なにが面白いのか、王はくつくつと小さな笑いを浮かべた。
「なに、勝者に祝福の口づけを与える簡単な役割だよ」
「……嫌です」
いつもの王のくだらない思いつきだ。
常に遠巻きにこちらを伺う貴族たちの様子からも、そんな役を私が担っても誰も歓迎しないだろうことは、目に見えている。
だがいくら拒否しても、この喰えない王が取りあってくれるとも思えなかった。事実、彼はなにも聞こえなかったかのように、優雅にお茶を飲んでいる。
「今でも充分にあなたのお役に立っていると思います。これ以上私になにをしろと」
「別に役に立ってほしいから頼むわけじゃないさ」
煌く深い蒼の瞳に見つめられると、いつも落ち着かない気持ちになる。
「ただ君は、いつまで経ってもどこか遠くにいるようで、この世に馴染もうとはしてくれない。ここはもう、君のいた天上の世ではないのにね」
震える唇を噛み締める。怯みながらも無言を貫く私に、王はさらに目を細めた。
「もう二年だよ。君がここに来てから、ね」
王はさらりと私の頭を撫でると、立ち上がった。王に合わせてリネイセルも背を向ける。
その後ろ姿をいつものように、見つめていた。いつも彼は私に目をくれることなく立ち去っていくから、油断していた。
ぼーっとその後ろ姿に見蕩れていた今日に限って、王の姿が消えていくその瞬間に、チラリと彼が振り返ってくる。
初めて会ったあの日から、一度も向くことのなかった見透かすような視線。
その透き通った硝子のような瞳と不意に見つめあって、でも彼はなんの感情も浮かべないまま、王の背を守るべく去って行った。