愛しさは時に刃へと
泣いて泣いて、もう一滴も零れず、しばらく動けなくなるぐらいまで泣いた。
脱力して地面に横たわり、上空に広がる美しい群青色と、そこに散りばめられた金色に目を留める。
その瞬間、我に返った。
――久遠サマ。
――久遠さま。
同じ色の瞳を持つ部下たちを思い出したから。
そしてそれに引きずられるようにして次々と浮かんでくる仲間たちの顔。
止まっていた時が動き出すのを感じつつ、勢いよく上体を起こす。今の今まで自分のことだけに没頭していたことを罵倒して、勢いよく駆け出した。
第一幹部たる人がこの世を去ったばかりだというのに、おれまで本拠地にいなかったら、団員たちはどれだけ不安に思うだろうか。そんな簡単なことにさえ、他のことに囚われて思考が至らないなんて。団長失格だと言われても仕方がない。
いつもの数倍の速度で本拠地までの道のりを駆け抜け、敷地へと足を踏み入れる。
すると、薄ぼんやりと庭の辺りが光っていた。柔らかくあたたかい色が淡く照らしている。明かりに引き寄せられる虫のようにして、そちらに自然と足が向いていた。
「……玻璃、寒露……」
縁側に腰かけていたふたつの人影は、呼びかけに反応してゆっくりと立ち上がる。
「お帰りなさい、久遠さま」
見たこともないほどに憔悴しきった様相で、玻璃が笑って言った。表情の抜け落ちてしまった顔で、寒露が無言のまま見つめてくる。
二人の様子を見れば、おれが出ていったのを分かった上で一人にしてくれたのだと察することは容易かった。きっと彼らだけでなく、他の幹部も。だからあれだけ無防備だったおれを、法師たちにしろ敵対する妖怪たちにしろ襲ってこなかったのだ。
護るべき者たちに護られたことを後ろめたく思うけれど、同時にとてもありがたいとも思う。
おれは何と優しい仲間たちに囲まれているのだろうか。
「ただい、ま……」
絞り出して、更に距離を詰める。
二人もおれに近づいてきて目の前で立ち止まると、それぞれ手を片方ずつ取った。少し驚いたおれの反応を見つめ、しっかりと握ってくる。
あたたかい玻璃の手と、ひやりと冷たい寒露の手。正反対なのに、どちらも泣きたくなるぐらいに優しい温度だと思った。
しばしの間、誰も何も言わなかった。
「久遠さま」
だがその静寂を破り、玻璃がおれを見上げてくる。
「……ん?」
「風巻と約束したんでしょう? 紅葉狩り、行きましょう。弔うためにも」
彼女の眼に炎が映り込んでゆらゆらと揺れているように見える。だが、その頼りなさげな揺らめきに屈することのない一本の芯のみたいなものが、玻璃の中にはしっかりと存在しているとも思う。それを教えてくれるのもまた、彼女の眼だった。
「月読から聞きました。約束していたこと……」
月読の真剣な眼差しを思い出して、少し胸が苦しくなる。
あのときは風巻の名に引きずられるようにして頷いてしまったけれど、正直おれの中には迷いが生じていた。
今あの紅色を目にしても、喪ってしまった人を思い出して苦しいだけにならないだろうか。何よりも、大切な人がいなくなった直後に紅葉を愛でようなどと考えていいのだろうか、と。
事実、つい先ほどまで楓の群生にいたけれど、苦しくて苦しくてたまらなかった。
これは逃げなのだろうか。頭の隅をよぎっていった考えを、おれには否定することができない。
「行かない方があいつは怒るんじゃないですか?」
その時ふと、思考を見抜いたかごとく寒露が呟いた。
おれの表情や所作から、風巻はいつだって考えていることをいとも簡単に読み取ってみせた。そんな義兄を思い起こさせる台詞に驚きはしたが、すぐ納得する。
たとえ風巻ほどではなかったとしても、寒露もまた、おれとたくさんの時間を共にしてきた。何を思っているのかを読み取れたところで、別におかしくなんかない。おれが寒露の考えていることを何となく理解できるのと同じように。
おれという存在は、決して風巻だけに形作ってもらったわけではないのだということを忘れてはならない。
「……そうだな。うん。行くよ、大丈夫」
二人の手を握り返し、小さく笑う。上手く笑えているかは分からなかったけれど、それでも本心からの笑みだった。
「大丈夫。おれは生きるよ。生きなきゃならないんだ」
――お前だけの責任じゃない。生きて約束を果たせなくてごめん。生きろ。
風巻の遺言だから、ということだけではない。自分自身のため、そして目の前にいる人たちのためにも生きなくてはならないと思う。皆を負ったからには、最後までそのまま歩き続けなければならないのだから。
「挫かれたりしない。おれは、負けない」
言葉に変えることで彼らを安心させつつ自分にも言い聞かせる。
二人を引き寄せて、ぎゅっと力を込めた。
玻璃を団に迎えた直後、二人が言い争いをした時にもこうして抱きしめた。でも、あの日と今は色々なことが大きく違う。
たとえば、この二人の間にこんなにも柔らかい空気が流れていることを想像できた人は、恐らくそういないだろう。
抱くものが何もかも違う者たちが、こうして分かり合って、仲間でいられる。絆を結べている。
おれたちから誰が何を捥いでいったとして、積み重ねてきた時間は誰にも奪えやしない。
「――思いを曲げたりなんて、絶対にしない」
寒露と玻璃は、おれの腕の中で牢として頷いた。
胸の内にあるものはそれぞれ違うが、掲げているものはひとつ。風巻がこの世を去っても、誰も諦めようなんて思っていない。むしろ思い半ばで逝ってしまった風巻のためにも叶えなくてはならない。
「心配かけて、悪かった……」
もう一度彼らが頷いたのを確認してから体を離す。二対の目に再び笑ってみせ、肩を叩く。
「戻ろう。しっかり寝て、しっかり食べて……しっかり生きないと」
進めていた歩を一度止めて振り返ったら、二人はようやく少しだけ口元を緩めた。
「……はい」
綺麗に揃った返事をくれながら。
風巻の死から数日後。やっと以前に近い落ち着きを取り戻し始めた団員たちにも背中を押されるようにして、おれは紅葉狩りへと向かうことになった。
「寒露、玻璃……久遠さまのこと、お願いね」
「分かってる。居残り組こそ気をつけろ」
見送りに出てくれていた雪水の台詞に寒露が頷く。玻璃はその数歩後ろに立ちながら、そんな遣り取りを見ていた。
前日の晩に話し合い、雪水、黒鉄、鈴菜という防御も攻撃も釣り合いのとれた力を持つ三人を残し、寒露と玻璃を護衛という形で伴うことになっている。
風巻が逝ってしまったばかりのこの状況で、月読と二人で行こうとはおれも流石に考えていなかった。寒露と玻璃が一緒に、というのは全くこちらにとってもありがたいことである。
「大丈夫。日暮れ前にはこっちに戻ってくるよ」
不安げに見てきた雪水に笑顔を返した。
心配してもらえるのは素直に嬉しい。そっと背中を叩くと、彼女は小さくながら首肯をくれた。
「じゃあ行ってくる」
それを確認してから一歩下がり、片手を挙げた。
「お気をつけて……!」
「皆もな」
深く一礼した雪水に微笑みを残し、まずは社の方角に向かって駆け始める。そこで一度月読と合流することになっているのだ。
「遠目から見ても綺麗に紅いですね……」
傍を走る玻璃が目的地の方を見遣りながら言う。
「……そうだな」
燃え盛るような紅に胸が痛んだけれど、懐かしさも湧いて少し笑う。
寒露は何も言わなかったけれど、そういうおれを気遣うように視線を向けてきているのは分かった。
「区切りをつけようもなくても、今日で一区切りにする。忘れたりなんかしないけど、……囚われるのは違うと思うから」
誰に言うともなしに呟く。
たくさんの大切な人を喪っては、身を裂かれそうなほどに苦しんだ。それでも歩みを止めることはしなかった。
生きている者は、何があっても生き抜かなければならない。自分の命が尽きるまで、逝ってしまった人たちに報いるためにも。
伴っている部下二人の視線を感じながら、社への道のりをたどる。流れる無言の時は、彼らが何を言うべきか考えているのだろう。
「久遠さま?」
柔らかな呼びかけに振り返ると、淡く微笑んだ玻璃がいつもの調子で科を作っていた。
「あたしは貴方に惚れたから此処にいるんですよぉ? 貴方がいなくなったら、あたしがここにいる意味はなくなっちゃうんですから」
いつも通りに見せかけていたが、彼女の顔に落ちた影は拭えない。それでもおれのために優しさを見せようとしてくれる、玻璃のそういう部分が好きだった。
「だから、生きてくださいねぇ?」
――手を取ってくれるなら、おれは君の幸せを、全力で守るよ。死以外の方法で。
おれは確かに、あの日彼女に約束した。彼女を殺さないという意味での誓いだったけれど、おれ自身を死なせないという意味にも捉えられる。
自分でずっと言い聞かせてきた。団長である前に久遠であり、久遠である前に団長であるということ。おれの命は決しておれだけのものではない。それを忘れてしまうわけにはいかない。
「……昨日も言っただろ? 生きるよ。大丈夫」
彼女のためにと繋いだ絆が、今度はおれを救ってくれた。
たとえ一人で生きていけたとしても、オレはきっとその道を選ぶことはなかったと思う。
こうして仲間がいること。喪うことは辛く悲しいけれど――それは、自分がきちんとその仲間を愛せていた証。失うことに怯えて手に入れないのは、逃げるのは、おれと繋がるはずだった人々を蔑ろにすることと同義だから、おれは望まない。
「……きっと、見てますよ。そんな久遠サマを」
ぽつりと答える寒露の気遣いが、嬉しかった。
再び二人を連れて進んでいくことに集中すると、やがて山が間近になってくる。
そろそろ速度を緩めるかと思っていた時、「久遠さん!」という呼び声が聞こえた。
顔を上げると、予想通りに月読だった。社まで続いている石の階段の途中に立っている。
「月読。ごめんね、待たせた?」
階段を下り切れば、山自体が持っている神気を利用して過去の巫女たちが社の周りに張った、古来の結界の外に出てしまう。彼女には結界の内側で待っているように言い含めていた。霊力が弱まっている彼女を誰が襲っても不思議はないからだ。
普段の彼女なら「大丈夫ですよ」と笑ったかもしれない。どうして素直に従ってくれたのかについては互いに触れられなかったけれど、分かり切っていた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
此処からなら、いつも紅葉狩りに行く楓の群生までは歩いてもそうかからない。
幹部二人を伴い、月読と並んで、ゆっくりと道をたどる。
いつもなら隣に風巻がいるのに、と思うも、空いてしまった隣の空間を埋めるように月読がいてくれる。そのおかげで、どれだけ気持ちが楽になったことか。
心に二度と夜明けが来なくても――ひいては夕暮れも二度と訪れなくても。それでも、月の光が変わらずこうして癒してくれるのならいいかもしれない。
先に待ち受けていることを知る由もなかったおれは、そんなことを思っていた。
思い知らされたはずなのに、この時間が穏やかすぎて頭から離れてしまった。日常やそれで普通だと思っていることなどは、一瞬で呆気なく破壊されること。
紅葉が風に乗って運ばれてきては降り積もる。舞っているものの中でひときわ赤く見える一枚を捕まえ、簪のように月読の髪に差した。
「美しいですね、久遠さん」
それに横髪を押さえるようにしつつはにかんだ月読は、近くにあった楓の木を見上げる。釣られて視線を遣ると、見事に総ての葉が深紅に染まっていた。
「……まるで、風巻さんがいるような錯覚をしてしまうぐらいに……」
突如吹き上げた風が落ち葉を舞い上げ、義兄と出会ったときのことを思い出させる。
ああ、あの日も今日のように風が強い日だった。
「――うん」
何と鮮やかな、目の冴える色だろう。
自分に降ってくる紅葉を払いもせず、込み上げてくる胸の痛みをどうにか抑え込む。
「風巻と初めて会った日も、こんな風に紅葉が舞ってたんだ……」
おれの呟きのせいだろう、視界の隅で捉えた月読の表情が悲しげに歪んでいた。
無言で楓を見ている寒露と玻璃の顔にも、悔恨や悲しみが張り付いている。
風の吹く音、楓の積もる音、そして皆の呼吸音。しばらくの間はそれしか聞こえなかった。
「団員の皆さまへのお土産に、特に綺麗なものを拾っていって差し上げたらいかがですか?」
そこに月読の声が紛れ込んだ。多分、気を遣ってくれたのだ。優しい彼女のことだから。
「……うん、そうするよ」
笑い返して頷く。皆がきっと喜んでくれることはおれにもよく分かっていた。
「久遠サマ、あちらのものはとりわけ赤いですよ」
「ああ……ほんとだ。綺麗だな」
彼女と微笑みを交わし合ってから、寒露が指し示した先に視線を遣る。確かに言葉通り、一帯のものの中でも一番と言っていいほどに葉を美しく染めた木があった。
「寒露ったらいつもは風流なんて全く解さないくせに、珍しいわねぇ」
「……どういう意味だ」
「そのままよぉ?」
幹部たちのやり取りに笑って、そちらへと歩んでいく二人の隣をついていく。
「桜が散ろうが紅葉が散ろうがいつも気にしないじゃない」
「てめーがそういうことにばっか感けすぎなんだよ」
いつものことではあるが、二人は未だ言い合いを続けていた。本当に仲がいいことだ。
「草花を愛でるのはいいことだろ? 心は和むし。むしろ寒露はいつも苛々してるからそういうものをよく見た方がいいよ、なあ月読」
くすくす笑って、傍にいる月読に声をかけた――はずだった。
しかし、そこにはあるべきはずの姿が見当たらない。
「――、あれ? 月読は……?」
見渡せる範囲にはおらず、正直戸惑った。はぐれたのかと考えたが、こんな短時間にいなくなるなんておかしい気もする。
「……、妖気を追うことができる月読がはぐれるなんて、そんなこと有り得るんですか?」
眉を顰めた寒露の台詞が、おれの心情を代弁していた。
霊力がそこまで低下してしまったのかという考えもちらりと頭を掠めたが、半月ほども経っていないのにいきなり一般人程度にまでなってしまう可能性は低い。
風巻を喪った時と同じ、嫌な予感が駆け抜けていく。
「……久遠さま、捜しましょう」
玻璃の白い手に袖を掴まれた感覚に引っ張られるようにして頷き、手分けして月読を求めて歩き始めた。
馴染んだ匂いは近く、離れていない。だから大丈夫だ。もしかしたら溝のようなものに落ちて動けないでいるのかもしれない。そうだ、きっとそれだけだ。
焦り始めて背筋に滲む汗を感じながら、弾む心の臓を宥めるようにして走る。
風巻を喪ったばかりで、月読まで喪うようなことがあったらおれは――。
木々の隙間を駆け抜け、行く手を遮る背の高い草を掻き分け、行方を探す。こんなにも必死になっているのに、息が弾んでいくばかりで一向に見つけられない。
どうしたら。どうしたらいい。
一度冷静になって考えてみようと立ち止まった刹那。
此処にいるはずもない者の匂いと、強烈な『鉄の臭い』が鼻腔を掠めた。
おれはどちらも正体をよく知っている。嫌というぐらいに知っている。
だけど認めがたくて、呆然と立ち尽くした。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。動けない代わりに思考だけは留まることを知らず、奔流のように駆け巡っていく。
「久遠殿!!」
だがそのような状況から強制的に呼び戻したのは、『此処にいるはずのない者』の声だった。
「月読殿が……!!」
必死の形相で駆け寄ってくる双念。抱きかかえられた女性。胸元からの大量の出血が、見慣れた白い小袖を紅に染めている。焦点の定まらない目は虚空を見つめていた。いや、それは違う。何処も見ていないのだ。
「つ、く、よみ……?」
幻覚だと考えたかった。気のせいだと思いたかった。感じた鉄の臭いは、別人から発せられたものだと信じたかった。
だが現実は容赦なくおれを襲う。
月読は、死んだ。
血を流しているのは月読。感じた鉄の臭いは、月読の血の匂い。いるはずのない者は双念で、彼がいた理由は明らか。
「私が見つけた時にはもう……」
動けず何も発せないおれを置いてけぼりにするかのように、悲痛で悔しげな顔で双念が言う。
けれども、彼なんてどうでもよかった。
差し出された月読の体を引き寄せ、血の飛び散った頬に震える指で触れる。
まだあたたかい。あたたかいのに。
触れても笑ってくれない。声を上げてくれない。この頬が桜色に染まるところを二度と見られない。
頬も、続いて握った手も、徐々に冷たくなっていく。
「久遠サマ、……ッ!!」
「月読ッ!?」
駆け付けたらしい寒露と玻璃が、すぐ傍で声にならない声と悲鳴を上げる。その反応は目の前の現実を色濃くしていくようだった。
「月読、」
胸に開いた風穴の縁が焼け爛れているのを確認し、確信した。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前にいる墨染の衣を身に纏ったその人の口角が、ゆるゆると持ち上がっていくのが分かった。
――双念を信じようってんなら教えてくれ。信じるに足る確証はどこにある。
義兄の姿が脳裏にちらつく訳は、ひとつだった。




