やっと彼を見つけた
瞳子の姿に目を留めた凜太郎が、「玄関、開けてくる」と言葉を残して玄関の方へと向かっていく。
鶫はそれを見送ってから、残っていた涙を袖でごしごしと拭った。
指から肩へと移動した式神が、そんな鶫を慰めるように翅を揺らす。気づいて彼が笑みを見せると、それを理解したかのように大人しくなった。まるで瞳子が傍にいるがごとく感じられて、さざめいていた心が凪いでいく。
美夜もそんな様子を見ていたようで、小さく笑みを零していた。
蝶が鶫から跳び上がり、彼女の周りを挨拶するように舞い踊る。興味からか差し出された美夜の指に留まり、また翅を揺らしては彼女に笑みを零れさせて。
純粋な妖怪と、巫女の式神が触れ合っている。鶫はその光景に自然と顔が綻んだ。
「かわいーい」
美夜が楽しそうにくすくすと笑っている。まるで自分のことのように嬉しくて、鶫の笑みはますます深まった。
「彼女の分身……みたいなものだから」
「あたしが触っても焼けたりしないもんね。優しい人なんだ」
「月読も瞳子も、優しい人だよ。とても。とってもね」
大切な人である瞳子をそうして評してもらえるのは、とても嬉しい。
すると、式神が楽しげに翅を繰り返し動かしている。まるで喜んでいるかのようだ。瞳子自身も、式神を通してこの光景を眺めているはずで、やはり嬉しがっているのだろう。
光景に目を細めたところで、襖が開いた。凜太郎が瞳子を伴って戻ってきたのである。
蝶はふわりと飛び上がって瞳子の手に留まり、術が解除されて札へと戻った。
「……鶫さん」
美夜に自己紹介と挨拶をしてから、瞳子が少し硬い表情で鶫を見る。
「瞳子……一人で行くって言ったのに、どうして」
そう伝えた時には「分かりました」と頷いてくれたし、今日の別れ際でも「行ってらっしゃい」と見送ってくれたのに。
強張っていた様相は、その発言で完全に怒りのものへと移り変わる。
「あれほど派手に妖気を揺らしておいてどうしても何もありますか。宏基さんや透さん、ひな子も心配して近くにおります」
言われてみれば確かにそうだった。遭遇した時はもちろん、つい先ほどまでずっと平常心とは程遠い状態だったのだ。妖気をよく知る皆ならば、何事か起こったのと心配になったとしても不思議はない。
「……ごめん」
眉を下げて笑うと、瞳子は諦めたように息をついた。あっさりと発せられた謝罪の言葉に、いつまでも怒っていても仕方がないと判断してくれたらしかった。
「……そういえば、こっちの方に来たってことは用事があったのか」
瞳子に座るよう促しながら、凜太郎が首を傾げる。
都心には仲社市の方が近いため、何か余程の用がない限りそちらの市民が西深山市を訪れることは少ない。故に不思議に思ったのだろう。
瞳子の視線を感じつつも、一拍置いてから小さく頷く。
「……久遠と、寒露と、玻璃の……墓参りに」
彼はその答えに納得したような顔を見せた。それから自分の母が呼んでいる声に応じてまた出ていき、すぐに追加の湯呑みと茶菓子を持って帰ってくる。
「待たせてて大丈夫?」
鶫たちにも新たにお茶を注いでくれている凜太郎の動きを見つつも、美夜が首を傾げた。近くにいる、と瞳子が言ったのを気遣ってくれているらしい。
「近くのお店にいるようですので。私も、黒井家の御当主にはお話をしておかなければと思っておりましたし……鶫さんがいることは、驚きでしたけれど」
「それはやむにやまれぬ事情が……」
瞳子は元々、凜太郎たちの存在を知っていた。この辺りを守護していた巫女たちは、天狗の住まう深山の里と長く不戦の約定を結んでいた。その流れをずっと汲んできたのかもしれない。
「いや、代替わりした時点で挨拶に行くべきだったのは、ほんとはこっちも同じだったんだけどさ。そっちであまりに法力だ霊力だってぶつかってたから遠慮してたの、すっかり忘れてた」
茶菓子を差し出しながら苦笑いを零す凜太郎を、瞳子はまっすぐに見ている。
と思うと、いきなり畳に手をついて頭を下げた。
「それが片付いた……というご報告です。当代の国守りの巫女として、皆さまの御心の安寧を奪うような事態を未然に防ぐことが叶わなかったこと、お詫び申し上げます」
巫女は守る者。平和を愛して平穏を望んで生きる限り、そこに人間も妖怪も関係ないのだ。今の彼女にとっては。久遠と月読が目指していたのと同じように、壁などありはしない。
「ぼ、ぼくも原因の一人として、すみませんでした」
鶫は慌てて自分も倣って頭を下げる。
あの騒ぎは何もかも、五百年前からの因縁が始まりだった。双念に総てを押し付けるのは簡単だけれど、それを招いたのは久遠たちであり、その生まれ変わりである鶫たちなのだ。
「あ、いや。仕方ないだろそれは」
「いえ。危うくこちらにもご迷惑をおかけするところでしたから。双念殿は……永久に葬りましたので、ご安心ください。先代にもそうお伝えください」
凜太郎も美夜も慌てているが、瞳子は変わらず頭を下げたままだ。それに寄り添うようにしつつも、最後に見た庸汰の顔が鶫の目の前に浮かぶ。
憎悪と嫉妬が渦巻いていた『双念』の支配から、ようやく解き放たれた瞬間の彼。憑き物が落ちたような表情で目を閉じていた。
「永久にって……」
しかし、当然ながら状況が把握できていない凜太郎たちは目を瞬かせている。
「……賭けです。双念殿に支配されていた意識を転生体から切り離し、破壊しました。新たな人格が生じればただの転生体として……生じなければ、廃人として生きることになるでしょう。どちらにしても、手を下した私たちには相応の報いがあるでしょうが」
言いつつも鶫をちらっと見る。鶫はそれに無言で以て肯定を示した。
命を奪ったわけではない。しかし、殺したのだ。『双念』という存在を確実に。
今の庸汰は確かに『双念の生まれ変わり』であるが、彼が死に、新たに生まれてくることがあっても、その魂は『双念』と同じものではない。もう二度と『双念』と同じ魂を持った存在は生まれてはこないのだ。
それは深く考えるまでもなく、輪廻にとっては大きなこと。それほど大きなことをした対価として、鶫たち五人の寿命を捧げてはいる。しかしそれでも足りるかどうか、本当のところは分からない。
「少なくとも、『双念』と同じ魂を持つ人は二度と生まれては来ません。輪廻からは外れました。そういう意味で永久に、です」
鶫が瞳子から言葉を引き継ぐと、二人は言葉を失うようにしている。
「その結果は……確認できたのか」
ややあって吐き出された言葉には、ただ首を振った。
「いえ。……瞳子のお祖父さんが病院に送り届けた後は、会っていないので」
「そっか……」
頷く凜太郎に頷き返してから、こちらを見ていた瞳子にも視線を返す。淡く微笑む彼女に鶫も小さく笑み、座卓の下で手を握り合った。
報いがあっても、一人ではないから。だからこうして落ち着いていられる。生きていられる。
「祖父から聞いたところによると、私が随分と攻撃的だったことも、先代を警戒させる要因となってしまっていたようですので……そちらもお詫び申し上げなければならないところですが」
確かに少し前までの瞳子は随分と攻撃的だった。思い出してくすりと笑うと、瞳子はばつが悪そうに苦笑いする。
「あー、別にいいよ、うちの父親はほっとけば。……それに、この前『邪気が消えた』って言って以来、妙に静かだし。そんなに警戒しなくなるだろ、多分」
二人の会話から察するに、凜太郎の父は慎重な性質なのだろう。美夜が笑い、凜太郎も苦笑いしているのは、恐らく日頃からそういう様子を見ているからに違いなかった。
「それなら……ようございました」
「今もこうしてても別に何も言ってこないし……」
表情を緩めた瞳子と、凜太郎の会話が続く。
鶫はそんなやり取りを眺めていたが、美夜が外の楓の木を見ているのに気づいてそちらに目を向けた。
「さっき葉っぱ結構散ったけど、まだたくさんあるね」
美夜の言葉に小さく胸が痛む。思い出してから初めて迎える秋。紅葉を見るのは未だに慣れなかった。
「そう……だね」
返した言葉も、思わず痛みに震えたようなものになってしまう。
美夜の表情が気遣うようなものになったのが分かり、一度深く呼吸する。
「久遠が風巻と出会ったのも紅葉の中で……久遠たちが死んだのも、紅葉の中だったから」
紅葉の海の中に鮮血の河ができていたことが、今でも鮮明に思い出せる。
いつか、真っ赤に色づく楓の葉を、昔のようにただ美しいと眺められる日が来るのだろうか。自問しても、分からないという答えしか導き出せないが。
「そっか……」
美夜の呟きに頷き、散っていく葉をじっと眺めた。
胸は痛む、けれど。ひたすらに懐かしい。
――天狗さんは名前何ていうの?
――……、風巻。
唯一無二の存在に出会えたあの日。
――美しいですね、久遠さん。
久遠が簪のように挿した葉を押さえ、はにかむように笑っていた愛しい人。
また一枚の葉が散り、縁側へひらひらと落ちる。
「風巻さん……」
その軌跡を追ったところで瞳子の声が耳に入って彼女を見ると、座卓の上に置かれた刀や鞘に結ばれた紐に視線を滑らせ、息を詰めるようにしていた。
月読にとってこの刀は、風巻を想起させる馴染み深いものだったはず。その記憶を受け継いだ瞳子にとっても、鶫と同じで、懐かしさと共に痛みを呼び起こすに違いなかった。
「……瞳子」
「はい。分かっています」
彼女の感情があまりに乱れれば、霊力も揺れる。それを危惧して口にした名前だったが、彼女は鶫以上にそれをよく分かっている。深呼吸をして落ち着いたのを確認し、鶫は触れていた背中から手を離した。
「……お返ししなければならないものがあることを思い出しました」
次に紡ぎ出された言葉は、平生の調子に戻っている。
「返す?」
怪訝そうに首を傾げる凜太郎に頷いて、瞳子は紫色の風呂敷に包まれたものを座卓に置き、差し出した。
「……私の前世である月読が、死の少し前に風巻さんからお貸しいただいていたものです。五百年以上も時を経てしまいましたが」
――絶対生きて切り抜けて、オレに返して。
月読のうちには、生き抜くことも、返すことも叶わなかった。だが生まれ変わって総てを終わらせ、今度こそこうして約束を果たすことができる。
受け取ったものの、開けてもいいものなのかどうか迷うようにしている凜太郎。
「どうぞお開けください……と私が申し上げられることかは分かりませんが」
それを見た瞳子が促すと、彼はようやく包みを解き始めた。
「『月読』は、その時代時代で最強の巫女が冠する名。前世の先々代の『月読』の鏡……だそうです。個人的に繋がりを持っていらしたらしく」
凜太郎は鏡をじっと見下ろしている。静かに紡がれる説明を聞きながら、天狗たちを鶫はじっと見守った。
その時ふと、小さくではあったが、再び風が起こって吹き込んでくる。
「風巻……?」
「風巻さん?」
美夜がそちらを見るのとほぼ同時に、鶫と瞳子も反応を示した。
風は鏡を包んでいた風呂敷をぱたぱたとはためかせて、再び止む。
何と言いたかったのかは鶫にも分からない。過去に関わりを持っていた巫女を懐かしんだのか、それとも転生を越えてでも借りたものを返した瞳子に何かを言ったのか。
「……あ」
鶫が考えごとに沈みかけていると、鏡を見ていた美夜が唐突に声を上げた。
「え?」
驚いてそう声を上げつつ美夜を見るが、彼女はすでに立ち上がりかけている。
「凜くん、ちょっとうちの蔵見てくる」
「え、何で」
「うちで代々、『久遠って名前の妖が来たら渡すように』って言われてたものがあるんだよ、最近はあんまり言われなくなっちゃったけど」
会話を交わしながら縁側に向かっていき、そこにあったサンダルを突っかけて、美夜は隣に建つ家へとぱたぱた駆けていった。
「ぼく……じゃないや、久遠に……」
いったい何だろうか。記憶を辿っても心当たりが見つからず、首をひねるばかり。
少しして美夜は戻ってきた。手には古ぼけた木の箱がある。
「たぶん、これだと思う。中身はあたしも知らないんだけど」
探し物の間に付いたのであろう埃を凜太郎に払われながら、美夜がその箱を鶫に手渡した。重さはさほどなく、大きなものではないことも箱のサイズから分かる。
受け取ったのはいいものの、鶫は箱を見下ろして少しの間迷った。だが、このまま穴が開くほどに見つめていてもどうにもならない。
何が出てくるのか分からず、鶫は緊張しつつもそっと箱を取り払う。そして中を覗き込んだ瞬間、懐かしいものが目に飛び込んできた。
――大切な人の真名を呼びかければ、その人が何処にいても見つけられるそうです。
――じゃあ、月影ともしはぐれても、安心だな。
遠い日に交わした会話が頭の中をよぎる。向けられた無垢な笑顔も。
――その守り石。懐かしいですね……私があの人の前から姿を消す直前、彼に贈ったものです。
母代わりの巫女が、唯一愛した男に贈ったもの。
――んー、何か元は母上の持ち物で、妹からもらった。妖力高めてくれたり、会いたい人の真名を呼びかけたら居場所教えてくれたりするらしいよ。
――おい、それつまり形見じゃねぇか! 何でそれがオレにくれようって理論になるんだよ!
翠子から父に。父から母に。母から妹に。妹から久遠に。久遠から、風巻に。
大切な人から大切な人へ、次々と受け渡され続けた守り石の首飾り。
「……っ」
言葉に詰まって、ただただ首飾りを抱きしめる。
手が震える。足が震える。瞳子が背中をさすってくれていなければ、その場に倒れ込んでしまっていたかもしれない。
凜太郎たちが戸惑っているのが分かっても、動けない。気を緩めれば泣いてしまいそうな気がして、ぐっと息を呑んだ。
起こった風が、瞳子と同じように優しく背を撫でる。確かに体温を感じたような気がして、こらえきれずに呼吸までも震えそうになってしまった。
「月読――母代わりの巫女が、父に贈って……それが母へ、妹へ、そして久遠へ……最後に、風巻へと渡ったものです。妖力を高めてくれて、真名を呼びかければ、どこにいたって……見つけ出せる」
吸って、吐いて。それを数回繰り返して、ようやくそれだけを口にした。
「……それが美夜の家に?」
「風巻の、従妹――操が、預かってたんじゃないかな。うちの直接の先祖はそっちだし」
顔を見合わせて交わされている会話。それを聞きながら守り石を握りしめた鶫を、風が包み込む。
「紅霞……」
呟いた名前は、無意識だった。
途端、守り石が微かに熱を持って光り輝き始める。
「……わ、」
全く予測していなかった鶫はびっくりして、持っていたものを放り出しかけた。瞳子や天狗たちも驚いている。手から離れて宙に浮く首飾りを慌てて捕まえるその間に、光が一直線に伸びて刀を指し示した。
「……刀?」
鶫の漏らした言葉に、全員の視線が刀へと集中する。
「刀、に、いるってこと……?」
「……そう、でしょうね……」
俄には信じがたく、鶫も瞳子も首飾りと刀の間で何度も視線を往復させた。そして、未だに弱くとも吹き続けている風も見遣る。
「妖気が残り続けてるのは、そういうことだってことか?」
凜太郎の呟きに、鶫は風に手を伸ばして掴む真似をする。風がそれに反応して強まったように感じた。
「風巻……」
尽きない妖気。意思を持って起こされる風。最期の時を共にしていた刀。
「――やっぱり、五百年以上もずっと、そこにいたの……?」
風がその場を包むように吹く。あたかも返事をするかのように。
「……風巻……っ」
声が震えて、ぐっと息を飲み込んだ瞬間、瞳子の声が聞こえて慌てて振り返った。
予想通り、鏡を手にしている瞳子は何か術を発動させようと詠唱している。
戦いが終わった直後、瞳子が鼎と向かい合って話していたことを思い出す。
ずっと受けていた呪いは完全に返せていたものの、蝕まれていた体が元に戻るには相応の時間がいる。加えて大きな術を連投し続けていたため、彼女の体にはかなりの負担がかかっていたようだった。
――半年は大きな術を使ってはいけない。結界だけでも相当に負荷が掛かっているのだから。
そして半年の禁はまだ終わっていない。術を使っては駄目だ。
「瞳子……!」
制止しようと名を叫ぶ。
「鶫さんが鶫という名を与えられた意味は、何となく分かります」
しかし瞳子は、総てを分かっていると言うかのような慈悲深い笑みを見せた。
唐突に提示された名づけの訳の話題。瞳を揺らせる鶫にくすりと笑って、瞳子は言葉を続ける。
「では、なぜ私には『瞳子』という字が与えられたのか。ずっと考えておりました。このためだったら、よいのですが。魂にまで効くかどうか分かりませんけれど」
そう言いつつも鏡に力を注ぎ込む仕草を見せ、術を発動させた瞳子。
鶫は一瞬広がった目が眩むような光に、目をきつく閉じる。
再び目を開けると――刀の傍に、今までなかった人影が存在した。
「……風巻……?」
長い髪、見慣れた派手な色味の着物。彼にしては珍しい、少し戸惑ったような表情。生前と寸分違わぬその立ち姿。
現れたのは、間違いなく風巻だった。
「……っ、し、ま、き……風巻!!」
胸がいっぱいに詰まって、呼び声が上手く形にならない。それでも駆け出す。久遠だった頃と同じように、一直線に。
「いや、多分触れねぇだろっていうか、……聞こえてんの?」
そんな鶫に向けてくる言葉も、姿形と同じように変わらなかった。
その確認するような調子で、間違いなく聞こえたことに気づく。驚いて足を止めつつ振り返ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。
「百人分を甘く見ておいでですよ、お二人とも。前世で鏡を貸していただいたご恩は、これで間違いなくお返し致しました」
冗談交じりのその台詞に、思わずか風巻が苦笑を零す。
「生まれ変わっても相変わらず義理堅いのな……」
月読は確かにそういう人物だったし、瞳子もその部分は変わっていない。一番よく分かっているのだろう彼女は、それにただ笑うだけだった。
風巻と凜太郎を驚いたように見比べていた美夜も、鶫でさえ一度は勘違いしたほど風巻によく似ていた凜太郎自身も、瞳子の術に目を見張っている。
「瞳、子……」
無理はできない体であるのに、こんな大きな術を使って大丈夫なのか。言いたいことも訊きたいことも、本来ならたくさんあった。
「後で聞きますから」
でも変わらず慈愛に満ち溢れた笑顔を返されてしまうと、何も言えなくなる。ここで止めれば、一生瞳子に恨まれるだろうことは予想できた。
それこそ自分の体について一番よく分かっている瞳子が、無理を押してでも鶫の叶えてくれようとしている。それは総て、鶫のため。鶫が吐き出すべきなのはきっと、止める言葉ではなく感謝の言葉のはずだった。
「……風巻……」
唇を噛み締めて頷いてから、改めて向き直る。
鶫を見る風巻に、いざ何かを言おうとすると上手く形にならない。
「――久遠は、見えて、た……?」
しばらくの間を空けて、やっとのことで紡ぎ出せたのはそれだけだった。
「…………、見えてたよ」
風巻は何とも言えない様相を見せてから、それだけを小さく答える。
「あの時、ぼくにも何を言ってたのかは分からなかったけど……ありがとうって、言ってるように見えた……」
――ただの生まれ変わりとして……ただの人間として、幸せになれ。おれが今以上に羨ましくてたまらなくなるぐらいに。
最後に残された思いが、じわりと鶫の中に沁み渡っていく。
「そう言ってたんだったら、嬉しいけど……な。言ってやりたいことはこっちも色々あったんだけど」
鶫が唇を引き結んでいたからだろうか。風巻はそう言いながら手を伸ばしてくる。それを見て、鶫もまた手を伸ばす。すり抜けてしまうかもしれない――そう思ったのに、二人の手は触れ合った。懐かしい感触のままに。
「……っ!」
息を呑むも、衝撃を感じているのは風巻も同じようだった。ぎゅっと握られた手に泣きそうになる。
「……風巻!」
感情が高ぶったままに抱きつくと、その背がぽんぽんと叩かれた。
「久しぶり……と、初めまして、だよな」
その台詞に何度も何度も頷く。声が詰まって出てこない。浅く呼吸を繰り返して、何とか振り絞った。
「……会いたかった……会いたかったよっ……」
泣くまいと思ったけれど、涙が溢れ出すのを止められない。
「生まれ変わってよーやく泣けるようになったのか、お前」
頷いた彼は、笑って頭を撫でてくる。その感覚もやはり前世のときと同じで、心地よさに目を細めた。
「そん、なに……泣いてなかったっけ……?」
「泣かなきゃ潰れるんじゃないかってときに限ってな」
よしよしとあやすように撫でられながら、鶫は久遠の記憶を探る。
確かに久遠が泣くのはいつだって一人のときだった。弱さを見せられなくて、こらえてこらえて押し殺して。たとえ強がりだったとしても、彼はそうしてどうにか立っていた。
けれど、そうしていられたのは――笑っていられたのは、支えがあったからで。
「でも……風巻だって、おれの前ではいつだって、笑ってたよ」
鶫にとっては、つまり久遠にとってこそ、風巻については常に笑っている心象しかない。怒った顔や真剣な表情を見せることはあっても、泣いたところなど一度も見たことはなかった。
「そうだっけ」
思い出すような仕草を見せつつも、ふと鶫の背後の方に視線を遣る。それに振り返ると、見慣れた人物たちが立っていた。
「皆……」
珍しく大きく目を見開いている宏基と透、そしてわけが分かっていない様子のひな子。三人の視線は風巻に釘付けになっていた。特に宏基と透は、信じられないといった顔つきをしている。
凜太郎と美夜も気づいたらしく、連れ立って玄関へと一緒に向かっていった。その動きを見たひな子が、二人を引っ張るようにしながらやはり玄関へと向かっていく。
「……あれ?」
首を捻る風巻は、透を目で追っていた。一人だけ性別が変わっていることが不思議なのかもしれない。
「玻璃は……友達として一番近くにいることを、選んだみたい」
ぽつりと呟く。
互いに想い合いながらも叶わなかったのは、久遠と月読だけではなく、寒露と玻璃も同じだった。久遠は今度こそ月読と結ばれたいと願い、玻璃は願わなかった点は異なっているけれど、それは恐らく些細な差。どうすれば一番近くにいられるのかを考えた末の選択が違っただけのこと。想いの強さは、変わらない。
「……そっか」
風巻も承知しているのだろう、何も言わずに頷く。
頷き返したところで、足音が近づいてくるのを聞き取り、また振り返った。
「……風巻……」
「風巻!」
宏基と透は驚愕の面持ちで風巻を見つめる。動揺しているのか、珍しく宏基の声が微かに震えていた。言葉が続かず立ち消えたのは、きっとどうしたらいいか分からないから。
それは風巻の方も同じらしい。言葉を探すようにしながら、小さく笑って軽く片手を挙げる。
「ば、か、やろ……」
滅多にないほどに言葉を詰まらせる宏基。舌打ちしてそっぽを向く動作が寒露と重なり、鶫は少し眉を下げつつも笑った。
「馬鹿はお互いさまだろ」
「……うるせえ」
悪態をついたきり宏基は黙って鶫と風巻を見ている。
風巻は周囲と同じように苦笑いを浮かべていたが、その悪態に結局は笑ってしまっている。同時に鶫は再び頭をよしよしと撫でられて、鶫がそれに彼を改めて見上げると、風巻はその視線を受け止めて視線を返してくれた。
「――……団……護れなくて、ごめん……」
いかなきゃ、と何度も何度も繰り返した久遠の最期。決して叶わなかった願いは、本当は何に代えても果たさなければならない義務だった。
「……んなこと言ったら、オレだって先にいなくなったことを謝んなきゃなんないだろ。そのことまで謝ろうとはすんじゃねーぞ?……守れなかったのはお前だけの責任じゃない。他の幹部だけの責任でもない。全員、オレを含めて、もっと話すべきだった」
唇を噛んで俯いた鶫に、風巻は困ったような様相を見せる。心から言っているのが分かって、また泣きそうになってしまう。
「…………双念を……恨んでる……?」
次にようやく絞り出せたのは、ずっと訊きたくてたまらなかった言葉だった。
「……何て言ったらいいのかわかんねぇなぁ。怒ってはいるかも。けど、お前らまで殺されたってことを除けば……『あー負けたなぁ』ってのが、一番強いのかもしんねぇな……」
風巻は嘘を吐かない。よく知っている。だからその台詞も、疑いようもない本心からの言葉なのだろう。
「ああいう時代だ、オレだって随分殺したさ。殺したんだからいつかは殺される。納得はしてる」
殺せばいつか殺される。それは当然だ。当たり前のことだ。理屈は分かる。
しかし感情でまで理解ができるかというと、そうではなくて。
「……れ、は……おれは、風巻に、生きてて、ほしかったよ……自分勝手な願いだって、分かってても……」
こらえきれなかった涙がぽたりぽたりと散っていった。風巻の着物を掴んだ手が震えている。
「分かってる。オレも、久遠に生きててほしかったから。ごめんな」
優しい声の調子と優しく頭が撫でられる感触が、ますます涙を誘った。
違う。謝らなければならないのは、風巻ではないのだ。
「……ごめん、ごめん……っ! おれがもっと賢く在れたなら、風巻も、月読も、寒露も玻璃も他の誰も、死なずに済んだのに……!!」
大きくかぶりを振りながらしがみつく。無意味な謝罪をいくら重ねたところで、時は戻らない。間違えた選択は永遠に間違えたまま。過去を変えたいと願っても叶いはしない。
「もしもは、なし。言い出すとキリねぇだろ。誰もそんなこと思っちゃいない」
分かっている。分かっている。でも、それでも。
「……おれは、風巻に、誰より幸せになって、ほしかった……!!」
――風巻は、絶対幸せになってね。
遠い昔のいつか、言った台詞。
久遠は間違いなく風巻に幸せにしてもらった。それどころか、生きる気力をもらったのだ。総てを失って、どう生きたらいいのか分からなくなっていたあの頃、風巻と出会ったことで世界はもう一度色づいた。そうして生きていけたからこそ、月読にも出会えた。
自分は返せなかった。そんな人の命を奪う原因を作ってしまった。悟れば悟るほど、苦しくて。
だが、風巻はそんな鶫を真っ直ぐに射抜く。
「幸せだったよ、オレだって」
一点の曇りもない、はっきりとした声色で言いながら。
顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくりながら、その言葉に鶫は目を揺らめかせた。
「色んなとこで色んな人間や妖怪と会って。久遠に会って団ができて、幹部が増えて、いつの間にか巫女までいて。幸せじゃなかったわけないだろーよ。オレには帰るとこがふたつもあった。久遠に紹介することは……まあできなかったわけだけど、添い遂げたいと思えるような相手までいてさ。生きて会えなかったとはいえ娘まで生まれてさ。幸せだったよ。なんで気負う必要あるんだよ」
彼はほんの少し呆れたような笑みを浮かべている。それこそそんな表情や声の調子から、心からの言葉だと分かっていた。
「……おれは、ちゃんと、風巻の幸せの一部を、作れてた? 奪うだけじゃ、なかった? 幸せにできてた……?」
それなのに何度も確認してしまうのは、久遠が深く己を責めていたから。
「沢山作ってもらってたよ。んな思い詰めるまで一人で考えるとこは、ほんっと変わってねぇなぁ」
何度も頭を撫でられて、ようやく少しだけ安心が湧いてくる。けれど、罪悪感も湧いて膨らんでいく。
愛しかった。愛しかった。愛おしかっただけなんだ。
それなのにぼくらはこんなにも、間違えてしまう。
「思い詰めたって、迷ってるときにいつだって答えをくれたのは風巻だったのに、おれは……そんな風巻を、忘れたんだ……除け者にした。ごめん、ごめん……!」
「それこそ、久遠のせいでも鶫のせいでもねぇだろうに」
震えている鶫を慰めるがごとく、根気強く頭を撫でてくれる。その優しさが伝わるから、鶫は涙を止めようと必死になった。
「……こうやって、甘やかしてもらって、ばっかりだった……」
迷っていれば欲しい言葉をくれて、間違えそうになると背中を叩いてくれて。いつもいつもその背中を眺めてはこう在りたいと願った。
久遠にとっての風巻は、憧れであり、目標であり、理想だった。
「んなことないだろ」
「痛っ」
背中が叩かれ、仰け反るようにしながらも目を瞬かせて風巻を見上げる。
「久遠が自分でしっかり立ってたからこそ、オレは後ろから見ていたいと思った。甘やかされてばっかりの弱っちい団長だったら、端からついてってねぇよ」
きっぱりと言われ、ああ、と息を吐き出したくなった。
立てていたのか。凭れてはいなかったのか。不安でたまらなかったけれど、自分の足できちんと立っていられたのか。ついていきたいと思ってもらえるだけの人には、なれていたのか。
久遠が抱いていた不安や後悔が、少しずつ昇華されていくのが分かる。
「……おれも、風巻だったから……安心して背中預けて立ってられたんだ」
「……嬉しいこと、言ってくれるじゃん」
笑ってまた頭を撫ぜてくれる風巻に、涙を拭いながらもどうにか笑い返した。
「言っただろ? おれは風巻が大事で、大好きで、憧れだったって。風巻はいつだって、おれの自慢の兄貴だったんだよ。今でも、どの気持ちも変わらない」
常に正しくて、強い覚悟を持っていて、揺らがずに前を見据えていた。そういう姿が眩しくて、強く憧憬を抱いた。
風巻はそれに真っ直ぐな目を返してくれる。
「……オレだって、久遠が自慢の弟だったよ。無邪気で能天気に見えて、実際はほんっとに頑固で真っ直ぐで。オレにないものを持ってたから、見ていたいって思った。その手で切り開くものがどんな世界なのか」
初めて聞く風巻の心の内に、思わず目を見張った。彼はそんな鶫の目を捉えたままで言葉を続けていく。
「……オレだって変わってないから。久遠が鶫になった今でも。改めて、鶫が何を見て何を選ぶのか、今だって見ていたいと思ってる。お前には進める足がある。進みたい方向が久遠と違ってたとしても」
――選ぶのはお前だよ、鶫。
この義兄弟は、二人して同じことを言う。心中でひとりごちながら、鶫は再び笑った。
「……おれは――ぼくは、久遠には、なれなかったよ。世界全部を護るなんて言えなかった。この手で抱えられる程度の大切な人たちのためだけに戦うのが、精一杯だった。それを支えてくれる皆がいた。久遠も、それでいいって言ってくれた……。久遠は鶫で、鶫は久遠で、久遠は久遠で、鶫は……鶫だ」
久遠が世界全部を守りたいと願い、そうして間違えたから、というだけでは恐らくない。
久遠と鶫は同じであり、違う。久遠を形作ったものたちと、鶫を形作ったものたちは大きく異なる。自分がどうしたいのか、どうするべきなのか、置かれた環境によっても大切にしたいものは変わってくる。
鶫は、自分を慈しんでくれる大切な人たちを、護りたかった。
「なら、それが正しいんだろ。もう種族が何かを隔てることもない。お前が大事だと思った奴らと、何の心配もなく笑って過ごせるよ。今度こそ、ゆっくりじいさんになるまで生きろよ。待ってるから。戻れないんだから、迷わずに大手を振って進め、な?」
鶫だけではなく、他の生まれ変わりたちにも言い聞かせるように。鶫はそれにしっかりと頷いた。
振り返って見ると、瞳子と透も大きく頷いている。宏基は風巻をじっと見てから、一拍を置いて小さく頷いた。
鶫はそれを確認してまた風巻に向き直る。
「ぼくたちの世で久遠が風巻と共に生まれ変わることを望まなかったのは、風巻が大事じゃなかったからじゃない。言わなくても分かってるって、分かってるけど。もう……風巻が双念に奪われることは、ないから。風巻とも一緒に笑い合える日を、久遠はきっとどこかで待ってる。ぼくも、しっかり生き抜くことで、待ってる……」
せっかく止めた涙が、再びどんどんと溢れてくる。久遠がそうしなければならないと思った理由も、思いながらも胸を痛めていたことも、鶫はよく知っているから。
「オレもここにいる時点で、頼れよなんて言える立場じゃないからさ……その件は言いっこなし。な。きっとまた会えるさ。いつかちゃんと、生きてるヒトとして。……まあ、また見えなくなっても、会いに来てくれると嬉しいし。約束も、ようやく果たせた」
風が巻き起こり、部屋の中に散っていた紅葉が舞い上がる。
――風巻と約束したんでしょう? 紅葉狩り、行きましょう。弔うためにも。
炎に照らされた玻璃の姿が蘇る。
五百年越しに果たされた紅葉狩りの約束。降ってくる葉を、鶫だけでなく皆が見上げていた。
「何度だって会いに来るよ……風巻、」
「……ん?」
頷いて笑った風巻の声が、ほんの少しだけ詰まったようになっている。彼もまた泣きそうなのだろうか。
「幸せをたくさんくれて、ありがとう……大好きだよ。久遠もぼくも、その気持ちは、やっぱりおんなじだ……」
涙でぐちゃぐちゃで上手く笑えているかは分からないが、それでも今できる精一杯の笑みを浮かべた。
「……オレだって大好きだよ。久遠のことも、鶫のことも」
優しく頭を撫でる感触が、そっと遠のいていく。
「生まれ変わって変わったことも、そのままのことも、この時代のこととか、学校のこととか、宏基や透とどんなことで喧嘩したとか、くだらないことでも何でもいい、これからいっぱい話して。返事が聞こえなくても、ちゃんと聞いてるし、何だって笑い飛ばしてやるから」
その言葉で、この奇跡のような時間が終わるのだと悟った。
生と死を分かつ壁が、厚い。あの頃はずっと近くにいたのに、今もこんなにも近くにいるのに、遠い。
風巻は死者で、鶫は生者で、鶫がこうして姿を目に映し、風巻と話して触れられるのは、瞳子の術があるからで。術が解かれてしまえば、鶫には見えず聞こえず触れられない。
嫌だ、と泣き喚いてしまいたかった。もっとずっと一緒にいたいと駄々を捏ねたかった。
でもそれは皆を、誰より風巻を困らせるだけだから。
だからただ何度も何度も頷き、彼の着物を一度きつく掴んだ。
「…………誰にも代えられないくらい、愛してたし、愛してるよ――紅霞」
耳元で振り絞る。
愛していた。愛していた。友人として、仲間として、家族として。たくさんの幸せをもらった。たくさんの愛情をもらえた。
『愛してる。愛してるから――紅霞』
聞こえるはずがないのに、そんな久遠の声が聞こえた気がした。
離したくない。着物を掴んだままの手が震えたが、苦労して指を開いて引き剥がす。
――生きている者は、何があっても生き抜かなくてはならない。自分の命が尽きるまで、逝ってしまった者たちに報いるためにも。
久遠の言葉を思い出して胸に刻みつける。
「――オレも、愛してた。愛してるよ。特別だ。また来いよ、春永」
離れる寸前に小さく呼ばれた名は、彼と瞳子しか知らないもの。
二人になら思い通りにされて構わない。久遠も鶫も、心からそう思ったから教えた名だ。
鶫はやはり幾度も首肯して、もう大丈夫と言うように瞳子に視線を向ける風巻を見ていた。
「……月読は、貴方と久遠さんが笑い合っている景色が、一番好きだった、ようでした……」
瞳子の頬には涙が伝っていて、それを拭いながら彼女は微笑む。月読と同じ、辺りを淡く照らし出すような笑みだった。
「……そっか。ありがと」
笑ってから、風巻はずっと見守っていてくれたらしい皆に手を振る。
「――またな」
言い残すと同時、瞳子が術を解除していくようで、姿が薄らいでいく。
「風巻……っ」
別れがたさから思わず叫んでしまう。透と宏基が駆け寄ってきて、抱えるようにして支えてくれる。そうでなければきっと座り込んでいた。
「大丈夫。見えなくなるだけ、消えるわけじゃ――」
困ったような表情を浮かべて紡いだ言葉が、半端に掻き消えてしまう。
分かっている。分かっていても、辛くて辛くてたまらない。声が消えた。体もどんどんと薄くなって消えていく。
大好きな義兄が、見えなくなる。
最後に見えたのは、「鶫のこと、頼む」とかつての仲間の生まれ変わりである二人に告げた姿だった。
子供のように泣き崩れる鶫を宏基は支え、透が背中を擦ってくれている。二人にしがみつきながら、泣き声を上げ続けた。
すると、そんな鶫の髪を掻き撫ぜるようにして風が吹き抜けていく。鶫は風を見上げ、ぐっと唇を引き結んで頷いた。
風巻はここにいる。もうどこにも行かない。たとえ生と死で大きく距離が分かたれていても、ちゃんとここにいるのだから。
「姉さん!」
「だ、大丈夫?」
涙を拭い、二人に笑ってみせたところで、ひな子と美夜の声が聞こえた。
「瞳子……!」
慌てて振り返ると、瞳子が咳き込みながら座り込んでいる。
「祖父ちゃんから半年は大きな力使うなって言われてたのに、あっさり禁破って!」
「今使わなかったら……それこそ私は死んでも後悔しましたよ」
少し怒ったようにしつつ背中をさするひな子に、頑固に言い放つ瞳子。無理をさせてしまった後悔はもちろんある。だけど、彼女の心遣いに深く感謝していた。
「瞳子、ありがとう……」
抱きしめると、瞳子は穏やかに笑って首を振る。
ひな子はそれを見ると何も言わず、ただ上着をかけてあげていた。
「体とか大丈夫なの、それ……」
美夜がおろおろとしながら瞳子を見ている。凜太郎も心配そうな顔色をしていた。
「問題ありませんよ。すみません、ご心配おかけして」
彼女が美夜に微笑んでみせるのとほぼ同時、宏基が瞳子の額に触れて癒しの気を注いでいる。瞳子はそれに小さく礼を言って、立ち上がった。
「五百年越しに、紅葉狩り、できましたね」
その動きに釣られて見上げる鶫に向かい、瞳子は優しく笑む。少し離れていたところにあった紅葉を拾い上げ、鶫の頭に乗せながら。
「――うん」
鶫はそれに笑い、その葉を手に取って包み込むように持つ。
風巻を思い起させる季節。風巻の色。
「……あいつらしい派手な状況」
部屋に散らばった紅葉を見て、宏基が呟いている。寒露に近い物言いに鶫が笑うと、風が楽しむようにまた少し吹いて部屋の中の葉を舞い上がらせた。
「……楽しんでやがる」
「風巻らしいじゃん」
宏基は舌打ちし、それを透が笑う。ひな子は花吹雪ならぬ紅葉吹雪に目を輝かせていた。凜太郎と美夜も部屋の中を踊る紅葉を眺めている。
ちょっとして風が止んだ途端に、重力に従って葉が降ってきた。
「あは、ははは、宏基兄、めっちゃ紅葉まみれ」
「まるで狙われたみたいですね」
鶫が笑うと、瞳子も同意してくすくすと笑う。確かに、狙われたがごとく宏基にだけ大量の紅葉がくっついていた。
「こんのクソ烏……」
頬を引きつらせながらも宏基がひとつひとつ払う様子を見て、透とひな子も笑う。続いて美夜も吹き出し、その場のほぼ全員が笑い声を上げた。
舌打ちしている宏基の髪を、吹いた風が悪戯するように思いきり掻き乱している。
「クソ烏、ふざけんなよ……?」
宏基はそれに再度舌打ちして、乱された髪を治している。皆はそれにまた声を上げて笑った。
唯一苦笑いだった凜太郎が、不意に別な方向を見る。それに気づいて鶫も凜太郎の見ている方向を見ると、何かの紙が風に乗って飛んできた。
「何だよ……渡せって?」
それをキャッチして眺めている凜太郎。何かと思い首を傾げていると、風が彼の持っている紙を揺らす。
「……。現代でも、異種族と人間が共存できるように、って試みはあってさ」
数拍置き、凜太郎は語り出した。
「多分渡してほしいんだろうから、渡しとく。……異種族にも効く薬を作ろうって試みがどんどん大きくなって、共存の試みの取りまとめ役みたいになった人なんだけどさ」
飛ばされてきた紙を鶫に手渡してくる。目を瞬かせると、それは名刺だった。有名な製薬会社の社名と、社長という肩書と、『中原桐人』という名前が記されていた。
人間と、そうではない種族の共存。久遠がその生涯をかけてずっと目指していたもの。
目を瞬かせて名刺を見つめる。瞳子も鶫の脇から名刺を覗き込み、少し驚いたような空気を纏っていた。後ろに立っているから姿は見えないけれど、恐らく他の三人も同じだろう。
「異能持ちの人間の研究とかもやってるし、興味あるとか不都合があるとかなら覗いてみてもいいかもしれない。連絡すれば話、聞いてくれるから。信頼できる人だって、オレは思ってる」
「あたしも」
完全なる妖怪である二人が信用しているのなら、きっとその通りなのだろう。
「分かり、ました……ありがとうこざいます……」
頷いてから、風巻がいるだろう方向を見る。
「瞳子の、見て?」
尋ねると、目を見開いた瞳子が鶫の視線を無意識に追った。
風が吹かない。ということは、間違いではなかったとしても正解でないのだろう。
「久遠の理想が……叶ってる、から?」
尋ね直すと、風は今度こそふわりと吹いた。
――確かに果たしたかった。悔しくないと言ったら嘘になります。でも、おれ以外に叶えられないようにしてほしいなんて、それこそ自分勝手だ。
――人間も、妖怪も、何の種族も関係なしに……そういう世の中になってくれさえすれば、それでいいです。いくら時間がかかったのだとしても。おれが果たしたわけじゃなかったとしても。
「……そっか」
久遠が〈神〉に言ったという言葉を思い出し、満面に笑みを浮かべた。風が止んだのを確かめつつ、名刺をとりあえず生徒手帳へと挟む。
それから数回深呼吸をして、凜太郎に向き直った。
「……黒井、さん。お願いがあるんですけど……」
「ん?」
「本人の魂が近くにいる……って知った後に言うのも、何なんですけど。風巻のお墓に、参らせてはもらえませんか。いつでもいいんです……」
久遠と玻璃、寒露、そして月読が眠っている場所は知っていた。でも、風巻だけは分からなかった。
だがこうして子孫がいると分かった今、きっと彼らが管理しているのだろうと想像がつく。彼らの許可なしには参れない。
「……、分かった。でも、みんな元気なときの方がいいと思うし、また連絡してもらって、その時に」
宏基が張り付くように離れない瞳子の様子を心配してくれているのだろう。少し考えてから彼は答えた。
「はい……えと、連絡先……」
鶫はその厚意をありがたく受け取り、携帯電話を取り出す。
「ちょっと待ってて」
凜太郎も同じようにしたのを確認して、連絡先の交換を済ました。携帯電話を仕舞い直すと、ひな子がせっせと紅葉を拾っている様子が目に留まる。
「ひな子?」
首を傾げると、鶫を見上げてひな子は笑った。
「押し葉にして、ラミネートしてみようかなと思って。あんまり真っ赤で綺麗だから」
特に赤く染まったものをしげしげと眺めながら、持っていたティッシュで葉を包んでいる。
「あー、何かいつも凛くんちのは綺麗に色づくんだよね。いいと思う」
それを見ていた美夜がにこっと笑った。
紅葉の紅は本当に美しい。そこにダブる義兄の姿に、鶫も笑った。
「……風巻の、色だ。燃え盛るような紅色」
久遠にとってそうだったように、鶫にとってもそこは変わらない。
「じゃあ、案外風巻さんが染めてくれてるのかもしれませんね」
それを聞いて、ひな子は冗談めかしたように美夜に言う。風が面白がるように吹き、美夜も「天狗にそんな力が……!」と乗っかっている。ふざけた美夜の額を、凜太郎が軽く叩いた。鶫たちが笑うと、美夜と凜太郎も笑っている。凜太郎は苦笑交じりに、だったが。
「……今日はそろそろ、お暇します。長居して、しかも大人数で推しかける形になって、すみませんでした」
それを見届けてから全員で視線を交わし合い、もう一度二人を見て頭を下げた。
「あー、気にしないでいいって。ほら、何か楽しそうだしな……」
未だ面白がっているらしい風巻によって、ひな子が拾い切らなかった葉っぱが風で散らされている。
「風巻……またね」
それに笑ってから鶫は告げた。すると、風が皆を包むように吹き抜ける。
「……玄関までは見送るから」
それに心地よさを覚えながら、鶫は凜太郎の台詞に頷いた。そのままみんな一緒に玄関へと向かっていく。
風巻と別れるのは辛く、後ろ髪が引かれる。また会える、と心の中で言い聞かせながら廊下を進んだ。
「お騒がせ、しました。ありがとうございました」
靴を履いてから頭を下げると、目礼で済ます宏基以外は倣ったように一礼する。
「いつでも来ていいから」
首を振る凜太郎に笑い返した。
「……はい。お邪魔しました」
玄関先にまで紅葉が散っている。風巻の悪戯に笑いながら、在宅中なのだろう凜太郎の母にも声をかけた。
そして一歩を踏み出す。それと同時、風が鶫たちの背中を押すように吹きつけた。
――戻れないんだから、迷わずに大手を振って進め、な?
――選ぶのはお前だよ。鶫。
最愛の義兄弟と、自分であり自分ではない人の言葉を深く胸に刻んで、進もうと思う。
鶫は振り返って穏やかに笑んでみせてから、皆と歩調を合わせて歩き出した。
戻ることはできない、しかし先は無限に広がっている道に向かって、ゆっくりと。




