吾子誕生
「私には子どもがなくてね。平和なころは母親に残念がられたけれど、こうなった以上は思い残すことがなくて良かった」
行く末も定まらぬ身に不安を覚えることもあったのか、重衡は身のまわりの世話をする者へ語ったという。
京のゆかりは、この言葉を伝え聞いて、胸が押し潰されそうになった。
「いいえ、あなたには子どもがいるのです。私のお腹の中に」
そう叫びたかった。
しかし、都での平家の残党狩りは苛烈さを増し、男児であれば何歳の子であろうと容赦なく殺された。
その方法も、首を刎ねる。水に沈める。穴に埋める。
聞こえてくるのは耳を塞ぎたくなるようなことばかりだ。お腹の子のことは誰にも言えない。
当時ゆかりは御所を退出し、廃れ宮の邸の一角を借り、端女を雇って暮らしていた。
後宮にいたころ、貴人からの被物を取っておいたので、しばらくは生活に困らない。
振り返れば、宮中やら御所やらという場所は不思議なところだった。
帝は皆、幼少者ばかりで、政治の実権は院の御所に移って久しい。
天皇という権威の器に中身はなく、うち捨てられた本内裏が荒れたままにされているのは、その象徴だった。
国政の中心たる院の周辺には、権力や出世にからむ欲望や執念、愛憎が渦巻き、本来の政治そっち退けで、人々は互いの揚げ足とりに精を出す。
為に、政治は放埒を極めた。
三十年前、皇室、摂関家、源平両氏の各身内を真っ二つに分かった保元の乱。これは、祖父の上皇が愛姫を孫の天皇に宛がい、自分の子を産ませたことに端を発した。不義の子は実父の後押しで帝位に就くが、退位後、自子を帝位に即けることは許されず、その恨みにより当時の天皇(後白河)であった弟相手に内乱を起こす。
この乱が終決したあとも、程なく勝者の間で内輪もめが生じ、平治の乱へと繋がる。後白河が御寵愛の公卿を贔屓にし過ぎたためだ。
平家がどうの、源氏がどうのという以前から国政は腐り切っていたのである。
もっとも後白河法皇は、その見境のない男色で命拾いをしている。清盛の婿で、彼の後押しで摂政となった藤原基通という青年貴族がいた。しかし彼は、平家が義仲勢に追い詰められるや、都落ちの計画を法皇に密告する。以前より院から秋波を受けていた基通は、新しい後ろ盾を得ようと一門と己れの体を売ったのだ。
これを伝え聞いた公卿らは、
「まさに君臣合体・・・・・・」と影で揶揄しつつ、諌言する者はなかった。彼らは目先のことしか考えず、自分の利害の外にあるものはないも同然だった。
平家の台頭、源氏の挙兵を許したのもそれ故である。
――おかげで宮中の女官の管理などもずさんなもの。狐一匹もぐり込むのに、わけもなかったけど。
一方で、上つ方の乱倫が乱世を招き、大勢の人の命を奪ったのである。
物の怪よりも彼らの方が、余程いかがわしい生き物ではないか。
平家の人々は未だ西海で抵抗を続けていたが、昔日の面影はなく、凋落の一途をたどっていた。
「彼らに未来はあるまいよ」
誰もがそう口にした。
いったい、騙していたのは、騙されていたのは、どちらであったろう。
昨年春の盛りに下った街道を、今年は夏の盛りに上る。
尾張への国境近く、三河八橋に差しかかり、重衡は小休止を許された。
逢妻川は八本の蜘手に別れ、流れのそれぞれに橋をかけたため、土地の名の由来となった。
八橋は古来、歌枕に詠まれる燕子花の名所であるが、上下京中、どちらも花のころを違えた。
――昨年ここを通ったときは、昔語りにあるよう都を懐かしく思ったけれど。
この旅の終着地は都ではなく、南の奈良。
そこで待ち構えているものを思えば。
重衡は川岸の燕子花に目を落とした。
花は落ち、剣に似た葉ばかりが長々と伸びている。
見つめる彼に言葉はなく。
ただ、促されて体を起こしたとき、
「父上は良いときに亡くなったね」
前年の冬、ゆかりは子どもを産んだ。
男の子だった。
重衡から与えられた大切な大切な命。
ゆかりはこの上ない幸福感に包まれていた。
人並みの家であれば乳母を雇うものだが、ゆかりはそうしなかった。逆に自分の子どもに乳を与える歓びを、人の女はなぜ手放したのか、不思議でならない。
ちゅっちゅっと音を立てて乳房にかぶりつき、無心に乳を吸う我が子。
この愛おしさに思わず目を細める。
――いくら飲んでもいいのよ。私ごと飲みほしていいのよ。
自分の全てを与えたい。偽りなくそう思える。
愛すべき存在に、訪れる悲しみは薄れた。
元暦二年(一一八五)六月、重衡の死の報せがもたらされる。
すでにこの年の三月、壇ノ浦で平家は滅亡した。幼い帝は祖母に抱かれて波の下に沈んだ。
重衡に利用価値はなくなった。頼朝も南都の要求を拒むことはできず、奈良へ送られ、途中、木津川で首を切られた。首級は奈良坂に晒されたというが、将門とは違い、目を開くこともしゃべり出すこともなかった。狐女と情を交わしたというのに。
――あぁそうね・・・・・・。将門さまの首を生かしていたのは、私だったのね。
ゆかりは気付いた。
己れの妄念が死者の安寧を妨げていたことに。
妖力を失ったゆかりにできることは、重衡の冥福を祈ることだけだった。
――でも、それでいい。
今や、ゆかりには悲しみを乗り越える術があった。




