01
目を閉じれば、浮かぶのは自分の美しい婚約者の姿。
今では立派な青年へと成長した二つ上の彼は、いつから背筋を伸ばし真っ直ぐ人の目を見て会話をすることができるようになったのだろう。いつから、その名を国中に響かせたのだろう。いつから、侯爵が手放すことを惜しむようになったのだろう。いつから公爵令嬢が彼を見る目に色を持つようになったのだろう。
――いつから自分の入り婿でいいのか、と不安を抱くようになったのか考えずにはいられなかった。
指折り数えても「いつから」という疑問に答えがでることはない。
彼の努力という才能がゆっくりと、人よりほんの少し遅かった花が咲いていき、美しさに一人、また一人と振り返り目を瞠り、気付けば彼の背を追いかけるようになっていたのだから。誰もが気付かぬうちに彼に魅了されていたのだ。
第三者の彼を見る眼差しが、蔑みから憧憬へと変化する様子を隣に立ち見続けてきた。
最初はうれしかった。
ただ、ただ彼の努力が実を結んだことが。果実となった甘い汁を吸いに、近づいてくる者たちに対し苛立ちを覚えたけれど、それ以上に誇らしくもあった。
だけど、今は――彼を手放すべきなのではないかと考えてしまう。
親に半ば捨てる形で押しつけられた入り婿という形の婚約。
彼にはなんの身分も用意されていない、あるのは不名誉な呼び名だ。その不名誉な名前だって、わたしという婚約者を持ったから付けられたというのに……彼は何も言わず楽しそうに笑っているばかり。
わたしの名はアシュレイ・ケイトゥ。
伯爵家のたったひとりの娘。
物心ついた時には爵位を継ぐために勉強を初めていた。幼いからこそできた行動だったと今なら思う。
四歳の時に母を失ってから、親戚の人たちの噂話を耳にするようになった。誰が爵位を継ぐのか、という利権争いのようなものだ。
この家はわたしと母と父の思い出の場所。母を愛した父が一つ一つ手に入れ、小さな傷一つとっても思い出が詰まっている。それを奪われてしまうと焦ったわたしは、父に訊ねた。
「わたしたち、この家を出ていかないといけないの? お母様との思い出を手放さなくてはいけないの?」
「そんなことはないよ。ただね、レイがこの家を継ぐのはとても大変なことなんだよ」
「大変でもいい! わたしはわたしの大切なものを守りたいの!」
どう大変なのかわからず、言われるまま勉強に励んだ。
けれど爵位を継ぐのだと態度で示しても、口さがない親戚達は噂を続ける。子どもには理解できないと思っているのか、父や執事たちがいない場所でその口をよく動かしていた。
わたしが爵位を継ぐにしても次代の子どもが必要となる。彼らは自分たちの息子をあてがうつもりで、「未来の伯爵」と言って聞かせていた。そういう子どもたちは、親戚として訪れていても自分の家になるのだという持論を展開し、家のものを好き勝手に扱い、時には壊し、時には持って帰った。正当な方法で当然取り返したけれど、子どものわたしの心は充分傷ついた。
このままではケイトゥ伯爵家が奪われてしまうとわたしが考えると同じように、父も早急に手を打つ必要があると考えたのだろう。
必要なのは親戚筋を黙らせる婚約者。
爵位が低すぎては彼らは軽んじ、潰してしまうだろう。しかし優秀すぎてはわたしの代わりに領地運営をすることとなり、従来のケイトゥ伯爵家は守れない。
父は悩んだ末、ひとりの少年を婚約者とし選ぶ。
彼の父の爵位は侯爵、下手に手を出せば侯爵が表に立つことだろう。
彼の能力は凡庸などというには遠く及ばない低能で、わたしの未来を脅かす存在になりえないと考えたのだ。
彼自身も父の望み、自分の立場をきちんと弁え、常に控え目な態度をとり続ける。謙虚ともとれる態度が、伯爵の婿の座を狙う者たちは揶揄する名で呼ぶきっかけとなり、彼もまた笑顔でそれを受け入れるだけでなく自身でも告げるようになっていた。
――種馬婚約者、と。
この名前の存在でいいのだろうか、とデビュタント間近に控えたわたしは考えてしまうのだった。