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役目は終わっていく

 日が昇り、沈みゆき 月が昇って、落ちていく

 生命は変わらず巡る



   ● ● ●



 非日常から日常に戻るなどということは、酷く呆気ないものだ。

 日常が壊されるのは一瞬だけれども、取り戻すには倍以上の力が要る。鶫は何となくだがそう思っていた。少なくとも、つい最近までは。

 だが、実際に日常から非日常、非日常から日常という体験をしてみた今の鶫は、その両者の間に然したる差はないのかもしれないと感じる。

 ふたつは常に背中合わせで、すぐ近くに存在するのだ。久遠と双念がそうだったように。

 坂道を転げ落ちるようなスピードで埋没していった非日常が終わってみると、存外、日常に戻るのはそれほど難しいことではなかった。

 もちろん、直後は様々な思いが渦巻いていたし、今でも胸の内で燻る思いはある。傷つけられた記憶も傷つけた記憶も、そうそう簡単には消えない。

 だが、あの日々から遠のいてしまえば、痛みも苦しみも徐々に薄らいでいく。決して完全になくなることがなくとも。

 薄情だと自分を呪わないわけではない。でも、忘れていくことが生きていくということなら、今の鶫は間違いなく『生きている』のだ。

 大切な人たちと共に生きたい。そう願った久遠が果たせなかったことを、この身で叶え続けているのだから。

 ――久遠さん。ぼくは、あなたの願いを叶えられていますか。

 自分と限りなく近い、だけど同一人物ではない人に問いかける。気持ちいいぐらいに真っ青な空を眺めながら、胸の辺りにそっと手を当てて。

 最後の戦いの日以来、久遠は夢に一切現れず、声を聞かせることもなかった。

 寂しさはあるが、彼の負っていた役目が終わった今、それも当然なのかもしれないとも感じる。

 近くに気配を感じて振り返ると、そこには何かの術具らしきものを大切そうに抱えている瞳子がいる。

「どうかなさいましたか?」

 彼の様子を怪訝に思ったのだろう。小首を傾げるその仕草に見とれかけつつも、笑って首を振った。

「何でもない。ごめんごめん、作業に戻るね。鼎さーん!」

 少し離れたところにいた鼎が振り返るのに合わせ、しっかり抱えた壺を示してみせる。

「これはどこに戻しますか?」

「ああ、それは重いから奥でいい。助かるよ」

「分かりました!」

 軽々と運び始める鶫に、鼎は感心したように「おぉ」と声を上げた。鶫はそれにまた笑いつつも蔵に入って、言われた通り奥の方に運び込む。

 ふと紅葉が視界の端に入った瞬間、微かに胸が痛んだのには気づかないふり。また別なものを運びに外へと戻る。


 あの雨に打たれて戦った日はすでに遠く、四か月以上が経過していた。


 今日は、中に入っている物の虫干しに合わせての蔵の大掃除をしているのである。雪代家のこの蔵が一番のタイミングで懐刀と鏡を発見させてくれたため、結果的に戦いにおいてかなり有利に働いた。そのお礼を含め、鶫や宏基、透も参加させてもらっているのだ。

 開け放たれた扉のすぐ傍では、古い書物を瞳子が慎重に運んでおり、透とひな子は何が入っているのかよく分からないものの中身を確かめて回っているらしい。

 そうやって目線を動かしていくにつれて、鶫はふと何かがおかしいことに気づく。

 一人足りない。

 思わず「あれ?」と零しつつ慌てて周囲を見渡した。確かに作業を始めた時には一緒にいたはずなのに、と。

 だがすぐに目当ての人物は見つかった。縁側に横たわって、昼寝をする態勢で一人寛いでいたのだ。そのマイペースぶりに脱力する。

「宏基兄ー! サボってないでちゃんと働いてよ!」

 声をかけられた宏基は、閉じていた目を片方だけ開いて鶫を一瞥。しかしすぐに元通りに瞼と瞼をくっつけ、特に言葉を返して寄越さない。本気で寝る気なのだ。

「宏基兄!!」

「だるい」

 叱咤の意を込めて改めて呼びかけるが、今度は一瞥すら寄越さずの即答である。鶫は苦笑いと共にため息をついた。

「ほっときなよ。どうせいても欠伸ばっかで役に立たないし」

 透の辛辣な言葉が聞こえ、また苦笑いする。

「お世話になった蔵に恩返ししようって掃除してるのに……」

「つまり真田先輩は恩知らずってことだから、きっと神さまから罰が当たるよ。……あるいは神に仕える者からかもしれないけど」

 後半のぼそりとした調子に、この場で最も怖い人が誰であるのかを思い出した鶫は、恋人の方を見ないように努めることにした。

「宏基さん? いい度胸ではありませんか」

 声の感じから窺うに、明らかに笑顔で怒っていると分かっているから。

 だがやはり宏基は特に気に留めることもなく、大きな欠伸をしているだけで動く気は皆無だ。宏基らしいといえば宏基らしいが、図太い神経をしている。

「すごいですよね、全然聞こえてない」

「巫女と蛇の睨み合い」

「ハブとマングースじゃなくて?」

「ここ本州だから」

「ああなるほど本州らしい見世物?」

「そういうこと」

 透とひな子が軽口を叩き合っているのには微笑ましく思いつつも、鶫はせっせと手を動かす。働かない宏基とそんな彼に怒りを向ける瞳子のやり取りに下手に反応し、とばっちりを受けては敵わない。

 透とひな子も同じ考えだったのか、すぐにまた黙々と手を動かし始める。

 瞳子の怒気混じりの声を聞きつつ銘々の作業に没頭していく鶫たちの姿を見て、鼎が笑っていた。

 穏やかで、ささやかだけれど確かな幸せを感じられている日常。この日々を取り戻すまでにあった様々なことが、まるで遠き日々のようだ。実際にはつい最近のことなのに。


 あの日、庸汰の中から『双念』の意識を切り離した日。雪代家の道場に戻った鶫たちは、鼎と姉妹の母・和香子に迎えられた。

 和香子は姉妹の姿を認めた途端にほっとしたようにして、きつく二人を抱きしめた。「よかった」と繰り返し、存在を確かめるように何度も何度も背をさすって。

 彼女たちは、戸惑ったようでもありくすぐったそうでもあり、またほっとしたような表情で、ただじっとしていた。心配をかけていたことは、母親のその態度を見ればすぐに分かったのだろう。

 そんな光景を見て自然に安心していたらしく、鶫と透は同時に息をついていた。加えて、思わず顔を見合わせるところまで同時。

 吹き出すように笑う彼に照れ混じりの苦笑を見せたところで、宏基が視界の端で動いたのに気づいた。

「宏基兄、」

 はっとして名前を呼ぶが彼は反応せず、その手を庸汰の胸の辺りに置く。すると、淡い水色の光が宏基の手から溢れ、つい先ほどまで敵だった人の体を包んだ。

 ――術が無事終わったら、庸汰の傷も治してあげてほしい。

 鶫の願いを聞き入れ、癒しの気を注いで治してくれているのである。

「……ありがとう」

「何でお前に礼を言われるのか意味分かんねえけど?」

 恐らく、気を遣うな、という言葉を素直に伝えられないだけ。よく分かっているからこそ、鶫はそれには小さく笑みを浮かべる。

 だが頭をよぎったことがひとつあり、じっと彼の目を覗き込んだ。

「宏基兄、無理……はすでにしてるだろうけど、宏基兄の体に障るのならやめてね……?」

 懸念が、あった。

 初めて雪代家を訪れた日の、庸汰の式神の襲撃を受けた時。鶫は敵の攻撃で体勢を崩し、法力を受けそうになった。宏基が毒気を放って鶫を庇ったために事無きを得たが、代わりに宏基がその場で吐血し倒れ込んだ。

 宏基から散った濃い赤色が、鶫の脳裏からは未だに離れない。

 彼はあの時、一切の躊躇なしに自らを投げ出した。

 その上、今回はまず初めに宏基が狙われていて、大きな傷を負っている。残っていた法力を瞳子が祓ったために治癒能力が無事働いて、見たところ傷は塞がったらしい。

 けれども、消費された妖力は休まなければ回復しない。つまり彼は相当の疲労が溜まっているはずなのだ。

「てめえに心配されるほど落ちぶれてねえよ」

 宏基はそんな鶫を鼻で笑い、癒しの気を庸汰に注ぎ続ける。そうすると鶫には先のもの以上に重ねる言葉が見つからず、ただ口を閉じるしかなかった。

 庸汰もかなり弱っている。だから宏基の力が必要なことは決して否定できず、宏基の気持ちを考えても、一度引き受けると言ったことを途中で中断させることは忍びなかった。

 心配する思いはあるのに、ただ見ていることしかできない自分が嫌だった。

 でも、だって、けれど。いくつもの言い訳が浮かぶ。宏基を止めたい気持ちと止めたくない思いのはざまで惑う。

 宏基は一切の迷いがない様子で、庸汰をじっと見つめつつ治療を続けているというのに。この違いは何だというのか。

 庸汰の顔色に生気が戻っていくのを見ながら、じっと考え込む。

 そして気づいた。彼が惑っていないのにも拘らず自分一人だけが不安で惑っているように思えるが、違う。

 彼が惑わないからこそ不安なのだ。

「終わりだ」

 鶫がそんな思考をしているさなかも治療は進み、無事に庸汰の傷は癒えたようである。

 庸汰に触れていた手を離して、鶫の後ろへと下がる宏基を目で追うが、やはり常の表情、常の態度だった。

 不安がますます胸をざわざわとさせるも、鼎が近づいてきたのに気づいて視線をそちらに向ける。

「では、彼はわしが引き受けよう。責任を持って病院まで送り届ける」

 神社の境内に倒れていたことにして引き渡すという。戦いのことなど一般の人たちには言えるはずもないから、そう説明するのが一番だろうと鶫も納得し、頷く。他からも反論はないようだった。

「真田くんと朝比奈くんの親御さんには、今日はうちに泊まると連絡させてもらった。心配をかけるといけないからな。でも、自分たちでも連絡を入れておくんだよ」

 よっこいしょ、と庸汰を抱えつつ、鼎は諭すように言った。

 普段は基本的に放任されているけれど、それは慈しまれていないわけではなく、心配をかけていないわけでもないことを、自分が一番よく知っている。

「……はい」

 再び首肯してから、鶫はちらりと宏基を盗み見る。

 宏基は視線には気づかず、じっと庸汰を見ていた。

 その様子を見、鈍色の雲のようなものが心を襲う。

 鶫たちの意見に最後まで従ってくれたけれど、本当は宏基にも何か思うところがあったのではないのか。そう思ってしまう眼差しだった。

 見慣れているはずの美しい群青色が、あまりにも強い輝きと、同時に脆さを湛えているのに気づいてしまう。

 何か言うべきだと分かっているのに、何を言うべきなのか、その時の鶫には言葉が見つけられなかった。


 鼎が庸汰を病院に連れて行くのを見送ってから、元々雪代家で療養していた透はもちろんだが、鶫と宏基も言葉に甘えてそのまま泊まらせてもらった。

 疲弊しきった体が早急な休養を求めていて、気力が切れてしまった後は、もはや立ち上がることすら難しかったほど。

 翌日が土曜で学校が休みであることや、和香子も快く受け入れてくれたのをいいことに、泥のように眠った。

 眠って眠って、目を覚ましたらもう夕方だった。

 丁重に礼を言って雪代家を辞して家路を辿ったが、空は前日までの雨が嘘のように晴れ渡っていた。泣きたくなるほど綺麗な赤色をした空に、紅霞が浮かんでいて。

 梅雨が明けたと知ったのは、帰ってから何気なくつけたテレビの天気予報からだった。

 鶫がどれほど非日常に襲われていたところで、世界には関係のないこと。生きる人々のことなどお構いなしで進んでいく。

 それは悲しみを増幅させることもあるけれど、力強さに心を安らがせてくれることもある。今回の鶫に関しては、間違いなく後者だった。

 母の手料理でお腹を満たし、部屋へ戻ってまた泥のように眠った。

 完全に回復を遂げたと自信を持って言えたのは、月曜の朝、いつも通りに登校しなければならないという頃だ。

 鶫が教室に入ると瞳子もすでに来ていて、いつも通りにクラスメイトたちに囲まれていた。

 皆から愛されている恋人を誇らしく感じる気持ちがあって、鶫は少し自分を笑ってしまった。四月の頃なら、そういう彼女をただ別次元の人という目で見ていたのに、と。

 しかし、そんな変化も愛おしかった。愛しい人と教室で同じ時間を過ごし、ひっそり微笑みを交わせること。それがどれほど尊いのか、よく知っているから。

 透も週半ばにはようやく登校してきて、遅れた分の学習を取り戻さなければという思いがあったのか、よく図書館で見かけた。もちろん会話を交わして、途中まで一緒に帰ることもあった。

 ひな子や鼎とも、こうして雪代家を訪れるたびに言葉を交わし合うことができる。

 前世で一度途切れ、今世で再び、より強固に繋がった絆。尊いものであると愛おしみながら、そうして鶫の日常は過ぎていく。

 けれど――今も、庸汰がどうしているのかは知らない。

 鼎伝いに、送り届けられた後は数日入院していたが、すぐに退院したらしいということは知ったけれども、それだけだ。彼に新たな意識が生まれているのかどうか、生まれたとして何の問題もなく生きていられているのか、何も知らない。

 瞳子にその話題を振ると、同じように複雑な表情になって、そして言った。

 ――知るべき時が来れば、恐らくは。

 恐らくは、その通りなのだろう。「総ては運命さだめ」であるのだと、〈神〉が久遠にそう言っていたのだから。

 どうなるかは分からない。だがきっと、知るべき時は否が応にもやってくる。その日まで今を懸命に生きることしか、『生きている』者にはできない。

「鶫さん、これお願いしてもよろしいですか?」

 呼びかける声で思考に沈んでいたことに気づき、はっとする。

「ん? 何?」

 声の主は瞳子だ。そちらを見遣ると、何やら数冊の書物を重たそうに抱えている。

「こちら、後ほどひな子にも教えたい術でして……私の部屋はご存じですよね? その前まで運んでいただきたくて。透さんは今手が離せないようですし、宏基さんは……はい」

 それにつられて先ほどまで宏基がいた場所を見ると、忽然と消えている。匂いは感じられるため敷地内にはいるのだろうが、常の通りのマイペースぶりに真顔になる。

「瞳子の説教でも聞かなかったかー……」

「暖簾に腕押しでした。ぜひ鶫さんからお願いします」

「僕でも駄目そうな気はするけど……まあ、見かけたら言ってみるよ。これね。引き受けた」

 ありがとうございますという笑顔に笑みを返しつつ受け取ったが、予想以上の重さで、確かにこれは瞳子では運ぶのは大変だっただろうと思う。

 術具関係は瞳子がいないと分からないこともあるようで、瞳子はこの場から離れられない。必然、家の中に運び込むようなものがあればそれ以外の者たちが動くことが増えた。

 書物を指定通り瞳子の部屋の前に置いて、靴を履くため縁側へと向かう途中。見慣れた背の高い後ろ姿が視界に入り、慌てて追いかける。

「宏基兄!」

 足音を立てて走り寄ると、宏基はゆっくりと体ごと振り返った。

「せっかく来たんだから手伝いなよ。寝に来たわけじゃないでしょ?」

「お前が無理矢理引っ張ってきたんだろうが、眠ぃっつってんのに……」

 大きな欠伸をこぼしつつの文句である。鶫は本日何度目かの苦笑いを浮かべた。

「宏基兄、力あるんだからさ。助かるんだよね、重いもの運んでもらえると。一人じゃ無理なやつもあったりするし」

「狐がいるだろうが」

「またそうやって面倒臭がる……」

 脱力すると、宏基は興味が特にないのか再び歩き始めようとする。その服の裾を慌てて捕まえつつ、鶫は彼と向き直るような位置取りに改めて立った。

「何なんだよ」

「……訊きたいことがあるんだ」

 真剣な目で見上げたからか、あまり感情の読めない宏基の表情もほんの少しだけ動いたような気がする。

「藪から棒に何だ」

 一応は聞く姿勢を見てくれたことにほっとしつつも、掴んだ裾はまだ離さない。

「……ずっと、訊きたかったことがある」

 鶫はあの後、月曜日には登校できた。でも宏基は土日を完全に寝込んで過ごし、様子を見に行った月曜の朝にも回復はしていなかった。結局、透と同じように週半ばになって学校に出てきたのだ。

 しかも、出てきたとはいってもまだ顔は青白くて。具合がよくないだろうことは一目で分かった。

 それもしばらくすれば回復したようだが、生気が薄い顔色なのはあまり変わっていない。

 ここ三か月、鶫は宏基とまともに会話をした記憶がない。登校の時間も合わず、どちらかの家で夕食を共にしても会話は弾まず、すぐに部屋に引っ込んでしまうし、部屋に入れてくれることもなくなった。

 避けられていると馬鹿でも分かる。

「宏基兄、何かぼくに隠し事してない?」

 真っ直ぐに見上げた先の夜空の色は、一切の惑いを見せず。

「だとして、どうなる?」

 何もかもをお前に言わなければならないのか。声に出されなくとも分かってしまう。

 それだけの日々を積み重ねてきたから。

 ぐっと息が詰まるも、ここで手を放したらいけない気がして、掴んだ手に力を込めた。

「宏基兄……ぼくは、嫌だよ」

 言葉と共に体の中から熱いものが込み上げてきそうになって、懸命に深く呼吸する。

「……何が」

 幼い頃から常に一緒だった兄のような人。鶫が前世について触れなくて済むようにと、ひたすら抱え込むようにして守られていたことを知ったのは、十数年の付き合いの中で言うのなら、ごくごく最近のこと。

 その間、この人はいったいどれだけのものをたった一人きりで背負ってきたのか。

「守られることが嫌なんじゃなくて……宏基兄がそのために自分をり減らしてしまうのが、嫌だ」

 誰かからこんなにも大切にされることが、嬉しくないわけではない。何も返せていないと自分を卑下して、大切な人の価値まで貶めるつもりもない。

 だけど、大切にしてくれればしてくれるだけ彼が何かを失くしていくのならば、辛くてたまらない。鶫もまた、宏基を心から大切だと思っているのだから。

「……勘違いすんな。摩り減らしたなんて思ったこともねぇよ」

 流れた沈黙を割って静かに落とされたのは、いつも通りに落ち着いている声だった。

「だって実際にっ!」

「お前がどう思おうと。周りからどう見えたとしても、俺は俺がしたいように、俺がすべきだと思ったことをやり続けてただけだ。そこには犠牲も何もない。俺に――俺と寒露にとっては、呼吸するよりも当たり前だった。呼吸を繰り返していった先には死があるが、それを摩り減らしてるなんて思うか? 思わねえだろ」

 苦しさに幾度も深く息をする鶫とは対照的に、微塵も揺らぐことのない宏基。

「どうして、そこまで……」

 生きる意味を見失っていた寒露に生きていてほしくて、失った理想をもう一度与えた。虐げられるのなら久遠が守るから、その代わりに隣にいてほしいと。久遠の理想を共に叶えようと。

 差し伸べた手を寒露は取り、忠誠を誓ってくれた。死のその瞬間まで、絶対的なほどに。

 だとしても、鶫には分からなかった。

 鶫にも大切だと思う人はいるし、その人のために何でもしたいと思う。だとしても、寒露や宏基のように盲目的になれるかとは別問題。恐らく無理だ。

「寒露にとって久遠は、それほどのものだったの……?」

 彼にとってはこの問いが愚かなものであろうことは分かっていても、尋ねずにはいられない。

「総てだった。何もかも失って、生きることに嫌気が差して。だけど手が差し伸べられた。生きる意味を与えてくれた。この人のために尽くして死のうと思った。寒露には、ただ息をすることの方が、死ぬよりも辛かった」

 ――じゃあ、俺はもう死んでる。理想なんて、とっくに死んだ。

 傷塗まみれの姿で座り込み、虚ろな目でそう語る寒露の姿が目の前に浮かぶ。

「宏基兄に、とっても……そうなの?」

 呼吸が辛い。喉に何か熱く粘度が高い何かが焼け付くようだ。

「訊かなくとも分かってるんじゃねえの? 俺にとっての寒露は、ほとんど同一人物だ。生きる意味は、久遠サマの望みを叶える手助けをしていくことだった」

 つまりそれは、久遠の生まれかわりである鶫を守り、手伝っていくこととイコールというわけで。だから何もかもを投げ打ってでも、鶫のために尽くした。鶫の願いに、思いに、一度も逆らうことがなかった。

 今さらになって痛感する。寒露が久遠にどれほどの思いを懸けていたのか。それを挫かれ、どれほどの絶望を抱いたに違いないのか。

 今までは上っ面だけで、真に理解などしていなかったのかもしれない。

 だが、その生き方は――なんて、かなしい。

「……その生き方を、やめるつもりは……?」

 鶫から散った言の葉。二人の間には再び沈黙が流れる。外で瞳子たちが話しているのだろう声が聞こえるが、別世界のように遠い。

「……戦いのときに言ったよな? 俺は久遠サマの言葉以外に従う気はない。だから」

 ややあって、返答がはっきりと響いた。


「お前がそれを望むなら」


 息を呑んで動けなくなり、拳を固く握りしめる。

「俺がそう言ったら結局、お前はどうせまたアホ面するんだろーが。自分で訊いたくせに」

 まるで知っていたと言うような口ぶりに、事実、何を言えばいいのかと言葉を詰まらせていた鶫は、更にきつく拳へと力を込めた。

 迷いなく曇りない彼の言辞は、きっと本心からの考え。

 鶫にはそれがとても苦しくて、悲しい。

 どうしてこうなってしまったのか。考えれば考えるほど、寒露に手を差し伸べた時の選択が間違っていたのではないかというところまで思考が向かってしまう。しかし、あの選択がなければ寒露は死んでいたのだろうというのなら、けだしそれは違うのだ。

 間違えていたことがあるのならば、他にも生きる意味を見つけられるように導かなかったこと。

「――宏基兄は、ずるいよ」

 ぼろりと目の端から涙が落ち、頬を伝っていく。

 彼がこうして生きていくことを嫌だと思うのなら、どうするべきなのか。選ぶのが辛いと分かり切っている選択肢をちらつかせてくるのだから。それしかないのだと、他のものを総て潰して。

「……かもな。久遠サマやお前みたいな馬鹿みたいに真っ直ぐな奴の傍にいりゃ、否応なしに狡くもなる」

 流れる熱い雫をどうにか拭い、懸命に声を発する鶫とは対照的に、宏基はどこまでも淡々と紡ぎ出す。

 鶫が「ぼくは久遠じゃない」と否定することは容易かった。鶫にとってはその通りだから。

 だが、宏基にとってはそうではない。噛み合わない意見をいくら彼にぶつけたところで、多分響きはしない。庸汰に対して、鶫の言葉が最後まで届かなかったように。

 これが覚悟の差なのか。それとも、彼の思いの強さなのか。

 始めたのが久遠ならば、きっと鶫が終わらせなくてはいけない。

 鶫は彼の服の裾を掴んでいた手を放し、ゆっくりと宏基との距離を詰める。

 そして、いつかの久遠と同じように、その肩を引き寄せた。

 込められた思いは、全く違ったけれど。

「……おれを逃げ道にするな。皆を逃げ道にするな」

 ――だから、おれを逃げ道にしていい。団を逃げ道にしていい。

「……おれはもう、お前を護らない。だから、隣を歩かなくていい」

 ――お前が虐げられたなら、おれが護る。その代わりに、おれの隣を預ける。

 情けないぐらい震えた声で、久遠の言葉をひとつひとつ否定していく。

 双念の意識を奪い取った時と、同じだ。自らのエゴで誰かから芯を奪い取る。自分はそれを「彼のため」と信じていても、彼らは痛みを強いられる。

 それならば、奪う側も痛みを伴わなかったら嘘だ。

 深く深く呼吸して、最後の『命令』を吐き出す。

「だから……一人でも、歩け。きちんと、『生きろ』」

 引き寄せていた肩を、押すようにして突き放した。

 宏基はやはり惑う様子はなく、泣き続けているのは鶫だけ。

 平静に口を開き、平静に答えを落とす。


「――御意の通りに」


 望んだことのはずなのに。だったら泣く必要なんてないはずなのに。

 いつまでも止まらない涙に、その場へと崩れ落ちる。

「……何でお前が泣くんだよ、馬鹿じゃねえの」

 横を通り過ぎながら、宏基が鶫の肩に触れる。いつも冷たいはずのその手が熱い。

「宏基兄が、泣かないから」

 その訳は、宏基自身が一番よく分かっているのだろうと思った。

「……馬鹿じゃねえの」

 もう一度繰り返された言葉は、やはり揺らいではいなかったけれど。




 まだ泣き崩れたままの鶫をその場に残し、宏基は廊下を辿る。特に行く当てがあったわけではないが、あのまま縁側で横になっていても瞳子がうるさいだろうことは目に見えていたからだ。

 角を曲がったところで、視界の端に見慣れた袴が映る。ため息を吐き出しながら足を止めた。

「立ち聞きとは悪趣味なんじゃねえの? じいさん」

 開け放たれている客間の襖。その陰に隠れたのだろうが、一瞬遅かったようで宏基は見事に見咎めてしまったのである。

「……ひとつ言い訳させてもらえば、出る時機を逸しただけで、立ち聞きしようと思っていたわけではないぞ?」

 ばつが悪そうな様相で出てきた鼎に肩を竦めてみせる。

「結果は同じだろうが」

「まあ、違いないな」

 苦笑いで首肯しながらも、彼は宏基から目を逸らさない。

「んだよ」

 何か言いたいことでもあるのかと、十センチは低い位置にある目を見下ろす。

「……よかったのかね? 君は。彼のために、命まで摩り減らしたその結果が、あれで」

 あれで、というのは、鶫との遣り取りのことだろう。この様子では総て聞かれていたようだ。

 しかも、宏基の身体について知られているというのも性質たちが悪い。

 舌打ちするが、聞いてしまったものを今さら聞かなかったことにはできないのだから、諦めるしかない。

 寒露にとって、久遠しか生きるための寄る辺はなかった。それは宏基も同じだった。鶫がいなかったら、生きている意味など特になかった。無為な毎日を過ごし、そのまま死んでいただろう。

「あいつにも言っただろ。俺は摩り減らしたなんて思ってない。なるべくしてそうなっただけだ。それに、納得してなかったら受け入れるかよ」

 少なくとも宏基はそれほど聞き分けがよくない。自分で呑み下せないものを受け入れるなど有り得ない。

「それなら、いいのだがね」

 含みがありそうな返しに眉を顰め、改めて見下ろす。すると、やはり鼎は何とも言い難い表情を浮かべている。

「何だよ」

「……あの『命令』に、君は本当に従えるのか? あれほど強く、護ると誓っていたのに」

 ――血反吐吐いてでも、化け物になってでも、俺は今世では絶対に護り抜く……!! 絶対にだ!!

 鼎は宏基のあの叫びのことを指しているのだろう。「前世も自分自身なのだな」と悲しげな顔をしていたのを、宏基もまたよく覚えている。

 確かに護りたかった。護り抜くと誓っていた。

「俺の役目は終わった」

 けれど、双念は消え、鶫は愛する人を見つけた。宏基が一番に立ちはだかる必要性はなくなったのだ。

 もしも戦いが終わっていなければ初めて彼の命令に逆らうことになったのかもしれないが、そうではない。もう、終わったのだ。業は断ち切れた。

 ならば、宏基の強固な意志はもはや邪魔。鶫は前を向いて歩いていくのだろう。その視界に宏基が入るなど、ただの妨げでしかない。

「君は……」

 目を見張る鼎に向け、微かに口角を上げてみせる。

「久遠サマは生きる意味を寒露にくれた。だからあの人のために生きると誓った」

 ――どうせ捨てる命なら、おれに寄越せ。

 捨てるはずだった命を、拾い上げてくれた。

「だったら、どう生きるかだって、久遠サマが……鶫が、命令する権利がある」

 鶫は宏基を狡いと評したが、きちんと『生きろ』と言った彼もなかなかに狡い。変わったものだ、と感傷的な思いがなくはなかった。

 しかし、いくら彼が変わっていっても、根っこは久遠と同じく真っ直ぐなまま。そんな彼の願い、彼の命令であるというのならば、宏基は従う。


「たとえあれが最後の命令でも、それが一生関係するのなら、俺は従い続けるだけだ」


 言葉を失っていた鼎は、かなり経ってからため息と苦笑混じりに呟く。

「君の生き方に口出しはしないし……いろいろと見てきたつもりの七十目前のじいさんだが、君の考え方は全く分からんな」

 その台詞を、今度は鼻で笑い飛ばした。

 簡単に分かるはずがない。分かってほしいわけでもない。

 ただ『宏基』はこういう在り方でしか生きることができないというだけのこと。

「七十ならまだまだガキだ」

「三百超えのじっさまに敵うわけがないだろう」

「妖怪化してせいぜい頑張れ」

 片手をひらひらと振り、また当てもなく歩き始める。

 背後では、やはり苦笑混じりの笑い声が上がっていた。

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