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愛、引き裂かれても

 桜の花弁が舞う中に、久遠が佇んでいる。

「どうかなさいましたか? 久遠さん」

 その日は確か、双念を久遠に紹介する少し前。村の見回りの帰りに久遠とたまたま会って、満開を迎えた桜を一緒に見に行ったのだった。

 久遠はいつも通りに柔らかく笑っていて、その笑みを向けられるたびに月読の胸は弾んでいた。嬉しくて、もっと見ていたくて。でもそんなこと、口に出しては言えなくて。

 だから、その思いは隠して、ただ談笑していた。この時が永遠に続けばいいと願いながら。

 だが、たまたま話題が途切れたと思ったら、ふと久遠は黙り込んで桜をじっと見上げ始めた。月読は怪訝に思い、そう問いかけたのだった。

「……え、ああ……ごめん。ちょっとね、思い出してた。おれのいた里にも桜があってね、父と母と……あと妹と、花を眺めたなあって」

 懐かしそうな、それでいて痛みをこらえるような表情をしていた久遠。それを見て、月読もまた悲しく思って。

 月読は大切な親友を妖怪に奪われた。久遠は人間によって一族も故郷も奪われた。二人の立場は正反対のようで、同じだった。

 自分がしてもらったのと同じぐらいの何かを、彼にしてあげたかった。

 彼にとっての月読は、敵だとか巫女だとかいうものである前に、期待や自身で背負った責任感に押し潰されそうな『一人の人間』であると、そう言ってくれた。月読の心は、彼にかつてかけてもらった言葉のおかげで軽くなった。

 報いるぐらいのことをしたいのに、月読には上手い言葉が浮かばなかった。彼に寄り添うように――触れ合うこともなく、さりとて大きく間隔を空けるわけでもない、何とも曖昧な距離を残したまま、ただ隣にいることしかできない。

 だが、それでも久遠は嬉しそうに笑ってくれた。むしろそういう彼の姿に月読の心が癒されて、これではどちらが救われているのか分からないほど。

「なあ、月読」

「はい?」

 呼びかけにそちらを見ると、久遠はまだ桜を見上げている。言葉が続かないことに首を傾げつつも、ただ彼が言葉を発するのを待った。

「どうして、何かを成し遂げようとするときって、誰かが上に立たないといけないんだろうな」

 今にも消えてしまいそうな問いかけ。出会ってから一年程度という短さではあっても、とても濃密だった久遠との付き合い。それなのに、月読は彼のそのような声の調子を未だかつて聞いたことがなかった。

「え、」

「ずっと疑問だったっていうか……。こんなこと、団の皆の前では絶対に訊けないし、当然なんだって知ってもいるけど……でも、不思議で」

 月読は彼が何を言おうとしているのかを図りかね、訥々(とつとつ)と吐き出される言葉をじっと聞くことしかできなかった。

「だって、人が集団を作って何かをしようとするとき、人数が多ければ多いほど、どうしたってまとめる人は必要になる。その纏め役が一人か複数かの差はあったとしても。じゃなきゃ、その纏まりは纏まりの形を成さなくなってしまうからだって、分かってはいるんだ」

 たとえば中央の団。たとえば巫女、そして法師たち。どのまとまりも取り纏める誰かがいて、その存在があるために何もかもが上手く働いているのは確かだが、月読には少しの違和感があった。

 巫女や法師の頭役は、一定の条件を元にして選ばれた上で任されているけれども、久遠は違う。久遠は彼自身で望み、彼の夢を叶えるために団を創設したのにも拘らず、何故そのようなことを、と。

 しかし、疑問に思って間もなく、月読は重大なことを思い出したのだ。久遠の思想もまた、確かに彼自身のものであるけれども、植え付けられたものでもあること。

「……だいたい自分がやりたいって言ってやってることなのに、こんなふうに思うのもどうかとも思ってる。月読だってきっとそう思うだろうなあって分かってるよ。でも、最近少し考えるようになったんだ。どうしておれは、これを成し遂げたいって思ったんだろうって……」

 思想というものは、誰か一人だけの考えで形作られるものではない。誰かが何かを思考する場合、その時々に置かれた環境というものが必ずある。それを肯定あるいは否定しつつ、自分の考えを構築していくのだから。

 久遠が抱く夢は、彼自身の夢でありながらも久遠の思いだけで創り上げられたわけではないことを、月読を含め周囲の者たちは失念してしまいがちだ。

 久遠は、笑っていた。月読のそんな思考を分かっているかのように。いつもと違って、どこかかげりのある笑みだった。

「結局、もう二百年近くが経ってても、父親に言われたことは未だに頭の中にこびりついてて、それが絶対に消せないんだよな。声どころか、顔でさえ朧ろになりかけてるのに」

「お嫌、ですか? それとも、間違っていたとお思いに……?」

 自嘲するように呟く彼にそう問いかけると、予想通り強くかぶりを振られる。

「ううん。嫌ではないし、間違いだなんて思ってない。投げ出す気だってもちろんないよ。だっておれが始めたことだから、おれが終わらせなきゃならない。だけど……時々、自分の背負ってるものが酷く重たいって思う。動くことも出来ないくらいに。常は軽いと思ってるとか、そういうわけではないのに」

 見上げた久遠の表情は、更に笑もうとして失敗したのだろう、笑顔になりかけの中途半端なものだった。そうかといって泣きたそうでもないという複雑さもあり。

 そういう顔が痛々しくて、月読の胸は塞いだ。

「おれは何で、上に立とうと思ったんだろうなあって……逃げ、なんだろうけど。すごく思うんだ。こんなこと、風巻にも言えないから……内緒だよ」

 風巻。久遠がまるで本当の兄のように慕って信頼しているその人に、どうして相談できないなどと言うのだろうか? 風巻は久遠と同じように三百年以上を生き、様々な経験を積んでいるに違いないのに、何故たった十六の小娘である月読に打ち明けようと思ったのか。

「風巻さんには、何故……?」

 腑に落ちない思いを抱いて尋ねつつも、しかし月読は同時にその理由がとっくに分かっている気もしていた。

「……言えないよ。風巻は確かにおれにとって義兄だし、それに甘えてる部分もある……っていうか、多分だいぶ甘えてるけど。それでも、おれが『団長』である限り、決して譲っちゃいけない部分っていうのはあると思うんだ」

 たとえどんなに頼りにする思いがあっても、絶対に見せられない部分。

「――おれは義弟である前に『団長』でなければならない。それなら、おれにとっての風巻は義兄である前に『団員』じゃなきゃならない。おれには団員を護る義務がある」

 ただの妖怪である前に、滅びた里の理想を実現させなくてはならない『久遠』で、『久遠』である前に『団長』で。

 ただの人間である前に、人間を護らなくてはならない巫女で、一人の巫女である前に『月読』で。

「そういう『団員』に対して、『どうして成し遂げたいと思ったんだろう』なんて根本的な疑問、口にできないよ。おれを信頼して集まってくれた人を裏切る、とまでは言わないけど……それに近いことだろう?」

 月読は頷いた。頷くことしかできなかった。

 久遠は、月読と同じだった。

 幼いころより叩き込まれた思想。骨の髄まで染められ、疑うことはなかった。それどころかその理想を心の底から叶えたいとさえ思ってきたのである。

 だが狭い世界を飛び出し、様々な世界に触れていくにつれ、ふと感じてしまう。

 どうして自分はこんな生き方をしようと思ったのか。

 しかしこうして上に立っている限りそれは迷いであり、おもてに出すことは許されないから、ひっそりと呑み込む。

 巫女は迷ってはならない。心を揺らしてはならない。強く在らねばならない。月読は日々自分に言い聞かせていた。久遠もそうだったのだろう。

 妖怪の長の久遠。巫女の長の月読。正反対のはずの二人は、同じだったのだ。どこまでも。




 激しい雨音が響く中、瞳子と庸汰は鋭い視線を交わし合いながら向かい合っていた。

「ねえ、瞳子ちゃん。僕さ、君に訊きたいことがあったんだよね」

 懐から札を出して錫杖を作り上げながら、庸汰が静かな声色で言う。

「どうして君は、僕たちを裏切ったの?」

 ふざけたような調子はなく、目も真剣そのもの。本心からの質問だと分かる。

「どういう意味ですか」

「どういうって……だから、何で僕たち人間を裏切って、妖怪にくみするような真似をしたの、ってことだよ。君は『月読』だろう? 誰よりも巫女らしく在らなくてはならなかったはずなのに、『妖怪と想いを交わし合ってはならない』って掟を、どうして破ったの」

 たとえその手段を間違えたのだとしても、誰よりも法師で在ろうとした人の生まれ変わりが、蔑むような冷え切った眼差しを向けてくる。

 今の自分は月読ではない、と反論するのは、瞳子にとって一番容易かった。でも、そうはできないほど、彼の台詞は耳に痛くて。

 だってそれは、生前の月読自身が何度も考えたことだったから。

 掟を体現しなければならない存在なのにも拘らず、守れなかった。久遠に出会い、彼を愛してしまった。どうしようもなく愛おしいと思ってしまった。

 恋をするということを、知ってしまった。

 月読の生まれ変わりであることも巫女であることも抜きにして、ただ『瞳子』としてなら、恋も愛も尊いことだと思っている。一般的な少女としての憧れもあった。

 だからこそ、鶫と思いを交わすことができたのは、本当に嬉しかったのだ。

 けれど。月読はその『尊いはずの感情』を抱いたがために自分を責めた。そういう彼女を容易に否定できるかといえば、全く違って。

 気持ちは痛いほどに分かる。瞳子には生まれた時から慈しんでくれる家族がいて、愛情をたっぷりと浴びながら育った。自分の存在価値を考えてしまう機会などなかった。

 一方の月読は、家族を知らない。生まれて間もなく潜在的な霊力の高さから社に預けられ、社の巫女たちに育てられた。またその日から『月読』と呼ばれ、唯一知っていた『婆さま』と呼ばれていた老いた巫女が教えてくれる前に急逝したため、親の顔どころか真名さえも知らず育った。

 月読には、巫女でない自分、『月読』でない自分というものは想像できなかったのである。巫女の社会の中で、生まれた時から死ぬその瞬間まで巫女として生きていくものだと。

 だから、月読にとっての世界の常識とは、巫女の常識だった。

 「妖怪を愛してはならない」。とある巫女が妖怪を愛したことをきっかけとして霊力を弱め、結果その妖怪に殺されたという言い伝えが巫女たちにはある。

 月読にとっても、幼い頃より先達の巫女たちから繰り返して教えられてきた戒めだ。何より、大切な友人を亡くした出来事により妖怪を激しく疎むようになってからは、愛するなど有り得なかった。

 そう、久遠に出会うまでは。

「他の法師たちも僕も、君をすごく信頼していた。当代の月読はどの月読より月読らしい、って。巫女たちだってきっとそうだったはずだよ。それなのに、君はその信頼を裏切った」

 嘲る調子もなく、責を問う言葉がただ淡々と紡がれる。

 庸汰――いや、双念だけでなく、もしかすると月読の周囲にいた人間たちは皆、そのように思っている気持ちを隠し、接していてくれたのかもしれない。

 瞳子はぐっと唇を引き締め、庸汰に視線を返した。

「確かに月読は、巫女の掟を破りました。たとえその思いを抱いてしまっても、周囲には決して悟られないように秘匿するべきだったのでしょう。それができていなかった時点で、『月読』失格と言われても仕方がありません」

 己の前世が久遠に向けた仄かな想い。当時は決して許されるべきではなかったのだと、瞳子も分かっている。

 分かってはいた、けれど。

「じゃあどうして君は、」

「だけど! 月読はっ……巫女である前に、人です……!!」

 更に問い募ろうとした庸汰を遮り、振り絞るようにして叫ぶ。

 感情を持ち、誰かを慈しむ思いを持つ限り、誰かに強い愛を抱かずになどいられるわけがない。

「背負ったものを投げ出すことも、一人では決して背負い切れもしないでいたあの方を、守りたかった! 隣にいて支えたかった! 彼が誰にも吐き出せないものを、吐き出せる場所になりたかったのです!!」

 許されなかったのかもしれないけれど、そんなささやかな願い。

 同じだったから。痛いほどに分かったから。そういう部分を支えていけるのはきっと自分だけだという自負があったから。

「たとえ、想いを交わすことができなくとも、それでよかった……」

 月読は死ぬまで巫女で在りたかった。口にはしないが、久遠も最期のその瞬間まで『団長』で在りたかったはず。

 たとえ互いにどれほど好き合ったところで、結ばれることを二人は互いに望んでいなかった。だから協力者として、また戦友としてかけがえのない相手になることができれば、それだけでよかったのだ。

「馬鹿みたいだね。月読がそれだけ久遠を想っても、あいつは君を同じように見ることなんてなかったのに」

 震える呼吸を懸命に抑え込む瞳子を見下ろしながら、庸汰が憐れむような微笑みを向ける。

「あいつが最後に呼んだ相手、教えてあげようか? あいつの大好きな義兄だよ。君じゃなかった。君にとって久遠は一番だったのに、久遠にとって君は一番じゃなかった」

 久遠が徐々に死に向かっていく様子を、直接にしろ式神越しにしろ、ただ眺めていたのか。救うこともせず、とどめを刺してやることもせず。双念の所業をその言葉から感じつつ、庸汰の笑顔を見つめる。

 けれども、瞳子は全く苛立つ思いは感じなかった。むしろそういう庸汰こそが憐れだと思った。

 彼はどうして、こういうふうにしか人の感情を捉えることができないのか。

「なぜ、最期に呼ばれなかったからといって、月読が風巻さんに負けているという理屈になるのですか?」

 真っ直ぐに見つめたまま問い返せば、庸汰の顔が微かに歪む。瞳子の言わんとしていることが全く理解できないのだろう。

「は? 最後に選んだのが一番大事にしていた人に決まってるじゃん。つまり君は選ばれなかった」

「久遠さんが風巻さんを大事に思っていたことは揺らぎません。だからあの方の名前を呼んだ。それは間違いないでしょう。しかしそれは、月読が大切にされていなかった、ということと同義にはなりませんよ」

 家族の情。恋人同士の愛情。友人同士の親愛の情。庸汰は恐らく、そういったものに優劣がつけられると思っている。それ故、久遠が末期まつごに呼んだ名を知れば、瞳子が傷つくと思ったのだろう。

 目の前の人物が何を思い、自分たちを傷つけ害そうとするのかがよく分からなかった。だからこそ恐ろしかった。

 だが、今なら少しは分かる。彼――いや、彼を支配している彼の前世は、子供と同じなのだと。

 偏った思想のもとで育ち、それだけが正しいと思って生きてきたのかもしれない。

 初めて出会った理解しがたい思想の持ち主が久遠で、受け入れることも真っ当に批判することも出来ず、ただ鬱屈した感情を溜め続け、それがやがて爆発した。理解できないものを拒絶し、気に食わないから消し去ろうとしたのだ。

 そう、純粋さから時に残酷な仕打ちをする、子供のように。

「月読は、好きだと久遠さんから言われたことも、月読から言ったこともありません。それでも、慈しまれているのを感じていた。貴方は、そんなものは久遠さんが騙そうとしていたからだ、などとおっしゃいましょう。しかし、『悪』のフィルターを通してしか彼を見ることのできない貴方よりは、私は月読の記憶を通して久遠さんをよく知っています」

 瞳子は凛とした表情で庸汰を射抜き、庸汰は顔をますます歪めて錫杖をきつく握りしめている。圧倒的に不利な状況に置かれているのは瞳子のはずであるのに、あたかも庸汰の方が劣勢であるかのように錯覚してしまう雰囲気。

「久遠さんは、自分を置いていく人の思いを引き受け続けていました。そうして自分から背負った、けれど途轍もなく重たいものの重量に潰れそうになったり、上手くいかない日々に喘いだりしながら、それでもしっかりと前に進んでいた」

 ――だっておれが始めたことだから、おれが終わらせなきゃならない。だけど……時々、自分の背負ってるものが酷く重たいって思う。動くことも出来ないくらいに。

 あの時の月読は、嬉しかった。久遠が不安を口にしてくれるのは初めてのことだったから。ようやく仲間の一員として完全に認めてもらったと思えた。

「何を分かったような口を……!!」

「月読も同じでしたから」

 苛立ちのために荒くなる語調にも、瞳子は淡々と返す。

 彼の正体が思い通りにならなくて暴れる子供だと分かってしまえば、もう必要以上に恐れることはなかった。

「重圧に押し潰されそうで、でも逃げ出すことを自分に許すことも出来なくて、苦しくてたまらなかったのは……月読もまた、同じでしたから」

 老若関わらず、巫女は日々死んでいった。そして強い者として託された。自分の代わりにきっと皆を守ってくれと。ひとつ、またひとつと。その願いは奮起のきっかけになると共に、気づかないうちに少しずつ月読の精神を蝕んで、擦り減らした。

 それに気づいてくれたのは、同じ苦しさを背負った久遠だけ。

 ふらつきそうになる足にぐっと力を込めて立ち上がる。高さが縮まり、より真正面から庸汰を見つめることができた。

 揺らがないその様子にか、彼は途端に鼻白んだ。

「それこそが間違いだと言っているのだ月読! 月読でありながら、自らの主観で巫女たちを巻き込んだ! 騙されているという可能性すら考えずに!! 妖怪は殲滅せねばならない。巫女にだとて人に害為す妖怪を許すなという掟があったはず。それを忘れ、ただ妖怪を愛したがために共生などという妄言を吐いた!!」

「――勘違いなさらないでください。騙していたのは、双念殿でしょう?」

 双念が久遠たちにしたことを完全に棚に上げた発言に、瞳子は初めて怒りの色を込めた目で庸汰を睨みつけた。

「ヒトに何度裏切られても、ヒトを信じようとしてくださっていた久遠さんを裏切ったのは、騙したのは、双念殿です」

 久遠に双念を紹介してしまった罪悪感は、月読から瞳子にも引き継がれている。久遠を思い出すたび、鶫と顔を合わせるたび、恐らく思い出しては苦しくなるだろう。

 それでも一緒にいたいから。それを苦にして鶫の傍を離れるなど、瞳子は絶対に嫌だった。鶫が愛おしくて、ようやく思いを交わすことができた喜びの気持ちが強いのはもちろん、まるで双念の思い通りになるかのようで。

「巫女の役目は、人々を守ることです。だからこそそれを脅かす存在は退治しなければならなかった。けれど、大切な人を慈しむことも、誰かを信じようと手を伸ばすこともできて……傷つけられた痛みや上手くやり遂げることのできない口惜しさを感じることも出来る彼らと、私たち人間たちとの間に、いったい何の違いがあったでしょう?」

 人間と同じように喜び、怒り、楽しみ、悲しんでいた久遠たち。その日常を勝手な理由で奪い取ったのは、人間だった。人間と共に生きようとしていた彼らを、人間側の掟が許さないからという身勝手さから殺した。

 それは、どちらが身勝手だったのだろうか。


「鬼になったのは、むしろ双念さんの方だったのではありませんか」


 言い放った瞬間、庸汰の周囲の空気が凍りつき、つい先ほどまであれほど饒舌だったのにも拘らず、沈黙が訪れる。

「ふ、あはは、はは」

 続いて漏れ出す、押し殺した笑い声。やがて哄笑へと変化していき、瞳子は不気味さを感じて顔を引きらせた。

「月読、お前がそこまで愚かだとは思っていなかった。私が妖怪どもと同じ……? どういう目を持てばそうなるのか」

 遊環がぶつかり合うたびに鳴る涼やかなはずの音が瞳子にはどこか濁って聞こえるほど、目前に立つ男の目は完全に据わっていた。

「問答をするだけ無駄だということを察することができなかった点は、私も愚かだったな。お前は月読に相応しい器ではなかった。それだけのことだった」

 言葉と共に法力の槍を投擲。瞳子は自らに霊力の膜を纏わせるようにしつつ、直前で何とか回避した。

「気が変わった。今世では久遠を先に殺すつもりだったが、やっぱりお前から始末する」

 間髪入れずに飛んでくる法力の攻撃を辛くも躱して、瞳子は手のひらに溜めた霊力を打ち出すことで反撃する。

「何度言えば貴方も理解するのでしょう? 私は月読ではありません、瞳子です。あの方ももう久遠ではありません、鶫さんです。もう、前世の誰一人この世にはいないのですよ。その点では貴方とて同じ。貴方には『双念』ではなく『水無月庸汰』として、この現世うつしよを生きる気はないのですか?」

 届かないことを半ば分かっていながらも、鶫が決して諦めることはないことを知っているから、彼女にもまた諦める気はなかった。

「お前の話を聞く義務はもうこちらにはない。ここでまた輪廻の輪へと還れ!」

 予想通り取りつく島もなく返され、躱しきれそうにもないほどの大きさの法力の球が飛んでくる。

 鏡が手元にない圧倒的不利。結界も間に合いそうにない。この狭い部屋の中では、退避できるスペースは限られている。

 せめてダメージを最小限に、と限界まで壁まで退いた瞬間。

「瞳子!」

 耳に馴染んだ愛しい人の声が聞こえた気がした。





 瞳子が庸汰と向き合っていたのとほぼ同時刻。

 手負いの者ばかりの山道は、焦る気持ちには追いつかずなかなか進むのが難しい。その上、雨脚が強くなってきている。ぬかるみに足を取られそうになりながらも、鶫たちは懸命に走った。

「ひな子ちゃん、見つかったものが何か鼎さんから聞いた!?」

「いえ、まだ聞いてないです……! 朝の出がけだったし、今日帰ったら詳しいこと聞こうと思ってて!」

 雨の音に負けないように言葉を交わし合う。

「ただ、じいちゃんはここ最近、あの人との戦いで何か使えるものはないかって蔵で探し物してたので、役に立たないものでは絶対にないと思います!」

 ひな子の言葉に頷きつつも、「瞳子」と気づけば呼んでしまいそうで、鶫はぐっと唇を噛みしめる。鈍色の空を時折見上げながら、仲間たちと共に神社の敷地内を全速力で駆け抜けた。

「じいちゃん! じいちゃんいる!?」

 玄関の引き戸を力いっぱいに開けつつ、ひな子が大声で鼎を呼ぶ。勢いに驚いたようにして彼は家の奥から姿を現した。

「ひな子、玄関は静かに開けなさいといつも――いったい何をどうしたんだ、朝比奈くんたちも……!」

 そして小言を口にしかけたが、尋常ではない鶫らの様子を見て何らかを察してくれたようである。

「細かいことは後から説明するから、前、何かを蔵で見つけたって言ってたでしょ!? 持ってきて!!」

「……分かった。とにかくいったん中に入りなさい。持っていくから。和香子わかこ! 皆にタオルを出してやりなさい!」

 何事かと同じように顔を表していた瞳子とひな子の母にそう声をかけ、鼎はまた奥へと引っ込んだ。

 急く気持ちを宥め、和香子が持ってきてくれたタオルでびしょ濡れの体を拭く。

 居間で待たせてもらいながら、たいした時間も経っていないことを分かってはいながらも、鶫は鼎が来るのをじりじりとした思いで待った。ひな子も焦れたようにしているし、宏基や透も表情は変わらなくとも空気が張り詰めている。誰もが同じ心情であることは明らかだった。

 間もなく、鼎のものらしい足音が廊下をこちらに向かって進んでくる。それを耳で捉えた鶫ははっとして顔を上げた。

「すまん、待たせたな。これだよ」

 鶫に差し出されたのは、漆塗りの箱だった。何かの術がかけられていたのだろうか、鼎が開けた時に解けたようで術の気配は感じないものの、印が記されたふだがかけられている。また、その上から更に古びた紐で封がされていた。

 自分に渡されるとは思っていなかった鶫は、思わず目を瞬かせて鼎を見上げる。

「恐らく……朝比奈くんたちの方が見覚えのあるものかもしれないと思ってな」

「え?」

 その言葉に更に目を瞬かせるも、状況から細かいことは気にしていられない。

「……分かりました、開けさせてもらいます」

 脆くなっている紐を千切らないよう注意しながら解き、紙をどけてから、両手でそっと蓋を持ち上げる。

「これ、は……」

 中に入っていたものは、確かに見覚えのあるものだった。

 宏基と透が小さく息を呑むのが分かる。

「……鏡……と、懐刀……」

 ――誰に預けるか様々な人たちを思い浮かべましたが……貴方に、預けたいのです。

 ――約束したろ。いつになるかは分からないけどって。

 久遠の最愛の人が、彼を信頼して預けた愛用の鏡。刀鍛冶だった久遠の義兄が、久遠のためだけに拵えた懐刀。

 死の寸前に掠め取られたはずのそれが、なぜか目の前に存在した。

「これ、誰の鏡なんですか?」

「……月読の。訳あって、久遠が預かってたんだ。死の直前まで」

 なぜこれがここにあるのか考えるのは後でもいい。鶫の言葉を聞いたひな子が何事かを考え始めた、それが一番重要だった。

「――月読と姉さんは魂が同じ……ってことは」

 ぶつぶつとひとりごちていたが、勢いよく顔を上げて鼎を見た。鼎もその表情から読み取り、頷いて見せている。

 彼女はそれを見て即座に立ち上がり、襖を勢いよく開け放つ。

「とりあえず、道場まで移動してください! 移動しながら話します!」

 その気迫に押され、鶫は頷きつつその後を追った。宏基と透もその後ろをついてくる。

「二人の魂が同じなら、所謂いわゆる『霊力の気配』も同じはずです。つまり、姉さんの鏡と月読の鏡は繋がりがある! それなら、巫女が移動に使う転移の術が使えるはずです!」

「つまり、月読の鏡を使って瞳子の鏡がある地点まで移動できるってこと!?」

「はい!」

 全力で走りながら道場に転がり込むようにして入り、中を突っ切っていくひな子を追う。突き当たりにあった引き戸を開け放ち、更に奥へ進んだ先には、陣が描かれていた。

「これは転移の術の陣なんです。これからあたしの転移の術で移動します。中に入って目を閉じて!」

 急いた口調に何を言う間もなく従って、鶫たちは陣の中へと入った。ひな子もすぐに入り、月読の鏡に手を置きながら何事かを唱え始める。術の前準備が始まったのだ。

 緊張しているのか声が固いものの、まるで歌のようにも聞こえるひな子の詠唱。それと共に陣が光り出しているのが目を閉じていても分かる。

「いきます!」

 詠唱が終わると同時に、今まで以上の光が迸る。眩しさを感じたと思えばそれは消え、聞き慣れた声が耳へと飛び込んできた。

「ここでまた輪廻の輪へと還れ!」

 瞼を開いたその時、鶫の目に入ったのは――法力の球と、それを向けられた愛しい人。

「瞳子!」

 総てを理解する前に、鶫の体は瞳子を救おうと動いていた。

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