ジャガイモマグロ風味の鉄くずセメント牛乳
宇宙を、世界を、私たちを包み込んでいる空間を、事象を
形容することの出来ない全容を私は「箱庭」と名づけよう。
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人の子として生まれた私たちは
社会の中で育ち、社会が全てと思いこむことで一生を終えていく
そんな私たちはいつしか本当の自由を忘れてしまう
社会の外にある世界を否定し、存在を許さんとすることで
都合よく世界という存在の見方を変えてしまったからだ
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私たちの生きている、存在している世界は
働いて対価を受け取り愛する人を手に入れ幸せを噛みしめる
それだけに用意された舞台ではないと私は思う
しかし、そう思うだけで何も解決はしない
私たちには可能性を無限に想像することができ、寿命という名の限られた時間の中で生きている
この世界は、私たちを抱え込んでいる今は残酷である
自分たちが生まれてきた意味でさえ
自分たちで作り出し信じるしかない
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淡く、儚い存在である私たちは
永遠に巡り巡る箱庭の一部でしかない
始まることも終わることもなくただひたすらに続いていく箱庭の中
私たちは、私たちを越える存在、万物、事象のすべては
永遠に巡り巡る箱庭の一部でしかない
私たちを支える核心的な存在意義は必ず存在する
しかし、それは私たちだけでは理解することはできない
核心的な存在意義を持ちながら自身でその真意に辿りつけない私たち
そしてそんな私たちを凌駕する存在でさえ
永遠に巡り巡る箱庭の一部でしかない
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箱庭には、はじまりも終わりもない
永遠に巡り巡っていく
はじまりも終わりもなく、存在する私たちは
はじまりも終わりもないのだとすれば
形容しがたい、おぞましい狂気そのもの
ゆえに、在りたいように在ればいい
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~ここから始まります~
宗教という言葉から何を連想するだろうか。
私は、人間や自然の力を越えた存在を中心に物事の起源や生命の生誕に対して口を挟むもの、という風に解釈している。
宗教や宗派には色々なものがあり、それらは人の思想の数だけ無限大に存在するだろう。
それらは、空想的かつ抽象的なものであることが多い。が私から言わせてみれば、キリストだろうとが仏だろうが「真意」という的を大きく外していなければなんでもいい。
「真意」というのは本当の意味ということであり、私たちだけでは物事の起源や生命の生誕の真意を理解することは不可能である。
ゆえに、真意という的を大きく外してなければどんな思想であろうがどうでもいいということだ。
分からなくても、ある程度予想することは出来る。
そして、宗教や宗派は人や自然の力を越えたもの、要するに人じゃない何か、人より高位な存在であることが多い。
俗物的な言い方をすれれば「神さま」みたいな存在である。
神さまは偉大だ。神という人間より高位な存在がいると仮定することは世界の真実に大きく近づく。
くどい文章ばかりで退屈しても仕方がないので例をつかいながら説明しようと思う。
例 Aさんがカレーライスをつくった
単調な文であるが、ここで私たち人間はカレーライスであるということを理解することが出来るだろうか。
当たり前なことであるが、カレーライスはカレーライスとしていきなり現れない。
つくる「人」がいて初めてカレーライスは出来上がる
カレーライスのつくり方など色々な仮定もあるが、一番重要なのはそのカレーライスをつくる人がいてつくったからカレーライスが出来上がるということ。
人間も同じだろう。
同じだ、と断言しないのは私自身もまた世界の真意を知っているわけではないからである。
しつこいが、私たち人間だけでは世界の真意を知ることは不可能である。
カレーライス自身がカレーライスになった理由を知るにはカレーライスをつくりだした存在に聞くか知らされるか。いずれにせよ自分より高位な存在が必要になるからだ。
逆に言えば、私たち人間が存在していることで
私たちより高位な存在がいることを証明しているとも言える。
私たちは何故存在しているのか、本当は存在してなんていないのではないだろうか。
そう、思っている「私たち」の存在を否定することはできない。
つまり、私たちは存在している。
私は誰だ?を証明する方法としてデカルトの名言が一つ。
それは「我思う、ゆえに我あり」である。
私たちより高位な存在を否定する、何かに対し何か理由があるという考え方を否定することはほとんど狂気に近い。
何かに対して何にも理由がない。
それは何もない空間に何の理由もなくいきなりカレーライスが現れることを肯定しているようなもの。
しかし、それを肯定するのは難しい。
カレーライスは誰かにつくりだされたから存在し、この世に存在する万物・真理・人間的な感情全てにおいて何かしらの理由のもと、成立しているからである。
スマホは何故つくられたのか、何故それをスマホと呼んだのか。
人は何故人を殺すのか、何故殺すことを人は許さないのか。
何かに対し何か理由を求めることは必然であり、理由そのものが存在を証明している。
そしてその理由が、存在を証明するだけの力を持たなければ何かは存在することができない。
スマホはなんとなくでつくられない。
人は人をなんとなくで殺さない。
スマホであれ殺すという行為であれ、それらが成立するだけの理由がなければスマホも殺すという行為も存在することはできない。
何かに対し何か理由があるという考え方はライプニッツの充足理由律が多くを物語っている。
とても難しく至極あたりまえなことであるが気になったら調べて欲しい。
そして私は一つの考え方に行き着いた。
始まりも終わりもないのが私たちの生きている世界なのだということだ。
しかし、これは私の導き出した一例であり、これが真意である。と言うわけでない。
というか箱庭自体に真意もくそもへったくれもない。
何かに対し何か理由があるというのを突き詰めていくと分かることがある。
それは、果てがない、際限がない。ということだ。
宇宙の果てとはなんだろうか。
果てがあるということはその果ての先に広がる世界はなんと形容すればいいのだろうか。
その果ての先こそ、宇宙の果てを支えている理由になってしまわないだろうか。
もし宇宙に果てがあり、原初、始まりがあるというのであれば
その始まりという存在は恐ろしく狂気的で形容することのできない愚かしいほどの得たいの知れない存在ということになる。
理由なく、ただそこに在った。は論理的に破綻している。
在るということは在るを成立させるだけの理由が存在している証明でもあるからだ。
ゆえに、宇宙の始まりや、物事全てに対する起源があるということは、私にはどうやって表現すればいいのか分からない。
否、私には表現できない。
学校でとある教室に生徒が誰一人いなかった。
何故か?
移動教室だった。体育だった。プールだった。修学旅行だった。
いない、そこに何もないという事象でさえ、その事象が成立するだけの理由がある。
それは、その理由が事象を成立させるだけの力を持っているということでもある。
「私・今・そして神――開闢の哲学」という本に面白い一文がある。
中学生のとき、理科室の備品がなくなるという事件が起きたことがある。先生は生徒の誰かが持って行ったのではないかと疑っていた。その同じ日の午後、クラス全体に向かって発言する機会があったので、私は「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」という趣旨の発言をした。そういうことはありえないということは、いつ誰が証明したのか、と。
そしてクラス担任からその発言を聞いた、理科の先生は、そういう「無責任な」ことを言ってはいけないと諭すのだ。
これは実に面白い文章である。
物が突然なくなってしまう。ということを証明することができないのに、人間は突然物はなくならないと暗黙の認識を持っているからだ。
何かに対し何か理由があり、物事が成立するということは
物事が成立しないということはその物事を成立させないだけの理由がある。
という裏返しでもあるのだ。
物が突然なくなることなんてない。を肯定するということは
物が突然なくなるなんてことない。ということを成立させるだけの理由があると言っているのと同じである。
だからこの著者は物が突然なくなることもあるのではないか、と言った。
突然に物がなくなることはない。ということを誰も理由付けすることができないから。
くどいとは思うが、何かが存在するということはそれを成立させるだけの理由が必ず存在する。
でなければ、それは成立しない。
ゆえに、世界には始まりはない。
私たち人間を作り出した存在がいるのであれば、その存在を作り出した存在がいる。
そして、その存在を作り出した存在がいて、この命題は永遠と続き、最終的にそれは始まりがないという証明になる。
そしてその繰り返しには終わりもない。始まりという点がない限り、終わることはない。
終わりにするものがない。
私には始まりがないのに終わるということがどんなことなのか理解ができない。
そして、始まることも終わることもない世界のほんの一部。
それが私たちである。
私たちが一体どんな理由でなんのためにつくられたのか、それを知っている「神さま」という人間より高位な存在がいる。
しかし、そんな「神さま」も自分がつくられた理由は分からない。
そしてそれを知っている「神さま」という存在より高位な存在がいる。
そうやって永遠に繰り返されていく。
終わることがない。と断言できるのは私たちを包んでいる箱庭の始まりが存在しないから。
始まることによって終わりがあり、それらは片方だけでは存在することが出来ない。
つまり終わりがある。ということは始まりがあるということでもあるのだ。
始まりも終わりもない。
メビウスの帯が分かりやすい例だろう。
表があるから裏は存在する。
表がないということ、それは裏がないという証明でもある。
もし、私たちをメビウスの帯に存在する者と仮定したらどうなるか。
そんなメビウスの帯に1点のしるしをつけずっと辿っていくとしよう。
辿りに辿った果てどうなるか。
それはまたその点に戻るだろう。
この事象を真意とし広まっていった考え方が東洋思想である。
輪廻転生、転生輪廻とも言う。
しかし、私たちを包み込んでいる箱庭はメビウスの帯では説明することはできない。
もし私たちがメビウスの帯のような世界にいて、死んで巡り巡って生まれ変わるとしても
そこで証明できるのは私たちが輪廻転生することだけで、箱庭も同一であるとは証明できないのだ。
私たちが輪廻転生するだけで箱庭そのものが証明できないのは何故か。
それは私たちが輪廻転生のようなシステムを作り出すことが出来るからである。
それが、メビウスの帯である。
輪廻転生する世界を作り出すものがいて、そのものが存在する理由もまた存在する。
輪廻転生ですら、箱庭の一部でしかない。
私たちを包み込んでいる箱庭の始まりが何故存在しないのか。
それは、私たちが存在しているから。
存在する。
それは、はじまりも終わりもない。ということの唯一の証明なのだ。
はじまりも終わりもなく、存在する私たちは表現できない狂気そのものであろう。
つまり、私はこの投稿を経て何を伝えたいのか。
生きたいのであれば生きればいい
死にたいのであれば死ねばいいということだ。
私たちという存在は根幹からしてめちゃくちゃすぎる。
しかも、社会という名のルールがそのめちゃくちゃな根幹をさらにめちゃくちゃにしている。
罪と呼ばれる行為を起こせば、自分の身に枷がつく。
しかしルールが悪というわけではない。
今日において、身を持ち、美味しいものを食べ、学び、愛を育み
すこやかに生を全うできるのは社会という名のルールがあってこそだからだ。
今日の自分が存在していること。
それが社会というルールのおかげでありながらルールそのものが枷になっていると感じるときもある。
存在そのものがめちゃくちゃであるのに、そこに社会という名のルールが合わさって余計にこじれているのだ。
私たちは牛乳にジャガイモやバナナ、マグロを混ぜたようなわけわからない存在だ。
そこにさらに納豆だったりセメントだったり鉄くずといったルールをぶち込んだらどうなる?
もうわけが分からないだろう。
つまり、何にも縛られず自由に生き動くという言葉の意義すら
今の私たちでは定義することができない。
だから、一つだけ、これだけでいい
生きたいと思うのであれば生きる
死にたいと思うのであれば死ぬ
それらは社会といったルールだったり
私たちは何故生まれたんだろう。といった根幹に
ふりまわされる必要はない。
めちゃくちゃにめちゃくちゃを混ぜた意味不明な世界に存在するのが私たちである。
好きにすればいいのだ。
そしてもう一つ言えることは死が完全なる終わりではないということだ。
箱庭にはじまりも終わりもない。
人間としての生を一つのはじまりとするのであれば人間としての死は一つの終わりと定義することは可能だろう。
がそれはあくまで人間としての、話だ。
自分の前世はどこかの世界のどこかの神であったのかもしれないし
これから、どこかの世界の神になるのかもしれない。
もちろんどこかの世界の神が治める世界の住民になるのかもしれない。
ゆえに、私は
人間として在ることよりも、別の何かとして在ってみたいと思った。
何故か。
それは、人間としての器で行えることにもう、満足してしまったからだ。
人を愛すること、悩むこと、何かに対し情熱的になること
おぞましい苦痛に耐え、生を感じること
人が人間としての機能を通じて感じることは色々ある。
それらに満足したとき、人は死んでいくのだろう。
そんな風に考え、世界を見つめている人間もいる。
そしてその世界は
永遠に巡り巡る箱庭の一部でしかない
人間という存在は
永遠に巡り巡る箱庭の一部でしかない
はじまりも終わりもない。
それが私たちの、世界の、箱庭の真実だ。
誤字脱字、文章のおかしいところ等々多々あると思いますが
愛嬌みたいな感じで軽く流してもらえると幸いです。
自身に文才があるとは微塵も思っていません。
ただの垂れ流しです。