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強い光を湛えた少女

 木霊する。そして、染み渡る。

 自分であって自分ではない存在の声が。胸が張り裂けそうなほどの悲しみと愛おしさが。

 ――ありがとう。

 もう消えゆくだけの存在というのは、あんなにも透明に微笑わらえるものなのか。

「鶫さん!! 鶫さんっ!!」

 繰り返して呼ばれる名前。沈んでいた意識が浮上していく。

 どんな時でも真っ直ぐに射抜いてくれる目が、まず初めに飛び込んできた。今にもこぼれてしまいそうなほどに涙が溜まっている。

「……、とう、こ」

 愛おしくて愛おしくてたまらない名を呼んだ瞬間、その人はとうとうぼろぼろと泣いた。その涙がひとつ、またひとつと降ってくるたびに鶫の意識は完全に覚醒していき、頭から霧が晴れていく。

「よか、った……! よかった!!」

 しがみつくようにしてくる瞳子の頬に触れてそっと撫でてから、ゆっくり上体を起こした。

 意識を失う寸前に透が放っていた業火が、変わらず煌々と辺りを照らす。内部の人間には熱が行かないように気を遣ってくれているようで、暑くはない。

 庸汰がその炎の壁を浄化しようとしているらしい。透はわずかに顔をしかめながらも、何とか維持させている。その傍らには支えるようにひな子がいて、二人とも鶫にほっとしたような視線を寄越していた。

 炎に阻まれて姿の見えない庸汰。彼に負わされた傷は、瞳子が法力を祓ってくれたためか徐々に癒えている。

 いつもよりは治癒のスピードがゆっくりであり、完全に塞がるまではまだ時間が必要そうであったが、それでも動ける。鶫は確認して大きく息をつき、立ち上がろうと足に力を込めた。

 慌てて止めようとするかのような瞳子を制止するかのように、別の手が伸びてくる。

「宏基兄、」

 鶫の傷口にそっと触れたその手は、生まれてから今までをずっと一緒に過ごしてきた幼なじみのもの。触れられた瞬間、傷は跡形もなく消え失せた。

 一連の動きを見ていた瞳子は眉を顰めている。見ることはできないが、自身も同じような表情をしているに違いないと鶫は思った。

 毒と薬は表裏一体。一流の毒使いはまた、一流の薬使いでもある。そんな彼にとっては、この程度の傷を癒すことなど確かに朝飯前なのだ。

 しかし、今の彼は、いつもの状態からは程遠いというのに。

 先ほどまで重傷だった宏基の傷は、血が止まって塞がり始めている。恐らく瞳子かひな子のどちらかが法力を祓ったのだと想像できた。

 しかし、戦闘で消耗した妖力や体力は戻っていない。傷の治りが遅いのが何よりの証拠だ。

 自分の傷を真っ先に治せばいいのに、そのなけなしの力を割く先が鶫の傷である訳など、分かり切っている。

「宏基兄。自分も大事にして。お願いだから」

 微かに怪訝な思いを映し出している群青色を見上げ、袖を掴む。

 ――今世では俺がお前を殺す。

 久遠たちが生きていた時代は、あまりにも死が身近だった頃。人死になど珍しくもなく、道端に死体が転がっていることも日常茶飯事。戦も多く、命の価値が今と比べて格段に軽かったのだ。

 しかし現代は違う。戦時中ではなく、人を殺すということは重大な罪である。

 双念に乗り移られ支配されているような庸汰も、法師である前に一人の人間で。彼を殺したことで、たとえこの仲間内の者たちが安寧を得られたとしても、これから先の宏基の人生はどうなってしまうのだろう。

「誰一人欠けずに幸せにならなきゃ、意味がないんだ」

 久遠が多くの代償を支払ってまで〈神〉に頼み、鶫たちに力を残したのは、全員で幸せになることを望んだから。もう一度、今度こそ、何の憂いもなく幸せになるためだ。

「ぼくたちが勝って……ううん。ぼくたち『で』勝って、それで終わりにしなきゃ駄目なんだよ」

 何を以て勝利とするのかはまだ判然としないけれど、それでもここで気持ちがばらばらになっては、戦う前から負けてしまう。

 後ろから瞳子の手が肩に乗せられる。宏基の目が微かに揺らめいた。

「一人でなんて勝てやしないんだってこと、自分だけを信じて戦うことなんてできやしないってこと、証明しよう」

 久遠が信じたのは、結局のところ己だけだった。「一本道しかない」と思い込んだのは、そういうこと。だから負けた。

 でも双念も、果たして勝てていたのだろうか。こんなふうに次の世にまで続く呪いを遺すほど執着して、自分一人で歩み続けて、それで彼は本当の意味で『幸福』になれたのか。


「――もう、『水無月庸汰』から、『双念』を解放させてあげたい」


 甘いと言われようとも、「皆で幸せになる」ことから、庸汰を省きたくはなかった。

 瞳子の手に力が籠っているのが分かる。鶫の鼓膜を微かに揺らした息を呑む音は、戸惑いの表れ。

 目の前にいる宏基もまた、呆気にとられたような表情をしていた。

 それにただ笑みを向けることしかできない鶫は、まじまじと見つめてくる幼なじみに大きなため息を吐かれてしまった。

「……、お前は、ほんとに……」

 それから宏基は頭を掻き毟りつつ炎の向こうに視線を向ける。

「じゃあ、その『シアワセ』とやらになるために、どうするんだよ」

 「皆で幸せになる」ために、できること。

 エゴかもしれない。いいや、庸汰が望んでいないだろうことを望んでいる時点で、きっとそうなのだろう。

 だとしても。

「ぼくらの前世の誰一人として、もうこの場にはいない。ぼくらは生まれ変わりであってそのものには決して成り得ないし、前世たちもぼくらにはなれない」

 ――おれが遺してしまった業があるままの形で輪廻に戻るか、それとも断ち切れるか。それは、やっぱりお前たち次第だ。

 久遠は見守ってくれていたけれど、それしかできない。立ち止まるのも進むのも、選ぶのは自分だから。

 選ぶのは自分だというあの言葉に、ずっと励まされていた。背中を叩かれ、前へ前へと押し出されていくような、そんな気でいた。

「つまり庸汰は双念じゃない。ただの『水無月庸汰』として生きてほしい。ぼくらもそうしなきゃならない。どうしたらいいか分からないけど、そのための方法を探したい。もう、前世を言い訳にするのはやめたいし、やめさせたいんだ」

 まっさらに生まれて日々を積み重ねていく『普通の人』にはもう二度と戻れない。故に、前世を基準に選びそうになってしまう。前世の自分ならどうしたか。前世の自分ならきっとこうしただろう。そんなふうに考えて。そうすれば楽で、悩まないでも済むから。

 だがそれは言い訳ではないのか。前世に責任を転嫁して、悪い結果になっても自分たちのせいではないと、そう思いたいのではないのか。庸汰に限った話ではなく、鶫たち皆。

「もう死んでしまった人に責任を押し付けるのは、卑怯すぎるから」

 同じであって同じではないことは、自分たちが一番よく分かっている。

 鶫を見つめる宏基も、未だ肩に手を置いたままの瞳子も、炎の維持に努めている透も、鶫が言うまでもなく本当はきっともう分かっている。

「ぼくらはぼくらでしか、ないんだから」

 久遠たち前世の、死んでしまった妖怪たちの人生ではなく、鶫たち今世の、『今を生きている人間の』人生なのだから。

 ――もう一度だけ、約束してください。簡単に人間としての生を手放すような真似はしないと。

 ――絶対に誰にも身代わりにさせたくない。

 瞳子の想いを受け取って、久遠の思いを聞いて、それでようやく気づくなんて、遅いのかもしれない。しかし、たとえ遅かったとしても、気づかないまま進むよりはずっといいと信じたい。

「――ひとつだけ、方法があります」

 数瞬の沈黙が流れた後、不意に瞳子が言った。

 振り返ると、微笑んでいるような、それでいて苦渋に歪んでいるような、複雑な表情を彼女は湛えている。

「……瞳子? 方法って、」

「庸汰さんから双念殿の意識を永遠に引き剥がす方法です」

 瞳子の言っていることの意味がよく分からず、鶫は目を瞬かせることしかできなかった。宏基と透も同様のようで、怪訝そうな様相を浮かべている。

 ただ、瞳子と同じく巫女たるひな子だけが、「まさか」と小さく口を動かしたのが見えた。

「魂とは、すなわち精神、心を指します。今の庸汰さんは魂が双念殿に支配されている状態。それは間違いないと思うのです」

 変わらず炎の壁を消そうとしているようで、法力が煌々と輝いている。それをじっと見つめて、透を補助する結界を張りながら彼女は語る。『たったひとつの可能性』を。

「一か八かの賭けです。庸汰さんに新たな意識が生まれることに賭けて、双念殿の意識ごと魂の一部を引き剥がすのです」

「え」

 今度は驚きから声が上手く発せない。

 しかし、その間も彼女の言葉は続く。いつものように強い光と瞳に宿し、鶫を真っ直ぐに見つめて。

「魂の質が変わり、もはや彼は以降の転生において、『双念殿と同じ魂を持つ存在』ではなく、双念殿とは完全に別な存在となります。……確実に終わらせられる代わりに、実行は難しく代償が大きい。これが正しい方法なのかどうか、私には分かりませんが。でもそれでも、その咎を負う覚悟さえあれば、これが勝つためにできる最善の方法なのではないでしょうか」

 ――敵対心を持ってる相手が、もしかしたら変わるかもしれなくても?

 ――変わらないかもしれない。その結果が分かるときは手遅れかもしれない。

 瞳子に視線を返しながら、あの日交わした言葉が耳に蘇る。

 ――どっちかが許されないんなら、もう片方も許される道理はねぇさ。

 道理がないのに、それでも進むことを選ぶのならば。その結果は、咎は、自分自身で負わなければならない。風巻はきっとそう言いたかったのだろうと久遠は心の内で分かっていたし、鶫も分かっている。

 を踏みにじってでも進もうとするのは、自分たちと変わらない。久遠が手にかけた雨女はそう言ったけれど、全くその通りだ。同じだったのだ、久遠も結局は。人間を手にかける妖怪たちと何も変わりはしなかった。

 夢物語のような綺麗事を吐き続けたのは、美しく在りたかったから。お綺麗でいたかったから。

 だけど久遠が綺麗でいようとするたびに、汚れを背負おうとしてくれた人がいて。気づいていたくせに、見て見ぬふりをし続けた。それがあの最期へと繋がったのなら、もう二度と繰り返すわけにはいかない。

 誰にも身代わりに背負わせることはしないように。

「その方法を、選ぼう。でも、瞳子一人に全部の代償を負わせたりしないよ」

 冷えた右手と、まだあたたかい左手の両方を取り、ぎゅっと握る。

 誰も喪いたくない。ようやく想いを通じ合わせることのできた相手ならなおさらだ。

 喪わないためには戦わなければならず、なおかつ勝たなくてはならない。

「責任転嫁したくないってさっき言ったけど。もうひとつ願いがある。そしてそれはきっと、ぼくじゃなくても……そして記憶のあるなしにも拘らずに、皆同じことを思ってる」

 目を瞬かせる瞳子に微笑んでみせてから視線を移動させ、宏基、透、ひな子と順に視線を動かしていく。

「一人きりに総て背負ってほしくないし、背負わせたくないんだ」

 背負い込んでしまおうとしている人が、どんな形であれ大切ならば当然のこと。

 真っ先にひな子が同意するように頷く。

「一人で背負うのは、たとえ美しく見えても……間違ってるよ」

 鶫たちがとる行動のひとつひとつ、前世の繋がりの外にいる彼女の目には異様に映っていたものがあったのかもしれない。

 そんな彼女だからこそ分かること、違和感を覚える物事がある。先ほど庸汰に向かってひな子から放たれた言葉は、鶫たちの誰にも言えなかったように。

 記憶や前世からの絆があるが故に犯してしまう間違いは、両方を持ち合わせていないひな子がこうして正してくれる。

「……オレも同意だね」

 彼女の反応から更に数拍置いて透が呟き、やがて宏基も小さく首肯した。

「ね、瞳子。皆、こう言ってる。君ならできるでしょ? 自分一人だけで代償を背負わないように」

 ここに居る者で、欠けていい人、不幸になっていい人なんて、一人もいないから。

 空白の時が流れる。ややあって、瞳子は鶫の手を握り返した。

「そう、ですね……そう、でしたね。また同じことをしては、いけませんよね」

 己に苦笑をこぼして、瞳子は場の人間総ての顔を見渡す。

 鶫は手をしっかりと握ったまま、彼女が続きを紡ぐのを待った。

「魂を変質させるという大きなことなので、代償はそれと同じぐらい大きなもの――そうなれば、今の私たちに差し出せるそれに相当するものといえば、寿命です。それでもよろしいですか」

 瞳子の手が、微かに震えていた。

 命を失くすわけではないとはいえ、寿命が削れるというのは確かに大きなこと。自分のことなら我慢できても、周囲もその条件を背負うとなったら、怖くて普通なのだ。

「……全員で背負えば分散されるでしょ。死ぬわけじゃない。寿命が短くなったとしても、その分濃く一生を過ごせばいいだけだよ」

 透も気づいたのか静かに告げる。

 いつでも冷静で、人をよく見ていた玻璃。その部分を透はよく引き継いでいるけれど、大きく違うところがある。

 玻璃が冷静だった所以は、彼女が経験してきた出来事によって形作られた、一歩引いて眺めることしかできない気質のせいだった。それを悔いたかのように、透は踏み込むのを恐れずに進んでくる。

 玻璃――そしてその生まれ変わりの透もまた、後悔を繰り返さないための道を選んだ。

 震えごと包み込むように、改めて手に力を込める。

「うん。ぼくもそう思うよ」

 鶫もそういう道を選ぼうとしている。瞳子にも、やはり選んでほしい。

 宏基とひな子を見ると、彼らも全く揺らいでいなかった。

 誰一人として動揺しなかったのを確認し、瞳子の中でも芯が定まったかのように、目の揺らめきが止まった。

「失敗は許されませんし、そうそう何度も使える術ではありません。庸汰さんの意識を失わせなければならないというハードな前提条件もあります。そうなれば恐らく、チャンスは一度」

 ご協力お願いします、という台詞に一斉に頷き、改めて立ち上がる。

「……透、十秒後に炎を消して」

「了解」

 好き勝手され放題だった戦いに、終止符を。


 反撃が、始まる。

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