昼ひなかを歩む
花の香りが鼻孔をくすぐる。深く息を吸い込んでから、合わせた手を下しつつ、鶫はゆっくりと立ち上がった。
隣を見ると、瞳子はまだじっと祈りを捧げている。反対側の隣にいた宏基は、鶫とほぼ同時に立ち上がっていたようだ。
少しして透とひな子が少し遅れて立つも、瞳子はまだそのまま。それだけ死者たちに伝えたいことがあるのだろう。
ここは久遠と月読、寒露、玻璃が生涯を終えた場所。
瞳子の言葉通り、小さいが月読以外の者の墓標が存在している。
真の意味では『自分』ではないものの、自分とほぼ同じ存在が眠っている場所に手を合わせるのは、なんとなく不思議な気分だった。
凜太郎たちとの出会いによって風巻と再会することになったあの日、鶫は結局のところ久遠たちの眠る場所を訪れることはできなかった。次の日も学校があったし、あまり遅くまで出歩いているわけにもいかなかったからだ。
土曜に行こう、そう考えていたら、仲間たちも一緒に行くと言い始めた。
また一人で行く気でいたために戸惑ったが、先日のように自分たちが一緒にいないときに何かがあっても心配だと押し切られたのである。
結果的には何ら問題のない出会いだったとはいえ、酷く動揺したせいで仲間たちに心配をかけたことをよく分かっていた。だからこそ鶫も、一人で行動すると駄々を捏ねはせず、仲間たちの意思を受け入れたのだ。それに、彼らが共にいれば安心感があるのもまた事実だった。
祈りを捧げ続ける瞳子を待ちつつも、周囲をぐるりと見渡す。
当然だが、あの頃とは大きく景色が異なっていた。あまり歩きやすいとは言えなかった道が綺麗に舗装されていたり、そもそも道がなかったはずのところに道があったり。
だが、変わらないものもある。
鶫は手を伸ばし、そっと楓の木に触れた。
寿命がどれほどのものかは分からないが、恐らくあの頃見ていた木と同じものではないだろう。子や、孫の可能性もある。それが変わったことのひとつであっても、目に鮮やかな紅はそのままだった。
風巻。喉元まで出かかった呼び名は、ゆっくりと呼吸をすることで呑み込む。そうしないと、また泣いてしまいそうだったから。
視界の端に、瞳子がようやく立ち上がった様子が映った。彼女の目のふちは、まるで涙をこらえているかのように赤い。
その傍に寄っていき、鶫はただ手を握った。
瞳子が控えめに笑みを向けてくれるのに笑い返すのが精一杯で、言うべきことが見つからない。だけど傍にいることはできるからと、手を握り続ける。
宏基や透も、それぞれ何事かを考えているらしい。やがて宏基が一人で輪を抜け、どこか目的地があるのか迷いなく歩いていく。
気づいた鶫は後を追おうとしたが、透とひな子が自分よりも先に動いたのを見て足を止めた。彼らに任せておけば問題はないだろう。
「……鶫さん」
呼び声に改めて恋人へと視線を戻すと、握っていた手の力が少しだけ増している。緊張しているかのように。
「どうかした?」
あまり見たことのない様子を怪訝に思い、首を傾げる。すると瞳子は唇をきゅっと引き結び、緊張の面持ちで鶫を見上げた。
ますます戸惑って目を瞬かせると、その様相のままで瞳子は思い切ったように口にする。
「お話したいことがあるのです」
やはり緊張からか、少し強張った声で。
眼下に見える景色は大きく変わった。いつまでも変わらないのは、自分だけなのかもしれない。
「何を感傷的な面してるの、らしくもない」
足音共に聞き慣れた声がすぐ傍から聞こえ、ゆっくりと振り返る。
予想通り、そこには透が立っていた。
「……妹巫女はどうした」
それを確認したのち、それだけを言いつつ宏基は正面に視線を戻す。
「すぐそこにいるよ。行ってこいって送り出された」
透は透でそんな態度を気にした風もなく、宏基の隣に立った。そして同じように山の麓に広がる街並みを眺め始める。
しばらく、そのままだった。用もなく近づいてきたようには見えないのに、彼は何も話し始めない。ちらりと視線を向けても、まだじっと地上の風景を眺めている。
「……何の用だ」
それからまた少し待っても変わらない状況だったため、宏基は痺れを切らしてそう尋ねた。
「アンタこそ、何でいつも一人でどっか行くの。まあ、いつものことといえばいつものことだけど」
顔を上げ、真っ直ぐに宏基の目を見てくる。そこに湛えられている強い光は、前世と変わらない。
そうだ。掴みどころがないくせに、玻璃はいつでも真っ直ぐだった。彼女の中に何かしらの芯があったように思う。寒露はきっと、彼女のそういう部分に惹かれた。
そして彼の言う『いつも』は、何も今世に限った話ではないようにも感じられる。宏基だけでなく、寒露の頃からの行いに呆れているような感情が見え隠れしていた。
「まあ、想像はつくけどね」
肩を竦めた透が再び街を見下ろす。宏基はただその横顔を見ていた。
「景色とか、色んなものは変わったけど……それでも、久遠さまが残したものはちゃんと息づいてるよ」
ややあって、再び口を開いた透。その台詞にゆっくりと目を瞬かせると、彼は小さく笑む。
「何も残らなかったわけじゃない。確かに双念に根こそぎ破壊されたけど、それで総てがなかったことになるわけがない。だって、皆ここで生きてたんだから。生きてる限り何かしらの痕跡が残る。その全部をなかったことになんてされてたまるもんか」
久遠も、玻璃も寒露も、他の団員たちも、月読も――風巻も。あの日、あの時、あの場所で、確かに生きていた。
「雪代の家が天狗の家との不戦の約定を守り通していたのは、月読の遺したものがあったから。その月読は、久遠さまと出会ったことで妖怪との共生を考えた。そうして天狗たちが現代まで生きていてくれたからこそオレたちは風巻ともう一度会えて、鶫は背負ってた罪悪感からようやく解放された。消えなくても、きっと軽くはなった」
理不尽に奪われて根こそぎ破壊されたかもしれないが、何もかもが無駄になったなど誰に言わせるものかと。
宏基は透の語りを黙って聞いていた。奪われ、壊され、なかったことにされたものの方が多いことが、宏基にとっては苦しかった。それを改めて突き付けられた気がする。
だが、失くしたものを振り返ってばかりで、透の言う面に目を向けていなかったことにも気づく。
「――だから、そんな苦しそうな顔、するのやめなよ」
呟くような、それでいて懇願するような口調。透にしては珍しいという印象が先に立ち、宏基もまた珍しく大きく目を見開いた。
「過去を引きずるな、なんて……多分アンタに言ったところで無駄だって分かってる。だから、引きずればいい。そんな日がたとえ死ぬまで来なくとも、自分自身で振り返らなくていいって思うまで、ずっと引きずればいいよ。でも、」
そこで一度言葉を切り、透は隣から真正面に移動してきてしっかりと目を捉えてくる。
「せめて十に一度でいいから、前も見るようにして。じゃなきゃ、鶫がアンタのことを傷つけて、その上に自分も傷ついてまでアンタを突き放した意味がなくなってしまう」
――一人でも、歩け。きちんと、『生きろ』。
涙を零しながら、これ以上ないほどに震えた声でそう命じた鶫。
けれども、そこには一本の芯があった。久遠とはまた違った、だがよく似てもいる、惑わない強さがあった。
「アンタ、言ったよね。……正確にはアンタじゃないけどさ。『どうして死ぬべき奴が生きていて、生きるべき奴がいつも死ぬんだ』って」
それを寒露が口にしたのは、秘匿された夜のこと。二人以外は誰も知らない台詞。
宏基が小さく頷くと、透はそれに返すようにひとつ首肯して、また真っ直ぐに見据えてきた。
「多分ね、生きるべき人なんて誰もいない。だけど、死ぬべき人も、多分いない」
再び大きく目を見開きながら、拳を握る。
強い風が吹き、紅葉を舞い散らせながらその場の空気を浚っていく。きっと全く関係がないだろうに、その風にまるで風巻がこの場にいるかのような錯覚がして。
透の金色の髪が風に揺れる。そんな様子に玻璃の長い髪の感触を思い出し、それに引きずられるようにして彼女の悲しげに歪んだ表情を思い出した。
「……『誰かにとっての』死ぬべき人や、『誰かにとっての』生きるべき人しか、いないんだよ」
寒露にとっては、団にいた誰しもが生きるべき者で、自分は死ぬべき者だった。自分が死ぬことで誰かが、特に久遠が助かるのなら、きっとその通りにしたかもしれない。
しかし、今さら気づく。
「玻璃にとっては、寒露は生きるべき人だった」
寒露のことをそう思ってくれている人だって、確かにいたかもしれないことを。
――貴方にも……死んでほしくなんて、ないのよ。貴方だけが手を汚すなんて、そんなこと、あっていいはずがないのよ!
彼女が悲しい様相をしていた理由が、寒露には分からなかった。きっと宏基も真の意味では理解できてなどいない。
だが、自分が誰かに死んでほしくないように、誰かが自分を死んでほしくないと願ってくれるのかもしれないことぐらいは分かる。
「玻璃は、寒露が好きだったよ。不器用だったところも、こうと決めたら一途だったところも、夜空みたいに綺麗だった眼も、全部」
もう、総てが過去形。二人は永遠に戻らないから。
思いを交わすことは叶わなかった。そして今世においては、お互い相手へ向ける感情に恋情はない。
然れども、宏基は彼の幸せを願っていた。
どうして気づかなかったのだろう。気づけないのだろう。
もしかしたら相手だって同じ思いなのかもしれないという想像さえ、働かないのだろう。
「たとえ形が違ったとしても、オレだってアンタに死んでほしくない。縛りつけるのかもしれない。だとしても、オレからも言うよ」
宏基のそんな思考を分かっているかのように、透は変わらず真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「――『真田先輩、アンタは生きるべき人だ』」
誰にとってなど、きっと分かり切っている。
「それを言いたかっただけだから」
少しの間を置いてから、そう言って踵を返した透。話は終わりだというようだった。
「透」
宏基がその背中に呼びかけると、透は歩を止めながら仰天したように振り返る。いつも『狐』としか呼ばない宏基が名を呼んだことは、どうやらそれほどの驚きだったらしい。
「……あの夜、寒露に罪悪感は確かにあった。だけど」
その反応は無視し、言わなくてはならないことを形へと変えていく。
「死ぬその瞬間まで、後悔はしてなかった」
悲しみに埋め尽くされていても、確かに幸せだったから。最後まで言葉にはできなかったけれど、触れることはできたから。
透が目を見張って、それから微かに笑った。
「……知ってたよ。玻璃も、同じだったから」
玻璃とよく似た笑みを残し、彼は今度こそ来た道を戻っていく。そしてひな子と合流して、その手を取り歩き始めた。
ひな子の方にはまだ照れたようなぎこちなさがあるが、きっとそれもじきに消えていくのだろう。二人で日々を重ねていくうちに。
ふたつの影をしばし見送ってから、もう一度町を見下ろした。
あの頃とは大きく異なる景色の中に生きる、過去に何があったかなど知る由もない人間たち。
後悔も憎悪も、遣る瀬無さもある。
それでも。
「十に一度ってそこそこ頻度多くねぇか」
ひとりごちつつ、その景色に背を向け、宏基は歩き始めた。
瞳子に連れられ、宏基が向かっていったのとは反対方向にある四阿に鶫はいた。設置してあったベンチに鶫は腰を下ろし、改めて尋ねる。
「どうかしたの?」
未だ緊張した表情をしている恋人に、何があったのかと心配になって自然と眉根が寄っていった。
「あ、悪いことがあったのではありません。先にそう申しておくべきでした……!」
鶫の顔を見、誤解を与えていると分かったらしい。今度は慌てたようにして両手を大きく振る。
何かがあったのでなければよかったと息を吐き出しつつも、鶫は首を傾げた。
では、いったい何を話したいというのか。
「先日、鶫さんに見つけていただいた書物があったこと、覚えていらっしゃいますか?」
鶫の疑問に応じるように一度首を縦に振ってから、瞳子は語り始める。
「ああ……」
風巻からの借り物の鏡と共に蔵で見つけたもののことだろう。もちろんのこと覚えていた鶫は頷いた。
瞳子はそれにほっとしたようにしつつ話を進める。
「この一週間、少しずつあちらに目を通していたのです。すると、記述にあった年号などから、あれは婆さま――私の前世の先代『月読』だった巫女が覚書に使っていたものだった、と分かりました」
それを聞き、鶫は大きく目を見張った。
生まれてすぐに社に預けられたという月読。彼女を育ててくれた巫女の一人に『婆さま』という存在がいることは知っていたが、その『婆さま』は月読が物心つく以前に亡くなったと聞いている。真名を知っていたのは『婆さま』ただ一人だったため、月読は己の真名さえ知らずに育ったと。
「もしかして……」
彼女がなぜこの話題を持ち出してきたのか、鶫にも大方察しがついた気がする。
瞳子は興奮からか頬を微かに紅潮させつつ、大きく頷いた。
「はい。月読の真名が記されていたのです」
月読が社に預けられたその日の記述、たった一度きりらしかった。
「よかったね……! 本当に……!」
自然と顔が綻び、表情は華やぐ。
他人に知られてはならないのは彼女の立場から考えれば当然のことでもあるけれど、自分さえ己の本当の名を知らないというのはどれほど足元が不安定に感じるのか。
想像することもできなくて、微かに胸が痛んだ。名は、誰かに知られていなければその意味を成さないのだから。
手をしっかり握ると、瞳子は繰り返して何度も頷いている。
「だから、鶫さんにだけは知っていていただきたくて」
彼女から握り返された自分の手に、わずかに力が籠るのが分かった。
「……聞いても、いいの?」
恐る恐る目を見つめると、目を瞬かせた瞳子が吹き出している。
「鶫さんだからこそ、教えたいと思うのですよ。久遠さんの真名を教えていただけたように、私も貴方を愛おしく思うからこそ、知らせたいのです」
まるでそれこそが最上級の愛を伝える手段みたく。
「……うん。ぼくも、知りたい」
それに鶫ははにかんで、そっと瞳子の肩を引き寄せた。間違えても他の誰かに聞かれないように。
「――櫻子、というそうです」
一拍の間の後、瞳子の囁くような声が耳元で響く。
――あの日も桜が舞っていましたね。私、桜は散り際が一番好きです。
いつかの幻影が目の前に浮かび、消えていく。
久遠にとって、月読は月であり、桜だった。光や花弁で周囲を柔らかく包み込みながらも、そのせいで儚くて。だけどその中に凛とした美しさがあって。
ああ、その通りだったのか。まさに彼女は、『桜の君』だったのか。
あなたの愛した桜の君は、本当に桜の化身だったみたいです――もはや共にはいない久遠に、鶫は心の中だけでそう語りかける。
「櫻子……」
「はい、春永さん」
互いに呼び合って、二人は照れ臭そうに笑い合った。本当の名を呼び合うというのはどうも慣れず、気恥ずかしい。
「好きだよ」
久遠も月読も、言い出すことは叶わなかった。敵わなくとも伝えておけばよかった。後悔してももう遅くて。
「……ぼくも、瞳子に……ってよりは月読に、伝えなくちゃいけないことがある」
久遠から託されたことを、伝えられていないままだった。
目を瞬かせた瞳子に、眉を下げつつも笑ってみせる。
「『瞬きのようなほんの短い時間だったけど、君の隣で過ごせて本当に幸せだった。伝えることは叶わなかったけれど、君はおれが愛おしく思った唯一の女だった』……って、いなくなる寸前に、久遠が」
瞳子が大きく息を呑んだのを見、その肩をそっと引き寄せる。
久遠の選択が正しかったのかなんて、多分誰にも分からない。彼が〈神〉にあの願いを伝えなければ、何も変わらず双念や庸汰に鶫たちは殺されていたのかもしれない。だが、そうではなかったのかもしれない。
未来などいつも不確定で、だからこそ久遠はあれほど苦しんだ。他に選択肢があったのではないか、これでよかったはずがない、そうやって自分を責めて。
それでも、幸せだったと笑いながら死んでいったのは、紛れもなく真実だった。
また、鶫にとっては双念の生き方は理解できず、幸せなどとは思えないけれど、あるいは彼も彼なりには幸せだったのかもしれない。
何が正しくて、何が間違いなのか。どんな生き方が幸せで、どんな生き方なら不幸なのか。
結局、答えなどない。
だけど、こうして瞳子の傍にいられるのは久遠の選択があったからだと、少なくとも鶫はそう思っている。
「私も、……月読も、愛していました」
彼女の頬を伝っていく涙をそっと拭って、額と額を合わせた。
「瞳子、いつか言ってたよね。前世の後悔は繰り返したくないって」
その答えかのように、握った手に力が返されたのに気づく。鶫はそれに笑い、応じるように手を包み込んだ。
「……ぼくも、繰り返したくない。だから、瞳子」
未来は分からない。上手くいく保証なんてない。庸汰から大切なものを奪い取った罰も、きっとそのうち受けることになるのだろう。それだって不確定で、何も決まっていない。
だからこそ、まっさらなまま歩んでいくことができる。
迷うのも、不安なのも、自分たちが生きているから。この命がある限り、生き抜かなくてはいけないから。
――ただの生まれ変わりとして……ただの人間として、幸せになれ。おれが今以上に羨ましくてたまらなくなるぐらいに。
――戻れないんだから、迷わずに大手を振って進め、な?
託された数々の思いを果たすためにも。
「ぼくとずっと一緒にいてくれますか」
感じるのはほんの少しの恥ずかしさと、胸いっぱいの愛おしさ。
「はい。もちろん」
間を置かず、頬を朱に染めた瞳子が満面の笑みで頷いてくれた。
鶫はそれに笑みを返して、熱を湛えている彼女のその頬を両手で挟む。
交わった視線に柔らかく笑んで見せ、そして、その柔らかな唇に数瞬だけ自らの唇を重ね合わせた。
久遠は自らも死ぬというその寸前、既に絶命していた月読に口づけを遺した。酷く冷たい感触の、死出の餞。
でも、瞳子の唇にあるのは、優しいあたたかさだった。
生きている。鶫も、瞳子も。
「――ッ!?」
耳まで赤くなった瞳子に笑って、改めて手を握り直した。
「戻ろっか」
真っ赤なまま口をぱくぱくと開閉させるのみの瞳子に、自分まで羞恥が湧いてくるのを感じる。
「……駄目だった?」
首を傾げてみせると、今度は大きくかぶりを振られて安心した。
「少し、びっくりしただけです……」
「そっか」
ごにょごにょといった感じの言葉に笑って、立ち上がる彼女に手を貸す。
「皆のところに戻らないとね」
瞳子ははにかむようにしつつ頷き、鶫はまた笑い返して歩き始めた。
「これ、桜の木だよね」
「そうですね、山桜の」
「春になったら見に来よう。一緒に」
桜の季節も、太陽が照り付ける季節も、紅葉の季節も、雪の季節も。総てを何度でも、繰り返していけたらいい。
「はい」
嬉しそうにする瞳子に鶫も嬉しくなりつつ、仲間たちと別れた辺りに向かっていく。
もう少しでたどり着くという時だった。
「あのっ!」
若い男性の声が聞こえた。
「すみません、そこのカップルの方々!」
最初はこちらに話しかけているとは思わなかった二人だが、どうやら自分たちのことらしい。鶫と瞳子は顔を見合わせてから振り返り、青年の姿があることに目を留め――やがて、大きく目を見張った。
「これ、落としましたよ」
よく見慣れた、だけど全く違う笑顔。人懐こい調子の声。『彼』が差し出しているその手にあるのは、歩いているうちに落としていたらしい鶫のハンカチ。
これも運命のひとつだというのだろうか。鶫も瞳子も言葉を失くし、目の前の青年の顔に見入ってしまう。
「……? 僕の顔に何かついてますか?」
不躾な視線にも気分を害した様子はなく、『彼』はただ不思議そうにしている。
「……、いえ」
その言葉で硬直が解け、鶫は笑みを浮かべてみせた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。すぐに見つかってよかったです」
『彼』の方には、どうやら鶫らに見覚えはないらしい。
それでいいのだ、と彼の穏やかな笑みを見ながら思った。
鶫も『彼』も、ようやくただの生まれ変わりとして生きることができるのだから。
それじゃあ、と一礼して去っていくその背中を見送り、瞳子の手を握り直す。
「――これでよかったんだよね」
問いかけながらも、答えなどないと知っていた。
いや、答えはある。分かり切っている、たったひとつの。
「……私たちが自ら選んだことならば、私たちにとってはそれが最も正しい答えです」
鶫自身が考えていた通りの返答に少しだけ笑い、頷いた。
選んだならば、選ぶ前にはもう戻れない。選んだ結果は、自らしか引き受けることはできない。
もう誰にも身代わりにさせはしないと決めたのだから。
「姉さーん、鶫せんぱーい!」
ひな子の元気な声が聞こえてきたのに顔を上げ、瞳子と一緒に手を振る。隣に透と、その少し後からやってきた宏基と合流して、山を降り始めた。
抜けるように青い空に、紅い葉が揺れている。そして中天近くに見える太陽に目を細め、手で覆いを作った。
あの日、慟哭しながら二度と夜明けなど来ないと感じた久遠の絶望は、きっと色濃くこれからも鶫をも支配し続けるのだろう。幸せになってよいのかと、ふと立ち止まって考えてしまう日も来るだろう。
しかし、良くも悪くも、感情は鮮やかなまま留めてはおけない。何度誰かを喪っても、苦しんで苦しんで歯を食いしばって生きていけば、久遠はまた笑えていたように。
風化していく、それが生きていくということ。それはとても寂しいけれども、きっとまた夜明けが来る。日の出が訪れ、夜半が来て月の船が漕ぎ行き、あっという間に夜は明けて日が世界を照らし、薄暮が訪れて、すぐに夜半が来て。それが幾度も幾度も繰り返される。
「鶫さん?」
鶫の様子に怪訝そうな様子を見せている瞳子に笑い、首を振った。
「ううん。何でもない」
覆いにしていた手を下ろして、鶫は愛しい人の隣を歩き始める。日が照らす道の上を、ゆっくりと。
【夜半の御伽草子-化ケ猫ト桜ノ君ノ巻- 完】
長い間のお付き合いをありがとうございました。『夜半の御伽草子-化ケ猫ト桜ノ君ノ巻-』(『夜半の御伽草子-猫又と巫女の巻-』より改題)、これにて完結です。
あとがきに書きたいことはいくつもあるようで、しかし書くことができないものだらけです。恐らく、読者さまの読了感の邪魔をしたくないという思いがあるためだと思います。
作品は作者の者であると同時に読者の方々のものでもあり、それぞれの解釈があります。百人いれば百通り。正しいものは恐らくきっとひとつもないでしょう。そしてきっとその総てが正しいのでしょう。
と、書き散らすと、本編で語った「何が正しくて何が間違いなのか」というテーマのひとつが頭をよぎってしまって、やっぱりいろいろと語りたくなってしまいます。
ですがやはりここはぐっとこらえ、そういった個人的な語りのようなものはここではなくTwitterなどでさせていただくことにします。
ここではその代わりに、たくさんの感謝を。
『夜半の御伽草子』には、私のたくさんの思いを込めました。連載の開始からはおよそ二年、構想からは七、八年が経っています。私の中でもその間にいろいろと環境や心境の変化がありました。連載開始当時学生だった私が、今や社会人一年目です。
しかし、変わらないものもありました。そのひとつは、登場人物たちの生き様をしっかりと作品に映していきたいという思い。
鶫も瞳子も、宏基も、透もひな子も。久遠も月読も、寒露も玻璃も、風巻も。登場する人物たち皆の命の輝きを書き上げたいという一心で、書き綴りました。
それを少しでも感じ取っていただけたなら、作者冥利に尽きます。
最後になりますが、こんなにも長い作品にお付き合いいただけたこと、なおかつあとがきにまで目を通してくださっていること、本当にありがとうございます。
たくさんの方々に支えられ、ようやくここまで辿り着くことができました。
もしも、またどこかで出会えましたら、その時はどうぞよろしくお願いいたします。
2016/04/24 汐月 羽琉
Special Thanks!!
神奈保 時雨さま『薄暮昔語之巻』
[http://ncode.syosetu.com/n4391cg/]
→時雨さまのお子さん、風巻を本編中お借りしておりました。こちらの作品と夜半はコラボしております。




