永遠なるものが限りある命を愛するということ。
「吾子、吾子」
たった一人の子どもに名前などいらない。名付けなど、そんなもの人間のすることだ。
頬ずりし、口づけし、抱き締める。
ありったけの愛を注ごう。
私の全てを。
吾子はすくすくと育った。
這ったと思えば立ち、立ったと思ったら歩む。
毎日毎日違う変化が訪れ、成長を続ける。
邸の外では、未だ不穏な空気が立ちこめていた。
平家を追い出した義仲は義経に追われ、その義経も頼朝との不仲から京を追われた。
頼朝の手の者たちは、平家の他に義仲、義経の残党狩りに勤しまねばならなかった。
――これで、平家への目が緩まればよいのだけれど。
そんな世情とは関わりなく、子は大きくなる。
吾子は四歳になった。
このころの吾子のお気に入りの遊びは、小さなおもちゃの車を赤い紐に結わえて、引き回すことだ。
とっとっとっとっ。
引っ張る車がちゃんと付いて来るのか気になるとでもいうように、時折立ち止まっては後ろを振り返る。自分に付いて来てくれる小車を見て、うれしくなってきゃっきゃっと笑う。また覚束ない足取りで走り出す。
見守るゆかりの周りを、車を引きながらぐるぐるまわり、足がもつれて転びかける。それを母の手がさっと伸びて抱き添える。
吾子の甘い香りに誘われて、ゆかりはそのままぎゅっと抱き締めた。
「きゃうわぁっ」
吾子は柔らかな母の身体に埋もれ、歓びの声をあげる。
最近吾子は、言葉を覚えた。
「母ちゃま、母ちゃま」
自分が唯一無二の存在として求められていること。その実感を噛みしめ、母としての喜びに涙が溢れそうになる。
けれど、突然の暴掠が母子を襲った。
秋の穏やかな日差しの中、吾子と遊んでいた庭先に、二人の侍が押し入った。
もの言う暇もなかった。吾子は男に掴み上げられると、そのまま連れさらわれた。
「母ちゃま、母ちゃま」
泣き叫ぶ吾子を取り戻そうと男に追いすがるが、横にいたもう一人の男に蹴り倒される。起き上がったその目には、男たちが門から外へと消えるところだった。
――平家の残党狩り!
「待って! 行かないで!」
ゆかりは叫び、追いかける。
門の外に男たちの姿はなかった。
遠く、吾子の泣き叫ぶ声が聞こえる。それを頼りに追いかける。
「吾子、吾子」
「母ちゃま、母ちゃま」
どこをどう走り回ったか。
気付けば洛外の寺院の敷地。
卒塔婆や石碑の建ち並ぶ墓場の中。
そこは平家残党の刑場だった。
立ち見の人がまばらに並んだ、その隙間から、信じられぬ光景が目に飛び込む。
男らが、太刀を手にした役人らしき武者へ、吾子を引き渡すところだった。
ゆかりの体が凍り付く。
――やめてっ、何するの!
吾子の体が地面に下ろされる。
役人が太刀を両手に握りなおす。切っ先を大きく天に振りかぶる。
吾子が濡れた顔で役人を見上げた。
「やめてぇぇぇ」
ゆかりは叫んだ。
けれど、母の悲鳴も役人の刃を止められなかった。
目の前には、赤い赤い血だまり。
吾子の首は五輪塔の前に晒され、胴は堀へ捨てるため持ち去られた。
「かわいそうにねぇ」
「何も、あんな小さい子まで・・・・・・」
人々のささやき合う声もゆかりには届かない。
彼らを押し退け、我が子のもとへ駆け寄った。
「吾子、吾子!」
血の気のない顔、たった今まで「母ちゃま、母ちゃま」と私を呼んでいたのに!
「吾子、吾子!」
私の宝物、私の命。
それなのに・・・・・・。
ゆかりは吾子の首を抱いて歩き出した。吾子の命を奪ったこの場所から少しでも遠く離れようと。
「吾子、吾子」
母は子の首に話しかける。そうすれば、再び答えてくれるとでもいうように。
「――吾子、ほら、お車だよ」
赤い紐で結わえた小車を引き摺り、それを時々振り返っては吾子に見せてやる。
「ちゃんと付いて来てるでしょう」
掌に収まるほどの小さな吾子の頭を撫で、微笑みかける。
顔を近づければ、髪に甘やかな香りが残っている。それを思い切り吸い込む。そして涙があふれ出る。
「吾子ぉ、吾子ぉ」
吾子の首は腐り、異臭を放つようになった。それでもゆかりには、かつての吾子の香りを嗅ぎ分けられた。
首は干涸らび、小さく縮んだ。もう吾子の面影はない。それでもゆかりは首を離そうとしなかった。
幼児の髑髏を抱いて歩く女を、皆気味悪げに見て遠ざけた。子どもたちは石を投げて囃し立てた。
ゆかりは吾子を抱いて歩き続ける。歩くのは、立ち止まれば現実に我が身が呑み込まれてしまいそうだったから。
吾子の死から目をそらすために、ゆかりは歩き続けなければならなかった。
髪は乱れ、衣は垢じみ、物乞いのような姿に成り果てても。
先々では、哀れがる奇特者から施しを受け、喰い繋いだ。阿子へも噛み砕いて柔らかくしたものを、口移しで食べさせようとする。
けれど、吾子の動かぬ口からは、ぽろぽろと食べ物が落ちるばかりだった。
「吾子、何で食べないの? おなか痛いの?」
話しかけても吾子は答えない。
どこまでもどこまでも歩き続けて、ゆかりはやがて海辺にたどり着いた。
波打ち際に立ち止まる。
立ち止まってしまった。
ゆかりの体へ、音を立てて襲いかかる波――・・・
ついに彼女は現実に呑み込まれる。
生き返ることのない我が子の現実に。
――愛する者も、愛してくれる者も、この世にいないのなら。
正気を取り戻したゆかりは、近くにいた漁師に小舟を出してもらった。
「子どもの供養をしたいの」
お礼に着ていた綾小袖を渡す。
垢じみた高貴な衣に、漁師は思うところあったようだが、何も言わなかった。
小舟は沖に出た。
「奥さん、この辺りでいいだろう。一緒に、なむあみだぶつでも唱えようか」
それには答えず、ゆかりは手にしていた吾子の首と小車を、ぎゅっと胸に抱き締めた。
「親切にしてくれてありがとう。それから、うそをついて、ごめんなさい」
そう言い残すと、舟から身を投げた。
「奥さん! あんたっ、何てことを!」
漁師は慌てて海に飛び込んだが、波の下は渦巻く泡と濁りで何も見えなかった。漁師は何度も何度も潜ったが、結局女の姿を見つけることはできなかった。
漁師はあきらめて浜へ帰ると、譲られた衣を寺へ届け、供養とした。
翌日、その浜から遠く離れた波打ち際に、ゆかりの体が打ち上げられていた。
濡れた髪が、海藻のように顔を覆っていた。
その隙間にあって、瞼がゆっくりと開く。
頬の下に拡がる海砂が、ちくちくと肌を刺した。
動かそうにも重い身体。
それでもゆかりは生きていた。
――誰の憐れみというの? 神? 仏?
手元を見た。あれほどしっかり抱き締めていた吾子の首も小車もなかった。
くっくっくっ・・・・・・
喉が鳴ったかと思うと、彼女の口から哄笑がほとばしった。
――私には何もない。何もない。それなのに、まだ生きろと?
ひとしきり笑い終えて、気付く。
何かを得たために失うものがある。失って取り戻す何かがある。
ゆかりは立ち上がって、己が体を見下ろした。
体の輪郭が揺れるのを覚える。
風もなく髪が舞い上がり、
衣の袖がはためく。
人の子の母となって失われていた霊力が今また――…
己れが己れに戻ってきたのだ。
ゆかりは、いや狐女は中空に浮き上がると、天高く上昇を続け、やがて空の一点に消えた。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
この物語は連作短編というか、東国武将たちの合戦をモチーフとしたシリーズの一部になります。(今回は舞台は東国でなく、都を中心としましたが)
狐女の悲しい恋はいつになったら報われるのでしょうか。
続きは『輪廻恋々東夷伝』をご覧ください。




