暁の光が目を刺して
宏基の手を借りて庸汰の下から這いずり出る。
床の上に横たわる彼に、先ほどまでの激情に駆られた姿の面影は見られなかった。ただ、静かに両目を閉じている。憎しみの言葉を吐き出すことも、鶫たちを害そうとすることもない。
こうなることを望んでいたくせに、どうしてこんなにも胸が塞ぐのか。
妙な感覚のあるその胸をぐっと押さえたのを見て、瞳子が心配そうに鶫を見つめた。痛みがあるのかと心配しているのだろう。
それには小さく笑みを見せつつ、かぶりを振って否定する。
瞳子が「ではなぜ」といった怪訝そうな表情を向けてくるのは分かっていたが、鶫はまた庸汰に視線を戻した。
――おれは、お前のような妖怪は許さない。たとえ同族でも、絶対に。
なぜ邪魔をする。そう体全体で叫んだ庸汰は、笑い般若を殺した時の久遠と似ている。そう感じてしまって、上手く言葉では言い表せない感情が込み上げてくる。
泣きたいような、叫び出したいような、だけどこのままここでじっと静かに座り込んだままでいたいような。
久遠と双念は、それぞれどこで間違えたのか。二人の道はどうして違えたのか。前世の記憶を得て以後、久遠の歩いてきた道を振り返りながら鶫は考え続けていた。
だけど、そもそもその思考は出発点が違っていたのかもしれない。
久遠と双念の二人は。限りなく近い場所にいた。背中合わせで立っていただけ。見ていた方向が違っていただけ。本当は、紙一重ほども違わなかったのではないかと。
業を作り上げたのは、久遠も双念も同じだった。
ぎゅっと手を握りしめ、ざわつく胸を落ち着かせるために深く呼吸する。
振り返るのは、後でもいい。今すべきことをやり遂げなければならない。そう思い至ったからだった。
「……庸汰の体、もうぼろぼろだ」
動かない彼を見つつ、鶫は呟く。
「え」
透とひな子は目を瞬かせるが、鶫と同じく庸汰に触れた瞳子と宏基には、特に驚いた風はなかった。やはり感じていたのだろう。
「恐らく……痛覚などを無視する術をその身に施して、私たちを滅ぼすまで戦い続けるつもりだったのではないでしょうか。だからこそ、あのような無茶な戦い方ができていたのだと……」
瞳子の言葉に鶫は頷く。
「じゃああたしが透先輩にかけた術と似たような……」
そんな言葉を漏らしたひな子は、はっとした様子で口元を押さえる。鶫は目を瞬かせて透に視線を遣ったが、本人はただ肩を竦めている。
そういえば、透はそもそも重傷の身で、雪代家で静養していたはずだ。あまりにもいつも通りに動いていたため、今の今まで失念していたのである。
「透……?」
「オレが我儘聞いてもらっただけ。……あの時、行かないなんて選択肢にはオレにはなかった。分かるでしょ」
思わず非難の目でじっと見つめてしまったが、そう言われてしまえば反論の言葉はなかった。
冷静に見えても、透がその胸の内で仲間を思う気持ちのとても強い人であることは、鶫もよく分かっている。
――でも、何でオレたちを呼んでくれなかったのって思っちゃうんだよ。
鶫が初めて変化した日、相談しようとしないことに対して怒ったことを覚えているから。
ただ頷き返すと、透もそれ以上は言を重ねることはない。
「でもそろそろ効果切れると思うんですけど。ぶっ倒れないでくださいね」
「アンタと違って繊細だし倒れるかもね。責任持ってアンタが運んでよ、ひな子」
「繊細とかよく言いますよね、図太いくせに……ていうか何であたしなんですか」
「アンタの図太さには負けるよ。力ありそうだからに決まってるでしょ」
「あたし別にそんな図太くないですから!! ていうかやですよ、いくら何でも透先輩は男子なんだし絶対重いじゃないですか!」
言い合いをしている二人に笑ってしまいつつ、安心する。こうしてひな子がいる限り、透ならば決して自分の命を軽んじることはないだろうから。
瞳子に視線を移すと、彼女も鶫を見ていたようで、正面から目が合う。
「……気を失わせるところまでは持ってこれたけど……」
双念の意識を魂の一部ごと庸汰から引き剥がす。もう二度と同じような戦いが起きないために。それを最終的な目標として今まで鶫たちは戦ってきた。
瞳子はそれに頷いて、改めて鏡を取り出す。桜の意匠が刻まれた、月読の鏡だった。
「幸いなことに月読の鏡が手に入ったので、この鏡の残留霊力を使えば少し楽に術が掛けられそうです」
そしてそっとその意匠を撫で、小さく笑む。
――誰かを傷つけるために鏡を利用されるなど耐えられません。
そう言って久遠に預けられたこの鏡だが、月読はこうして使われるなら納得してくれるだろうか。
瞳子の手にそっと自らのそれを重ねる。しっかりと頷いた彼女は、仲間たち全体を一度ぐるりと見渡して言葉を続けた。
「これから陣を用意します。その時に皆さん全員に代償を分散するために少しご協力をいただくことになります。描く間、しばらくお待ちいただきたいのですが……少し陣の描き方が特殊なので、驚かないでいただきたいのです」
「特殊?」
「……はい。普段とは違って……私の血液で描くことになります」
瞠目する鶫に頷いて、彼女は己の手をぎゅっと握りながら淡々と説明を続けていく。
「血液は生命力の源たるもの。魂もそうです。生命の根幹に対して干渉する術には、どうしてもそれに近いものが必要になります。……皆さまのご協力を得たいのも、そこです。代償を分散させるには、皆さんの血を少しずつ陣に頂く必要性があって」
鶫がそれにまず隣にいた宏基を見た。すると、彼は何ということはないとでもいう雰囲気で頷いてみせる。透とひな子に視線を移せば、予想通り同様の反応だった。
瞳子が不安げに鶫を見るが、彼にしても同じこと。
「大丈夫だよ。ぼくたちは、瞳子を信じる」
誰一人欠けずに幸せにならなければ意味がないと、瞳子はそれを一番分かっていてくれているはずだから。
「ありがとうございます」
ほっとしたような笑顔に笑い返して、そのほっそりとした白い手を取る。
「……切るのは、ぼくにやらせてもらってもいい?」
どんな意味があるにしろ、本当ならば彼女に傷がつくのを見るのは嫌だった。血に濡れた月読の最期を、どうしても思い出してしまうから。
久遠が間違ったが故に招いた結末によって奪われた、彼がその生涯で唯一愛した人。
それならばせめて、瞳子自身でも他の誰にでもなく、自分の手で傷を付けるべきだと鶫は思った。
あの結末を招いた理由を、忘れないように。もう同じような間違いを二度と犯さないために。瞳子に自ら傷を付けなければならなくなったのはなぜか、刻み込むのだ。気づくまでに前世からという長い時間がかかったけれど、気づくことができたのだから。
「どうせすぐに跡形もなくなる」
隣からの言葉に宏基を見上げると、さも当然という雰囲気で、鶫は安心感から少し笑みが零れた。
彼女に傷が残るのは忍びないと感じていたのを見抜かれたらしい。
瞳子も微笑み、そっと鶫に向かって手を差し出す。
「……では、お願いします」
その手を取ったところで、ふと思い至ったことがありまた宏基を見た。彼の眉が怪訝な思いからか微かに顰められたのを見つつも、深く息を吸い込む。
「瞳子の手に麻酔をお願いしたいのと、あと――術が無事終わったら、庸汰の傷も治してあげてほしい」
必然、宏基の群青が微かに揺れた。
鶫自身、拒絶されるかもしれないと分かっていながら口にしたので、心臓がぎゅっと縮まった気がする。
久遠を信奉していた寒露の生まれ変わりで、その感情を色濃く継いでいる宏基にとって、今までのような行動をし続けていた庸汰は決して許せる存在ではないはず。それこそ、「今世でこそお前を殺す」と言い放ったのが本気だったように。
不安から眉を下げたが、彼の瞳はすぐに元通りの落ち着いた色を湛えたのに気づき、はっとする。
「……『誰一人欠けずに』とかいう甘っちょろいこと言ってたお前が、そう願わねぇわけがねぇな」
いいとは言わないが、嫌だとも言わない。
庸汰に対しては、鶫でさえ決して一言では語り尽くせないほどの様々な思いがあるのに。きっと彼はそれ以上なのに。それでも、拒絶しないでくれた。
「……ありがとう、宏基兄」
「礼言う前にさっさと片付けろ」
嬉しさに笑みを零しつつ言うと、瞳子の手の甲に触れて麻酔を施した彼にいつも通り素気無く返される。それも気遣い故だと分かっているから、ただ笑みを返した。
それから改めて瞳子と向き直る。
目だけで大丈夫か尋ねれば、小さく首肯が返ってきた。それを確認してから人差し指の爪に妖力を籠め、鋭く尖らせる。手の甲に向けて振り下ろしたその瞬間、彼女の皮膚に走る一本の赤い線。
瞳子は滴る血を右手で受け止めつつ、ある程度広いスペースのとれる方まで向かっていった。そして指を筆に、手の甲をパレットにしながら、複雑な模様を描いていく。
ちらりとひな子を見ると、瞳子の様子をじっと見つめている。大切な姉であると同時に、優秀な巫女、また恐らくはひな子の術の師匠でもあるのだろう彼女のその姿を、しっかりと脳裏に刻み込もうとしているかのようだった。
傍らにいる透は、そういうひな子をただ見守っている。心配そうな様子はなく、かといって突き放して眺める様子もない。信頼し、慈しむ目だ。
鶫はそれから庸汰に視線を移す。
透の術がよく効いているのか、目を覚ます気配は見られない。ざわりざわりと胸は騒ぐ原因は分かっている。庸汰の中の『双念』を終わらせることに、心がさざめいているのだ。
やめると言うつもりはないが、迷いは生じてしまう。
加えて、この件については「迷うな」と自分に言い聞かせるべきなのかどうか、鶫には分からなかった。
人のひとつの命を終わらせるのに近いことをこれからしようとしているのに、迷わなくていいのか。迷わないものなのか。
久遠がその生涯でただ一度きり、人間の命を奪った時のことが鮮やかに目の前に蘇る。
笑い般若に襲われて、出会った時にはすでに虫の息だった少年が苦しみ続けるのを見ていられず、久遠は止めを刺した。
あの少年は、まるでありがとうと言うかのように微かに笑みつつ死んでいったけれど、久遠の中では引っかかり続けていた。あの時の選択は正しかったのか、と。
そういう久遠と同じように、恐らく鶫もまた、庸汰に関してのこの選択が正しかったのかどうか考え続けるのだろう。それこそ、死ぬその瞬間まで。
思考のさなか、ふと視線を感じて顔を上げると、宏基と目が合った。
「……深く考えすぎてドツボにハマんなよ」
すぐに目は逸らされ、言葉もぶっきら棒な調子ではあったが、鶫は自分の心がほんの少しだけ軽くなったのを感じる。
考えるな、と言われなかったのが却ってありがたかった。迷うのは決しておかしいことではなく、苦しく思ってもいいのだと、少なくとも宏基には赦された気がしたから。
「うん。ありがとう」
それには何も返答はなかったが、それで充分だった。
「終わりました」
と、その直後に瞳子の声が響く。
陣の方に視線を戻すと、確かに完成しているようだった。赤い線が複雑に絡まり合って、鶫には容易に読み取ることのできない文字などが書き込まれている。
「陣の中心へ庸汰さんを……」
それに従うために庸汰の体を抱え上げようとしたら、一足先に宏基の手が伸びてきて肩に担ぎ上げた。
目を瞬かせたが、彼は動かない庸汰をそのまま運び、陣の中へと降ろす。
それはまるで、万一のことを考えて鶫にはもう触れさせたくない、と言うかのようで。
鶫の望みをできるだけ叶えてくれようとする彼の姿を見れば、その行動を非難するようなことは言えないし、そもそもそういう言葉が浮かぶこともなかった。
瞳子は宏基によって運ばれた庸汰の姿を見届け、全員を見渡す。
「……皆さん、よろしいですか」
ここに血を、と言うように一箇所を示す彼女に鶫は頷いた。他の三人も同様で、ゆっくりと陣に近づく。
鶫と宏基、透は自らの爪で、ひな子は透の爪によって手のひらを切り付け、指定された場所に赤い雫を垂らす。
「――発動させます」
凛と響く声に無言でまた頷いて、詠唱と共に光り輝く陣をただ見ていた。これで総てが終わるのだと再び胸が詰まるのを感じつつも、最後まで逸らさず見つめようと。
その時、背中に手が触れた感覚が不意に訪れた。手の主を見ると、透である。
「笑えとは言わないから、泣きそうな顔するのはやめなよ」
触れている手は、あたたかい。じわりと染み入るその温度に、いつの間にか強張っていたらしい体が弛緩していく。
「……そんな顔してた?」
自覚がなかったために苦笑いしつつ尋ねると、しっかりと頷かれてしまった。
「迷うな、とか、後悔するな、なんてことも言わないよ。アンタがいろいろと考えすぎる性質なのは知ってるし……けどね」
真っ直ぐに射抜いてくる金色の目に、自然と視線が吸い込まれていく。
「オレたちがいることは、忘れないで。抱えないで。ちゃんと相談して」
彼の思いは尤もで。
久遠が自分だけでどうにかできると抱え込んだことが失敗の始まりなら、そこを正さなければならない。
「……うん。ありがとう」
透はそれに首を振って手を離す。
ほぼ時を同じくして、瞳子の詠唱が終わる。続けて、陣がひときわ強く光り輝いた。陣の傍に置かれた鏡が強い光を発し、陣へと流れ込み、そして庸汰へと向かっていく。
一連の様子を、月読の鏡に触れながら瞳子は強い瞳で見つめている。
そんな彼女の傍に鶫はそっと膝を突いて、空いている手を握った。
弱く力が返ってくるのを確かめて、彼女と同じようにして青い光を見遣る。
やがて陣の輝きは急速に収束していった。入れ違いに庸汰から淡い光が立ち昇ったのを見、その場の全員が息を呑む。
その光はしばらくそのまま滞留するようにしてから、一部分が分かれた。瞬き数度のほどの間を置き、分裂した一部がやがてふっと掻き消える。
次の瞬間には残った大部分が吸い込まれるようにして庸汰に戻っていくのを、やはり全員が息を呑んだまま見送っていた。
「今のが……魂……?」
思わず呟くと、握っていた瞳子の手の力が同意するようにほんの少しだけ増す。
魂が分断され、切り離された部分が消滅し、残りは彼の体に戻っていった。それはつまり、前世から続いた長い戦いの終わりを迎えたということで。
「……終わったんだね」
自覚させるためのに呟いたはずの言葉は、結局のところ実感を伴わず、ただぼろりと口の端から溢れて散っていった。
そう、終わったのだ。
分かっていても、誰も動くことができなかったのは――きっと、全員が何となく呆気なさを感じていたからではないだろうか。
殺意を向けられ、時には腹の底から湧き上がる怒りから自分たちが殺意を覚え、血に塗れた戦いを繰り広げてきた。それを思うと、終わりは何とも淡白で。
しかし、たとえ現実感を覚えていないとしても、鶫たちは今、自分たちの意志でひとつの意識を摘み取ったのだ。
「……庸汰さんに新たな意識が生まれることを、祈りましょう」
瞳子の言辞に、鶫はただ頷く。
人のひとつの命を終わらせるのに近いことをして迷わなくていいのか、迷わないものなのか。あの自問の答えなど、初めから決まっていた。
迷わなくていいはずがない。迷わないはずがない。
己の手で消したものを忘れるな。心にそう強く刻み込まなくてはいけないのだ。
仲間たちが沈黙しているのは、自分と同じようなことを考えているためだろうと鶫は思う。
「……帰ろうか。鼎さんたちが待ってる」
ややあって、ようやくそれだけを口にした。
「……はい」
小さな笑みを向けて頷く瞳子には微笑みを返してから、宏基、透、ひな子と順に見ると、同じように頷いてくれる。
「庸汰も一度連れて行かないとね。その後のことは、鼎さんにも相談させてもらって考えよう」
それに反応した宏基が庸汰をまた担ぎ上げるのを見つつ言うと、それを同じように目で追っていた透が頷いた。
「病院に預けるのが一番の気もするけどね。オレの幻術で眠ってるんだから、解けば目覚めると思うし……新しい意識さえ、生まれてれば」
新しい意識が庸汰の中にきちんと生まれるのかどうかは、鶫たちにとって未知数。生まれなければ、廃人として生きることになるだろう。
意識を奪い取った末に消滅させたということは、それだけ大きい。
ぐっと腹に力を込めて頷いてから、術を使って神社まで戻ると言うので瞳子の傍へと寄った。
すると、どこか不安げに鶫を見遣ってくる彼女と目が合い、そっとその手を取る。
背負っていかなければならないとは思う。だけど、選ばなければよかったと思っているのではないから。
「――たとえこの先どんな咎を受けようとも、ぼくは受け止めたいと思うよ。それが、皆とこうして生きるためなら」
瞳子はそれにきゅっと唇を引き結んで、ゆっくりと首肯した。
「はい。私もです」
同じだ、と笑って、彼女の手を改めてしっかりと握る。
久遠が最後に握った月読の手のような冷たさは、そこにはない。あたたかい。生きている。これからも、生きていられる。
罰を受けることになるかもしれない。命を絶やした苦しさに悶える日が来るかもしれない。
だとしても、こうして彼女と生きたいと願ったことは、絶対に後悔しないと言い切れた。
愛しい人と笑い合ってから、無表情でありつつも穏やかな目を向ける宏基と、笑顔の透とひな子にも笑んでみせた。
「では、戻りましょう」
頷いて、瞳子の鏡が転移の術の発動に向けて輝き始めたことに視線を向けた時、この廃墟の窓から覗く景色にたまたま気づく。
「夜明けだ……」
鶫の声に全員が窓の外を見遣り、白み始めたその空に見入っていた。
あの夜明けから久遠たちの崩壊は始まり、鶫たちの終わりはこの夜明けを以て訪れる。何とも因縁めいていて、そのまま目線を動かすことができない。
紅葉が舞い散る季節、落月と共に喪ったあの人は、この結末を見て頷いてくれるだろうか。
鏡から発せられる光を浴びながら、鶫は無意識にその名を呼んでいた。
「風巻――」
終わったよ、と、必ず届いているはずだと祈りながら。




