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失った絆を探す少年

 鶫が瞳子と連れ立って蔵へと戻ると、作業を続けていたらしい透とひな子が出迎えてくれた。

 頼まれごとをされて立ち去る前と比べ、かなり片付いている。この分ならもう少しで終わりそうだ。

「ごめんね二人とも、大変だったでしょ? これからはもっと働くね」

「別にいいよ。オレたちも今は休憩してたようなものだし。まあ倍働いてくれるならそれはそれでいいけど」

「藪蛇だったかも……? っていうか倍って」

 苦笑いすると、透は笑っている。少し肩を竦めてみせてから、手近にあった壺が入っているらしい箱を持ち上げ、蔵の中に運び込むことにした。

 埃などがなくなって空気がだいぶ澄んでいるのか、籠った匂いはあまりしない。掃除前と比べるとかなり綺麗になっている。

 時間帯的にも、虫干しはそろそろ終えて順次仕舞っていった方がいいだろう。そう思いつつ周囲を見渡したら、もうすでに仕舞い込んだ物の間に、微妙だが確実に存在する不自然な空間がふと目に入った。

 近づいていくと、奥まってしまっているが木箱のようなものが棚の壁と物の間に挟まってしまっているようだ。隙間に手を突っ込んで、慎重に引っ張ってみる。

 無事に取り出すことのできた箱は、さほどの大きさではないし、厚みもない。外観からして文箱に近かった。隙間に入り込んで他のもので隠されるなどして、誰にも気づかれないままになってしまったらしい。

 これはどうするべきか瞳子に尋ねようと思い、扉の方に足を向ける。

 だが鶫はすぐに再び足を止めた。かなり背の高い棚の天板の上に、また箱があるらしいのに気づいたからだ。三分の一ほどは下からでも窺うことができ、そちらも木製であることは分かるが、何が入っているのかは分からない。

「何かここにきて色々発見するな……?」

 ひとりごちてから、さてどうしようと思案する。高さがあるので、踏み台がなければさすがに届かないのだ。

「鶫さん?」

 その時、中に入ったままなかなか出てこないことを不審に思ったのか、瞳子が入ってくる。

 鶫は彼女を見、そうかと手を打った。何も踏み台を使うまでもない。

「瞳子、ちょうどいいところに来てくれた。ぼくが瞳子のこと持ち上げるからさ……あれ、取れる?」

 手で示すと、見上げた瞳子は目を瞬かせた。

「あら……今まで全く気づきませんでした。いけませんね、あちらも確認しませんと……。踏み台は祖父が持ち出したきりですし、そうですね。むしろ私からもお願いします」

 答えに頷いて笑ってみせてから、先に見つけていた箱をいったん安全な場所に置く。そして彼女を持ち上げて、棚の上に手が届くよう距離を測った。

 すぐに瞳子が箱を抱えるようにしてしっかり持ったのを確認し、そっと降ろす。

「何か物が入っているようなのですが……」

「何だろうね? 結構古そうな感じだけど……この印の描き方に見覚えは?」

 二人で覗き込むようにして、箱の形状や封じている紙と紐を観察した。

 今度の箱は先ほどのものより更に小さい。何が入っているのかよく分からず、共に首を捻った。

「……かおるのものに近いかもしれません」

 少し思案するようにしてから、月読に一番近しかった妹分の名を挙げる。馨は確かに月読が死した後も社にいたはずで、親しさを考えれば何も不思議なことではない。

 しばしの間彼女は鶫の見つけた二つの箱を眺めていたが、何かしらの結論が出たのか慎重に紐を解いていく。

 鶫はその様子を見ながら、無意識に息を潜めるようにして蓋が開いていくのを待った。

 先に見つけたものには何かしらの書物が入っていたが、文箱のような見た目だったことからそちらにはあまり驚きはない。

 後の方の箱には何か布で包まれたものが入っていたようだ。さすがに劣化しているのだろう、布は触れただけでも破れそうな印象を受けた。瞳子もやはり同じことを考えたようで、先ほど以上に気を遣いながら包みを解く。

 布が取り払われたことで、今まで分からなかった正体が明らかになる。鶫は息を呑んだ。鶫にとって――いや、久遠にとって、それはよく見覚えのあるものだったから。

「これは……」

 瞳子もやはり息を呑むようにして、自らが持っているものを凝視している。

「月読が、風巻さんからお借りした鏡……」

 鏡の裏の意匠は、稲穂。桜が描かれていた月読の鏡とは違う。

「お返し、できないままでした」

 ――絶対生きて切り抜けて、オレに返して。

 またひとつ、果たすことができなかった約束を思い出す。

 気持ちは痛いほどに分かって、俯く瞳子の背中に労わるようにしてそっと手を置いた。

「できないかもしれないけど……前世越しでも、返したいね」

 その願いは叶わないことを本当は知っている。久遠から総てを聞いたから。久遠が、自分の生まれ変わりが風巻の生まれ変わりと出会えない可能性があると分かっていて、それでも神に願ったことを。

「できない、って……」

 だが、まだ仲間内には誰にも話していない。瞳子にすら。当然、彼女は戸惑ったように瞳を揺らす。

「話さなきゃいけないと思う。久遠から聞いたこと、皆に全部」

 久遠が何を思い、何を犠牲にして幸せを願ったのか、総てを。

「……分かりました。残りのものを仕舞って、家に移動しましょう。こちらの書物は後ほど目を通して、内容が何だったのかお知らせします」

 瞳子は鶫の様子から何かしらを感じ取ったのかただ頷いて、今見つけたふたつのものをいったん運び出していく。

 彼女がそれを自分の部屋に運びに行っている間に、外にいた透とひな子にも皆に話したいことがあると声をかけ、蔵の中のものの片づけを終わらせた。

 そして瞳子の言葉通り家の方に移動し、居間に落ち着いた。姿を消していた宏基は透が見つけ出してくれたようで、部屋の隅で胡坐を掻いている。鶫は彼の姿を見つけて安心し、息をついた。

 皆がそれぞれ落ち着くまでは、と和香子の出してくれたお茶を少しずつ飲んでいたが、視線が自分に集まっているのを感じて居住まいを正す。

「皆もそうだった、んだと思うけど。久遠は死んだ後、〈神〉って名乗る女の人と会った。そこで、願い事をしたんだ」

 どう話すべきか数拍置いて考えてから、改めて皆を見渡してゆっくりと語り始める。

 久遠が〈神〉から聞かされたこと。それに対して感じたこと。願ったこと。その代償に久遠がこの数百年をどう過ごさねばならなかったのかも。

 初めて聞くことだらけの事実に、皆は酷く戸惑っているようだった。特に、久遠が『久遠』としての意識を保ったままの状態で鶫の中にいたことについては、理解してもらうのにかなり時間がかかった。鶫以外はそのような状況にはなっていなかったからだ。

「――だから多分、風巻の生まれ変わりとは出会うことができないんだと思う。ここまで逢ってないんだから。それに、『双念』との戦いに風巻が巻き込まれないことが、久遠の何よりの願いだったんだから」

 話の締めくくりにそう呟く。

 仲間たちはじっと鶫を見つめつつも何も言わない。言葉を探しているようでもあり、何も言えないことをもう分かっているようでもあり。重たい空気が場を支配する。

 そんな中、瞳子が口を開いた。

「……風巻さんの生まれ変わりとは出会えないかもしれません。でも、子孫の方々とお会いすることはできるかと思いますよ」

 驚いて大きく目を見張り、彼女を見つめる。

「私も詳しいことは存じ上げてはおりません。まだあちらの御当主のお顔を拝見したこともございませんから。ただ、あの方の血脈は今でもまだ残っていらっしゃるとのことです。申し上げるのが遅くなって申し訳ありません」

 初めて耳にする事実。放心したようにして動けない鶫の手をぎゅっと握り、辛そうな表情を見せる。

「……ですから、そのような悲しい顔をなさらないでください……」

 風巻の血が、残っている。彼に近しい親戚のものなどで、そのものの血が続いているわけではきっとないだろうけれど、それでも現代まで続いている。喜びや安心感などの様々な感情が溢れ出して、ごちゃ混ぜになる。

「よか、った……」

 周囲を見れば、宏基や透も驚いたように目を見開いていて。

 『団』に関わった者にとって、風巻は大切な人だった。欠かせなかった。彼がいなくなってしまったとき、誰もが嘆き悲しんで、もう一度会いたいと願ったはず。

 たとえ、本人やその生まれ変わりではなくとも。彼が生きていた証が、現代まで確かに残っている。それに嬉しさを感じないはずがない。

「鶫さん、」

「……久遠もちゃんと聞いてるとは思うんだけど……でも、ちゃんと、っていうのも変だけど、やっぱりちゃんと死んだ場所まで言って伝えたい。ちょうどもう、死んだ季節だから。自分の墓を参るみたいで不思議な感じだけど、久遠たちが死んだ場所を参って、報告したい」

 きっと知りたがっていると思うから。また、自分の気持ちに整理をつけるためにも。

 生まれ変わりであるという事実を忘れる必要はない。しかし『双念』がいなくなった今、生まれ変わりだとかそういうものを抜きにした一人の人間として生きていかなければならない日々が、もう傍まで来ているのだから。

「それがきっと、久遠の生まれ変わりとして、『団長』の生まれ変わりとして、できることだと思う」

 瞳子に握られた手を握り返し、笑ってみせる。その笑顔に安心したのか、瞳子はただ頷いてくれた。

 それから確認するように他の皆へと目を向ける。すると、宏基と目が合った。

「お前の好きにすりゃいいだろ」

 彼はいつものぶっきら棒な口調で言うが、止められないのは信頼されているからだと分かっている。

「……ありがとう」

「礼を言われる意味が分かんねえけど?」

 相変わらず素直ではない。笑いつつ透とひな子を見れば、二人も同じ考えなのかただ頷かれた。

 外を見遣ると、一時期よりだいぶ早まっている夕暮れの時間がすでに訪れている。

 この紅霞を、彼の子孫たちも見ているのだろうか。赤く染まった雲を見ながら、鶫はそんなことを思っていた。




 久遠たちが死んだ場所には、小さいだろうが墓碑が置かれているはずと瞳子が言っていた。馨を含めた巫女たちが計らってくれていたらしい。

 死した場所を参る時には、一人で行きたい。そう皆に告げると、心配そうな表情はされたが、止められはしなかった。鶫の意思を最大限尊重してくれようとしているのだろう。

 教師たちの会議の影響で、いつもより少し授業が早く終わった水曜日。鶫は隣町に向かう電車に乗っていた。

 久遠たちが死んだ山は、鶫の住む仲社なかやしろ市の側ではなく、隣の西深山にしみやま市の方に当たるのだ。だから、少しだけ遠出をしなくてはならない。

 都心とは逆方向に出る電車のため普段はほとんど利用せず、車窓の景色はあまり見慣れない。それをたまに眺めつつも、本を読んで目的の駅名が呼ばれるのを待った。

 しばらくして駅に着き、鶫は呼んでいた本を閉じた。扉が開くのを待ってホームに降り立つ。

 息をつきつつ周囲を見渡してから、鞄を肩にかけ直して歩き始めようとした、その時。

「あーりんくん電車きた電車」

「このあと快速来るしそっちでいーだろ。焦りすぎ」

 ふと飛び込んできた会話。鶫と同年代らしい、他校の制服を着た男女が親しげに談笑している。恐らく恋人同士なのだろうと分かる雰囲気だった。

 明るい会話の調子が微笑ましくなり、何気なくそちらを見遣る。

 直後、驚きで放心した。

「あー、そっか。そーだった!」

「お前最近浮き足立ちすぎてて、見てて怖いって。落ち着け頼むから」

「だって浮かれたくもなるよ!」

 なぜなら、笑顔を浮かべているその男子生徒が、あまりにも似ていたから。鶫の――いや、久遠の記憶の中にいる、ある人と。もう二度と会えないはずの人と。

「――――、し、ま……き……?」

 風巻。風巻。風巻。

 思わずこぼれ落ちた名前が何度も頭の中で反響する。

 凝視していたためか、二人が鶫の視線に気づいて彼を見た。そして目を丸くしている。

 それも当然である。耳慣れないだろう、あちらにとっては名前とさえ分からないかもしれない言葉。しかもそれを向けてきたのは、これまた見知らぬ人間なのだから。

「……、す、すみません……!」

 鶫が我に返るのには、それから更に数秒の間が必要だった。

 踵を返して勢いよく走り出す。今見た光景を振り払うように。

「……んで、あんな、」

 溢れ出た声が震えていた。

 どうして。どうしてあんなにも瓜二つの人が存在する。有り得ないはずなのに。風巻はもうどこにもいなくて、生まれ変わってさえいないはずなのに。

 一瞬抱いてしまった期待。自分から風巻を切り捨てておいて、そんな期待をしてしまった罪悪感。それでも生まれ変わりがいたのかもしれないと思って、感じてしまった嬉しさ。様々な感情が入り乱れて鶫を追い立てる。

「っうわ!」

 自分が今とっている行動以外に意識が向きすぎていたからだろうか。通行人の足に蹴躓き、勢いよく転げてしまった。

「あっ」

「どじっ子?」

 と、追いかけてきていたらしい男女の声と、近くまで迫る足音が後ろから聞こえてくる。

「……っ痛、った…………あ」

 なぜ追いかけられているのか分からずに混乱しつつも、何とか自力で上体を起こす。しかし、手や顎にひりひりとした感覚があることに血の気が引いた。擦り剥いた傷が即座に治っていく。

 ――もしも一般人の前で転んで怪我したりしたら、大ごとだよ。

 いつぞや透から言われたことが耳に蘇る。ここにきてやらかしてしまった。

「おにーさん大丈夫ー?」

「また派手に転んだな……」

 どうしようと考える間もなく、二人が追いついてきた。周りの目から遮断するような位置取りをし、女生徒がハンカチを押し付けるようにして顎に当ててくる。まるで鶫を『一般人』の目から守ろうとしてくれているかのようだった。

 そこでようやく気づく。彼らは人間ではない、と。混じりけのない純度の高い妖気が感じられる。これは間違いなく純血の妖怪のものだ。

「あ、え、えと、あっ……あの、あり、ありがとうございます……」

 風巻によく似た顔を持つ妖怪。それよりも、雑魚ならともかく、この時代にまだこのような強大な力を持つ妖怪が存在するのか?

 混乱しきっている鶫の頭からは、風巻に子孫がいるという瞳子の話が頭から完全に抜け落ちていた。

 驚きと混乱で頭が上手く働かず、それでもただ「逃げなければ」という意識だけははっきりしている。気づいたら、ハンカチを返却して再び走り出していた。

「いやいやいやストップ!」

 だが、今度はそう簡単に逃がしてはもらえなかった。慌てた男子生徒によって腕がしっかりと掴まれてしまう。

「は、離して、ください……!」

 その声も、掴む力も、自分の前髪の隙間から垣間見える顔も、そして発せられている妖気も、何もかもが風巻とよく似ていた。混乱は激化し、鶫は振り払おうと必死になる。

「え、ちょ、何でそんな怯えてるんだって」

 鶫以上にわけが分かっていないのだろう二人は、明らかに訝しんでいた。

「だって、いるはずないんだ、いるわけないのにっ……もう、どこにも!」

 風巻は死んだ。死んでしまった。鶫があまりに動揺しているためか、久遠の感じた絶望が怒涛のように襲いかかってくる。まるで自分自身の感情であるかのように同調してしまう。

「いったい何の話――」

 相手はますます以て意味が分からないようだ。何か言いかけたところで、唐突に吹き込んできた風に言葉を止める。恋人の少女も辺りを見渡していた。

 この風は、覚えている。久遠が覚えている。鶫にも分かる。


 風巻が起こす風の感触だった。


「風巻……!?」

 驚き、顔を勢いよく上げた。唇が震えるせいで、意図せず口にした呼び名も上手く芯が定まらない。

 瞳をゆらゆらと揺らしながらも、懸命にその姿を探した。存在するはずがないのに、風は間違いなく久遠の義兄のものだったから。

「……、なぁ、何でその名前知ってるのか、訊いてもいい?」

 黙っていた男子生徒が、やがてぽつりと言う。そこに何かがあるのか、胸元を押さえる仕草を見せながら。

「それ、は……」

 驚きのあまりに、また名前を口にしてしまっていたのだ。どうにか言い逃れができないものかと言葉を探すも、咄嗟には何も思い浮かばない。

 風巻、ここに、いるの?

 心中で呟いた瞬間、強い頭痛が鶫を襲った。

「……っ!」

 記憶を取り戻した時と同じような強さ。しかし、欠けている記憶はもうないのに。

 なぜだと理由を考えたくとも、激痛のせいで思考が上手くまとまらない。それどころか、無数の小さな光が目の前をちかちかと明滅していて、視界が歪んでいる。

 だが間もなくその理由も分かった。

『風巻、風巻……っ!』

 決着前に夢に現れて以来、一度も声をあげることさえもなかった久遠が、あらん限りの力を込めて叫んでいる。最後の瞬きとでもいうかのように。

「……おい、大丈夫か」

 男子の方がそれに気づき、人込みを避けながらホームの端の方へと鶫を連れていく。

「頭痛いの?」

 少女も鶫の様子を見たようで、心配そうな声色をしていた。

『風巻……』

 繰り返していた声が、静まっていく。いや、静まったのではない。ただただ泣き崩れ、彼の感情の激しさが失われていくだけだった。

「……だい、じょうぶ、です……」

 久遠の感情に巻き込まれて胸を痛めつつも、小さく返した。

「……あー、その、なんだ。別に通りすがりの他校生が人間かそうじゃないかとかは、ぶっちゃけ別にどうでもいいんだけどさ。何で知ってるのかは気になるし、そんな真っ青な顔してるのに『ああはいそうですか』ってほっとくのも、何か気が引ける」

「大丈夫、同胞を取って食うような趣味はあたしたちにはないから。そんなに怯えないでよ、ね」

 変化へんげを続けるうちに、人間の状態でも漏れ出るようになってしまった妖気。それを二人は感じ取っていたようだった。同胞――つまり妖怪だと思われているらしい。少女の冗談交じりの台詞は間違いなく、鶫のことを落ち着かせてくれようとしているものだった。

 だけどその言葉は、今の鶫には辛すぎて。

「――っぼくは、妖怪には、なれない……」

 妖怪に生まれることを選び取ることが叶わなかった久遠。もう二度と『人間と妖怪の共生』を妖怪側の立場において叶えることができない悔しさは、久遠だけではなく鶫も感じている。久遠が転生の前に納得の上で受け入れたことだとはいえ、感情が消えてなくなるわけではない。

 そんな八つ当たりのような感情と、もうひとつ感じているもの――申し訳なさ。

「貴方たちは、ぼくには関わらない方が、いいんです!」

 顔を歪めて言い放って、掴まれていた腕を振り払う。そして思い切り駆け出した。

 風巻にこんなにもよく似ていて、その上に名を知っているということは、彼と血縁関係があるのは明白だ。きっと、瞳子が言っていた『子孫』たちなのだろう。

 ――けれど、私たちの誰も、貴方たちのことを責めるつもりはないと、それだけは分かってほしいと思います。

 優しい言葉を向けてくれた、風巻の妹のような存在。彼女の血縁である可能性もある。

 だとしたら、鶫は彼らに顔向けができなかった。久遠がそうだったように。

 子孫がいると聞いたとき、会いたいと思わないわけではなかった。けれども、決して言わなかった。口にできるわけがなかった。そんな資格が自分にはないと。

 風巻の命が奪われた責任は、間違いなく久遠にあるから。久遠だけの責任ではなかったとしても、あるのだ。揺るがしがたい事実として。

「あ、まだ動かない方がいいって、」

「なれない? ……ん?」

 聞こえてくる二人の声には聞こえないふりをして、頭痛の名残でもつれそうになる足を懸命に動かした。追いかけてくる足音に追いつかれないよう必死になって走り、駅構内へと続く階段の踏板にもう少しで足がかかりそうになる。

 瞬間、先ほどと同じように階段の方から風が吹き込んできた。

 まるで鶫をその場に押し留めるかのよう。

「……ど、して…………逃げるなって、言いたいの……?」

 声はない。形もない。ただあるのは、柔らかく、それでいて強く吹き付ける風だけ。

 動揺から、言葉だけでなく体全体も震える。

 一度だけなら勘違いや思い込みで済まされたかもしれない、風巻の起こした風を感じるなどという有り得ない出来事。だがそれが勘違いではなく、揺るがしがたい事実として鶫の目の前に突きつけられている。

 自然と、足は止まっていた。

「……なぁ、変なこと聞くけど、さ」

 そんな鶫にゆっくりと近づいてくる足音と、義兄によく似た――しかし、全く違う声がすぐ傍にある。

 のろのろと振り返ると、真っ直ぐに向けられる視線と交わった。

「……うちの先祖と、知り合いだとか。そういうわけじゃ、ないよな……」

 男子生徒は、再び胸元を押さえつつ問うてくる。

「せん、ぞ……」

 鸚鵡おうむ返しが口から零れ落ちた。

 先祖。

 親戚のものなどでは、なかったのかもしれない。いや、確実に違ったのだ。ああ、彼は、血を繋ぐことができていたのか。子孫というのは、本当に彼から脈々と続いた血のことだったのか。

 初めて知る事実と、また襲いかかる罪悪感。

 ――紹介したい人がいる。

 最後に会った時に聞かされた、嬉しそうな報告。風巻と添い遂げたいと思ったひとから、彼をいでしまった。

「そう。風巻、って名前はオレも知ってる。知ってるっていうのも変だけど……指す人物がうちの先祖だったとしても、どの『風巻』かは分からないし。三代続いた刀匠の名前だから」

 その言葉に唇を噛んで押し黙る。

 逃げるな。あの風はそう言っているとしか思えなかった。

 目を閉じ、深く呼吸を繰り返す。

「もう……逃げないから」

 ごくごく小さく呟いて、紅霞、と心中でだけ何度も呼んだ。きっと届くだろうと信じて。

 覚悟を固め、大きく息を吸い込んで腹に力を入れる。

「――最後の風巻。ぼくの前世の義兄であり、前世が作った中央の団の第一幹部であり、親友だった人。前世の名は……久遠」

 一息に言い切ると、さすがに予想外だったのか、男子は目を見開いていた。

「……前世?」

 呟きつつ目を瞬かせている。彼の後ろから窺うようにしていた少女の方は、何事かを考えるようにしているが、何を思っているのかは鶫には分からなかった。

「ぼくは、妖怪じゃ、ありません」

 小さく頷いてから、肩から提げたバッグの紐をぎゅっと握りしめる。

 どんなに異様な力を身に着けても、ベースは人間のまま。それはどうにも動かしようのない事実なのだ。

 人間であることをやめる気も否定する気もないが、妖怪に生まれ変わることができなかった理由を考えると、胸が苦しい。待ち続けた久遠を思って。

「……ちょっと待った、整理できない。だって、妖気……」

 俄には理解しがたいことだろうと、鶫にもよく分かる。力を持っている本人たちとて、久遠が総てを明らかにしてくれるまでは、なぜこのような力を使うことができるのか全く分からないままだったのだ。戸惑ったような台詞も当然である。

 だが男子生徒はそこで言葉を止め、周囲を気にするような動作を見せた。

 鶫もそれにつられて改めて周囲に目を遣れば、訝しげにこちらを見る数人と目が合い、改めて思い出す。自分たちのいる場所が、新たにやってきた電車から降りる人や電車を待つ人でいっぱいの、プラットホームであることを。

「久遠……くおん……どっかで見た名前のような……」

「……急ぎじゃなければ、うち来るか。先祖のものくらい、あるかもしれないし。色々、訳ありっぽいし」

 ややあって。考えごとをしてその場をうろうろする少女を見つつも、彼は言った。

「え」

 躊躇いから反射的に一歩下がってしまう。

「まあ、無理にっては言わないけど、オレは別に迷惑じゃないし」

 それを聞き、一度思考をやめて恋人を見上げる少女。

「小父さんは?」

「黙らせる」

 そしてそれに即答する男子生徒。

 戸惑いつつも、二人がどこかに行こうとしてこのホームに立っていたに違いないことを思い出した。降りてきた鶫とは違い、ここで電車を待っていたのだから。

「でも、ど、どこかに、行くところだったんじゃ……」

 鶫のおろおろとした挙動を見たためか、風巻によく似た彼は隣にいる恋人を見下ろす。

美夜みよ、どーすんの」

「土曜日空けといてー」

「分かった。今問題なくなったから」

 様子を見るに、美夜と呼ばれた少女は本当に気にしていなさそうだ。そうすると、鶫もこれ以上言うべきことは見つからない。拒否する理由も見つけられそうにない。

 そう結論付け、鶫は先ほどの言葉への返答代わりに頷いてみせた。

「あ。すごい今さらだけど、名前聞いてないし教えてなかった」

「そうだった」

 案内を始めようとしたらしく一歩踏み出したところで、二人は顔を見合わせている。

 鶫もそれにはっとし、慌てて頭を下げた。

「朝比奈……鶫、です」

黒井くろい凜太郎りんたろう。よろしく」

木下このした美夜です。じゃあ凜くんほらレッツゴー」

 真面目な調子と元気な自己紹介の後、鶫が向かおうとしていたのとは違う階段に向かって美夜が凜太郎の背中を押していく。それを見ながら、鶫はゆっくりと歩き始めた。


 道すがら、美夜は鶫と同い年であること、凜太郎はその二つ上であることを知った。

 鶫は言葉通り凜太郎の家に導かれ、客間へと通された。上座に促され恐縮するも、断るのもまた違うと分かってはいるため、少しおろおろしつつも結局腰を下ろした。

 黒井家は、雪代家のようにだいぶ古そうな日本家屋だった。代々の住人が大切に手入れをしているのだろう。通ってきた廊下の床板は綺麗に磨かれていたし、目に入る柱もしっかりと屋根の重みを受け止めて、家を支えている。

 広い部屋を見渡しつつ畳の心地よい匂いを吸い込んでから、庭を一瞥した。

 一本だけ植えられた楓。赤く色づいた葉が時折吹く風に揺れている。

 遠い思い出が脳裏を掠め、自然と瞳が歪んだ。目を逸らし、その木が視界に入らないよう、正座した膝の上に置いてある手だけをじっと眺める。

「……さっき、オレのこと見て『風巻』って言ったのか?」

 凜太郎の母が持ってきてくれたお茶とお茶菓子を差し出しつつ、彼が尋ねてきた。

「よく、似ている、ので」

 お礼を言ってから頷く。

「似てる?」

「瓜二つ……って言っても、いいくらいには。顔と妖気は、ですけど……」

 また頷きながら、美夜がお茶請けを眺めているのに引きずられるようにして自分も見る。季節らしい、柿をかたどった生菓子だった。

 毎年、団の者と柿を食べるのを楽しみにしていた久遠。たくさんの笑顔の仲間たちの中には、もちろんのこと風巻もいて。優しくてあたたかい、それ故に殺傷力のある記憶が蘇り、胸が潰れるようだった。

「妖気、ねぇ。顔は知らないけど、それってほんとにオレの妖気だったのか……」

 一方、鶫の様子に怪訝そうにしつつも、凜太郎はその言葉を受けて考えている。

「……これ外しても、変わんないか?」

 そして、少しの間を置いて、首から何かを外して座卓に置いた。

 そちらに視線を移すと、石の守り刀だった。それ自体には見覚えはない。ない、けれど。

『知ってる』

 頭に声が響くのと同時、熱い雫がぼろりと目から溢れ出る。

 そうだ、よく知っていた。そこから発せられている妖気は、久遠がずっと逢いたいと願い続けていた人のものだから。

「――っ」

 感情が溢れ出す。鶫のものであって鶫のものではない感情が。一度決壊した涙の堰は、とめどなく熱い雨を降らせる。

「え、ちょ、おい?」

「え、鶫くんどうしたの、どっか痛い!?」

 凜太郎が驚いていることも、美夜が心配して慌てていることも、分かっていた。だが、答えられない。

「……っと、……やっと、会え、た――風巻……っ!」

 震える拳を畳に押し付け、涙をぼたぼたとこぼしながら、ようやくそれだけを吐き出した。

「え、」

 何事か言おうとしたらしい凜太郎の台詞が不自然に途切れる。庭から風が吹き込み、真っ赤に色づいた楓の葉が舞い込んできたからだ。

 二人は状況が把握できておらず、明らかに戸惑っている。だが、鶫にはよく分かる。それが何を意味するのか。

 ――強い人発見! えーと、天狗さん?

 ――いや、つか、お前何?

 あの日、二人を出会わせてくれたもの。

「しまき、ごめん、ごめん――! ごめんなさい……っ!!」

 一枚が近くをふわりと漂う。それを手に取りながら、ますます増す涙の勢いを止められなかった。

「……魂の、欠片が入ってるって、」

 凜太郎の戸惑いの混じった声が鶫の鼓膜を揺らす。

 その言葉がなくても分かった。この風を感じれば、否が応にも。


 風巻は、ここにいるのだ。生まれ変わるのではなく、こんな形で。他のどこでもない、ここに。


 風は変わらない調子で吹き続けている。彼が鶫の言葉に反応し、鶫の存在に反応し、起こしてくれているのだとしか思えない。

 久遠さん、と自分の中にいるはずのその存在に語りかけようとした時だった。

『鶫、伝えて。おれはもう、声を持たないから』

 え、と思わず呟きそうになる。

 鶫の戸惑いなどお構いなしに、久遠は柔らかく、澄んだ声で言葉を続けた。

『凜太郎と美夜には、――風巻を忘れないでいてくれてありがとう、って。自分は結局絶やしてしまったけれど、彼の血は絶やさず繋いでくれてありがとう。それだけで少し救われた気がするって、伝えて。それと』

 嫌な予感がした。どくどくと心臓が早鐘を打ち始める。これ以上は聞いてはいけないと思うのに、何も遮る言葉が出てこない。初めての、久遠が鶫の身体を完全に制御しているような感覚。

 あたかも、これが最初で最後だから、と言わんばかりの。

『風巻に。……最期まで、護ってもらってばかりで、ごめん。たくさんの幸せを、ありがとう。大好きだよ』

 言葉の調子はどこまでも穏やかで、揺らぐことがない。

『幾世を隔てても逢えるって信じて、待ってる』

 そういう声を、鶫はよく知っていた。いや、久遠の記憶が教えてくれていた。彼の触れ合った数々の人々が――死を覚悟したその時、大切な人に向けた、まっすぐで透明な声だ。

『愛してる、愛してるから…………紅霞』

 友愛や憧憬、感謝、哀切、そんな色々な感情がごちゃまぜになった「愛している」。

 一言でなんて表せない。表しようがない。二人の間にあったのは簡単に表せるほど薄っぺらい関係ではないし、そこで交わした感情も、単純ではないのだから。

 止めたいのに、体が動かない。名を呼びたくても声が出ない。

『月読に聞いてもらえるように……瞳子にも、伝えて。瞬きのようなほんの短い時間だったけど、君の隣で過ごせて本当に幸せだった。伝えることは叶わなかったけれど、君はおれが愛おしく思った唯一のひとだった、って』

 久遠がそうして遺言のようなものを発していくたび、彼を繋いでいるものがひとつひとつ消えて行くような気がした。

『鶫。今まで、ありがとな』

 ひゅう、と鶫の喉が鳴る。

「――っ!?」

 それは、その言葉は、聞いてはいけない。

「久遠さん、嫌だ、行かないで、行っちゃやだ!」

 繋ぎ止めようと必死になるのに、彼の存在がどんどんと遠くなるのが感覚で分かる。捕まえたくとも捕まえられない。するりと逃れていくのを思い知らされるだけ。


『おれは、消えるべき存在だから』


『運命を切り開けるのは、「今」を生きてる人たちだけ。おれの役目はもう終わったんだよ、鶫。おれがいなくなってようやくお前は、三人と同じような、ただの生まれ変わりになれる』



『ただの生まれ変わりとして……ただの人間として、幸せになれ。おれが今以上に羨ましくてたまらなくなるぐらいに』



 ぷつり。

 そんな音が頭の中で聞こえた気がした。

「まだ行かないで!! やっと逢えたのにッ……もう行くなんて、言っちゃ嫌だ!!」

 大粒の涙を溢れさせながら、頭を押さえて必死に呼びかける。もうそこにはいないと分かっているのに、分かりたくなかった。繰り返して引き留める言葉を紡ぐ。そうすればまだ彼をここに繋ぎ止めておけると思った。思っていたかった。

 その時、ひときわ強い風が吹き込んでくる。

 鶫が驚く間もなく、ほぼ同時に鶫の胸のちょうど心臓の辺りから猫が現れ、畳に着地する。鶫の髪色と同じ毛色をした、半透明の姿。この猫が実体を持ってはいないことが一目で分かった。

 久遠だ。

 彼は鶫にすり寄って二本の尻尾を一振りすると、風の方に駆け出していく。

「久遠さん……ッ! 嫌だ!!」

 慟哭するように叫んでも、もう振り返りはしなかった。呼応するように優しく吹いた風が楓の葉を何枚も何枚も散らし、久遠は舞い散る葉に目を細める。


 そして、悲しげな――それでいて愛おしさに満たされた鳴き声を、たったひとつだけ、あげた。


 それが、最後だった。

 彼の姿がふっと掻き消え、見えなくなる。

 もはや鶫から離れてしまっていた彼が、何と言っていたのかは全く分からなかった。

 それでも、思う。あれは感謝の気持ちを表した言葉以外の何ものでもないと。

 ありがとう。

 そう言っているように、思えた。

 鶫はしゃくり上げ、子供のように泣き崩れる。涙は止まることを知らず流れ続けた。凜太郎と美夜が困惑しているのが分かっていてもなお、このまま鶫を溶かしてしまうのではないかと思うほど激しく。

 吹き続けている風が鶫を包む。

「風巻にも、ありがとうって……」

 優しい風が吹いてくる方向を見つめながら、それだけをようやく絞り出した。

「よく、分かんないけど……そっか」

 未だ状況が把握できないらしい様子だが、凜太郎はそう呟く。鶫は頷きながら散れた深紅の葉を何枚か握りしめ、開いた手でごしごしと涙を拭った。

 ふと、凜太郎が守り刀を持ち上げた。と思うと、瞬きひとつの後には一振りの刀へと変わる。どうやら守り刀は仮の姿で、こちらが元の形であるらしい。

「多分、見覚えあるんだろ」

 見覚えがあるどころではない。よく知っている。

 鞘に納められているけれど、知っている。この刀がどんなに美しい刃紋はもんしのぎの筋の描き方をしているのか、刃の反り方をしているか。

 ――此処んとこあんまり仕事入らなかったし、習作ついでにと思ってさ。

 彼が鍛え、ずっと共に戦っていた分身のような存在。差し出されたそれを受け取り、抱きしめるようにして持つ。

「……しまき、風巻……っ!」

 懸命にこらえようとしたが、土台無理な話だった。彼の遺品に触れて泣き崩れないでいることなど。

 また涙を溢れさせる鶫の背中を風が撫でていく。それは風巻に背をさすられた時の感覚と同じで、ますます泣きたくなった。

「泣かない、よ、もう、泣かないから……」

 だけど、分かっている。それが鶫の涙を止めようとしてくれているものだとは。

「すみません……でした、取り乱して……」

 優しい調子で吹き続ける風を心地よく感じながら目を細めてから、改めて二人を見た。

「……いや。別に、気にしてないから」

 凜太郎は言い、美夜もかぶりを振ってくれた。ほっとして小さく息を吐きつつ、渡してくれた刀を現在の持ち主へと返却した。

「ありがとう、ございます。大事なものを……」

 出されたお茶の水面みなもに、風巻の悪戯かはたまた偶然か、紅葉が浮かんでいる。それを見てしまうと涙も引っ込み、笑みがこぼれた。

「鶫にとっても大事なんだろうと思ったから」

 凜太郎が受け取った際、くたびれた紅い紐が鞘についているのが目に入る。記憶の端を掠めていく風巻の姿には、必ずその紐があった。

「紐……」

 さすがにもう涙が溢れることはなかったが、顔が歪む。

「ん? ……これ?」

「風巻が……髪を結うのに使ってた、ものです」

 怪訝そうに指差すので、首肯した。

 結うといっても、普段の風巻は横にある髪の一部分を結んでいた程度。完全に結い上げていたのは戦のときや作業をするときだけだった。

 寒露は「きちんと結え」と怒り、玻璃がそんな寒露を「うるさい」と一蹴する。風巻がそれを見て笑う。懐かしく愛おしい風景がまばたきの間にも思い出される。

「……派手な色使ってたんだな、また……。『外すな』って、受け継ぐ時に言われたけど」

「風巻はよくそういう色を着てました。男にしては派手な色味を身に着けるのが好きで……仲間の一人には、しょっちゅう眉を顰められてて」

 今は遠い、だが確実に存在した日々。あの頃は何気なく過ごしてしまって、あの平穏がどれほど貴重なものなのか分かっていなかった。それ故に、思い出すとなおさら輝くのかもしれないが。

「顔と妖気は、って言われた意味が分かった気がするな……」

 笑う凜太郎に、鶫も笑い返した。

 確かに彼は、雰囲気からしても髪型や服装からしても真面目そうだ。風巻とはその辺りはあまり似ていない。だからこそ鶫も限定したのだが。

「でもおれは……、久遠は、そういう風巻が好きで。憧れでも、あった」

 常識に捕らわれず、自分の中に一本の筋を通して真っ直ぐに立っていた風巻。迷わず、崩れず、立ち止まらず。そういう背中が久遠には眩しくて。

「それぐらい、大事で、大好きで、ずっと一緒に笑い合っていたいって思ってた人だった……自慢の義兄、だったんです」

「……そっか」

 ぽつぽつとした語りに、凜太郎は頷く。美夜もただじっと耳を傾けていた。二人の態度には、敵意も何の裏もない。鶫は申し訳なさで胸が塞ぐような思いだった。

「…………けれど。あの日、おれが死なせてしまった……誰よりも一緒にいたかったはずの人を、自らの手で、傍からいで、しまった……」

 握りしめた拳が震えている。

 ――置いてか、ないで……!

 喉が裂けるほどに泣き叫んだあの日。心には二度と夜明けが来ないと悟った日。

 込み上げるものをどうにか呑み下そうとしていると、背が叩かれたような感触がした。

 驚いて振り返るも、当然ながらそこには誰もいない。ただ風が吹いているだけ。叩くように風が吹きつけただけ。

 だけどそれが風巻の風であるのなら、『それだけ』では済まない。

「変わらないね、風巻……」

 久遠が迷いそうになったり思考の沼に嵌まり込みかけたりすると、彼は必ず叱咤するように背を叩いた。

 泣きそうになりつつも、懸命に笑う。ここで泣いたらまた風が叩きつけられるだろう。

「……ここに、いる……って言うのか?」

「分からない、です、けど……でも、この風は……風巻の、ものです」

 尋ねられ、鶫はそれに同意を示した。これだけ鶫を労るようにしてくれる風が、彼以外のものであるはずがない。

 凜太郎はそれに考えるようにしている。

「……この刀が、妖力を持ってるってのはもう分かったと思う。それが誰に由来するものか、とか、説明するまでもないんだろうけど。……確かに、この刀が状況に応じて風を起こしたり、勝手に元の姿を現したり、ってことは今までにもあった。でも、ここまで繰り返し何かしらの反応を起こしたことはなかった」

 風巻が鍛え、恐らく最期の瞬間まで傍に在ったのだろう刀だとすれば、宿っている妖力は彼のもの以外にはありえない。そしてそんな妖刀ようとうが今までになかった反応を示しているという。

「……昔馴染みがいることが関係してるんだとしたら、とか……思わないではないよな」

 鶫の魂は久遠と同一のもの。それをこの刀が感じ取ったのだとしたら、反応を示したところでおかしくはない。

「この刀の力がどうして尽きないのかは代々の天狗の誰も分からなかった。持ち主の妖力で保ってるんだとすれば質が変わるだろうに、そうでもないみたいだし」

 風巻の子孫たちが代々抱いてきた疑問。真の答えは鶫にも分からない。だが、「魂の欠片が入っている」と先ほど凜太郎は言った。それが本当ならば、それは。

「ずっと……待ってた、のかも、しれません……ぼくの中にいた、久遠のように」

 逢うために。逢いたくて逢いたくてたまらない人に、もう一度巡り会うために。

 久遠が風巻に会いたがっていたように、風巻も久遠に逢いたがっていたのではないのか。

「逢いたいって彼はずっと願ってて……今日、それが叶って。消えて、しまいました。ぼくの中には久遠が――変な言い方だって分かってますけど、いたんです。ずっと。ぼくは久遠だけど、久遠そのものではない、から」

 うまく言えなくて言葉がつかえる。

 生まれ変わりたる瞳子たちにでさえ、完全に分かってくれるまでにはそれなりに時間がかかったことだ。そうではない彼らがよく分からないのも道理だ。

「……いたって、そのままの意味でか?」

「別人だっていうのは何となくわかる、けど」

 首を傾げている二人にまた頷く。

「少し、長い、話に……なります。それを理解してもらうには、多分……久遠や風巻や、彼らの仲間たちが、どんなことを思って一緒にいたか、どんな終わりを迎えたか。知ってもらわないと、ならないと思うので」

 正直、話すのは怖い。二人にどう思われるのかというのはもちろんだが、それを語っている間、自分が平常心でいられるとは思えないから。

 だけど、ここまで親身になってくれる彼らに真実を語らないのは、フェアではないとも思う。

「……オレらが知っていい話なのか、それ」

「風巻の子孫なら、知る……権利が、あると思います……それにもしも風巻がこの場にいるんだとしたら、ぼくは久遠に託された言葉を伝える義務が、あると思いますし」

「……いるかどうか、この場の誰も断定することができなくても?」

「少なくとも、ぼくは、いると思ってますから。久遠がいなくなってしまった時点で」

 それに、凜太郎だって思っているのではないか。未だに風で揺れている楓の木を眺めている時点で。

「……分かった」

 彼らが聞く姿勢になったのを確かめ、鶫は語り始めた。久遠の送った人生。そこにどう風巻が関わっていたのか。双念によってもたらされた終焉や、久遠が死後に〈神〉と交わした契約、共に生まれ変わっている仲間たちのことを。

 二人は時折質問などを挟みつつも鶫の話をじっと聞いていた。

 ときには優しく鶫を包むように、ときには激しく怒り狂うように、ずっと吹いていた風。それに励まされながら、言葉をひとつひとつ慎重に選んだ。

 語り切り、俯けていた顔を上げる。強く拳を握りしめて。

「……お二人と……風巻に、伝言が、ありました。消える直前に」

 凜太郎と美夜の視線を感じる。それを受け止めつつも、ずっと吹き続けていた風の名残で楓の葉が散っていくのが視界の端に映った。

 遠い昔、紅葉の葉が舞い散る中で久遠は風巻に出会った。そして久遠がどれだけ幸せだったのか。孤独をどれだけ癒してもらったか。風巻がいたことで、色を失いかけていた世界がどれだけ鮮やかに移り変わったか。

 それを伝えられるのは、鶫だけなのだ。

「お二人には……風巻を忘れないでいてくれてありがとう、と……。自分は結局絶やしてしまったけれど、彼の血は絶やさず繋いでくれてありがとう、それだけで少し救われた気がする、と」

 二人は言葉が出てこない様子ながらも、じっと聞いてくれている。それに励まされながらゆっくりと言葉を紡いだ。

「……風巻、には…………最期まで、護ってもらってばかりで、ごめん、って……あと、それと、っ……」

 彼の名前を出すと、声に涙が滲んでしまう。その背を押すように吹く風に感情が溢れ出し、止まらなくなった。

「…………たくさんの幸せをっ……ありがとう……大好き。幾世を隔てても逢えるって信じて、待ってる……愛してる、愛してるから…………紅霞」

 最後だけはごく小さく呟いて泣き崩れると、しゃくり上げる鶫の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き撫ぜるようにして、優しい風が吹き抜けていく。ますます子供のように泣くと、今度はまた背中を撫でるように吹いた。

 止むことのない風。掴む真似をしても絶対に叶わないのは、絶対的に分かたれた二人の距離を示していて。

「……しま、き、風巻、風巻……! もいちど、あいたかった……あいたい……会いたいよ……」

 もう言葉が出てこない。畳に突っ伏すようにしながら、体を丸めて泣き続ける。

 どれぐらいの時間が経っていたのだろうか。

『鶫さん』

 ふいに耳元で聞こえたよく耳に馴染んだ声に、思わず顔を上げる。すると、予想通り蝶をかたどった瞳子の式神がひらひらと舞い飛んでいた。

 どうしてここに彼女の式神がいるのか。近づいてきたのを指に留めつつも、状況が把握できなかった。

「式神……?」

 凜太郎が驚いたように呟いていた。鶫でさえ混乱しているのだから無理もない。

『外をご覧ください』

 託された伝言が頭に響き、ますます驚いて窓を見遣る。

「近くに、いるの?」

 そのまま見渡すと、見慣れた凛とした立ち姿が視界に入った。

「瞳子……」

 深々と一礼する、白小袖と緋袴姿の少女――瞳子、だった。

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