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夜半の御伽草子-化ケ猫ト桜ノ君ノ巻-  作者: 汐月 羽琉
白昼ト夜半ノあはひニテ
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朝ぼらけに佇む

 男の目には、鋭い爪を以て切りかかってくる少年の動きが、酷くスローモーションにゆっくりに見えていた。

 かつて自分の前世が殺した妖怪の生まれ変わり。どれだけ憎んでも憎み足りなかった、いや、憎み足りない相手。

 男の前世――双念は、より効率的に苦しめるために、少年の前世――久遠から手足とも言える者たちを一人一人()いでいった。それはもう、執念とも呼べる陰湿さで。

 だが男にとって、それは当然のことのように思えた。

 どうしてこれほど憎いのか。なぜ、殺さなければ何も解決しないように思えたのか。

 遠い遠い記憶が男の頭の隅を掠めていく。

 ――かおる。そちらに行ってはなりませんよ。

 桜の花びらが舞い散る中に佇む巫女がいる。彼女もかなり若いが、傍にいる馨と呼ばれた巫女はまだ十にも満たない。よくて七つ八つほどだろう。年上であろう巫女の、恐らく妹分のようなものであるに違いない、と男は思った。

 年長の巫女は、野兎を追って樹海の方へと向かおうとしていている妹分の肩を掴んで引き留めている。無理もない。その先は、雑魚から最上級まであらゆる妖怪が蔓延っている土地だった。

 ――月読さま、でもうさぎが。

 ――大丈夫です。エニシは繋がりました。きっとまた会えますよ。

 巫女とは言えまだまだ幼い子供には引き留められたことに納得がいかなかったと見える。しかし年長の彼女は、不満げに見上げてくる幼子の頬を撫で、優しく微笑む。

 十二、三歳、もしかすると十をようやく越えたか否かかもしれないだろうと予想される彼女は、そのあどけなさとはあまりに似つかわしくないほどの強い霊力を保有していた。それが彼には分かった。何故なら彼自身、徳を積んだ高僧と変わらないほどの強大な法力を保持していたから。

 しかし、その第一印象と広がっていた光景だけなら、男の心にも然したるひっかき傷を残してはいかなかったかもしれない。

 ――双念殿。如何なされたか。

 仲間の呼びかけに何もないと首を振りかけたその時、馨の悲鳴のような声が辺りに響く。

 ――月読さま!

 思わず振り返ると、そこには狗のようなヒトのような不気味な顔をし、体は鳥のような形をした大きな炎の塊――ふらり火がいた。

 炎の化身であるその妖怪は、ゆらゆらと奇妙に体を揺らしながら一気に巫女たちの方に近づいていく。狙いは月読なのだろうが、馨も諸とも殺そうとしているのがいかにも妖怪らしいと言えた。

 月読は慌てることなく守るように馨の前に立ち塞がる。そして懐から鏡を取り出して敵に対峙した。売られた喧嘩を真正面から受けるつもりなのだ。

 それを目にした男は仲間たちと目線を交わし合った。助太刀に駆け寄ろうとしたところで、閃光が煌めく。

 驚いて息を呑み、墨染の衣を翻して袖で覆いを作った。爆風が吹き荒れ、轟音は腹にまで響く。

 男にさえ何が起きたか理解できず、しばらくその体勢のまま動けなかった。

 ――妖怪風情が。私に喧嘩を売るなど、数百年……いえ、数千年早い。

 現実に引き戻したのは、冴え冴えしく、そして凛とした声。

 つい数瞬前まで気色の悪い動きを見せていたふらり火の姿は跡形もなく、その代わりに、確かにいたはずだった辺りの地面が黒く焼けついている。

 放たれた霊力の名残できらきらと輝いている鏡面には、地から上がってくる煙だけが映し込まれていた。

 その時、ようやくあちらも男たちの存在に気づいたらしい。馨の背中に手を置いて自分の動きに倣わせながら、深々と頭を下げた。その可憐な顔にはあまりに似つかわしくない、頑強な意志が見え隠れする瞳をこちらに向けながら。

 その『意志』は、男の中にあるものと同じだった。


 揺るがしがたいほど強烈な憎悪。


 ああ、と彼の胸の中で何かのつかえが取れた気がした。

 自分だけではない。そうではなかったのだ、と。

 ――双念。妖怪を決して生かしておいてはならぬ。殲滅し、二度と我らの目に入らぬようにせねばならぬのだ。妖怪は殲滅すべし。そして妖怪と手を携える人間も、許してはならぬ。

 その頃にはもうこの世にはいなかった師僧の声が耳を掠めていく。

 月読。そう呼ばれるに相応しい霊力と、痺れるほど強い憎悪を見せた彼女に、男の視線は釘付けとなって離れなかった。

 理想だった。凛々とした立ち姿に、決して惑わぬ心、真っ直ぐに総てを見通す目。

 理想だった、のに。

 ――久遠さん。

 呼びかけに振り返るのは、『久遠』と呼ばれた人物。柔らかい雰囲気を纏い、優しげな微笑みを浮かべ、月読を迎え入れる。

 男には信じられなかった。目の前にある状況が本物であるなどとは思いたくなかった。

 肌を刺す強大な妖気。ゆらゆらと揺れているふたつに分かれた尾と、ヒトの形をしていない耳。百年以上前、仲間たちが滅ぼしたはずの猫又の里の長が代々継ぐのと同じ名。

 それらが示すものは明らかだった。


 数年ぶりに見かけた、妖怪に対しあれほどの憎悪を湛えていたはずの月読は、妖怪の傍で笑っていたのだ。


 ――徳の高い法師さまが、おまえは修行をすれば相当に誉れ高い存在になれるとおっしゃっておる。うちにはおまえのように体が弱うてろくに働けぬものを置いてはおけんのじゃ。分かっておくれ。

 ――双念さまは確かに優秀だ。しかしあれほど苛烈な意見にはどうにもついていけぬ……ヒトさえも殺めねばならぬなど。妖怪はあくまで『退治』だからよいが、不殺生戒はどうするのだ。

 ああ、耳元をよぎる有象無象の羽音が鬱陶しい。

 理想だったのに。自分だけではないと思ったのに。

 ――久遠さま、またお一人で抜け出して……! 一言残してくださいっていっつも言ってるでしょうが!!

 ――寒露うるさいわよぉ。何でそんなぎゃあぎゃあ騒ぐのよ、久遠さまは耳がいいんだからもっと小さい声で聞こえるわ。

 ――悪かった、悪かったって。だからあんま怒鳴るなよ。ごめんね月読、騒がしくて。

 楽しげに笑い合う中心には、久遠がいた。

 ――いえいえ、賑やかで楽しいです。

 『清らかな巫女』はその隣に立ち、穏やかに笑み、瞳に久遠だけを映している。

 ――双念さま。月読さまは、妖怪との共生を目指すと言ってこの辺りの巫女を説得なさったそうにございます。

 共生などと、と男は鼻で笑った。

 ――初めまして。そちらこそ、月読から聞いてた通りだよ。穏やかな人だって。

 何の邪気もなく笑顔を向けてくる、間抜けな妖怪。

 月読の掲げた大層な大義名分は、美しいものでも何でもない。ただ妖怪を愛したがために、妖怪と生きようと思っただけ。

 妖怪を許してはならない。妖怪と手を携える者も許してはならない。妖怪と共生することなどできるわけがない。ましてや根絶すべき存在である妖怪と愛を交わすなど、許されるはずもない。

 憎悪の炎は、男の中でどうしようもないほどに膨らんだ。

 降りしきる雨の中に桜の花が舞う。

『やめて。殺さないで。その子が何をしたっていうんだよ!』

 頭の片隅で響く声は黙殺し、錫杖を構える。

 今まさに自分に襲いかかろうとする猫又を吹き飛ばすために。

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