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支柱を奪われた少年

 自分の目から流れるものが、天から降り落ちる涙と重なって散っていく。

 憎い。憎い。憎くてたまらない。

 憎悪は鶫の中で果てどなく、ざわざわと広がって強烈に燃え盛る。

 彼は今持てる総ての妖力を注ぎ込んだ右の爪を振り下ろした。錫杖を構えながらも、この状況でもなお薄い微笑みを刷いている男に向かって。

 誰よりも幸せになってほしくて、大切でたまらなかった人を奪われた。一度ならず二度までも。

 一度目はあの日、永遠に別れた夜明けの時。もう二度と会えないと、身を引き裂かれそうなほどの痛みを感じた。

 そして二度目は今日。奪われたことも、いやそれどころか出会ったことさえも忘れ去ってしまっていた。そのせいで、再びの喪失の痛みと、忘れ去ってしまっていた罪悪感のために生じる痛みを味わわされた。


 久遠と鶫にとって、風巻は二度殺されたのだ。


 法力を纏った錫杖と妖力が込められた爪のぶつかり合う派手な音が、激しい雨音を割る。

 瞬きひとつの後、一度間合いを取るように二人は下がった。

 鶫の手は法力のために火傷を負って爛れている。しかし、庸汰の持っていた錫杖も無事では済まず、粉砕されて周囲に飛び散っていた。庸汰はその破片を被ったのか、大小様々な傷を負ったようである。

 庸汰の血が、雨で流されるのにも負けぬほどの勢いで地面に滴り落ちていく。

「お兄さんの名前ひとつでそんなに荒々しくなれるんだ。すごいねー、鶫くんって。そんなに大事だったんだ? それなのに忘れちゃったんだ? 辛い? 悲しい? 苦しい?」

 怪我を気に留める様子もなく、庸汰は相変わらず楽しそうに笑っている。鶫が怒り狂う様子を眺めて楽しむかのように。

「黙れ!!」

 鶫はそれを見ながらも声を荒らげ、変化へんげをますます強めようと精神を集中させた。

 足りない。こんなものでは足りない。足りやしない。

 鶫の頭の芯から何かが強く訴えかけてくる。

 その声は久遠なのか。それとも鶫自身の思いなのか。

「絶対に許さない、絶対に!! お前だけは!!」

 風巻の妖気が消失した時の絶望。月読の優しい微笑みをもう決して目にすることはない、そう悟った喪失感。腹心の部下たちを慈悲なく殺した憤怒。

 透が血の海に沈んだ日の激情。瞳子の白く美しい肌にはあまりに不似合いな赤黒い痣が、彼女にかけられた呪詛だと知った焦燥。既に重傷の宏基の頭を踏みつけ、今まさに槍で突き殺そうとしていたのを見た衝撃。

 さきの世とうつし世の記憶が複雑に絡み合う。鶫の頭の中でぐるぐると回る。

「へえ。で、許さないなら、どうするの?」

 こちらに向けられているのにもかかわらず、鶫の姿など決して映していない瞳を真正面から射抜く。

 彼が幾度鶫に問い、答えを聞いたところで、彼と鶫の意見が交わることなど恐らく永劫にないのだろう。前世に囚われることを望み、『前世そのもの』の目で鶫たちを見つめるそのまなこに、真の意味で『朝比奈鶫』が映ることも。

 だからこうして鶫から支柱を奪い、壊そうとする。憎くて憎くてたまらない『久遠』を殺すために。

 だったらそのような企みは、今世では阻まなければならない。

 ――今度こそ、おれは、ぼくは、守り抜くべきなんだ。

 跳ね上がった妖気は、鶫が今にも完全な変化へんげを遂げようとしていることを示していた。それを悟った庸汰は、錫杖を失っているからか手で結界の印を結んでいる。

 全身に力がみなぎり始めた。『久遠そのもの』の力を手にし、妖力を総て爪へと注ぎ込まんとした、その時だった。

「鶫さん、やめてッ!!」

 後ろから柔らかくあたたかい感触が訪れ、強い力で引っ張られる。

 瞳子によって抱きすくめられたのだと気づくまで、然したる時間はかからなかった。

「――――、とう、」

「約束を思い出してください! 自分を手放して、それで総て終わりにしてしまっては、この人の思う壺ではないですか!!」

 鶫の腕を掴む彼女の手は、震えていた。

 あたたかさを染み渡らせ、脳を繰り返し揺さぶって、彼のことを誤った道から連れ戻す手。

 思い出せ。立ち止まれ。目の前には一本道しか存在しないわけではないことを知ったはず。いくらでも選び取ることはできると、悟ったはず。

 幸せだと思った瞬間は何だったのか。大切にしたいと思った瞬間は、何だったのか。

 ――未来は、決まってなどいないのですから。

 風巻、と頭の中で何度も響く声。鶫の中にいる久遠。

 久遠が真に望んでいたものは何だったのか。風巻を喪った時に悟ったはず。彼がその命を散らせる時、引き換えにようやく思い知ったはず。


 ただ、大切な人たちと優しい時間を積み重ねていけたら、それでよかった。


 それをまた忘れ、愚かなことを繰り返すのか。自ら自分の一番の願いを壊してしまうのか。

「……、そうだね」

 未来は選べるもの。死した久遠にできず、生きている鶫にできることは、自分の進む道を選ぶこと。鶫にとって、そして鶫の周りにいる人たちにとってよりよいと思える道を選んで、前に進んでいくこと。

 だとしたら。破滅へと向かうことが分かっている未来を、選ぶ必要もないのに選ぶのは、愚かだ。

 跳ね上がりかけていた妖気が収束していく。

「ごめん、瞳子」

 間違えそうになる鶫を押し留め、導いてくれようとするのは、いつだって瞳子の手のあたたかさ。

「……また君に助けられた」

 彼女の手に、自らの手を重ねる。体温が混じり合って、思いもまたひとつになる。

 瞳子はほっとしたように表情を緩め、ゆっくりと首を振った。そんな彼女に笑みを向けてから、庸汰に向き直る。

 二人の指は、自然に絡まり合っていた。

「……お前の思惑に嵌まるのは、前世だけで充分だ。辛さも、悲しさも、憎しみも、ぼく自身の感情だ。お前の勝手にはさせない。煽られて踏み荒らされてたまるもんか」

 挑発と分かり切っている言葉に乗せられて、大事にすべきものを見失うところだった。

 伝わってくる優しい温度は、考え直させる。約束を交わしたあの日と同じように。自分が大切にし、守らなければならないものは何なのか。

「ぼくにだって受け入れられないものはある。たとえばお前の考え方がそうだよ。でもだからって、それを破壊することが許されるはずない」

 どこか苦虫を噛み潰したような表情をしている庸汰を真っ直ぐに射抜く。

 愛おしく感じ、そして鶫を愛おしんでくれる人である瞳子を捨て、今まで総てを賭して守ってくれた宏基を置き去りにし、大怪我を負ってまでも負の連鎖を防ごうとしてくれた透を裏切り、自分たちのために叫んでくれたひな子を突き放してしまったら――形が違ったとしてもそれは、双念の行動と同じことだったのではないか。

 そう悟ったから、鶫はその道を決して選ばない。


「世界の総てを守りたいなんて、もう言わない。自分のごく身近にある大切なものを守れないで、あまつさえ自ら壊そうとするなんて、救いようのないクズだ。ぼくはそんなものに、お前と同じような存在に、二度とならない」


 言葉の余韻が消え入らぬうち、閃光が視界を奪った。

「つぐみ、さ……!!」

 瞳子の悲鳴のような呼び声が鼓膜を揺らしたのだけが、定かな感覚。

「……よくよく考えたら、何で妖怪の話になんて耳傾けてたんだろ。さっさと殺せばよかった。失敗だなぁ」

 鶫の脇腹を深く抉っていった法力の槍が消失していく。

 不意打ちの攻撃は、瞳子を守り急所をぎりぎり避けることで精一杯だった。

 宏基とひな子が自分を呼んでいる。結界代わりとしてか透の放った業火が四囲へ広がる。

「鶫さん! 鶫さん!! 鶫さんッ!!」

 だが、一番鮮明なのは、確かだと言えるものは、瞳子のその叫びと、勢いよく出血する傷口を必死で押さえ、法力を払ってくれる感触だけ。

 身体が地面に崩れ落ちていくさなか、鶫は今注げる限りの力を以て、口角を思い切り持ち上げた。

「……ぼくは、しなない……おまえの、おもいどおりになんて……なにひとつ、ならない……!」

 薄れていく意識と激痛の中、なぜか鶫は確信していた。自分は決してこの場で死ぬことなどないと。

『鶫。鶫――』

 それは、自分のものであって自分のものではない、馴染み深くも異質な、あの声が鶫を繰り返し呼んでいるからかもしれなかった。

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