彼女の影を追いかけ
ゆっくりと目を開ける。
明かりが視界の端でチラついている。
「起きたか」
聞いたことのある声が耳に届いて、おれは瞳だけを動かしてそちらを見た。
視界がぼやけていて顔がよく分からない。焦点を合わせるように目を細めて、そのまま眺める。
徐々に意識がはっきりしていくと共に、視界も晴れていった。そして声の持ち主が誰であるのかを知り、驚く。
「叔父上……」
「意識が戻ったのならもう心配ない。よく頑張った」
父とよく似た顔の作り。よく似た声。よく似た頭を撫でてくれる手の感触。
彼は、おれの叔父。父の弟だ。
父がおれのいた里の頭となってしばらくしてから、そこを出て自分の群れを作っていた。
里があんなことになる前、数回会ったことがある。
「叔父上、おれ……」
状況が把握できずに、目を泳がせる。
「兄上の里の方で、大規模な戦闘が起こっているのに私たちも気づいた。だから援軍を送り、見廻りをさせ、私自身も見廻っていたのだが……」
叔父は渋い顔をして言葉を濁す。
おれもそれ以上は言ってほしくなかったため、ちょうどよかった。
父、そして母の死。その上きっと、月影も喪った。その事実をもう一度思い知らされるのは嫌だった。
叔父も察したのか、それ以上は言おうとはしない。
「里の近くにある崖の下に、お前が転がっていた。酷い怪我を負っていたから手当てはしたが、お前はかなりの長い間、生死の境を彷徨っていたのだ。……せめて、お前が生き延びてくれて――兄上も喜んでいるだろう」
優しい声に涙腺が崩壊する。
ぼろぼろと流れ落ちる涙を隠そうと顔を手で覆ったが、隙間から零れ落ちていく。
叔父は何も言わずそれをただ見守っていた。
こうして持ち上げた腕も、頭も、脚も、体の何もかもが信じられないぐらいに重い。重いけれど、そう感じられるということは、おれは生きている。生きているんだ。
皆みんな死んだのに、おれだけは生き残ったのだ。
「叔父、上……月影は……? 里は、どうなったんですか」
しゃくりあげながら尋ねると、叔父は固く拳を握りしめる。
「……お前の落ちていた崖の上で、絶命しているのが見つかった。里も……私たちが行ったときにはもうすでに……。済まない、間に合わなかった」
分かっていたことであっても、喪失感が襲う。まるで臓物を総て抜かれてしまったかのような痛みがやってくる。
――兄さま!
――若さま!
いつもおれの後ろを追いかけてきていた月影はもういない。おれをあたたかく見守ってくれていた里の猫又たちも、もういない。何処にも。
「叔父上が謝らないでください……」
彼女たちを守れなかったのは、それどころか逆に守られたのは、おれだ。
「……代わりと言うことはできないが、月影を含め、見つけることのできた者たちは手厚く葬った。そこは安心してくれ」
ありがとう、と声を振り絞る。
おれももう祈ることしかできない。どうか安らかにと。永遠の穏やかな眠りを。
「だから法師など……人間など、殲滅してしまえと言ったんだ、兄上。結局自分の命どころか、里まで消えてしまった」
叔父の絞り出すような言葉が聞こえて、おれはそっと彼を見上げた。
悔しそうに唇を噛みしめている。
そういえば、父からいつだか聞いたことがあった。
――あいつとは仲は悪くないんだ。だけど、人間に対しての考えが合わなくてな……だから群れを分けたんだ。
「叔父上は……人間とは融和しようがないとお思いなのですか」
掠れた声で尋ねる。
叔父はしっかりと頷いた。
「死んだ父上や、兄上の考えは甘い。人間など、無駄に知恵を働かせて我らを殺す。たとえこちらが善行をしても、搾取するだけして法師や巫女に差し出す。そういうものだ」
殺される前に殺さなくては、というのが叔父の理屈なのだろう。実際、祖父も法師との戦いの傷が元になり亡くなっている。叔父が甘いと考えても仕方がない、とはおれでも思うけれど。
「この里は……そういう考えを持つ猫又の集まりなんですね」
叔父はまたも頷いた。
「そうだ。私の考えに同調している」
道理で、とおれは心の中で呟いた。
犬妖怪ほど鼻のよくない猫又。しかもおれは今弱っている。
だけどはっきりと感じる人間の血の臭い。叔父から。この屋敷の中から。そして恐らく、里全体から。
涙が次第に勢いを失い、やがて止まる。
それを見た叔父がまたそっと頭を撫でてくる。
「兎に角、今は休め。傷を癒したら墓に行けばいい」
優しい声。あたたかな手。それをありがたいと思うけど、同時に何処かで拒否してしまう。
おれが大事にしたいものと、この人が大事にしたいものは違う。
こんなことになってもおれは、人間たちと共生したいと思っている。
月影から最期に言い残されたのは父の考えを守ることだった。そのこともあるし、自分自身ずっと父が言い聞かせてきたことに心酔してきたのだ。
もちろん、家族や仲間たちを殺されたことに恨みがないと言ったら嘘だ。
だがこの痛みは、この世界の何処かで自分と同じ立場にいる人間の子供が味わっているもの。何の力も持たない彼らがおれたち妖怪に対処するためには、法師たちに頼らなくてはならないのもよく分かることだった。
――もし何かがあって俺たちが法師や巫女に殺されるようなことがあったら、憎んでもいい。だが、決して復讐はするんじゃない。
どうして? と尋ねたおれに、父はいつになく真剣な表情で言った。
――復讐は復讐を呼ぶ。つまりお前が法師に復讐すれば、何処かで別の猫又たちが殺されるかもしれない。愚かしい真似だけはするなよ。
昨日のことのようにはっきりと思い出す彼の言葉。
彼自身、自らの父を人間の手によって喪っている。だが最期の最期まで、戦うことはあっても殺そうとはしなかった。対話を目指した。
おれはああいうふうに在りたい。
法師は確かに憎い。だがおれのせいでこれ以上の犠牲が払われるなど御免だった。
そう考えると、叔父とは絶対に相容れないと確信できた。
天井を見つめて、月影が死の直前にくれた首飾りに触れる。それから、そっと瞼を伏せた。
叔父が眠るまで傍にいてくれたのが何となく分かった。
妹から別れる間際に貰った首飾りの助けもあってか、おれは弱り切っていた妖力を揺るやかに回復させていった。それに伴い傷の回復も早まって、まだ不自由はありながらも動き回れるほどになった。
最も酷い傷を負ったらしい足を引きずりながら、叔父の里の外れに向かう。その一角は墓になっていた。
夥しいほどの盛り土の数。そして漂ってくる屍臭。
此処にいるのは、里の外で死んだ仲間たちだった。父のように中で死んだ者たちは、法師が去った後にそこで葬られたらしかった。
つまり目の前にある墓のどれかに、母と月影も眠っていることになる。
墓標の代わりに置かれている、死の時に身につけていた物を頼りにして二人の墓を探す。
やがて、見つけた。
「母上……月影」
母の墓と思しき盛り土には、彼女が髪を結うのに使っていた髪飾り。父が贈ったものだと聞いた。
そして月影の墓には――おれがいつだか見つけて与えた、三日月の形をした石があった。
お前の名と同じだから、と手渡したら、ただの石ころだというのに、まるで金銀の類かのように喜んでいたのをよく覚えている。
「……約束を守れなくて、申し訳ございません……母上」
土を撫でてから、月影の墓の土に同じように触れた。
「弱い兄さまで、ごめん……」
守ると言ったのに守れなかった。
その代わり。絶対に彼女と交わした最後の約束だけは守り通す。それだけがおれの生きる理由だ。
妖怪と人間が共存できる世界を――その思いを果たす。
「この先に何があっても生き抜いて、父上の理想、叶えてみせるよ」
はっきりと告げてから、立ち上がった。
少しの間二人の墓を見つめる。
もう二度と此処に来ることはない、いや、来られないと思うから。
「……出ていく?」
傷が完治したことが分かった日。おれは叔父の前で深く頭を下げていた。
「はい。お世話になっておきながら厚かましいことを言っていることは分かっています」
「では何故だ」
顔を歪めている叔父。隣に控えている側近たちからも不穏な空気が流れてくる。悟っていても、揺らぐ気はなかった。
「……おれは叔父上の考えに沿うことはできません」
目線だけを上げて叔父を見た。
懐手をしている彼はすっと目を細める。もちろん笑ったのではない。不快そうに、である。
「人間を殺すことはできない。何があっても。それが父との約束です」
「お前の里はその人間の法師に滅ぼされたのだぞ」
「それでも。復讐は復讐を生むだけです」
父の声が耳元で鳴る。
――愚かしい真似だけはするなよ。
「確かに家族や仲間たちを殺した者たちのことは憎い。ですが、そのせいで第二第三のおれを出すのは絶対に嫌です」
叔父は黙っている。
怒りの空気が流れてきていたけれど、驚くぐらいに心は凪いでいた。恐ろしさは全く湧いてこない。
「……叔父上の考え方が間違っているとは思っていません。殺される前に殺す。それもまた、大事な人を守る手段のひとつであるとは分かっています」
根本的に違うイキモノである人間と分かり合おうなんて、きっと理想論。妖怪たちの間ですら上手くいかないことが多いのに。叔父が怒るのも無理はない。
「それでもおれは。あの里の生き残りとして――『久遠』として、精神を継ぎたいです」
もう一度、床に頭がつきそうなぐらいに深く頭を下げる。
「お世話になりました」
勢いよく立ち上がり、叔父に背を向けた。
何という身勝手。助けてもらうだけもらっておいて、何も返さない。
嫌ってほしい。もうおれの顔なんて二度と見たくないと思うほどに。
だから叔父は知らなくていい。おれがどうしてもここから出なければいけないと思っている理由を。
おれの妖気はきっと法師に目をつけられた。
――お前の妖気は俺より大きい。今はまだまだ弱いけど、戦闘でも確実にいつか俺を越えるな。
しばしばそうして父に頭を撫でられていたから、その大きさについてはよく分かっていた。
大きければ大きいほど、妖気は遠く離れていても感じられる。手練の法師や巫女であれば、隣の国にいても察知するかもしれない。
馬鹿みたいに大きな妖気。しかもそれは目をつけられている。
だとしたら考えられる可能性がひとつあるのだ。
叔父の里が法師に襲われること。
おれのいた里とは違って、この里は巫女とすら不戦協定を結べていない。人間を殺すことを是としているからだ。
法師と巫女が協力して束になって襲ってきたら、如何に叔父の側にも手練がいるとはいえど、結果は目に見えている。
きっかけになりかねないおれが此処にいたらいけない。それこそ、もう一度同じことが起きる。
「久遠さま、お待ちください!」
「長! よろしいのですか!?」
側近たちが声を上げていた。おれは振り返らずに、廊下から跳んで外に降り立つ。
「久遠さま!!」
「追うな」
止まれと言うかのような声と、数人の足音が後ろから聞こえたのと同時。叔父の鋭い制止が飛んだ。
「――……好きにしろ。代わりに、怪我をしようと法師や巫女に追われようと、もう二度と此処には頼るな」
その言葉に体の向きを反転させると、叔父はこちらをまっすぐに見ている。
もしかすると彼は、おれの考えなどとっくに見抜いていたのかもしれなかった。そんな目をしていた。
何も言葉が出てこない。もう一度一礼してから走り始め、砦をくぐり抜けて里を出る。
瞬間、嘘みたいに広くて、信じられないぐらいに綺麗な夜空が目に飛び込んできた。
あの日と同じだ。何もかもを失ったあの日と。
世界は笑ってしまうぐらいに美しい。その中で動いている者たちを嘲笑うかのように。
柔らかな月明かりがおれを包んでいた。
「月影。見てろよ」
漂う月を見上げ、にっと笑う。
彼女が微笑み返してくれた気がするのを確かめてから、おれは駆け出した。