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愛情を得る少年少女

 次々と溢れて、散って、床に染みを作る涙。とどまることを知らず流れ落ちていく。

「鶫さん……?」

 瞳子の匂いと呼び声は知覚していたけれど、何も返せなかった。

 胸が痛くて痛くて、今にも潰れてしまいそう。苦しい。しゃくり上げるせいで呼吸さえ難しく感じる。

「どうかなさいましたか?」

 へたり込んでいる鶫を心配してか、瞳子は眉根を寄せながらすぐ傍に膝をついた。

 見上げた彼女が、いつも通りに清らかで優しい空気を纏っているから。手を伸ばしてしまいたくなる。縋ってしまいたくなる。

 自分はこれほど弱かっただろうか。頭の中に残る冷静な部分で自問するが、すぐに気づく。

 頼ることを知ったら、一人でこらえなくてもいいのだと分かってしまったから。

「鶫さん?」

 もう一度呼ばれた瞬間、鶫はこらえきれずに彼女を勢いよく引き寄せ、強く力を込めていた。

「……っ、つぐ、み、さん?」

 驚いたように身を固くするのが分かっても、離せない。

 こうしていなければそのうち息が完全に止まってしまうのではないかと、そんなこと有り得るはずもないのに不安を覚える。彼女のぬくもりが染み入るようだった。

 状況が把握できていないだろう瞳子も、彼の様子に只事ではないと察したのか、戸惑いつつも背中をさすってくれる。

「何かあったのですか……?」

 しばらく、そのままだった。やがて顔を覗き込むようにして尋ねられ、鶫はぐっと唇を噛む。

「……人の生き方を、ひとつ、壊した……」

 宏基は最後まで文句ひとつ言わなかった。動ずることがなかった。

 それはきっと彼の覚悟であり、久遠に鶫に、どれだけ強い思いを向けてくれたのかの証だった。

 分かっていた『つもり』だった。知っていた『つもり』だった。彼の忠誠心の強さを。

 そして、それを奪い取ってでも「生きろ」と命じることが、どれほど残酷な仕打ちであるのかも。

 文句がないのではなく、言わないだけだった。動じなかったのではなく、動じないように努めていただけだった。

 彼がそういう人であることを、一番よく知っていたのに。

 肩に置かれた彼の手があんなにも熱かったことが、きっと一番の証。総ての感情をただ押し込めて、果てまで忠誠に尽くして。泣きたいのも、苦しいのも、鶫ではなくて宏基のはずなのに――彼は、一滴も涙をこぼすことはなかったし、これからもないのだろう。

 誰かに何もかも捧げて尽くすことが、人一人の人生をそこまで動かすほどの幸せになるなんて、知らなかった。

 聡い彼女は、その台詞だけで先ほど何が起こったのかを瞬時に把握したらしい。

「宏基さん、ですか……?」

 小さく頷くと、背中をさすっていた手が一度止まり、しっかりと抱きしめ返してくれる。

「――辛かったですね」

 辛かったのは宏基だ、とか、自分で望んだことだよ、とか、今の今まで自分に言い聞かせていたいくつもの言葉が鶫の頭には浮かんだ。

 でも、嘘はつけなかった。

「……ッひ、く、っつら、辛い……辛くてッ、……痛いよ……!」

 しゃくり上げるまま、感情が噴出するがままに任せて叫んで。鶫がみっともなく縋ることを許してくれる彼女の肩へと、自分の顔をうずめる。

 宏基が大切だから。失いたくないから。ただ幸せになってほしいだけなのに、彼の幸せは『久遠の幸せ』や『鶫の幸せ』と同意義で。

 怖かった。辛かった。痛かった。

 誰かの生き甲斐を奪ってまで「幸せになれ」と言う権利など、自分にあるのか。

「あれで正しかったなんて、言い切れない……! いくら宏基兄のためだなんて言ったって、そんなのやっぱりエゴだ」

 どんな思想もエゴイズムから始まる。自分でも分かっていたからこそ、庸汰にあの時言い放った。

 自分の考えを振りかざせば、こちらにその気がなくたって、傷つく人だっていることも。

「ただ、生きてほしいだけで……宏基兄だけの幸せを、手に入れてほしいだけなのに……ッ」

 どれが正しいか分からない。だから怖い。

 選んだ結末は自らが引き受けなければならず、誰かに肩代わりはさせては駄目だ。させるつもりもない。

 久遠の記憶から感じて、双念との戦いから感じて、痛いほどに分かっている。

 けれど、彼が抜け殻になってしまうようなことがあったらと、そればかりが恐ろしい。

 瞳子のほっそりとした指が頬に触れたのに気づき、ゆっくりと体を離す。

 泣いている鶫を真っ直ぐに見つめる彼女は、鶫よりもずっと傷ついた顔をしていた。

 それに目を瞬かせると、涙の雫が睫毛から落ちて散る。

「……貴方が迷っても、間違えても。その結果で傷ついても……私は傍におりますから。話を聞いて、抱きしめることはできますから」

 目のふちを辿る指が、鶫の涙を優しく拭った。鶫だけのために向けられている、慈愛に満ちた柔らかな微笑み。

「もしも宏基さんが間違えるようなことがあったら、一緒に引っ張り上げましょう? 彼も貴方も一人ではないのですから。宏基さんを大切だと思う人は、たくさんいます」

 今まで荒波のようにさざめいていた心は、柔らかな声によって徐々に落ち着いていく。嘘のように静まり返っていく。

「何より、『奪い取った』貴方にとって、彼を信じることがまず初めにして差し上げられることなのではないですか?」

 鶫がこうして惑うときは、いつだって瞳子が傍にいてくれた。

 一人ではない。苦しみも痛みも、伸し掛かるものがどれだけ重く感じたって、自分だけで抱える必要性などないのだ。

 彼女がこうして鶫の傍にいるのだから。

 言われたことにはっとして、宏基との間であった様々な出来事が脳裏を駆け抜けていく。

「――そう、だね……」

 庸汰の時と同じように、奪い取った事実を忘れてはならないけれど。

 宏基が何も言わなかったのは、納得しているからだと知っている。自分で「そうするべきだ」と思わなければ、決して受け入れることがない頑固さがあること、誰よりも一番知っていたはずなのに。

「考えすぎるのは鶫さんの悪い癖ですね?」

 思考が何となく分かったのか、瞳子がくすくすと笑っている。

「はは……うん、それは、否定できない」

 苦笑しつつ、頬に触れたままだった手を優しく握った。

「ありがとう、瞳子」

 額同士を合わせて、伝わってくる穏やかな温度を感じる。

 いつも助けられてきた。彼女がいたから乗り越えられたことがたくさんある。

 彼女にも、たくさんたくさん返したい。報いたい。

「好きだ」

 久遠が伝えられなくて後悔した分の何倍、何十倍も伝えたい。

 鶫はそう願って止まなかった。

「……はい。私もです」

 嬉しそうにはにかむ彼女に笑い返して、手を貸しつつ自分も立ち上がる。

「片付けまだ残ってるし、頑張るね」

「鶫さんたちが力持ちで本当に助かります。終わったら何か美味しいものをお出ししますね」

「やった。あ、宏基兄どこ行ったんだろ……」

「そのうちふらっと顔を出されますよ」

 靴を履くために縁側に向けて並んで歩く鶫と瞳子の手は、自然と繋がっていた。


 鶫が泣き崩れ、瞳子が彼を受け止めるように抱きしめていた時、そんな二人を庭の方から眺めていた人物たちがいた。

「割と周りのこと忘れてるよね、あれ」

「今さらじゃないですか? 見てるこっちが恥ずかしいというか。いや見てないですけど」

 たまたまではあったが、作業しながら見てしまう形になっていた透とひな子である。

「あれでこそ鶫と瞳子じゃない」

 笑って肩を竦めれば、ひな子は苦笑混じりに笑いつつも頷く。

「むしろ二人がああじゃなかったら驚きます。ま、姉さんを泣かせるようなことは多分ないと信じてるんで、とりあえずは何も言いません」

 そういえば、初対面の透たちに対して跳び蹴りをしてきて、鶫だけが避けられずに食らったことがあった。姉のことを苛烈なほどに大切に思うところは、あの頃から変わっていないらしい。

 透はそんなことを思ってから、そうそう変わるはずもないか、とすぐに思い直した。

 姉を一途に大切にするのも、ひな子の真っ直ぐな気性が生み出すものなのだろうから。

「それに、宏基先輩も、きっとああ言われることを望んでたんだろうと思いますし」

 一連の流れは、外にいた二人にも見えていた。縁側から室内へと続く窓が開け放たれていたので、耳のいい透は話も聞こえた。

 透によってもたらされる情報と、ここからでも何とか見えた鶫と宏基の表情を合わせ、ひな子はそう捉えたらしい。

「……変わらないね、アンタも」

 そういう姿を見て、透はぽつりと呟いた。

 今さっき簡単に変わるはずもないと思ったのに、それでもしみじみと感じてしまう。

「そうですか?」

 不思議そうに首を傾げるひな子に対し、小さく頷く。

 変わらないというのは、何も姉に対しての態度だけではなくて。

 お世辞にも分かりやすいなどと言われたことがない透の心情を、ひな子はいとも簡単に見抜いてみせたことがあった。よく覚えている。かなりの衝撃だったから。

 彼女は、周囲の人間のことを驚くほどしっかりと見ているのだ。

 今を生きているのに、どうして前世のためだけに総てを懸けようとするのだと叫ばれた時、脳天を思い切り殴られたような衝撃があった。

 生き抜く覚悟を決めるより死んでしまう方が楽だと思っていたこと。それを彼女が言葉にしてくれなければ、無意識的な行動原理を自覚することなく、自分を大切に思ってくれる人までも軽んじるところだった。

 あの時の彼女の言葉がなかったなら、自分は今こうして生きていなかったかもしれない。誰かのためになればそれでよいのだと、命を容易く捧げていた可能性があった。

 大げさではなく、透はそう思う。

 そして、透以上にずっと『誰かのため』ということに囚われてきた宏基は、鶫の手によってその感情に終止符が打たれた。

「……アンタはあれでよかったと思う?」

「鶫先輩が決めたことで、真田先輩も受け入れたんです。二人の問題だと思います。……二人が納得できたなら、あれが一番なんじゃないかとあたしは思いますけど」

 虫干しが終わった大皿を箱に戻して、脆くなっているらしい紐を慎重に縛りつつ、透の問いにひな子は迷わず頷いた。

「そっか」

 透もほぼ同意見である。

 鶫は瞳子がいれば大丈夫だろうし、宏基についても様子を見ていくのが最善だろうと思う。

 蚊帳の外で眺めているだけなのは嫌だから。助けを求められれば、いつでも手を差し伸べられるように。

 それに透にとっては、もうひとつ別の、ごくごく個人的な懸念事項があったのだ。

「ところでさ」

 彼の声の調子が変わったのが、人の心の機微に聡いひな子には容易に分かったのだろう。肩を跳ねさせ、手が止まる。

 透はそれを少し面白がって眺めつつ、彼女の目の前にしゃがんで自らの膝に頬杖をついた。

「さっきから一度も目を合わせようとしないのは何?」

 覗き込むようにすると、ひな子の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。それはそれは急速な勢いで、どうすればそこまで色が変わるのかと透は感心する思いだった。

「ち、近いんですけど!?」

「だってこうでもしなきゃアンタこっち見ないじゃん。目が合いそうになると逸らすし。さっきから作業に集中してるふりしてるくせに、オレがアンタじゃない方を見てるときはこっち見てるし?」

 分かりやすすぎ。そう言いつつ呆れた顔をしてみせると、彼女はぐっと息を詰まらせた。

「別に避けてるわけじゃないですからね……」

「知ってる。だいたい分かってるし。でもさ、傷つかないかっていったら別問題なわけ」

 戦いが終わって以後も、透は鶫や宏基と一緒にたびたび神社へと顔を出していた。ひな子とも顔を合わせることがあったが、彼女は自然なふりを装ってどこかに行ってしまう。たとえ目線が交わるようなことがあっても数秒と持続せず、いつもひな子から逸らした。

 透とひな子が二人だけという状況は、当然のごとく避けられる。だから、今日の状況は実に久しぶりだったのだ。

 そう、『避けられている』のだが。彼女が避けたくて避けているわけではないことも、避けたくなってしまう事情も、透は分かっているつもりだった。

 たとえ知らなかったとしても、この朱に染まった顔を見れば察しがつく。

 しかし、だとしても、面白くない思いは残ってしまう。

 傷ついたという台詞にひな子は唇を引き結んでいた。透こそ彼女にそんな顔をさせたいわけではない。できるだけ柔らかい言い方になるようにと、これほどまでに声に強く意識を向けて話すことは今まであっただろうか。

「そんな深刻に考えなくてもいいよ。そういう顔するぐらいの申し訳なさがあるなら、今この瞬間、オレと目を合わせてくれた方が嬉しいんだけど」

 透がそう言えば、今度ははっと目を見開いている。真面目に話してはいても、くるくると表情が入れ替わる有様が見ていて飽きなくて、思わず吹き出してしまった。

 一度笑ってしまうと抑えが利かない。徐々に笑い声が大きくなっていく。

「な、何笑ってるんですか……!?」

 当然、ひな子の方は戸惑っているようだった。今の今まで真剣に話をしていたのだから無理もない。眉間に皺が寄っている。

 透はひとしきり笑ってから、その皺を伸ばすように人差し指で彼女の眉間をぐっと押した。

「何でオレとできる限り一緒にならないようにしてたの、とか、訊くだけ阿呆臭いよね」

 透の台詞にみるみる赤くなる彼女の顔を眺めつつも、眉間に置いたままだった指をどかした。そしてその手で、自分より一回りは小さい彼女の手をそっと取る。

 握った感触に柔らかさはあまりなかった。武術を極めることで、姉より劣る霊力の分を補おうとしたのだろうと分かる硬い手。

 その手は、女性らしい、というのとは違うのかもしれない。だが、透はそれをマイナスに捉えることなどなかった。

 できないことがあるのならば、できることの何かで補えばいい。彼女はその思いから鍛錬してきたのだろうと容易に分かる。ひな子のそういう真っ直ぐさや努力を惜しまないところに、透は好感を抱いているのだから。

「ひな子」

 透に手を握られているという緊張からか、彼女の手は微かに震えていた。呼び声に透を見た瞳も小刻みに揺れている。

 恐らく、不安なのもあるのだろう。これから相手に何を言われるのか察しているつもりでも、もし違っていたらと思えば心は落ち着かなくなるのだ。

 こうして余裕な顔をしている透だって、この先のことを不安に感じる思いがないわけではないのだから。

 指と指を自然と絡めるようにして、彼女の手を握り直す。

 伝わってくるこのあたたかさを、心から愛おしいと思う日が来るなんて思わなかった。

「オレ、アンタが好きだよ」

 ひな子が放心したように固まるのを見つつ、小さく笑ってみせる。

「――多分、アンタが想像してるよりずっとずっと」

 透はきっと、己で自覚している以上に救われているのだ。ひな子の存在に、言葉に。彼女に「馬鹿みたいだ」と言われなければ、彼は無駄に命を散らせていたかもしれない。

 透は一度ひな子を命がけで守ったことがあるが、ひな子はそんな彼を命の恩人だと思っているらしい。けれども、彼にとってみればひな子こそが命の恩人なのだ。彼女の言葉によって助けられたのだから。あるいは身を挺して守るよりも難しいかもしれない救い方で、透を守ってくれた。

「あたし……ですか……?」

「そうだよ」

 震えた声のひな子。安心を誘おうと思ってしっかりと頷いてみせたが、むしろひな子はゆっくりと俯いていってしまう。

 透はそれに目を瞬かせたが、続いた重たい口調の言辞に彼女が何を言わんとしているのかを察した。

「何であたし……あたしは姉さんみたいに頭よくないし、綺麗でもないし、先輩ならもっと綺麗な人といくらでも、」

「ひな子」

 言いかけられた言葉を遮り、真っ直ぐに目を見つめる。

 何となく分かっていたことだった。初めて耳にした彼女の弱音だけれども、今までそこここにヒントがあったように思う。

 ひな子は瞳子にコンプレックスを抱いている。

 才色兼備な姉。実際はどうあれ、よく知らない者たちからすれば完璧なように見える瞳子と、きっと比べられることが多かっただろう。

 ひな子がどれだけ姉を好いていても、また瞳子がどれだけひな子を慈しんでいても、苦しかったに違いない。誰かと比較されて気持ちのいい思いをする人などまずいないのだから。

 そのうち、ひな子自身が姉と自分を比べるようになり、敵わなくとも仕方がないと考えるようになってしまったのではないか。

 今の発言を聞くに、そう感じてしまう。

「アンタが誰の妹だとか、姉さんに敵わないことがたくさんあるだとか、オレにとってはそんなの全部どうだっていい。オレが救われたのはアンタの姉さんじゃなくて、ひな子なんだから」

 気恥ずかしくとも、伝えておかなくてはいけない。

 ――どうして死ぬべき奴が生きていて、生きるべき奴が、いつも死ぬんだ?

 玻璃が聞いた、寒露の半ば独り言のような問いかけ。あの言葉に胸が痛んだのは、彼が何を思ってそう言っているのかを理解できてしまったことがもちろんあった。

 でも一番は、そう口にする彼に悲しさを感じていたから。それは違うと言いたかったから。

 否定したかったのなら、そうするべきだった。全身全霊を懸けて、彼に対する愛情を伝えるべきだった。

 もしかしたら何も変わらなかったかもしれないが、変わったのかもしれない。玻璃の寒露に対する接し方が変わっていれば、宏基に生まれ変わってまでも寒露が久遠に固執することはなかったのかもしれないのに。

 所詮、『もしも』の話だ。何もかも不確定だからこそ、人はその時その時で自分に選べるものを選ぶしかないし、一度選べば変えることはできない。

 だが、その選択を後悔したのなら、失敗から学ぶことはできるから。

「騒がしくて、気が強くて、しっかりと一本の芯が心に通ってて……だけどそのくせ泣き虫で強がりな、そういうひな子がオレは好きだと思ったから言ってる」

 今、透の目の前にいるのは、『瞳子の妹』ではなく『ひな子』なのだから。

 透の言葉を聞き終えた瞬間、ひな子の目から涙が一筋零こぼれ落ちていく。

「ほんとに、いいん、ですか……?」

「くどいんだけど。何、もう一回告白してほしい?」

 少し冗談を交えたのは、透の握っていた彼女の手が、弱いけれども力を返してくれたことに気づいたためだった。

 何かを言いたげに口を開きかけては、すぐに閉じる。それを数度繰り返す様子を見ながら、辛抱強く彼女が言えるまで待った。

「……あたしも、すきです……」

 消え入りそうな声だったけれど、確かに届いた返答。

 自然と頬が緩んでいく。ごしごしと目の辺りをこする手を掴んでやめさせてから、目尻に残っていた雫を弾いた。

「うん」

 見上げてくる無垢な瞳を、伝わってくる優しい温度を、これほど愛おしいと思う日が来るなんて思わなかった。

 守りたい。支えたい。誰よりも傍に寄り添って、辛いことがあれば一番に力になりたい。

 そして、自分の弱さを預けることもきっとできる。

「改めてよろしく、ってやつ? ヒヨコ」

 以前までの呼び方をしてしまったのは、透もまだ照れ臭さがあったからだった。

「ヒヨコじゃないですってば!」

 予想通り噛みついてきて、透は思わず笑ってしまう。今までの雰囲気が掻き消されたためか、今まで浮かべていた涙も引っ込んだようだ。目のふちが赤いぐらいしかもう名残はない。

「じゃあヒナ」

「何かそれも絶対、雰囲気的にひな子の『ひな』じゃなくて鳥のヒナですよね!? あたし人間なんですけど!」

「文句多いね、やっぱりもうヒヨコでいいじゃん」

「あたしはよくないんですが!!」

 いつもの調子のやりとり。気に食わないと騒ぎつつも、ひな子は笑っている。

「……やっぱりアンタはそっちの方がいいよ」

 思わず呟いていた。

 きょとんとして目を瞬かせるひな子に、「何でもない」と首を振る。

 泣き顔よりも笑顔を見ていたい。そう思ったなんて、やはり気恥ずかしさの方が先に立ってしばらくは言えそうにない。

 玻璃なら何のことはなくさらりと言えていたのだろうか。一瞬だけそう考えてから、言えないだろうとすぐに結論づけた。

 玻璃は、本当に好いた人に対しては素直になれない人だったから。

「よく分からないですけど、とりあえず笑っとけばいいんですか?」

 自分の頬を掴んで引っ張ってみせるひな子にまた笑う。

「うん。それでいい」

 今度こそ素直に伝えられる日が来るのを、二人で過ごしながらゆっくり待てばいい。今度こそ、幸せになるために。

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