何故か己を憎む少女
日の光が侵食していくものから
目を逸らしていたくて
● ● ●
入学式から一月。瞳子に襲い掛かられたあの日からは二週間ほど。
「何とか言ったらどうなのですか」
「ええええええぇぇぇと……」
現在の鶫が置かれている状況。端的に説明するのならば、仁王立ちした瞳子がこちらを睨みつけている、というものだった。更に付け加えるならば、その場所が日当たりの悪さからじめじめとしている階段下であるということくらいか。
――一応ぼくの方が身長は高いはずなのに、見下ろされている気分になるなあ。
現実逃避をしている鶫を知ってか知らずか、俗に言うところの『ジト目』で瞳子はにじり寄ってくる。
宏基が助けに入ってくれたあの日以来、放課後などを見計らって、瞳子はほぼ毎日こうして人気のないところに鶫を呼び出していた。呼び出す、というよりは、連れ込む、と言った方が正しいかもしれないが。
字面だけならトキメキも生じそうなものだけれども、実際は甘い空気など皆無。正直のところ鶫は辟易している。早く帰って猫たちと遊びたいのに、どうしてこんなことになっているのだろうと。
「貴方も案外強情ですね……さっさと自分が妖怪であるということを認めたらどうなのですか」
ため息混じりに瞳子が発する台詞に反論したい思いは彼にもあった。
最初に詰め寄られた時に彼女が持っていた鏡を、学校内の場面では出してこない。どうやらあまり誰かに見られたくはないものであるらしい。
あの反射光にたじろいでしまう部分も鶫にとっては大きかったため、威圧感は何割か減っている。しかし生来の争い嫌いが災いして、彼は中々上手く言葉を紡げないでいた。
おどおどと俯いてしまう鶫に、瞳子はまたため息をひとつ零す。
「残念ながら、貴方の頼りにしているだろう真田宏基はここには現れませんよ。帰ったことは確認済みですから」
「え」
抱いていた淡い期待が打ち破られたことを知って鶫はがっくりと肩を落としかけ、落胆するのはお門違いだとすぐに思い直して背筋を伸ばす。
小学生の時分に靴を隠された時も、中学生の頃に数学のテストで補習になりかけた時も、そして今回の件も。幼い頃から宏基に頼りっぱなしで。これではいけない、いい加減に宏基にも迷惑だ。一大決心し、鶫はほとんど持っていない勇気を振り絞る。
「何も、知らないし……ぼく、人間であって、妖怪じゃないから……!! 変な言いがかりつけてくるの、もうやめてください」
小さな、しかも震えた声であったが、人気のないこの場所だとそれなりに響いた。
いつも言われるままだった鶫が反撃に出たのは、ほとんど初めてと言ってもいい。当然、瞳子も驚いた表情を見せた。
「……言いますね。では私が感じている妖気はいったい何なのでしょう?」
声が低くなったのは、彼女が少し苛立ちを覚えているからなのかもしれない。そう考えると、鶫は委縮してしまいそうなる。だがここで諦めてしまえば、先ほどの決意も水の泡だ。
「よく知らないし……ぼくには、妖気? とかそんなもの、全く分からないし。あなたが変なんじゃないんですか……?」
これを言ったら確実に怒らせる。分かってはいたが、いかに温厚な鶫と言えど、もう堪忍袋は緒がいつ切れてもおかしくないほどに膨らんでいたのだ。
「もういい加減にしてください! ぼく帰りますから!!」
逃げるようにその場から駆け出す。
どん臭いのには違いないが、鶫の足は割に速い方。追いつかれない自信がある。
「あっ……! 待ちなさい!!」
声は聞こえていたが、振り返らなかった。というより、瞳子の顔を見るのが怖かったのだが。
下駄箱で靴を履き替えるために止まった頃にはもう、足音がだいぶ遠のいていた。鶫はそれを確認しながらも、用心してバス停まで全力で駆ける。運よくバスが来ていたので、それに乗り込んだ。
ようやく人心地がついて、彼は小さく息を吐き出した。
「久々に怒った……」
情けないことに、手が小刻みに震えている。
「……慣れないことはするべきじゃないな」
鶫は自分に苦笑いし、持っていた鞄を膝に置いて中から文庫本を取り出した。
怖かったのは怖かったが、彼はそれよりもすっきりした思いが大きくて、ここ最近で一番本に集中できた。
自宅最寄りのバス停を下りて家に向かう間、鶫は先ほどの瞳子の様子と、夢に現れた『久遠』を思い出していた。
――久遠さんの言葉の意味って何なんだろう……。
夕焼け空を眺めて嘆息する。
瞳子と初めて相対した日の夜以来、彼は鶫の夢に現れなくなった。それが寂しくもあり、どこか予感していた気もする。
――もうすぐ、否応なしに知るべき時が来る。知らなくていいことから守ろうとして、宏基がどれだけお前を遠ざけても、それが運命だから。
――知ってからどうするか。それを選ぶのは、お前だよ。鶫。
あの、まるで謎かけのような言葉たち。残すだけ残して消えた彼は、きっと鶫がそれを解くまで現れてはくれないのだろう。
自分が何を知るというのか。そして、彼らが自分にとってどういう存在なのか。
「ああああぁぁもう!」
声を漏らして頭を抱えたところで、今いる場所が路上だということを思い出す鶫。
はっとして辺りを見渡すが、幸いにも誰もいないようだった。安心して胸を撫で下ろした――のだけれど。
「何奇声上げてんだ、変態猫」
空から声が降ってきた!? と辺りを見渡すと、宏基が二階の窓から身を乗り出しているのが鶫の視界に入った。
「何だ、宏基兄か……」
「何だとは何だてめえ」
鶫は小さく言ったつもりだったのに、しっかり耳に届いていたらしい。地獄耳、と肩を竦めて、窓を見上げる。
「今日は早かったんだ?」
訊かれた宏基は常の無表情だ。
「お前が遅かったんだろ」
確かに、と思って頬を掻く鶫を訝しげな目で宏基が見ているのに気づいて、これは説明するまで許してくれないな、と察する。
「着替えたらそっち行ってもいいー? 数学の課題あって、教えてほしいし」
いい加減見上げているのも辛くなってきたので鶫が尋ねると、「好きにしろ」との返事。宏基としても気になってはいたようだ。
いつもなら確実に「ふざけんな自分でやれ」って言われるもんなぁ……と鶫はしみじみ考えながら着替えて、勉強道具を抱えた。
急ぎ足で家を訪ねると、宏基は不機嫌そうな顔で迎え入れる。
「……あの女とは関わるなっつったよな?」
鶫が腰を落ち着けるいとまも与えず、低い声が響いた。宏基としては自分の忠告を無視された形であるので、面白くないらしい。
「ぼ、ぼくだって関わりたくないよ……怖いし。でもあっちが強制連行してくるんだから仕方ないでしょ……」
あんなふうに襲われた後に誰が関わりたいのか、と鶫はいつぞやの瞳子の形相を思い出してため息を吐いた。
「情けねぇな。逃げ足だけは早いんだから、捕まる前にさっさと逃げろよ」
「全方向がアウェイみたいなあの空間でそんなことできるわけないじゃん……」
雪代さんがうちの学年のアイドルみたいになってることは知ってるでしょ、と呟く。
流石に教室では話しかけてこないが、廊下で声をかけてくるときは人目がある。鶫のような目立たない生徒が、瞳子のような有名人の頼みごとを無下にしているなど知られたら、面倒臭いことになるのは目に見えている。
恐らく彼女自身、自分が注目を集めやすいことは知っているのだろう。だからそんな手段に出るのだ。
「……あの猫かぶり女」
盛大な舌打ちが響く。
「猫かぶりって」
鶫は言い草に苦笑いした。
確かに教室で見せている大和撫子の顔は『外面』で、鶫と宏基に見せたあの激しい顔が『本性』であるのだろうが。あんまりな言い様だ。
「猫かぶり以外の何者でもねーだろ。本性は捻じ曲がってるくせして……」
「宏基兄は雪代さんの何もかもが気に入らないわけね……」
再びの苦笑い。宏基は当たり前だろ、とでも言いたげな表情である。
これ以上何も言っても機嫌を益々損ねるだけだと判断し、鶫は課題に集中することにした。
それでも宏基はぶつぶつと文句を言い続けている。ほとんど独り言で、鶫が聞いていようがいまいが構わないようだった。鶫は最初のうち無視していたが、だんだんとただ聞き流すのにも疲れてくる。
「宏基兄、よくそんなに罵詈雑言が浮かんでくるね……」
「あ?」
「今日はちゃんと逃げてきたし、そこまで実害があるわけでもないし……」
鋭い目つき。火の粉がこちらにまで飛んできやしないかとハラハラしながら鶫は小さく言った。
「そういう態度につけ込まれてんだろうが。だいたいお前もあの女も、ぜ――」
苛々とした態度で説教を始めた宏基の言葉が、唐突に止まった。
「宏基兄?」
ぜ? と鶫は首を傾げる。
「……何でもねぇよ」
「気になるんだけど……」
「何でもねぇっつってんだろうが」
今までの怒りに支配された彼はどこに行ったのか。宏基はそれ以降口を貝のようにぴったりと閉じてしまって、たっぷり一時間は声を発しなかった。
鶫がいくら問い質そうとも、決して。